日曜日は教会にいこう!・・・というわけで美野島教会となぜかロリアン市のノートル=ダム教会
授業のひとつとして美野島教会にいった。といっても引率の先生としてではなく、むしろぼくは学生たちにくっついていったほうなのだが。
築90年くらいらしい教会堂(いちど移築された)、もと付属幼稚園であったNPO活動施設、司祭館と、いろいろ複合的である。
今の司教さまが15年前に来日していらい、いろいろな社会活動に貢献している。外国人労働者たちの、生活、滞在許可、医療、教育、などさまざま面にかかわる支援。もちろん日曜のミサもふくめて。それからホームレスのための炊き出しなど。
この炊き出し活動もいろいろ面白かった。彼らは携帯もインターネットもないが、炊き出しの日についての情報など、あっというまに広がるのだそうな。口コミの力である。また炊き出しについては、当局は好意的ではなく、むしろ容認してやっているという態度なのだそうだ。
ぼくは20年前、コルーシュというフランスのコメディアンが始めた「心のレストラン」というのを目撃しているし、炊き出し活動がもともと教会活動でありながらいかに社会的広がりを見せているかを知っている。またそもそも教会が、かつて社会的住宅など、人びとの生活にいかに介入しているかを多少は知っている。
だからぼくは、ああこの司祭さまはフランスでやっていたことを、日本でも普通に継続しているのだな、という印象である。
飛び入り参加のぼくだったので、準備がまったくなく、スピーチでもほとんどしゃべれなかった。こんなこともしゃべればよかった。
・・・・いまでは教会は狭い意味での、心の問題にかかわっている。しかし中世においては、社会のすべてに関わっていた。都市のそれぞれの町には教会があった、いや教会を中心として、地域がつくられていた。だから人は生まれると、教会に出生届けを出し、洗礼を受け、結婚式を挙げるだけでなく婚姻届けを出し(今日でも2重届出制と聞くが確認はしていない)、最後は死亡届けを出して、埋葬される。
しかし近代国家は、社会を徹底的に世俗化した。だから教会は心の問題だけをゆだねられるようになった。それ以外は、教育も、結婚も、世俗のものとなった。
しかし人間は、心だけを抽出してそれ単独でどうこうできるものでもない。またひとりひとり個別にどうこうできるものではない。集団としての人間を救済しなくてはならない。教会の社会的存在とは、世俗化した社会であるからこそ、改めて問われるべき性格なのだ。
・・・・といったことです。
で、帰宅してからぼくの演習の準備なんかをする。ロリアンのノートル=ダム=ド=ヴィクトワール教会の写真をどうこうしていたら、気づくべきことにやっと気づいた。
これはビザンチン様式の近代化である。つまりドーム形式の教会堂の系譜であるが、イスタンブールのハギア=ソフィア聖堂、ヴェネツィアのサン=マルコ聖堂、南フランスはペリグーのサン=フロン教会というように、中世においてドーム式の教会堂の系譜がみられる、というのはぼくの授業でも定番にようにやっている。
さらにいえば19世紀末にできたパリのサクレ=クール教会堂はそのリバイバルである。またRC構造によるビザンチン建築もどきの教会も、パリ市内にある。
しかしロリアンという地方にもあったのである。いかにこのビザンチン・リバイバルが広まっていたかを再確認することとなった。
▼まずイスタンブールのハギア=ソフィア聖堂
▼サン=マルコは省略。ぼくの講義をきいてください。
▼ペリグーのサン=フロン教会
▼パリのサクレ=クール教会堂
▼ロリアンのノートル=ダム=ド=ヴィクトワール教会
ドームは、ルネサンス建築では頂上からの採光だが、ここでは下部のリング状部分からの採光である。
フランス近代には、ペレによるルランシーの教会のようなあきらかにゴシックの系統と思われるものもあるし、ル・コルビュジエによる彫塑的大空間もあるし、もちろん19世紀後半のロマネスク・リバイバルもある。しかしこのロリアンの例は、リバイバルというには遠ざかりすぎているが、それでもビザンチン建築抜きには考えられない。
さらによくよく考えれば、美野島教会とロリアンのそれは、ほとんど同時代のはずです。最大時差10年といったところだろうか(史料が見つからず、すみません)。
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