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2008年10月の14件の記事

2008.10.31

レンゾ・ピアノの「改悛」

「レンゾ・ピアノは『改悛』し、ロンシャンの修道院プロジェクトを手直し」

というのがウェブ版ル・モンド紙文化欄の見出しである。2008年10月31日付、Frédéric Edelmann署名記事

これは5月に問題になって、ぼくのブログでも紹介したことの顛末である。

フランスのロンシャン郊外に、ル・コルビュジエによるノートル=ダム=デュ=オ教会(1955)がある。その丘の中腹あたりに、ピアノが、クララ女子修道会の施設をつくろうとした。歴史的建造物委員会は賛成し、建設許可もおりたものの、カガン、コーエン、ル・コルビュジエ財団などが反対したもの。

記事を要約してみる。

「論争のすえ、土地造成は、11月17日に開始されることとなった。ピアノのプロジェクト第1案は、この夏のあいだずっと、シャイヨ宮の建築・遺産シテにずっと展示された。しかし建設されるものは、これではない。ピアノは違う案で建設することにした。しかし第1案も、目立たないかなり控えめなもので、ランドスケープ・アーキテクトMichel Corrajoud に協力してもらって、敷地になじむ建築とした。しかしル・モンド紙5月29日の記事にあるように、他の建築家から抗議の声がおこった。6月25日、建築・遺産シテでは、激しい論争がおこり、口頭ではかなりに辛辣なこともいわれたようだ。論点はひとつ、新しい修道院施設がすこしでも目立てば、それはル・コルビュジエへの「侮辱」になるぞ、ということであった。」

ル・モンド紙は、ピアノは対話を重要視する建築家であって、論争を沈静化し、引くところは引いた、というような説明をしている。

「ピアノはプロジェクトを修正したが、これはほとんど「改悛」であり、修道女たちの寝室を断片化するという当初のアイディアは守りつつ、丘の上からはほとんど見えないようにした。また丘の上には駐車場もなくなった。森のなかの地面にわずかな切れ目をいれて、そこからヴォージュ山脈が望める。こうしてル・コルビュジエ財団は青信号を与え、建設許可も修正され、着工日も決められた」。

・・・などなど。記事はあきらかにピアノにたいして同情的で、建築家が保守派に遭遇したが奇跡がおこって、云々の常套的説明で締めくくっている。ピアノは対話し、譲歩し、それでも創造のコアは守り抜いたのであった。かつてル・コルビュジエが賛美されたのと同じ書き方で、ピアノが賛美されているわけだ。

これは一種の景観論争であるが、日本でこの種の論争がなされるとき、保存/開発という60年代からの構図を引きずっているので、それはほとんど文化財/非文化財、デザイン性のある建築/もうけ主義の建築、などというステレオタイプとなってしまう。このロンシャンにように、優れた建築家どうしの対決というのも、いちど発生してみると面白いのだが。傷つく人も多いだろうね。でもロンシャンなら、改心、改悛といったとても好意的に受け止めてくれる。信念を通さないことは、ほとんどの場合、マイナスのはずだものね。

それとうがった見方。シャイオ宮のしかも大ホールでピアノ第一案を展示するというのは、宣伝ではなく、もちろん、見せしめなのですよ。そこまでやるか。6月のディスカッションもほとんどイジメだったんでしょうなあ。見たかった。

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イギリスや日本ではPFI、フランスではPPP

日本でもはやりのPFI方式(民間資金を公共設備整備に活用する方式)は、近年イギリスから導入されたということになっている。しかしフランスではず~と前から似たような方式でやっていたことを書きます。面白いですよ。

イギリスや日本のPFI(Private Finance Initiative)に相当するフランスの制度がPPP(partenariat public-privé)である。「公・民パートナーシップ」と訳しても、日本語でパートナーシップとはまた別の意味があるので、訳しにくい。いっそのことフランス版PFIとしたほうがいいが、PPPというのも響きがよい。完全同一でもないので、PFI、PPPそれぞれわけたほうがよさそうだ。あるいは英語の「パートナーシップ」とは違うフランス語の「パルトナリア」でも使ってみようかな。

ウェブ版ル・モニトゥール誌の記事『PPP法案、2008年末までに公表』(2008年10月29日)である。抄訳してみよう。

「中小企業担当閣外大臣secrétaire d'Etat chargé des PME であるエルベ・ノヴェリHervé Novelli は、10月29日、PPP第二回国際会合で声明を発表。公・民パートナーシップを発展させる法律の実施文面が年末までには公表されるであろう、と。PPPの適用範囲を定めたこの法律は、7月に、すでに採択されている。その基本。民間事業者に、公共施設(スタジアム、病院、TGV、監獄・・・)への、出資、建設、管理維持をできるようにする。期間は5年から30年。その間、家賃や売上げの一部を享受できる。PPP方式のプロジェクトのなかで予定されている大規模なものとしては、たちえばパリ第四・第七大学・ヴェルサイユ大学の改築で、これには3億5000万ユーロをあてる。エコロジー省の建物、それが入居するラ・デファンスの超高層建築。・・・」(Adrien Pouthier avec AFP)

専門家ではないのでフランス語版ウィキペディアで「PPP」を検索してみる。1992年にイギリスのメジャー首相がPFI制度を立ち上げ、労働党政権下ではとくに病院がこの方式で建設されたことにはじまるが、今日では世界銀行、ヨーロッパ投資銀行などもこの方式を推薦しており、しばらくは世界的な趨勢であろう。専門家は2030年の時点でも、公共がインフラに投資する割合は小さくなりつづけると考えている。これがおおきな枠組み。

ところでウィキペディアに指摘されるまでもなく、民間資金を公共工事に活用することは歴史的にはフツーのことである。たとえばスエズ運河は、レセップスが株式会社を設立して、会社の事業として建設したものである。しかし経済的、戦略的にあまりに大きな意味をもっていたので、株式会社であるということを逆に利用されて、イギリスに乗っ取られたのである。

そこまで大きな話しとしなくとも、ドーフィーヌ広場や、サン=ルイ島の開発など、すべて国王が民間業者に開発許可と土地をあたえ、最初の期間は利益をえていいという条件で、公共事業をやらせたものだ。この方式は17世紀にはあったし、すくなくとも19世紀にはさかんであった。セーヌ川の橋、新しい住宅地などはこの方式で建設された。

違う方式だが、日本でも17世紀から入札という制度と、それが必然的にもたらす談合という裏取引の習慣があった、というのとなんとなく似ている。それは公共事業を社会的に成立させるシステムが、17世紀という都市の変革の時代に、しかも幕府、絶対王政という巨大権力の時代に、できたというような話しだ。

それはともかく、たとえば国や市が公共工事をしたいので、民間にやらせ、一定期間利益を得ていいと許可する制度は17世紀からあった。concessionという。しかもPPPは25年から30年としているが、concessionもまた普通は30年である。

だからPFIもPPPもヨーロッパでは手慣れた手法なのである。

そういう意味で21世紀のヨーロッパを見るためには、17世紀から19世紀の経緯というのはたいへんに参考になる。いや20世紀という公共肥大の時代が特殊なだけで、もっとあrとになったら、16世紀あたりから21世紀はおなじパラダイムでくくれる、なんてことになるかもしれないね。

ついでにフランス語版ウィキペディアなんか抄訳してみよう。

「フランスのPPP.

歴史的には、(フランス革命以前の)旧制度フランスにおいて通常の手段であったコンセシオンconcessionはまさにPPPであり、これによりフランスは、ミディ運河、第二帝政時代のパリ大改造という公共事業により近代化されたるインフラといった、公共的な最重要インフラを整備できたのであった。

現代においては、警察、憲兵、国土防衛のための建物の建設と維持管理を、民間セクターに委託することを国家ができるようにする、契約の方式を、2002年の法律でできるようになった。裁判、医療もまた従ったが、そののち「パルトナリア契約」方式ができた。

契約的PPPには一般的に下記のような公的契約がある。

MP=分割払いのないグローバルな公共マーケット

DSP=公共サービスの委託契約(コンセシオン、請負契約、代表管理方式regie intéressée)

AOT=公共領地の占有を許可することを含む協定

BEA=行政的な永代賃貸借

CDP=「パルトナリア契約」(最新のもの):これはほとんどイギリスにおけるPFIのようなもの、とされる。2004年の政令でできるようになった。

厳密な意味では、PPPは、民間パートナーに支援された公共投資が、コンセシオン、AOT、BEA、CDPに限定されるようにする。民間パートナーは、公共発注のたんなる施行者ではない。2008年1月、経済財務省の出した数字では、PPP総額は100億ユーロ、そのうち72億がパルトナリア契約である。

ヨーロッパではまだPPPは正式に法的に定義されていないらしいが、事実上はすでに動き出しているようだ。ここでは公共と民間の資本そのものを融合して(おそらく混合経済方式で)やる制度的PPP(PPPI)と、契約的関係で公と民が協調する契約的PPP(PPPC)を区別しているようである。」

・・・・以上のようなことが、2008年時点における、イギリスより若干遅れたフランスの状況である。PFIの導入検討はむしろ日本のほうが早いのかもしれないし、またぼくは専門家ではないので、イギリス式と具体的にどう違うのか、詳しいことは知らない。

ただ歴史的事実として知っておくべきは、フランスでは、すくなくとも17世紀以降は、コンセシオン=PPP=PFI方式が一般的であったことだ。

たとえば国王が、橋を架けたい、新市街地を整備したい、というときに、宮廷の金は持ち出さない、ということである。古くは都市に、公共事業のために特別税を創設することを許可し、財源を与え、城壁をつくらせたりした。しかしそのうち、ある請負業者や、有力な貴族に、土地を提供するなどの便宜ははかるが、それ以上は民間人に投資させ、利益をえる許可を与えるとともに、何十年後には市や国に返還するという約束をする。このような例は結構多い。19世紀になると、今度は市が、民間の請負業者に、コンセシオン方式でいろいろ建設させ、もうけさせたあと、30年後には市のものにする。

このコンセシオンの手法は、宮廷や都市の、一種のリスク回避である。事業が失敗した場合、その請け負った人間が破産すればよいのである。

とはいえ公共事業のリスクはすくなかったかもしれないが、国王は戦費と宮殿建設で国を傾けることとなったのだが。

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2008.10.30

エコール・デ・ボザールで『身体の図像』展

パリのエコール・デ・ボザールでの展覧会である(ウェブ版ル・モンド紙2008年10月30日の記事)。Ensba(ボザール校舎), 13, quai Malaquais, Paris-6e. Du mardi au dimanche de 13 heures à 19 heures. 4 €. Jusqu'au 4 janvier. Catalogue, 510 p., 45 €.・・・ということで、1月4日までならいけるかな?

ダヴィンチの解剖学図像は有名だ。彼はおなじ原理で建築デッサンも作成したこと、それがたとえばローマのサンピエトロ計画の基礎となったこともよく知られている。そのとき、身体が美しき比例を満たしていること、またウィトルウィウス的身体といって、四肢を広げた身体が正方形や、円に内接することを描いたデッサンも有名だ。もっともあれがウィトルウィウス建築十書の挿図であることは、それほど周知はされていないが(建築の人間は自分たちのものと思っているが)。

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頭部のデッサンだけで、Léonard de Vinci, Michel-Ange, Dürer, Le Brun, Hogarth, Houdon, Géricaultなど59点もあるそうだ。

展示されたものはほとんどエコール・デ・ボザール自身のコレクションである。ペヴスナーが『美術アカデミーの歴史』で説明しているように、ルネサンス以降の美術教育の基礎は、まさに人体デッサンであった。16世紀イタリアのアカデミア・デル・ディセーニョからはじまる伝統だ。だからこのエコール・デ・ボザールも、1648年に設立された当初から、この方面に力をいれていた。どうじに17世紀は、解剖学、医学が発展した時期であった(17世紀=科学革命でもあった)。

だから美術=医学・解剖学、という蜜月時代であった。

アーティストは、医学のために、観察し、デッサンした。これはちょうど今日、ヴァーチャルリアリティの専門家と医者が共同して、3D身体モデルを作成しているようなものだ。

さて記事にそくして、内容を説明すると。ルネサンスから18世紀まで。上記のような蜜月時代。Vinci, Michel-Ange, Vésale, Lomazzo, Martinez, Adam et Gamelinなど。1746年、Gautier-Dagoty が彩色をはじめる。Mascagni、Bonamy, Barye, Géricault, Dumoutier, Paul Richer, Marey, Muybridge, Duchenne de Boulogneなどが取り上げられる。

通説どおりだが、18世紀の劇場型の解剖学教室のこと、19世紀前半の病原的興味のことなども紹介されているらしい。それから写真などもっと近代技術が導入され、医学と美術は分離し、おたがいに無関心になってゆく。

記事は、4世紀つづいた美術と医学の蜜月のあと、相互無関心の時期はあったが、美術学生はふたたび解剖学に興味をもちだした、というようなことで終わっていた。

・・・・人体と建築のアナロジーはダヴィンチ以降、というよりすでにウィトルウィウス以来、伝統的なものである。ルネサンスにおいては機械論的メカニズム、数学的比例ということを介してであった。また19世紀末の感情移入論的建築論においては、たとえばヴェルフリンなどが、人間が身体の図式を投影して、建築を観察するという図式を提案している。最近ではA・ヴィドラーが人間がいだく心理や不安などといった概念を投影して建築を解釈している。これなどは、いちど脱人間化を模索したあとの、建築の再人間化なのであろう。フロイトの理論を枠組みとして導入しているように、基本的には19世紀末ウィーンなのであろうという感じがする。

さて人間(身体)との類推で建築を考えるのか、逆方向に、建築との類推で身体を考えるのか、シナリオはふたつだ。当事者たちはひとつをモデルとし、他方を対象としていることは明らかだ。それは自覚的に、方法論的にやっていることだ。

しかし距離をとって第三者的にみれば、アナロジーの2項のより上位に、普遍的な図式が設定されていることは明らかであるように思われる。人間機械論は、機械人間論なのかもしれない。つまり人間も機械もおなじように説明できてしまう普遍的図式、それはメタ機械かもしれないし、メタ人間なのかもしれない。そしてこのメタレベルは、しばしば無自覚的になされることもある。・・・こんなことがずっとなされてきたのではないか、という気がする。

遠目で専門家たちを眺めると、ちょっとまえまでのグニャグニャ建築は、CTスキャンや3Dモデルで人間身体を描いているようなものだし、さまざまな臓器で隙間なく埋め尽くされた身体、などと書いてみると、まったく建築モデルそのものであるし、そのような建築はたくさん製作されたし見られてきた(たとえば伊東豊雄さんのあれ)。VR専門家と医学者の共同研究などもなされているそうで、3DのVRで構築された(描かれた?)身体は、解剖学の検体のかわりにもなるし、手術の練習台、疾患のモデル、などにもなるそうである。ましてや建築など、といった感じである。

CTスキャン、MRIなど20年前はなかった(正確にはあったが一般人の日常からは遠かった)。レントゲンなどは古典的と思えるが、それでもやはり近代のもの。現在は、簡単な手術でも、これらハイテクで患部の内臓、神経、骨格を立体的に把握したうえで、つまり徹底的にサーヴェイし、手術プランをたて、執刀する。逆に、それまではかなり経験と勘に頼っていたはずで、ゴッドハンドなる名医とそうでない人の差はかなりあったのだろうね。ああ怖い。

そして内視鏡手術がますます多くなる。すべて画像データによる世界となって、VR的になる。VRにより身体を構築することの重要性はますます高くなる。

もっとも建築家もいっているように、住宅ていどなら手でやったほうがずっとはやい、のであるが。

ともあれアナロジーで面白いことは、アナロジーは異なる2項目の類似性や関連性を考察することなのであるが、この両項目ともどんどん進化し変化しうるものである、ということだ。もっと都合良くいうと、そこに歴史性があるのであろう。きっと。

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2008.10.24

ナントの都市プロジェクトについての批評

ナントは都市再生を果たしたということで、日本でもよく知られている。このテーマだとかならず引用される町である。

ウェブ版ル・モンドの記事(2008年10月23日)で、紹介されていた。

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ナントの中州は、ランドスケープ・アーキテクトであるアレクサンドル・シュメトフと整備会社社長ロラン・テリのもと、その姿をあらわして18カ月。プロジェクトはかなり建ってきた。

社会党市長ジャン=マルク・エロの政策は手堅かった。1989年より市長である。ナントは最も住みやすい都市と評価された。プロジェクト用地である中州は、337ヘクタール、30年前までは造船工場が占めていた。今日、エムシャー・パーク、ドイツのルール、バルセロナ、ビルバオとともに、ヨーロッパの最も有名な都市プロジェクトのひとつ。都市、遺産、建築についてのプロジェクトである。造船の名残はほどほどに残し、文化、祝祭、余暇のための空間としている。

裁判所は2000年にジャン・ヌーヴェルが建てたもの。シュメトフが緑を整備。しかしもともと工場地帯であった中州はほとんど更地。そこに多くの建築家が呼ばれた。工場施設をリノベーションしたり、新築の集合住宅をつくったり。Roulleau, Lipsky et Rollet, Doazan et Hirschberger. Portzamparc, Michelin, Dusapin et Leclercq, Pondevie, Devillers, Peneau ou le groupe Tetrarcなどが呼ばれた。

Anne LacatonとJean-Philippe Vassalによる建築学校校舎は、真っ白で、裁判所が真っ黒なのと対比をなす。機械博物館は造船の記憶を保存。

・・・・というように記事では、あまり評価らしい評価をしていない。

ただ再生された工場建築の様子をジョセフィーヌ・ベーカーにたとえたり、バナナ倉庫をフォリーにしたりするのを、アフリカとアンティユ諸島の記憶がよみがえる、などと知ったかぶりでかいている。

つまりナントはかつて大西洋貿易、とくに奴隷貿易で繁栄した都市なのである。

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2008.10.23

パラディオ生誕500年を記念するシンポジウム

ウェブ版Architectural Record誌の記事(2008年10月21日)から。

パラディオは1508年生まれだから、今年が生誕500年。それを記念して、古典主義建築・古典的アメリカ協会(the Institute for Classical Architecture and Classical America (ICA&CA) )がこの金曜日と土曜日にNYでシンポジウムを開催する(といってもぼくは行けません、どなたか行ってレポートしてくださるとうれしい)。「イントラ・モエニア(市壁の内で):パラディオと都市」である。協会の代表ポール・ギュンターは、これは歴史的価値のみならず、「将来の建築のために適用可能なパースペクティブを」検討するものであるという。

記事ではパラディオの紹介など詳しくしていたが、ぼくのブログを読んでくださるみなさんはすでにご承知だから、省略。

シンポジウムで討論されること。パラディオの市民建築、その「公共、都市へのインパクト」である。ヴィラについてはさんざん論じられたので、協会としては、市民社会を彼がいかに構想したかという「新しい角度、新しい視点」を抽出したいとのこと。つまり彼が市民生活をどう考えたか。というわけでシンポでは3点を論じる。

1:パラディオと市民世界

2:パラディオのアメリカ、ヨーロッパ、世界への影響

3:近代のパラディオ主義者たち

なお上記協会のパラディオ生誕500周年記念サイトはここ

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・・・・なるほど。アメリカ合衆国が建国されるとき、さまざまな建築的表象がつかわれた。民主主義を意味する古代ギリシア建築様式。共和主義と繁栄を意味する古代ローマ建築。そしてピューリタン的心情にはフィットするのも理解できるパラディオの様式。そのまえにイギリスのパラディアン・リバイバルはホイッグ党的リベラリズムにふさわしいという理解があったわけであるが。

ジェファーソンのモンチチェロはいうまでもない。ジョンソンのグラスハウスも、ある意味で抽象的なパラディアンだ。そしてコーリン・ロウにとっては、パラディオは、普遍的ヴィラの数学的・幾何学的なモデルであった。

今回は、パラディオの建築と、市民社会の理念、その両者の関係をみようというものだ。こういう問題はそもそもアメリカ人の自己意識の反映であるのはあたりまえ。すると彼ら自身の市民社会を再検討するという方向性が下敷きにあるのであろう。

8月に福田先生と立ち話をしたとき、アメリカ人のパラディオ解釈はもちろん偏向しているというようなことを教えていただいた。ヴィラ・バルバロについても、建築家パラディオと画家ヴェロネーゼはそんなに共同していたわけではないそうだ。つまりアメリカ人は、ヴェロネーゼ的マニエリスムを切り離し、もっと純粋なパラディオ像を求める傾向があるらしい。

それはもちろんなことであろう。推測するのは、これはアメリカ建築自身の原点回帰、初心再検討のようなものなのであろう。ということは現在において、アメリカ建築はじつは方向性を見失っており、そのことが自覚されている、というような深読みができるのではないか。

さらに深読みすれば、彼ら自身が築いてきた市民社会そのものの再点検ということか?その上での21世紀への視野ということか?

そんな方向性があるとしたら、たいへん偉大なことです。

さて日本の文化財行政との違いもはっきりしている。いつも指摘しているが、日本では、歴史=過去なのである。だからここでは歴史と現代は別物。しかし西洋では歴史=永遠、であるから、そこから現代的、将来的な価値を導くという発想が自然にできる。アメリカはこうやって16世紀ベネトの文化遺産を再生産し、自分たちの文化インフラとし、さらにそれをグローバルスタンダードなどにしてしまうのであろうか?

ところでぼくのブログのバナーでは、彫像の後ろ姿が映っています。これはパラディオのヴィラ・カプラローラ(ロトンダ)の庭園の一部なのですよ。知ってた?

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2008.10.18

ヘルツォーク&ド・ムーロンのNY高層アパートをめぐる仮想内覧会

オンライン版ビルディング・デザイン紙の記事『ヘルツォーク&ド・ムーロンはニューヨーク高層アパートのデザインを公表』(2008年10月14日)によれば・・・

レオナルド通り56番のこの高層住宅は、57階建て、3万9500平米、145戸。住戸はそれぞれ間取りが違い、各戸に屋外空間がついている。ごらんのように上下のアパートは、いっけん無造作に、食い違いを気にしないで積層されている。アパートは、130平米から600平米で、広い。天井高は4.25メートルで、小壁も腰壁もないから、見晴らしはよい。インテリアも彼らであり、浴室の壁はモザイクタイル、流しのトップは大理石、フローリングは白オーク材・・・・と、不動産広告かな、これは。

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・・・・てなわけで有名建築家たちが招待され、内覧会が開催された(としよう)。

あれ、先生。ご高名な先生にきていただいて嬉しいです。

やあ。NYだというのに、ゴッドファーザーがきてないね。彼がいないとコンセプトもまとまらないだろうに。

いろいろ事情がございまして。先生は建物をごらんになって、いかがですか。

彼をさしおいて僭越だけどね。まあ、ぼくのベルリンやシカゴの計画とそっくりのようで、そうでない。床を積層させ、壁は透明。でもぼくはクラシシズムがわかっていたから、ちゃんと全体の輪郭を考えた。しかし輪郭を決めつつ、外の風景を映す万華鏡にしたり、都市の一員として、スーツにネクタイをさせたのさ。でもこれはフォーマルのようでそうではない。

そうですね。NYスカイスクレーパーの仮装大会をもういちどやるとすれば、これはどんなキャラにんるんだろうか。

でも階ごとに見ると、先生のガラス張り建築ですよ。

いやいや。個としてピュアに、集団としてもピュアに。これがぼくたちのダンディズムだった。最近の人ときたら。

でもさあ、これってぼくの郊外住宅のようでもない?失礼、ぼくLAから来たんですけど。ぼくが設計した住宅からLAの夜景が見えます。グリッド状の道路。おなじようなものが、ここ、NYでも見れるじゃないですか。

NYとLAをごっちゃにしてはいかんよ。

そうですよ。ここからは水平線、地平線を見るのです。アメリカ的なランドスケープは、崇高な性格のものです。みみっちいガーデニングではないのです。

そうかしら。摩天楼だけがアメリカ的ではないわ。私たちのように、土間のような、ほぼGLの床の上にすむのもほんとうにアメリカ的だわ。先生のように大地から切り離された住まいに住むのはまだ旧大陸の追憶があるからだわ。わたしたちはしっかり新大陸に根づきましたの。

これこれ。

いやいやお嬢さんのフランクさは嬉しいですよ。

あ、先生もお見えに。

こんにちは。盛り上がってるね。それはそうと、このタワーは、数値的には周囲より高くても、大きいとはいえない。何十年もまえからぼくはNYの超高層は大きくないといったとおり。なにもかわっていない。

でも先生。先生の「大きさ」はすこし含蓄がありすぎる。単純な大きさが、大きさと思います。単純な大きさだって、つきつめれば質の変換にいたる。NYはぼくのルーツとも無関係ではないので、挑発してもいいことはないんです。ストレートな肯定もいいのではないですか。

まあきみはね。

同感ですね。ぼくだって斜に構えて生きているわけではないですよ。でもNYは完全に垂直主義と水平主義に支配された都市。これを止揚するには斜めしかありません。先生はドミノを主張しながら、スロープなり吹き抜け、ボイドなり、じつはプロトタイプを変形し、破壊することで創作したのです。それは挑発でも批判でもなく、自己否定的な創造、真の創造なのです。

おお。ラディカル。いちど遊びにおいで。議論の続きをやろう。

グローバル化した現代にはラディカルもコンサバもないんですけどね。

そうですよ。上下のものをずらすって、NYではわたしたちが最初だと思います。

あなたは。いやいや失礼しました。でもあなた方はボリュームのずらし。彼らのはスラブのずらしです。

それも詭弁ではありません。ずらしても輪郭を強調する手法もある。ヘルツォークさんたちは、霧のように、輪郭を曖昧にしているのです。

そういえば、NYのタワー群は輪郭競争をしているともいえる。しかしそれを相互補完的などとまとめにはいるのは凡庸ですよ。

はいはい。

そういうことでいえば、ぼくも超高層プロジェクトを公表したよ。そこで考えたのはグラデーション。とくに素材によるグラデーション。それからアトリウムというというと平板だけど、共有される空間。だってやはり都市だもの。

そうですねここでは突出した個が、無関係に積層している感じ。

そう。それがNY。ゴシック、クラシック、モダンさまざまなスタイルの超高層が、それぞれ突出しようとしているのがここ。彼らのものは、ひとつのタワーのなかで、個の突出を演出し、それがひとつのタワーとして他とはちがう突出をした。NY的であろうとして、他とはまったくちがうアプローチでありながら、他よりずっとNY的になるという。

あ、またシメ的な言説を・・・・

(というわけで議論は際限なくつづく)

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2008.10.17

ベルン/アンジェ/パリ/シンセンのプチ世界一周

(1)ベルンにて。ダニエル・リベスキンドがショッピング・モールを。

ウェブ版Architectural Record誌の記事(2008年10月16日付)。リベスキンドが、スイスのベルン市に建設していたショッピング・モール「Westside Shopping and Leisure Centre」が10月8日にオープンした。もちろんアメリカタイプの閉鎖的な施設であり、7店舗、10飲食店(マクドもスタバもある)、144部屋のホテル、映画館には11スクリーン、など。プール、スパもある。

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しかしアメリカとは違い、近くには住居も。老人向け95戸。800戸のアパート。

内部では、通路がトラスで支えられ、鋭角に交差するダイナミックなものらしい。三角窓から自然光をとり入れていて、蛍光灯ではない。

高速道路をまたぐような形で建設されている。パーキングには1275台収容。ベルン中心部からコミューター列車で8分でこれる。

リベスキンド自身は「自然と文化をもたらすことで、ショッピング・モールに尊厳を与えられるのだ」と述べている。記事はもちろんそのことを、若干の皮肉を込めて書いているのだが。

(2)アンジェにて。木造住宅展(Salon Maison Bois)の第10回目が開催されている

ウェブ版ル・モニトゥール誌(2008年10月16日付)。10月17日から20日まで(短いね)。これまでフランスでは木造住宅は、とくに戸建てでは、マイナーであった。ところがいろいろ頑張って、「フランスにおける木造の市場はまさに離陸せんとしている」状況なそうな。もちろんまだまだ後進的。木造住宅の割合は、フランス西武地区で9%、しかし全国平均は4%。しかしドイツ30%、北欧60%、北米90%。

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記事のなかには注目すべき一節。森林の面積は1830年のときより、二倍になっている。おお、これは重要。ナポレオン三世時代に大植林政策があったのだ。日本も、江戸時代に森林をいちど使い尽くして、現在はむしろ再生した状態なのである(再生はしたがメンテできなくなった、という別の問題ができているが)。ヨーロッパでは森林を使い尽くした、などとステレオタイプで考えない方がいい。

(3)パリにて。ポンピドゥ・センターで未来派展が開催されているらしい。

ウェブ版ル・モンド紙の記事(2008年10月16日付)。イタリアの詩人マリネッティがル・フィガロ紙に未来派マニフェストを発表したのが未来派の発端である。ポンピドゥ・センターでは、その100周年を記念する展覧会を開催しているらしい。

記事は辛辣だ。「苦い失望」で紹介が始まる。ガラスケースに文献を展示したのでは、理念はわからないよ。絵画の展示も、彼らの全体芸術という理念には遠いよ。1960年代的な章だて展示でないのはよいが、キュビズムが未来派にどう影響をあたえたかを軸にしているが、一方でもう一方を説明できるわけがないではないか。未来派が与えた影響も箇条書きになっているだけで、彼らの間でなされた大論争も描かれていない。云々。あとは記事をみてください。

ご当地のことですからね。記者も凄腕です。しかしこうゆう記事はわりとフツーです。日本には批評がないといわれても、不思議ではない。

(4)シンセン(中国)にて。屋上庭園のある複合ショッピング施設案が当選。

ウェブ版ビルディング・デザイン紙(2008年10月16日付)の記事。CJ.リムはここ18カ月で12のコンペにエントリし、やっと大プロジェクトを勝ち取った。オフィス。リテール、住戸、講演、五星ホテル、をふくむ複合施設。

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・・・風がつよくてあまりのどかではないと想像しますけど。

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2008.10.16

クロード・パラン著『斜めにのびる建築』

標記文献を、翻訳者から贈呈された。ありがとうございます。

例の公開講座で開演をまちながら読んだ。講演者はぼく自身でしたが、ベテランなのでもう余裕しゃくしゃくです。

面白いのは、違うふたつのことなのに、前後して体験するとつながってしまうこと。つまり福岡の大建築家とクロード・パランさんが、です。つまりどちらも普遍的であろうとし、過剰であろうとした。

パランは日本ではほとんど知られていないが、フランスでは大きな存在である。Vivre à l'obliqueなる原題は、斜に構えて生きるとも読め、けっこうシニカルです。このコンセプトにもとづく「斜めの都市」という展覧会もあったようです。

ようはル・コルビュジエのドミノ、つまり水平な床の積層として構想される近代建築は、水平ではない階段とかエレベータによって補助されねばならず、必然的に垂直都市となる。それはすでにさまざまな問題を呈している。だから斜めの空間という、ドミノにかわり、新しいコンセプトを全面的に展開しよう、という考えである。

これが最近注目されるのは、ジャン・ヌーヴェルやコールハースの作品、はたまたランドスケープ化した建築において床や地面が傾斜している、ことなどの現代の潮流を、すでに何十年もまえに予見し、また精神的支柱であった、からです。

翻訳を読みながらいろいろ感じた。また念のため、WEBで彼自身の声やドローイングをみながらぼくなりに想像をふくらました。

http://www.lemonde.fr/culture/portfolio/2005/08/10/la-ville-oblique-de-claude-parent-3-5_671034_3246.html

ヌーベルやコールハウスの実作よりこちらのほうが刺激的である。そしてこの奇異なる思想を生み出したパリという場の力はなにか、と自問したくなる。

パリやNYにはとても及ばないが、福岡にもそれなりに場の力があって、それが葉祥栄を生み出した。パリにはパリの場の力がある。

つまりこのパリの場が、モダンとかモダニズムというものなのか、ということである。フランス人やパリの建築家の標準的な意識としては、ギーディオンやペヴスナーは、自分たちの業績の一部を編集して近代建築史なんて書いてるけど、自分たちは自分たち、(知っているけど)知ったことではない、といった場と時代の意識である。

斜めの空間とは、水平な床を否定し、垂直な階段をも否定し、その両者ではない斜面によって構想される建築や都市である。つまりそれはきわめて思弁的なものである。そうして、斜に構えるといった立場を選択し、しかしそれを貫くことで思想に昇華させる、場の力というものである。

ぼくは彼の影響や、理論的な射程のことはそんなに重要と思わない。しかし彼自身の語りとドローイングが提示する、思想の展開、その生々しさ、というようなことだ。つまり抽象的な図式や方程式に還元されない、思想の肉体性、身体性のようなものである。

だから磯崎さんとは違った観点でヴェネツィアとのアナロジーを展開する。斜めの都市は、この島=都市のように、孤立し、旧市街地網から孤絶しなければならない。やはりユートピアである。堅固な大地、そのものである。

翻訳はじつにこなれた日本語となっていて、解説を読んでも、翻訳者の力量が感じられる。ただ若い世代らしく表象文化論的な角度をふくめ多角的に解説しているが、ややもすると総花的になっていて、どんな葛藤の場にパランがいたか、ぼくの感覚とは違う。おそらくこの解説は、まったく独立した、翻訳者自身の建築論として展開されるべきであろう。

パランは当然のこと近代建築との関連で論じられるのであろう。20世紀を構成した重要な思想家として再発掘され再解釈されるのであろう。でもその課題は、ぼくは他の人にまかせておきたい。

それはともかく「過剰」はいかにして可能なのだろうか。この設問に戻るのである。

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福岡の大建築家

昨日は公開講座ということで、市民相手に建築のレクチュアをした。

与えられたお題は「福岡の大建築家」というもので、さて、大建築家とはなにか、地方都市に大建築家は育つのか、などと思案した。で、こんなことを話した。

一般論としては、建築文化インフラが大切です。バルセロナでは1860年代に建築大学ができて、しばらくしてガウディが登場した。九州の建築学科はいずれも戦後まもなくの創設です。バルセロナの状況を、100年ずらすとちょうどいい。すると福岡から大建築家がでるのはそろそろ。1970年代に新幹線博多駅ができ、政令指定都市となった。いままでは成長の時代であった。これからは成熟の時期となって、道州制のもと九州の地域首都となるだろうし、そこから大建築家が誕生するのではないでしょうか。

さて事務所が福岡、作品を多く残した、という意味での大建築家はすでにいる。そこで磯崎新さんと葉祥栄さんに代表してもらった。

磯崎さんは、博多駅前の銀行とその支店、秀巧社ビル、など1970年代におおくの作品をのこし、オリンピックマスタープランで帰ってきた。国際的建築家であるが、福岡の大建築家としていただいてもいいかな。

葉さんは、福岡だけではなく九州北部に多く作品を残していて、インゴット、光格子の家、小国ドーム、内野コミュニティセンター、など数え切れない。国際的評価も高い。しかも事務所はずっと福岡市内なので、福岡の大建築家とよんでいい。

ふたりに共通しているのは普遍性への希求。磯崎さんはキューブ、円筒などプラトン的形態、一種の永遠の海上都市であるヴェネチアを典例として東京計画1960、海市プロジェクト、そして博多湾オリンピックプロジェクトなど、テーマ設定に永遠性、普遍性をいつも盛り込もうとする。

葉さんも普遍性をめざすが、磯崎さんのようなプラトン主義ではない。彼は光、風、重力といった自然を構成するある要素に注目し、それをパラメータとして設計にいかす。彼がいつもいうのは「最適解」。ちょうど空中の水分が、上昇し、ある高さに達すると、気圧と温度の関係かあら、結露し、雲となる。この「高さ」は人が恣意的に決めるのではなく、まさに最適解として決まっている。そんな原理で建築を決めようというのが葉さんである。だから海外のメディアによく理解され、紹介される。

福岡の大建築家は「普遍性」をめざすことで偉大な存在と認められるのだ、というような結びです。地域文化を背負ってるようなガウディも、別の側面では、普遍性をめざしている

・・・なんてことを説明して、あとは30~40分、質疑応答。

アートに詳しい人もいて、関心は高かった。福岡からは人材はでるので希望はもてる。しかし建築ジャーナリズムを首都に独占されているので自前の価値基準創設ができない。文化インフラは大切。人口は福岡の3分の1であるボルドーでも建築文化センターは運営できている。建築はある側面で無駄であるからこそ価値がある。ピラミッド、宮殿はまったく無駄な造作ですが、しかし当時の人びとの創意や労働や冨を、形にし、永遠化しました。・・・・といったようなことが共有できたと思います。

終わったあとでもっといい説明を考えました。人間はいつも「過剰」を求めるものです。建築家が普遍性や永遠性をもとめるのは、この過剰性への希求です。建築はまず用を満足させること、とよくいわれますが、この「用」そのものが発展します。つまり200年前は水道は当たり前ではなかった、100年前は水洗トイレはあたりまえでなかった、20年前はインターネットはあたりまえでなかった、などを思い出していけば、「用」そのものがいつも現状よりも過剰にあろうとしているのです。だから機能主義などというものは、この「用」が固定されていると勘違いしているので、基本的に成り立たないのです。

だからどうやって、つねに「過剰」でありつづけるか?

それを考えるのが楽しい。たぶん。

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2008.10.14

パリの新しいアート・センター

ウェブ版ル・モンドの記事(2008年10月11日)によれば、パリ19区オベルヴィリエ通り104番にアートセンターができた。

これはもとあった葬儀施設を改装したもの。石造壁体と鉄骨小屋組の典型的な19世紀建築。

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施設名は「104」。社会党市長のもとの市の文化政策の灯台的な存在となるもの。国の財政支援は縮小されたが、市は強力にてこ入れ(こなのあたりが国/市の伝統的な力関係)。芸術家たちに創作の場所をあたえ、だれからのアクセスも許すことで芸術を民主化するための施設。100㎡ほどのアトリエが19室。劇場も。基本的にはアーティスト・イン・レジデデンス。すでに各国から申し込みが殺到しているそうな。

この地区は失業率17%と高く、活性化が望まれる。

市からの補助は800万ユーロ。しかし400万ユーロは自前。テナント(カフェ、レストラン、書店、劇場、ファッションなど)からのあがりに期待している。

続報ではオープニングの盛況ぶりも報道されている。イギリスのミュージシャンTrickyを招いてのオープニング。多数集まり、ホールにはいれた5000人のほか、あぶれたひといた。

・・・・・今はやりのアーティスト・イン・レジデデンスがパリにも、といったことだが、ここの文脈では別のようにも見える。つまり19世紀からここは芸術をしっかりと産業として位置づけていた。だから芸術家向けのアトリエ付き集合住宅が、普通のアパルトマンのなかにまじって建設されていた。ちなみにル・コルビュジエのアトリエハウスは基本的にはこれらを先例としている。

つまりパリではアートはしっかりと産業であり、それを大前提として、個人の才能を支援するという伝統が、近代初頭からある。この産業として認知されているということが、最大のアート・インフラである。

日本でも横浜市などにはアートを政策のなかに取り込む積極性がある。だがパブリックアートの時期を経過しても、まだアートは社会や都市とは一線を画するものだという認識がある。

パリのこの施設の利点は、当然、マーケットが近いということであろうね。

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2008.10.12

SANAAがルーヴル=ランス計画のプレゼをした

日曜の朝一だから短めですよ。

WEB版ル・モニゥトール2008年10月12日付によれば、この10月8日、パリのルーヴル美術館オーディトリアムで、SANAAの妹島和世さんと西沢立衛さんが標記施設の計画を説明した。

450席のオーディは満席であった(この数は、ルーヴル美術館館長を東京に招いて、日本の美術館のこれからを検討したシンポジウムよりも多いはずである)。期待のほどがうかがわれる。

ル・モニゥトール誌はたいへん辛辣であった。そもそもヘッドラインに「言葉足らず」とあるように、不満を表明。建築と自然の調和がテーマであったが、ガラスと鏡の併存、建築が消えないで存在しているからこそ建築と自然は調和できるといった説明がされたそうだ。最終的には、あまり長い語りをしなかったのは、建物をして語らしめるためか、というのが記事の結びであった。

記事を書いたのはMilena Chessaという人である(ぼくは知らない)。これはプロジェクトの内容を紹介するといいう本来の目的を果たさずに、むしろ講演そのものの評価をしているような記事である。困ったものだ。

もっとも大新聞の文化欄で「失望した」などとしょっちゅう平気で書く国ですから、気にすることもありませんが。

ただ記者にも一理はある。つまりフランスではこのような講演は、エンタメなのである。観客もじつは、オペラかコンサートのような感じで、すばらしいパフォーマンスに酔いしれたい、欲をいえば高尚なことをいってもらって、東洋美学なんか披露してもらって、うっとりしたい、と思ってやってきているのである。小役人的に規準で判断しようというのではなく、SANAAという素晴らしい才能に触れたいと思ってきている。

だからヨーロッパの観客が辛辣であるとしたら、あたりまえだが、じつは期待も大きいからなのである。パリの書店にはSANAAのぶ厚い作品集が平積みにしてある。知名度はもちろん高い。あらかじめ準備している観客をして、こってりと、じっくりと、堪能させてあげなくてはならないのである。観客たちは、はやく私をうっとりさせて、と待っている。

ぼくの狭い経験のなかでは、伊東豊雄さんはこの聴衆の欲望をよく知っている。さすがである。

ドミニク・ペロは専属の建築理論家か批評家をつけているそうである。日本からの文化輸出は、じつは50年代60年代はむしろ論と哲学であったが、最近は実作とパフォーマンスに重心が移行している。批評(性)の発信、長い目でみると、最近はこれが相対的に弱いのである。

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2008.10.11

ヘルツォークがパリにピラミッドを計画

ウェブ版モニトゥールより。ヘルツォークがパリにピラミッド・タワーを計画している。ヴェルサイユ門近くにあるパリ展覧会場(建材展などをよくやっている)が敷地。建築家自身の言葉で説明しているので、抄訳してみよう。

Triangle_herzong

・まずこれはメトロポリス的スケールのもの。ヴェルサイユ門にあるが、パリの全都市域から見えるものとなる。また地域の交通・物流を再組織し、新しい都市空間を感じさせるものとなる。

・トライアングルはパリ・メトロポール(最近はやりの言い方で、メトロポリタン・パリスとでもいいましょうか)は都市の軸と記念碑のシステムにおいても顕著なものとなる。

・この計画は、エルンスト・ルナン大通りの都市空間を解放するものだ。これによってヴィクトール大通りと第一ホールに公共広場を整備し、物流の流れを再組織できる。

・トライアングルは都市の一断片を、回転させて垂直にし、それを置いたものだ。サーキュレーションは水平と垂直のネットワークであり、容量も速度もさまざまである。

・構造的技術的な質のほかに、とがった水晶のような形態によって、オスマン的軸線のシステムと景観のなかにきちんと位置づけられる。

・垂直都市というこの街は、環境と密接な関係にあり、毎日の利用者だけでなく、さまざまなゲストにも開かれる。都市空間とのアナロジーを繰り返せば、公衆は階に登ってそこのいくつかの公開空間にアクセスできる。

・・・・というわけで、高さ制限ゆえに水平的ともいえるパリの街区を、垂直に立ててみた、というコンセプトです。斬新とおもっていると、よくよく考えたら凡庸、ってことになりはしませんか。文脈を読めば読むほど、建築家は場所によって去勢されてゆく。パリの魔力のなせるわざといいましょうか。

フランス建築を知っている人なら、ああ200年ちょっと前にブレもピラミッドのプロジェクトをやってたな、なんて思うでしょうね。

それはそうとWEB版ルモンドによれば歌手ジャック・ブレルの歌手活動関係の遺品が、サザビー・フランスで競売にかけられ、数十万ユーロの値がついたそうな。ご遺族も満足という。それとは関係なさそうだけれど、12年間使った手作りオーディオラックを、今朝、粗大ゴミにだしました。アンプ、ビデオ、LP、CD、DVDのプレーヤなどてんこ盛りにする時代は終わったのですねえ。というわけでそのジャック・ブレルも、レオ・フェレも、セルジ・ギンスブールも、ついでにエミリー・シモンもYouTubeで聞いています。ああ極楽。

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2008.10.09

『シュリンキング・ニッポン』を読んだ

大野秀敏先生のご高著を賜りましたので(ありがとうございます)、読みました。副題は「縮小する都市の未来戦略」です。

ファイバーシティ構想が背骨となっておりますので、感想もまたファイバー的に書きます(ようするに断片的に)。

日本はこれから人口も社会も縮小するのだから、まっこうからの問題の取り上げ方で、反論もなにもない。ただ縮むから必然的にファイバーとまでは思わない。もちろん成長都市計画は、インフラ、軸線、成長ベクトルといった骨格を描きやすい。一九世紀までは同心円状の成長構造が考えられた。一九六〇年代頃の都市成長イメージは、軸線にそって、生物のように拡大するというものであった。このように成長は構造化しやすい。しかし縮小とは、この構造までもがなしくずしに崩壊してゆくのだから、スキームや構造をアプリオリには設定しにくい。

ぼく的には、縮小というのは状況、ファイバーシティはひとつの認識方法、というふうに別々にとらえたい。もちろんある方法で認識する。その認識のうえにプロジェクトを展開するのだから、完全に無関係ではないが。

ただ、ヨーロッパではかなりまえから都市組織、ティシュ・ユルバン、という、都市をひとつの織物として考えることが、当局的都市計画においても見られる。ティシュとはtissuであり、ティッシュペーパーのそれであり、織物、布地、組織、である。フランスでは一九六〇年代ころから社会、政治、都市などのたとえとして使われているようである。

「ファイバーシティ」とは、都市がさまざまな繊維からなる組織体であるという発想だから、tissuとは矛盾はしない。両者に共通しているのは、都市や社会はひとつのシステムが貫通しているのではなく、糸やひもがさまざまにからまったり、結び目をつくったり、レイヤーが重なったり、というイメージである。ただtissuが反物になった布を想像しがちなのにたいし、ファイバーのほうがよりアナーキーな力がありそうである。

どちらがどうというのではなく、tissuもファイバーも、認識の方法である、ということである。「モデル」や「プラン」が上位からの押しつけ方、演繹的であるのにたいし、ファイバーは帰納法的であり、まず読むこと、発見すること、分析すること、既存のものの存在を認めることからはじまる。そして人間は点としては存在しにくく、リニアに動き移動することで社会や他者との関係をつくっていくのだから、ファイバーは都市における人間のモデルである。もちろん電車や道や物流といったもののモデルでもある。

さてエネルギーや環境を考えるとコンパクト化は必至のようにも見えるが、それをいうのは行政の人、そして学者である。しかし竹内直文という行政に近い人もコンパクト化へのマインド形成が難しいと指摘しているし、吉見俊哉も都市のモチベーションとしてコンパクト化はなるかどうか疑問視していた。それもそうだ。現状では、強権発動、よっぽどのインセンティブ、あるいは破局からの反省、がないとそうかんたんにはいかないであろう。もちろん大野先生自身も、行政のコンパクト構想もまたあまりに性急な方向転換であって、そのことの弊害も大きいと指摘している。そうなのです。人生80年のあいだに、政策も、都市像も、プランニングもどんどんかわってゆく。だからひとりの人間(とくに日本人)にとっては、親方日の丸がコロコロ都市哲学をかえてゆくのだから、信じるものなどない、といった状況でしょうか。若者が年金を信じないのと同じです。

ついでにいうと、コンパクトシティを可能ならしめる政権はどれか?その推進役となる産業はなにか?もしそれらを想定しないのなら、いかなるメカニズムで?

さらについでに。ファイバーシティはかなり影響力があって、去年、ぼくが担当している設計課題において、福岡市をファイバーシティ化するプロジェクトをひとりの学生がスタディして提案した。自主的に、しかし大野先生のスキームにかなり忠実に。するとほとんどの市街地を緑に還元できる。しかもほぼ博多湾を一周する環状都市となり、地理になじみ、美しい。翌日、非常勤の先生と唐津までドライブした。そこでの実感。コンパクトにはできないよねえ。やはり鳥の視点と、虫の目にはかなりギャップがある。もちろん虫の目は大切なのであるが。

・・・・とはいえ「ファイバー」概念は建築史をやっているぼくにも面白いのです。つまり都市は、いきなり全体像や普遍性をいうのではなく、微分し、積分するものである、という哲学はたいへん重要だからです。

最近ヨーロッパ都市研究をぼちぼち再開しましたが、あらためて気がつきました。日本人がとくに近代化の過程のなかで、ヨーロッパの都市や建築を学習し、そこからモデルや理論を抽出するのですが、そこに過度の理想化、イデア化がなされてきました。しかし実際は、城壁で囲まれていて視覚的にコンパクトな都市であっても、矛盾する諸要素の共存であり、きわめてヘテロジーニアスです。

するとおかしなことが起こる。日本の都市史研究者は、中世から近代において、多元的であった権力が一元化される、これは日本とヨーロッパに共通する現象だ、などといいます。しかしヨーロッパでは、権力は一元化されてなどおらず(ごく一時期にそう見えただけ)、中世か現代まで多元的諸権利の調停というのが社会の原理です。しかし日本は、一元的・普遍的モデルとしてヨーロッパを都合良く曲解しているので、ヨーロッパを誤解し、そして間違ったモデル化をして、それを日本に適用している。それでどうなったかというと、日本はきわめて中央権力が強い国となったし、それはヨーロッパ以上です。

都市を読み解く方法としては、ぼくはヨーロッパ都市はさまざまなプロジェクトの堆積、重ね書き、重層として解釈すると、かなりいいのではないかと気がつきました。様式論や計画論(これらも一種のイデア化)というモデルに頼らないで、ひとつひとつの都市形成行為、都市介入事業を分析し、そこにおけるステークホルダーをカウントすることで社会がわかる。それにたいし、理想都市論などは、都市や社会が一元的イデアに従っているなどとする思想であり、現実に反するし、おぞましい。理想都市論はあくまで批評として意味があるのであって、ようするに、現実からは乖離しているからこそ意義のあるものの典型例です。

都市を構成する「ファイバー」は現実にできてしまうものも含まれるでしょう。それでも都市という全体をどうほぐしてゆくか、解釈において、分析において、どう分節化していくか、という点で、ぼくにとってたいへん示唆に富むものでした。ぼくはぼくで都市を「プロジェクト」にほぐしてゆくというのが、歴史研究としては面白そうで、しかも歴史と現代を関係づける、しかも実践というレベルで関連づけるいい方法になるのではないか、と思っています。

「ファイバー」を建築家の都市論として位置づけるなら、反モデル主義的、反イデア主義的であり、脱構築的な方向性を、現実の問題群のなかで実践的に展開しているという可能性がある、ということかもしれません。

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2008.10.07

商店街のパレード

先週の日曜日、商店街のお祭りでした。

昔なら山下達郎の《ダウンタウン》でしょうが、いまならケツメイシがあいそう。

最初はパレード。たぶん中学生のブラスバンド、白馬にひかれたミスなんとか商店街、よさこい風の踊子隊、町内会の大人たち、などが雨中にもかかわらず元気に練り歩く。

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巨額の経費を投入しているのではないことはすぐわかるが、しかし人びとのノリはよい。

この商店街がユニークなのは、ふだんから歩車分離がないこと。もちろん強制的にホコ天の時間帯はあるが、それ以外の時間のほうが人も車も入り乱れて?ここらしい。10年後は残っているかどうかわからない雰囲気だ。市はやはり道路拡幅して歩道などをつけたいのだろうね。新築のマンションをみればよくわかる。現代の制度は、歩車分離が原則だ。しかしこの原則に従っていないけれど、経験的に、ちゃんと車と人が共存しているかにみえる例外的な生態系として、認めていい。この曖昧さ、長さにして数百メートルを、貴重な都市生活文化遺産とてあげてもいいなあ。

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マンションがこれから建つ敷地が臨時の広場となる。餅つき、屋台、出店・・・。結局、お昼は宮崎の地鶏になってしまった。路上ではバナナ売りのパフォーマンス。

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商店街のお店も、この日は出店を構える。スペアリブと生ビール。最後はこれですねえ。

盛り上げるぞ、なんていうテンションはない。悲壮感もない。楽しそう。つまりまったりしている。この水平飛行的感覚がよい。つくづく商人の町である。つまり実質主義、合理主義、レスポンスの良さ。都市的とはこういうことである。都市的とは都会的ではない。都市的とは身も心も最初から都市。都会的とは、それまで外にすんでいた人びとがあらたに都市に住み着いて身につける作法のこと。

日本人は1960年代からの都市化の時代に、都会的であろうとし、そこそこうまくやった。でもほんとうに都市的なのは、やはり江戸時代からのなんらかのものを引き継いでいるところ、といったこともはっきりしてきた。

でこんな雑多な町のありようは、15年前なら、アジア的などと形容したのであろう。細かく言えば、純粋に日本的ともいえないし、アジア的とももはやいえないし・・・。で、ぼくなりの偏見から言えば、これはじゅうぶんヨーロッパ的。つまり庶民の住む商店街は、経済レベルがさほど違わなければ、同じような質をもつようになる。ときたまの祝祭、そこそこのほどよい盛り上がり、専門店のならび、人びとの間の絆・閾の高さ低さ。そこには東洋だの西洋だのはあまりないような気がする。これはアメリカにはなかなかないものでもあります。いちどヨーロッパの商店街に住んでみるとすぐわかります。

ぼくはニューアーバニズムやコンパクトシティなどという上位から降ってくるような概念はあまり好きじゃないのだが、それはなぜかというと、それらはライフスタイルとしては古典的であり、ずっと前からあるものであるからだ。つまり既存のものの再モデル化なのだが、専門家が新しがっているいっぽうで、その古いとされたものをまだしっかりと身体化しつづけている人びともいる。そこんとこをわかっていないとね。ぼくなどはコンパクトライフをずっとやってきた。そのメリットもよく知っている。ただ社会のなかでそうした概念が運用されるされ方は、操作的、管理主義的であって、内省的、自発的ではないからだ。専門/素人のときに反転したねじれ関係はいつの時代にもあるものです。

結局、お昼時の1時間と、夕方30分、路上散策をたのしみました。そのほかは部屋にいて悲しくも仕事してましたが、すこし遠くから聞こえてくるお店のかけ声や音楽は気持ちよかったなあ。

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