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2008.07.02

『アフターダーク』を読んで(デタッチメント論のつづきでもあるが)

湯島で萩原さんと食事した。二次会は山の上ホテルのバー。が、この建築談義は次回に。

行き帰りの田園都市線/半蔵門線(ぼくはこのメトロが好きだ)で、ずいぶんと旬は過ぎていますが、村上春樹の『アフターダーク』を読んだ。夜、そしてほとんど地下鉄のなか、運良く座れて周囲の乗客にほとんど気をつかうこともなし、という読書環境。小説の内容にまことにふさわしい。

WEBのどこをみても悪評だらけである。この小説は。がっかり、最悪、とまである。・・・そうかなあ。

ある都市の、おそらく東京の、23時56分から6時52分までという一夜におこった出来事。あるいは出来事たち。まずラブホで傷害事件がおこり、殴られた中国人少女を助けるために、カオルはたまたま知っているタカハシを呼び、彼は、偶然に声をかけた主人公が中国語ができるということで、マリに来てもらう。彼女は彼女で昏睡状態の姉への屈折した思いをかかえていた。タカハシは家族が崩壊していて、夜の音楽へ逃避していた。ラブホ従業員たちも背景を抱えていた。外国人シンジケートは傷害事件の犯人のITプロ・シラカワを探すが見つからない。傷害の当事者シラカワはシラカワで・・・・。

というようにこれは従来のパラレルワールドとはすこし違い、なん人かの登場人物が、それぞれ物語をかかえ、この一夜のなかで、すれ違い交差する。たがいに無関係であったはずの彼ら、あるいは無関係であるはずの物語が、軽く接触し、関連づけられそうで、また離れてゆく、逃げる人、追いかける人、しかしつかまらない、というメタ物語である。あるいは物語のブラウン運動である。

ぼくの興味はきわめて偏っているし読書歴はとてもプアなので、文学的文脈では評価する能力がない。だから建築的理解、という摩訶不思議なこととしてやるのだけれど。

つまり『アフターダーク』においては空間が描けている。だからぼく的には面白かった、という評価をするのである。

空間とはなにか?それはふたつ以上の事物が、関係をもつこともできるし、無関係でもいられるような、そんな関係のあり方である。あるいは複数の物語が、おたがいに主であり従であり、立場を変えながら、関係をときどきもちながら、しかしそれぞれ自立的に展開している状況である。だからそれを、強引だとはわかっているけれど、「デタッチメント」論に引き寄せてみようというわけだ。

これは一夜のできごとである。朝、明るくなり「次の闇が訪れるまで、まだ時間はある。」で終わっている。だから昼間は描かれていない。それは次の闇までの待ち時間にすぎない。

でもぼくの想像では、昼=コミットメント、夜=デタッチメント、という対比からなっている。

昼間は、人びとはそれぞれ仕事をし、家庭をし、勉強をするのであって、同僚たち、家族、友人たちと、空間を共有する。これは習慣としてあるいは指示されてするものでもあるが、いちおうコミットメントの世界である。でも夜は、昼間の関係性をいちどほぐし、ばらばらにし、しばらくほっておくことがゆるされる。

いやむしろコミットメント/デタッチメントの比喩として、昼/夜が使われているのであろう。社会的制度としての24時間制の話しをしているのではないのだ。

登場人物たちが、みずからデタッチし、逃避し、姿をかくし、昏睡し、アリバイ工作をし、代償行為をする。それらすべてはデタッチメントの行為である。しかしこのデタッチメントは、自らの意志にかかわらず、他のデタッチメントに少し触れ、方向がずれ、ごくわずかにゆがみ、変色しているかのようだ。

複数の視点。「私たち」は仮想の読者であり、この「私たち」が物語をのぞくという、映画仕立ての仕組みになっている。しかしそれだけではない。実際はほとんど登場してこない外国人シンジケートも、少女がなくした携帯をメディアとして、少女を殴打した男にむけたつもりで、「わたしたち」から逃れることはできない、と平板に語り続ける。

この「私たち」は、特定されていない一人称複数である。しかし「わたしたち」もまた特定されていない一人称複数なのだ。それらに相似性、相互互換性、構造的一致はないのだろうか。「私たち」が世界をウエッブカメラでのぞいているように、「わたしたち」も別の穴から世界をのぞいている。世界を読んでゆく別の眼球はたしかに存在する。物語はそれを示唆しつつ、読者を宙づりにして去って行く。読者が、作中人物に話しかける、ということを物語化する手法が開発されようとしている。

想像をたくましくすれば、これは物語(群)を眺める物語(群)なのである。メタストーリーの「メタ」はそういう意味だろう。だから「私たち」である。私も、私たちも、物語りなのである。私は粒子であり、私たちは粒子群であるが、この粒子は、分子や原子をそのメタファーとして使うべきではなく、物語こそが暗喩となるべきものなのだ。あるひとりの「私」はすでに物語の束であり、その束として粒子なのである。その物語束がさらに複数集まって、上位の束となる・・・。

この宇宙を描くのに単線的なストーリーではいけない。しかし列挙してもしかたない。だからまず時計に表象される時間の流れに戻す。それを切り取る。23時56分から6時52分まで。スチレンカッターで、スチレンボードを、力もいれず、材料をそっと平行にうごかして、やさしく、でもシャープに切り取るように。

だからそこに見えるのはストーリーではない。断面である。崩落によって地層があらわに見えるような、地中の闇にあったものが、奇跡によって見えてしまうような、断面なのである。

『アフターダーク』のなかで唯一ぼくが物語的であると感じるのは、エレベーターの逸話である。マリと姉エリは故障したエレベーターに閉じこめられ、完全な闇に包まれる。その間、姉が妹を励ましつづける。マリの回想のなかでは、いちばん深い姉妹の絆であった。この回想が最後に書かれているのが示唆的だ。闇中の闇、闇の入れ子構造である。ただ物語としてはふっきれていない。「エレベータ」はむしろ小説全体を縮小した模型のようなものである。それが解説的に書かれているのがすこし不満だ。

そうではない。因果関係をたんねんに追跡することが求められているのではない。象徴的な意味を、関連づけ、べつの体系を示すことも、さほど重要ではないだろう。

都市という迷宮から、終わりのない時間のなかから、そっと、なめらかに、しかしシャープに、切り取られたこの断面。その生々しい素材感と、構造を一望できる新鮮な視点。この断面のゆえに、ぼくはこの小説は建築的にできている、と感想を述べるのである。建築を設計し、プランを描くが、そのなかでセクションだけが、ことなる複数の空間や時間をおなじ平面上に示し、無関係であるはずのものたちを共時的に眺めることを可能とする。物語を物語群とするにはこのようなメタ物語が必要なのだろうか。

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