« 妖精プロジェクト(一週間をふりかえって) | トップページ | 「反=アンチ」の世紀をふりかえって »

2008.08.01

一生ものとはなにか?

学生がなにか企画展をするとかで、アンケートをもとめてきた。

一生の思い出になるような、大切にしたいものはなにか、という。

でいろいろ考えた。でも結局、一生たいせつに持っておくようなものなど、ないという結論に達した。実際、自分の身のまわりを見ても、小学生のころからもっているものなど、卒業写真ていどで、それも10年にいちどぼんやり眺めるていどである。ほんとうになにもない。タイムカプセルを埋めた経験もない。遊び道具も、ない。優等生ではなかったから表彰状もない。

そういえば映画《アメリ》で、アメリが、少年の思い出がつまった箱を偶然みつけ、今は50歳ちょっとになった元少年=おじさんに、そっと届けるというくだりがある。おじさんは、突然なりだした電話ボックス(ケータイではないのだね)の受話器をとって、そのブリキの箱をみつけ、ウルウルするのであった。

ぼくもそんな年齢にはなってしまいましたが、あれはよくわかりませんね。ビー玉が万国共通であったことは発見したし、ぼくもそれで遊んだことはありましたが。

なので学生アンケートには役に立たないので、答えないことにした。というか答えることができない。有志の学生のみなさん、ごめんなさい。

一生ものというのは、じぶん自身以外にはないのではないか。あるいはじぶんの記憶。もの、はその媒体でしかない。人間の細胞は数ヶ月でそっくり入れ替わってしまうそうである。だからものを根拠にしてもしかたない。ものが交替し続けてものこる、記憶であり、情報なのであろう。

ぼくは学生時代から建築写真を撮りつづけ、7万枚ていどになっていた。もちろんフィルムの写真であった。しかし10年まえからデジタル化は必至となっていた。それに膨大なスライドは、マウント、ケースなどをふくめてたいへんなボリュームとなってぼくの住空間を圧迫していた。なのでそれらをすべてデジタル化し、「もの」としてのスライドはすべて捨ててしまった。5年以上まえのことであった。

もちろんぼくにも物神崇拝はあるので、一枚一枚丹念に撮ったスライドはかけがえのないもののはずであった。しかし所有することよりも、それをより簡便に活用できることのほうが大切だ。そう考えた。だから7万枚のスライドは、デジタル化され、ぼくのハードディスクに収まり、数クリックで閲覧できるようになった。

10年まえ、20年まえに撮った写真など、記憶は薄れてゆくものだ。しかし撮影したときに考えたことの、カケラくらいは思い出せるものだ。そうした断片から、すこしずつ、じぶんが忘れた、考えっぱなしでいた、萌芽的な発想をかき集めてゆく。それはじぶん自身を再構成することであり、こういう意味で、一生ものとはじぶんのことである。

もちろん授業用のパワポがごく短時間で準備できる、など実用的メリットはとんでもなくありますけどね。

おなじように、かつては宝物だったLPも、オーラは薄くなったけどそれなりに物神性あったCDも、なくなってもいいものです。私事ですが、プレーヤーもなくなって放置していたLP200枚も処分することにした。そのなかにはフォーライフのクリスマスソング特集LP(井上陽水の《夏願望》なんてよかったね)、リッチー・バイラークのピアノ、なんてのもあるけどね。でも、もういいのさ。

おなじように図書も、住空間から消えてもいいなあ。といってもぼくは本は好きだし、すこしは読みます。でも紙は媒体にすぎない。視覚だけでなく触覚も嗅覚も刺激して、人間の身体性にこたえてくれて、物神性も感じさせるすぐれた媒体だけど、それはぼくんちのそとにあればいい。数万冊の蔵書があっても、いちどに見るのはわずか2ページ、せいぜい数ページにしかすぎない。パソコンのディスプレイと変わらない。それにそのうちグーグルが世界図書館をつくってくれるので、住宅のなかに図書を置かなくともよくなるのです。

蔵書家はマンションには住めない。なぜなら空間コストを考えると、個人書庫は集密書架にせざるをえないが、しかし通常の基準でできた住宅やマンションにそんな荷重の大きいものを設置すれば、1+1=2的なロジックでかならず床がぬけてしまうのである。

ちなみに映画《デリカテッセン》で、アパートの一室が水槽のようになってしまうシーンがあったが、あれはあり得ない。水深2メートルということは、2トン/㎡であり、集密書架の基準の3倍である。建物はいともかんたんに崩壊するであろう。

だから、ぼくのひとまわり上の先輩たちは自宅書庫を崇拝していた。彼らはある年代に達すると、学者の人生双六にとって中間到達点であるかのように、きまって戸建て住宅をたてて、そこに書庫を建設する。しかし20㎡=6坪ていどの書庫でも、土地代や工費、そもそも戸建てを選択することのコスト、などを考えるとそのために1年か2年、よぶんに働くことになりはしないか。資産家ならいいが、サラリーマンにはできないことである。

でもデジタル書庫なら収納はいらない。現在のテクノロジーなら、軽自動車の半額ていどで、いろんなことができる。実際、蔵書(?)をスキャンして保存しているマンガ愛好家は多いという。学者も見習いましょうか。

かなりまえから想定されているように、映画、ヴィデオ、DVDもすべて物質メディアから解放されて、配信され、ぼくたちの記憶装置に刻みこまれる。そして記憶装置は、ハードディスクの時代も10年以内には終わり、バイオテクノロジーを活用した、今の携帯より桁違いに小スケールの、ほとんどボリュームを無視できるていどにまでなる。

媒体をもたない、ほとんど、純粋な記憶そのもののような事態になってくる。

で、物欲から解放されたとして、というか、ものが居住空間を占領してしまうことから解放されたとして、どうするか。

これはとても簡単なことである。美しい空間に住むのです。あるいは自宅を小宇宙とするのではなく、生活機能を街に求め、街に住まうのです。そこではこれまでと同じように仕事をつづけながら、ものから解放されて、身体性を回復するのです。

|

« 妖精プロジェクト(一週間をふりかえって) | トップページ | 「反=アンチ」の世紀をふりかえって »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/424713/22700807

この記事へのトラックバック一覧です: 一生ものとはなにか?:

« 妖精プロジェクト(一週間をふりかえって) | トップページ | 「反=アンチ」の世紀をふりかえって »