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2008年7月の5件の記事

2008.07.19

妖精プロジェクト(一週間をふりかえって)

妖精プロジェクトの一週間。学生たちが妖精であるように、ぼくには思えた。はじまりもなく、おわりもなく。どこからきて、どこにゆくのかもわからない。浮遊しどこにも着地しない、言葉と図像。肯定も批判性もなく・・・・

しかし現在の建築雑誌をにぎわしている作品もまた、高度に方法論的であり自覚的であるとはいえ、妖精プロジェクトの印象を与える。ベテラン教員も、若い学生も、そのうち骨太建築の時代がやってくるのでは、といっていたのが印象に残っている。

14日(月)は建築学会支部。某コンペの審査員の仕事をした。まだ結果報告のまえだから、具体的なことはなにもいえない。しかしこの学生コンペは、卒計日本一などにくらべて、レベルがひくかった。

対象を時間的、数値的に把握し、空間とモノで操作してゆくという、介入の基本がどうもできていなくて、イメージにとどまっている案が多かった。イメージといっても、具体的なデータが未確定なので、輪郭は曖昧といった概説的表現としてのイメージ、ですらない。どうも学生がイメージというとき、それは個人的な心象風景のようなものである。あるいは内面表出のようなものに近い。

国語教育批判のエッセイを読んだことがある。日本の国語教育では、思ったこと、心に浮かんだことを自由に書きなさい、という白樺派的な方法が主流である。しかし小学生や中学生というまだ内面ができていない人間に、自由にものを考え、それを文章にするなどということは苦痛を強いるだけである。・・・という批判である。むしろ目の前にあるもの、出来事を、第三者がわかるように客観的に書くという訓練が大切だ、という。まず取材、ルポルタージュができるかどうか。言語は道具なのだ。

建築も、社会的命題が与えられていないとき、個人的な内面表出となる傾向がある。なにしろコンペのテーマは「記憶の容器」であった。なるほど。これでは客観的データなど与えられない。内面と向かい合え、という指令である。巧妙な学生なら、定性的な指令を定量的なものに変換するのであろうが、たしかに難しい課題である。

外部の世界を、人口いくら、予算いくら、空間ストックはこれこれ、人びとはこんな感じ、と具体的に把握して、操作してゆくのが具体的な「介入」。しかし思ったことを自由に、という形式で、内面にぼんやり浮かんだものを描いて、それを外の世界に投影してゆくのが「妖精」。といった対比になろうか。

提案されたプロジェクトは、いわゆる「イメージ」であるものが多かった。なもんで、ぼくはそれらを「妖精プロジェクト」と呼んだ。これはほかの審査員にもけっこううけた。学生たちは妖精である。どこからともなくあらわれ、おとぎ話をささやいて、そしてどこへともなく去っていゆく。

16日(水)と17日(木)はH大学で、大学院集中講義。2日間で6コマを教える。

パリの都市史を、プロジェクトの連鎖として説明するものである。16世紀以降は、近代的なプロジェクトの概念で把握できる、住宅地開発、橋梁建設、モニュメント構築、広場整備などがわかっている。それを開発主体は、王か、市か、民間か、などと区別しながら、論じてゆく。すると現代のプロジェクト理解とさほどかわらないスタンスで、数世紀前のものに接することができる。

大先輩であるS教授と食事どきなどに雑談を重ねる。フリードリヒのロマン派絵画、シンケルのランドスケープ建築、表現主義の建築表現についてのぼくの理解について、賛成していただく。さらに近代の空間システム、衰退史観などについても貴重な示唆をいただく。・・・などという話しを肴に、西条の銘酒をいただく。それは翌日の西条酒造地区見学の予行なのであったのだが。

二日目の夕方は造り酒屋地区、古墳、国分寺など車で案内していただき、新幹線の駅まで送っていただいた。感謝感激。

S先生と同じ苦労を共有しているような気分になる。地方大学ではなかなか建築史の教育・研究が自律しにくい。設計と一体化しないと難しい。教師としては意匠を教えつつ、意匠は歴史的なものだ、的な観点からしだいに歴史に導いていこうとする。逆に言えば、歴史なしでは意匠など理解できるものではない。意匠は、すぐれて歴史的産物なのだから。歴史をふまえずに設計や意匠を語ると、妖精的なものとなるであろう。

18日(金)は自分の大学で、設計演習の講評。

この日までに古典派の景観とロマン派の景観の違い、網野善彦の海からの日本史概念、平戸ツァー、アースワーク、世界の港湾、臨海都市のスライドショーなど、仕込みはしっかりしていたつもり。

しかし小規模とはいえ、ひとつの都市を理解するのは時間がかかる。さらに社会情勢の理解はまだ切迫さがない。人口減少、税収減少、産業構造の変化といった材料を、プロジェクトに反映する手続きにはリアリティがまったくない。

学生の発表は、こうしたリアリティのない「妖精」的な、心情告白のようなものが多かった。リタイアした老人が漁業をやるとか、である。そのリアリティのなさに、5人の教員のうち、常時だれかがキレていたようであった。

しかし操作概念が構築できそうな筋のいいものも少なくはなかった。ただ、しっかりした核をつかんでいるのに、コンセプト紹介で失敗して、最初は評価されないものもいくつかあった。もったいない。全体的には、まだまだ未成熟で、コンセプト構築以前的なものが多かったが、まだ3年生であり、鍛えれば良くなるであろうと希望をぼくはもっている。

コンセプトとはどんなレベルのものか?ぼくは総評でジョン・ケージの《4分33秒》について語る。非常勤講師M先生の課題「不在のプロジェクト」の1回答例としてである。ホールで、聴衆を前に、ピアノの前にすわった4分33秒。無演奏も演奏のうちという、ゼロ記号の演奏。それによって音となはにか、音楽とはなにか、演奏とはなにかをあらためて問い直す批評性そのもののような演奏。それが歯が抜けてゆくような町並みの、そこに介入するプロジェクトにとってなんらかのヒントになるはずである。

さらに9年前、M先生たちとパリでワークショップをしたとき、T先生の「無為の空間」という課題にたいして、それはジョン・ケージの《4分33秒》のようなものか、と発言した学生がいたことを思い出す。さすがであった。彼はそのとき4年生であったはずで、ぼくたちの学生とそうは違わない。ぼくたちの学生もそのように成熟してほしい。

意匠を、理論的に理解するだけではない。それはむしろアナロジーにより理解される。「不在」と聞いたときに、ジョン・ケージ、空集合、ゼロ記号、ポール・オースター・・・いろいろなものを連想する、その厚みが意味なのだ。そういう意味で、建築だけにとどまるのではなく、領域横断的に脳を活性化させ、そのまえにいろんなものを蓄積し、いざというときに独自に編集して脳をスパークさせなければならない。無為とはジョン・ケージだ、などというように。正しいかどうかは別として。

来年も平戸プロジェクトだが、もっと体系的にスタディさせなければならない。

最終〆切は8月11日である。きっと格段にレベルは向上しているであろう。

終了後は教員懇親会。東京D大のM先生。大分の建築家S先生。マキイのオードブルを、エビス、ボルドー、メドックでいただく。美味。午後のうっぷんをはらすかのような本音トークは、いつものようにおもしろい。ほんとうは講評後トークが目的で、設計演習を担当しているようなものだが。

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2008.07.10

サン=シモンについて

サン=シモン(Saint-Simon, 1760-1825)という、産業社会の論理を先駆的に打ち立てた思想家については、その重要性にもかかわらず、あまりわかりやすい形では紹介されていないようだ。専門家は若干の考察を残している。しかし、素人にとってもっとわかりやすいようには書かれていない。

ニュートンの万有引力、地動説、コペルニクス的革命、産業化が社会の進歩とする思想、産業家が実権を握る社会を構想した点、生産者を重用視したこと、など「産業社会」構想の先駆者であった。資本主義などというものは産業主義の一形態にすぎないし、ポスト産業社会が云々されたときも、やはりこの思想家に立ち戻るべきという主張があった。

彼の影響は、実証主義のオーギュスト・コント、鉄道施設に貢献したプロスペール・アンファンタン、サン=シモンを空想的社会主義と揶揄しつつ唯物論などは導入したマルクス、19世紀のなんにんかの銀行家など、ひろく及んだ。とくにエリート養成機関であったエコール・ポリテクニークで学んだ人びとへの影響は大きかった。

フランス革命時、教会財産を転売して巨額の富を築いた。その資金により、1798年、エコール・ポリテクニクの正面にアパルトマンを借りて、サロンのようなものを開催して、教授たちから学識を吸収した。

鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会』(河出書房、1992)によると、ガスパール・モンジュもよく招待された。ちなみにモンジュは画法幾何学の教授であり、建築教授デュランへの影響も大きかった人物である。だから建築の起源は原始的な小屋であるなどという形而上学を否定して、経済性を重視したデュランの理論には、サン=シモンの影響があるかもしれない。

サン=シモンの思想的影響を受けた人びとが、国土を開発し、鉄道を施設し、近代的な銀行を創設したというふうに説明してもらえると、ぼくのような素人にはわかりやすい。

最近注目を浴びているのが、ピエール・ミュソ(Pierre Musso, 1950-)による再評価である。ミュソは、サン=シモンは「ネットワークの哲学者」であると指摘し、テレコミュニカシオン(日本流にいうとメディア)と、サン=シモンのネットワーク理論について博士論文を書いた。この「ネットワーク」は、交通、運輸、通信、経済、社会学、などを包含する一般理論である。

ミュソにとって、サン=シモンがネットワーク哲学の始祖である。人と人の関係は、ネットワークである。統一理論を指向したサン=シモンは、血管組織、神経組織によって身体が成り立っていることを比喩にしたという。

ネットワークとはインターネットのこと、などというのは浅い理解であって、船舶、通信、鉄道、交易により19世紀にはより緊密な世界ネットワークができあがっていたのであって、インターネットはそれを前提にして電脳化したものである。だからネットワークの本質は、個別技術の専門家はむしろ論じる資格はなく、哲学者がそうすべきというのがミュソの主張らしい。

では18世紀までの建築観と、19世紀以降の建築観はどこがちがうか。

これもサン=シモン的枠組み、つまり人類の思想は神学、形而上学、実証主義という3段階を経過するという枠組みをそのまま使うと、とりあえず簡便に描ける。つまり、まず古代の神殿や中世の大聖堂にみられるのは神学的な建築観の時代であった。ルネサンスから18世紀までの建築理論は、建築の比例論や起源論に代表されるように、形而上学的であった。

それにたいして19世紀と20世紀は実証主義が支配的である。つまり、世界のいろいろな様式は、その地域の建材、気候、などから唯物論的に決まるが、また同時に交易、民族移動、支配権拡大、支配/被支配関係、などのネットワークのうえで展開してゆくものと見なされる。

日本人にとって既知である伊東忠太の世界建築図式は、まさに実証主義的であり、ネットワーク的であることがわかる。もっとも今日ではキーワードは、権力、帝国ではなくむしろ資本なのであろうが。

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2008.07.07

メタ概念としての建築(保存がモダンを生んだ)

授業の準備をしていたら、関係はあるような、ないような、別の考えがやってくる。それはまさに、むこうの方からやってくるという感じなのだが。

これは「モダニズム建築」問題としてぼくが考えていることと関連がある。

つまり19世紀の建築があって、これはおおむね折衷主義の建築であるが、これが20世紀の近代建築運動を準備したという通説の再考である。

この通説は、たとえば折衷主義への批判をとおして、とか、それを反面教師にして、とか、それへの批判がそのまま別の理論になったりだとか、19世紀はじつは近代工学の時代でもあったとか、そういうものとして解釈されてきた。

まあ、表面的にはそうである。

しかしかなり以前にレイナー・バンハムが『第一機械時代の理論とデザイン』のなかで、ボザールの伝統が近代建築運動に連続していることを紹介して話題になったように、19世紀もまた理論的な蓄積がかなりあった。つまり表面的には、グリーク・リバイバルだのゴシック・リバイバルだの節操もない折衷主義の衣替えなのであったが、しかしその背景にはちゃんと理論的な構築への指向がずっとつづいていた。このことを忘れると、20世紀も理解できない。

つまり、

19世紀折衷主義→20世紀の近代建築

というのがあまりに短絡的である。

まず19世紀の理論的貢献を考えてみる。19世紀初頭のデュランが考案した、グリッドプランの上にあらゆる歴史上の多様な建築を正規化して並べるという方法論。ヴィオレ=ル=デュクの、ゴシック建築を要素に分解して、それらの合理的配列として構築を考えるという合理主義的な方法論。ショワジの洋の東西、過去から現在までの歴史的なあらゆる建築を、樹形図で示し、構造形式の発展としてとらえる合理主義的な歴史観。ジュリアン・ガデの、記念碑的な建築を、軸線、副軸線をつかって、要素とその構成として構築する設計の方法論。

これらが「合理主義」と簡単にくくられるところに問題があろう。つまり日本の建築批評で、合理主義というのは冷たい機械論的な合理主義として誤って解釈されており、ほんとうに西洋での合理主義の広さや深さはまだ理解されていない。あるいは、合理主義というレッテル貼りで問題が解決したかの達成感をあたえてしまうことの誤りがある。

そうではない。

デュラン、ヴィオレ=ル=デュク、ショワジ、ガデらが考えたのは、個々の建築の上位に位置する「メタ建築」があるはずだ、ということを大前提とした点である。

だからヴィオレ=ル=デュクが「スタイル」をいうとき、それは個々の識別のための差異化のためのスタイルではない。それは統一をもたらす原理はなにか、という問いである。そしてこの意味での「スタイル」は19世紀の折衷主義という通俗的な理解をはるかに超えている。

こうしたメタレベル、体系性が19世紀に確立されてしまった。20世紀の近代建築家たちは、基本的にはそれらを徹底的に活用したのであって、彼らの過激な言葉は別の次元に活路を見出そうということであったのではないか。

だから、

19世紀の歴史的建築の研究→メタ概念としての建築→近代建築運動

と考えるのが正しい。

だから西洋では、歴史的建築の研究、古建築保存の研究、文化遺産の研究が、建築理論を深化させ、それが近代建築を生んだ。つまり、ショック療法としてきわめて短絡的に言い換えると、「保存がモダンを生んだ」のである。だからヨーロッパの建築博物館では、ゴシックと戦後建築が並んでいてもなんの違和感がない。

しかし日本は事情が逆だ。古建築はすでにあって、それを破壊しつつ登場したのが、近代建築である、と理解されている。だから歴史にとって近代は敵、保存にとってモダンは敵、となる。両者の共通の基盤となるべきメタ概念が、それこそ歴史的に構築されなかった。だから今後もこの構図が支配的なものと思われるであろう。

「モダニズム建築」の困難はここにある。この日本のみで通用する和製英語の概念は、普遍性をあえて求めないことに、提唱者の意図がある。つまり歴史的建築(社寺など)、近代建築(擬洋風とか)とは異なる、「モダニズム建築」。それは前者たちと「異なっている」ことに意義があるように機能を決められた用語である。

普遍性への道は、決定的に閉ざされている。致命的だ。

なにが懸念されるか。

ひとつは歴史的建築、近代建築、「モダニズム建築」といったものの根底となる建築概念を構築しようとしない結果、構築されないということであろう。構築しようとすれば、構築されるであろう。それは歴史的概念とは、事後的な編集であり、創意であり、創成だからである。しかし構築されないことで、ヨーロッパなどの建築概念に対して、まったく自己主張できない、存在感の薄いものとなるだろう。それは日本における批評の不在、といったものとなろう。

もうひとつは、建築(史)の自律性が失われることであろう。個別研究の堆積となり、いろんなことに活用されるであろうが、そこには歴史観の所有者としての建築史家・建築理論家の立場は脆弱になるであろう。

「モダニズム建築」が、歴史上のある建築群を囲い込む概念になって、セクト化、建築遺産の寡占化が進行するであろう。

おそらく近未来の建築学生が卒論や修論を書くときになって、これは近代でしょうか、モダニズムでしょうか、わかりません・・・、なんて頭を抱えることになるだろう。ぼくはそんな悩みが生産的とは思わない。ぜんぜん。

様式判定は総合的でむつかしい。とくに19世紀以降のものは基本的にはリバイバルであり、折衷主義であるから、ごちゃごちゃにまぜたものを識別するようなことは、普通の学生はやらないほうがいいくらいである。

・・・とまあ未来は悲観的だ。博愛主義のぼくとしては困りますが。

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2008.07.04

「巨大建築」と「偉大建築」

出張って楽しいなあ。仕事のあと山の上ホテルにある「ノンノン」でワイルドターキーなどをいただきながら、竹中工務店の萩原さんと建築談義をしたものです。

(1)まず「巨大建築」と「偉大建築」について

ル・コルビュジエがアメリカにいって、NYの摩天楼をみて、まだ小さいと、指摘した。ふつうそこに彼特有の含蓄、屈折、アイロニーがあるんだろうと考えますよね。一種の挑発行為だろうって。でもぼくは、ル・コルビュジエは率直にそう感じただけなんだ、という気がする。事実をそのまま述べただけ。なんのひねりもなく。

なにを根拠に?

ぼくもそう感じたから。アメリカにいったとき。

そうアメリカの建築は小さいものを積み上げて大きくしただけなのだ。こんな大きさは、ほんとうの大きさではありません。

コールハースがいう「ビッグネス」ってそんなもんだろうね。サイズの大きさ。それはそれですごい。でも、サイズがある段階を越えると、中身と関係なくなる、なんていうのは、近代的な計画的な理念からするとそう思えるだけ。では近代以前の感性からすると、事態はまったく別なんだな。問題はぼくたちが、するりと近代的感性を脱げないこと。近代というなら、まさにそんなこと、いともたやすくできなきゃあ。ねえ。

つまり「巨大建築」っていうときに、はいなんメートル、はいなん立米、といったサイズ的、数値的大きさのことばかりいっていたのさ。だから日本語の「巨大建築」などというものは概念としてすでに矮小的になっている。だから別の言葉をさがさなきゃ。だから「偉大建築」。

なんとなくわかりますよ。おっしゃりたいのは。ラスキンの「犠牲の燈」なんてことでしょう。つまり尊い犠牲のうえにたった建築は、気高く、立派で、大きい。これこそ「偉大」ですね。ゴシック大聖堂などは、民衆の冨と財力を捧げた、ある種の犠牲建築ですよね。それが悲惨さではなく、偉大さとなってあらわれているという。

そうです。スターリン建築のことではありません。あ、そこにもひょっとしたら犠牲の燈はあるかもしれませんが、そんなブラックなことまでは言いません。偉大建築とはいいかえれば不条理建築かもしれない。時代が変わるとなぜあんなものをつくったか、わからなくなってしまう。しかし最近世界中で建設されている超高層建築のように、費用対効果が計算済みで、世界で浮遊している資本がこれだけあって、こうれだけ投資すれば、こんだけリターンがあって、など金融工学の上で正当性がちゃんと証明できちゃうと、どんな大きなものをつくったって驚かないですよ。

つまり高さ3キロのビルだって合理性を説明されたとたん、フツーになってしまう。しかしそれが狂気のなせるわざなら、ある種の感動がある。それが偉大建築である。まあ、そんなとこかな。

でも具体的にはどんな例があるの?

偉大建築の例としては、もちろん古代ローマ建築。そこまでいかなくとも、ムガール帝国、サファビー朝の建築、などは偉大ですねえ。でもいまは偉大が生まれない構図がある。つまり犠牲はでないの。すべて計算済みだから。そもそも犠牲なんてのは、計算ができない時代の概念だから。それに「メモリアル」なんてジャンルが独立したでしょ。かつては建築がメモリアルにもなったわけ。でも建築とメモリアルは別のジャンルになってしまった。

磯崎新さんが北京につくった大建築はちょっとスターリングっぽいけど、あれなんかは追悼的な偉大建築にはならない?

うーん、どうでしょ。よくわからないけど。でもあの世代の人にとっての偉大建築は、まず東大寺南大門であったことは確か。岸田日出刀の『過去の構成』のなかで再評価されたのがはじまりでしょうね。戦前のモダン派は南大門を一種のモダンとみなしていた。まず単純に大きい。構造的に合理的であろうとした。大陸的な普遍的論理に支えられているかのように見える。さらに後年、伊藤ていじさんは、重源による「犠牲の燈」的なバックグラウンドを描いた。でも20世紀にはもう偉大建築はつくれなくなったのではないの。せいぜい代々木オリンピックプールくらい。あれは建築家そのもののモニュメント。建築家の片思い的な犠牲精神が奇跡を呼んで、本物の建築をつくってしまった。

そうかあ。

そうかあって?

ということはこれからは建築家自身が犠牲になるしかないってことですね。建築家は殉教者。建築教の殉教者。それが偉大建築への最後の道。

・・・もう一杯いく?

(2)モダンについて

で、モダンなんだけれど。最近の「モダニズム建築」なんてのは論外だけど、恐ろしいことには、世代的に支持されてしまうと、それが既成事実化しかねないね。

その可能性はじゅうぶんあるね。

でもモダンはひとつではなかった。出会いがモダン。葛藤がモダン。

いきなりきますね。そのココロは?

ヴォーリンガーの『抽象と感情移入』ですよ。ヨーロッパではヒューマニズムの伝統があって、そこから逃れられない。だからフランスなんかでは、抽象芸術といってもあくまで実験であり、思索であり、ある枠のなかでしかできない。オランダやドイツなどでは、その枠がすこし大きくなり、社会的実践にまで拡大する。でもヨーロッパの抽象主義はあくまで実験だったから意味があった。しかし本当の抽象とは、東方的なものです。東欧、さらにはビザンチン、そして完全なる抽象はイスラム、オリエント、です。だからモダンというのは、出会いなのです。ヒューマン/幾何学、という絶対に折り合えないものの出会い。ジャポニスムだって、奥行きのヨーロッパと、平面の日本、という両立絶対不可能なものの出会いなのですよ。もちろん表面的な模倣だとか、なんとかもどき、なんとかのふりはできます。でも絶対両立不可能なものの出会いという状況そのものが、モダンなんだなあ。

するとロートレアモンなんか典型的にそうですね。あたりまえだけど。

あたりまえだけど、そうですね。

それと同じように東大寺南大門?

そう。日本、大陸、近代合理主義っていうあり得ない異種交配が、観念のなかで、核融合的にスパークしたのですよ。

でもザハとか、イスラムのバックグランドから建築家がでてきますよね。

文明のコントロールされた衝突。遠くからは演出されるようにみえる。ぼくたちは観客でしかないから。

大人の見方ですねえ。

いやいや。

(3)建築のセクト化について

葛藤こそがモダンだということで、モダンが一枚岩でないほうが、いろいろストーリーを書くことができて、面白そうですね。それこそが偉大。でもそうすると、偉大が生まれるのは、ヨーロッパや日本などいわゆる先進国より、それ以外の国ですかね。通俗的合理主義は、偉大さをなくして、平板なアナクロニックな巨大建築を生んでいきますからね。

そうですね。未発見の20世紀なんてあるそうですから。ぼくはよく知りませんけど。かなりの偉大建築が残っているそうですよ。著名写真家やジャーナリストの指摘によれば。

それは楽しみですね。

でもそれを考えると長谷川さんの『神殿と獄舎』なんか、けっこう偉大ではないですか。20世紀においては。

いかがなもんでしょうね。神殿も獄舎も、犠牲の燈で照らせば、偉大でありえます。しかしあれって、明治と大正に言い換えてしまうと、国策と庶民の話になっちゃって、TとWの違いにしかならいのではないの?そうならないようにしていただきたい。

そうならないようにいたしましょう。

でもグローバリズムのほんとうに怖いことは、これまでにような「外圧」にならないのではないか、ということですね。外圧というのは、内部の構図をいっかい壊して初期化することにたいへん大きな意義があったんですよね。でも昨今のグローバル化は、ぼくもまだ理論化していませんが、むしろセクト化を推進してしまうようなヴェクトルがあるとしたら?

なら怖いですね。

怖いですね。

(注)でそのあとは、AはB大とC大の代理戦争として成立しているとか、D大は純血とそうでないので2大セクトがあるとか、EさんをFさんはすごく意識しているとか、GはHを大嫌いらしいとか、おじさんふたりは酔っぱらい話しを延々つづけました。でも、ちゃんとお会計を済ませておひらきにしました。ということで今回の報告は終わり。

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2008.07.02

『アフターダーク』を読んで(デタッチメント論のつづきでもあるが)

湯島で萩原さんと食事した。二次会は山の上ホテルのバー。が、この建築談義は次回に。

行き帰りの田園都市線/半蔵門線(ぼくはこのメトロが好きだ)で、ずいぶんと旬は過ぎていますが、村上春樹の『アフターダーク』を読んだ。夜、そしてほとんど地下鉄のなか、運良く座れて周囲の乗客にほとんど気をつかうこともなし、という読書環境。小説の内容にまことにふさわしい。

WEBのどこをみても悪評だらけである。この小説は。がっかり、最悪、とまである。・・・そうかなあ。

ある都市の、おそらく東京の、23時56分から6時52分までという一夜におこった出来事。あるいは出来事たち。まずラブホで傷害事件がおこり、殴られた中国人少女を助けるために、カオルはたまたま知っているタカハシを呼び、彼は、偶然に声をかけた主人公が中国語ができるということで、マリに来てもらう。彼女は彼女で昏睡状態の姉への屈折した思いをかかえていた。タカハシは家族が崩壊していて、夜の音楽へ逃避していた。ラブホ従業員たちも背景を抱えていた。外国人シンジケートは傷害事件の犯人のITプロ・シラカワを探すが見つからない。傷害の当事者シラカワはシラカワで・・・・。

というようにこれは従来のパラレルワールドとはすこし違い、なん人かの登場人物が、それぞれ物語をかかえ、この一夜のなかで、すれ違い交差する。たがいに無関係であったはずの彼ら、あるいは無関係であるはずの物語が、軽く接触し、関連づけられそうで、また離れてゆく、逃げる人、追いかける人、しかしつかまらない、というメタ物語である。あるいは物語のブラウン運動である。

ぼくの興味はきわめて偏っているし読書歴はとてもプアなので、文学的文脈では評価する能力がない。だから建築的理解、という摩訶不思議なこととしてやるのだけれど。

つまり『アフターダーク』においては空間が描けている。だからぼく的には面白かった、という評価をするのである。

空間とはなにか?それはふたつ以上の事物が、関係をもつこともできるし、無関係でもいられるような、そんな関係のあり方である。あるいは複数の物語が、おたがいに主であり従であり、立場を変えながら、関係をときどきもちながら、しかしそれぞれ自立的に展開している状況である。だからそれを、強引だとはわかっているけれど、「デタッチメント」論に引き寄せてみようというわけだ。

これは一夜のできごとである。朝、明るくなり「次の闇が訪れるまで、まだ時間はある。」で終わっている。だから昼間は描かれていない。それは次の闇までの待ち時間にすぎない。

でもぼくの想像では、昼=コミットメント、夜=デタッチメント、という対比からなっている。

昼間は、人びとはそれぞれ仕事をし、家庭をし、勉強をするのであって、同僚たち、家族、友人たちと、空間を共有する。これは習慣としてあるいは指示されてするものでもあるが、いちおうコミットメントの世界である。でも夜は、昼間の関係性をいちどほぐし、ばらばらにし、しばらくほっておくことがゆるされる。

いやむしろコミットメント/デタッチメントの比喩として、昼/夜が使われているのであろう。社会的制度としての24時間制の話しをしているのではないのだ。

登場人物たちが、みずからデタッチし、逃避し、姿をかくし、昏睡し、アリバイ工作をし、代償行為をする。それらすべてはデタッチメントの行為である。しかしこのデタッチメントは、自らの意志にかかわらず、他のデタッチメントに少し触れ、方向がずれ、ごくわずかにゆがみ、変色しているかのようだ。

複数の視点。「私たち」は仮想の読者であり、この「私たち」が物語をのぞくという、映画仕立ての仕組みになっている。しかしそれだけではない。実際はほとんど登場してこない外国人シンジケートも、少女がなくした携帯をメディアとして、少女を殴打した男にむけたつもりで、「わたしたち」から逃れることはできない、と平板に語り続ける。

この「私たち」は、特定されていない一人称複数である。しかし「わたしたち」もまた特定されていない一人称複数なのだ。それらに相似性、相互互換性、構造的一致はないのだろうか。「私たち」が世界をウエッブカメラでのぞいているように、「わたしたち」も別の穴から世界をのぞいている。世界を読んでゆく別の眼球はたしかに存在する。物語はそれを示唆しつつ、読者を宙づりにして去って行く。読者が、作中人物に話しかける、ということを物語化する手法が開発されようとしている。

想像をたくましくすれば、これは物語(群)を眺める物語(群)なのである。メタストーリーの「メタ」はそういう意味だろう。だから「私たち」である。私も、私たちも、物語りなのである。私は粒子であり、私たちは粒子群であるが、この粒子は、分子や原子をそのメタファーとして使うべきではなく、物語こそが暗喩となるべきものなのだ。あるひとりの「私」はすでに物語の束であり、その束として粒子なのである。その物語束がさらに複数集まって、上位の束となる・・・。

この宇宙を描くのに単線的なストーリーではいけない。しかし列挙してもしかたない。だからまず時計に表象される時間の流れに戻す。それを切り取る。23時56分から6時52分まで。スチレンカッターで、スチレンボードを、力もいれず、材料をそっと平行にうごかして、やさしく、でもシャープに切り取るように。

だからそこに見えるのはストーリーではない。断面である。崩落によって地層があらわに見えるような、地中の闇にあったものが、奇跡によって見えてしまうような、断面なのである。

『アフターダーク』のなかで唯一ぼくが物語的であると感じるのは、エレベーターの逸話である。マリと姉エリは故障したエレベーターに閉じこめられ、完全な闇に包まれる。その間、姉が妹を励ましつづける。マリの回想のなかでは、いちばん深い姉妹の絆であった。この回想が最後に書かれているのが示唆的だ。闇中の闇、闇の入れ子構造である。ただ物語としてはふっきれていない。「エレベータ」はむしろ小説全体を縮小した模型のようなものである。それが解説的に書かれているのがすこし不満だ。

そうではない。因果関係をたんねんに追跡することが求められているのではない。象徴的な意味を、関連づけ、べつの体系を示すことも、さほど重要ではないだろう。

都市という迷宮から、終わりのない時間のなかから、そっと、なめらかに、しかしシャープに、切り取られたこの断面。その生々しい素材感と、構造を一望できる新鮮な視点。この断面のゆえに、ぼくはこの小説は建築的にできている、と感想を述べるのである。建築を設計し、プランを描くが、そのなかでセクションだけが、ことなる複数の空間や時間をおなじ平面上に示し、無関係であるはずのものたちを共時的に眺めることを可能とする。物語を物語群とするにはこのようなメタ物語が必要なのだろうか。

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