ウイークデイのような週末
この週末はてんこ盛りであった。
土曜日は、ある大集会があって、講演を拝聴したり、いろいろ。
まずK先生の講演。アメリカに留学、ロンドンで仕事をしていたが、急遽日本に呼び戻されて、大学教授になった40年前の話から。そのころの日本の鎖国的・二等国的状況から、国の本省の自己植民地化政策的状況から、いろいろなお話。昔話とは思えない。じつは今の社会も、20~30年もすればかなり危うい逸話でいっぱいであろうことを、うすうす感じ始めているからだ。
とはいえあと10年で50年、「戦後」のほんとうの精算がなされるであろうね。
立食パーティではK先生と脊椎の話しで盛り上がる。直立歩行の人類の宿命とはいえ、つらいものはつらい。
ながらく続いてきた卒計展の存続に赤信号らしい。いろいろやってきたので整理整頓の時期ではあるだろう。
立ち話もそこそこ、軟弱なぼくはイスにすわって安楽姿勢。学生にいろいろ話しかけられる。頑張らない、購買意欲のない、将来の目的のない今の若者について率直に語る。ぼくが驚いたのは、あまりに話しが通じてしまうこと。つまり彼らもけっこう、自覚的なのである。
環境、文化遺産など今の国策についても、若者は認識しながら、まったく興味を示していないのも、予想どおりであった。この国策で救済されるのは、団塊世代と団塊ジュニア世代なのであって、今の若者は救済されえないこともはっきりした(ような気がした)。
持ち家政策はもう若者にとって人生の目的にはならない。美しい日本も、世界遺産も、大人たちの小賢しいキャッチコピーであることにも気づいている。しかし間違いなく、あと20年すれば彼らが主役となる社会ができる。ぼくは生身の若者たちを考えた方が、将来の社会を考えられるのだと気づいた。将来の社会像をねつ造して若者たちを押し込めるのではなく。
それにしても待ち人来たらず。お忙しのようです。
日曜日は、午前中プールで泳ぐ。カロリー消費のためでもある。
13時からは設計課題の最終講評。T工務店のH部長を非常勤講師にお呼びしての4週間課題である。
内容そのものはHさんの企業秘密なので説明しません。ただぼくのコンセプトは、メトロポリタン的環境のなかでの設計、というもの。抽象的な概念から出発し、空間図式を構想し、それを現実の都市のなかに挿入してゆくというもの。
課題は、そのプロセスが面白かった。第1~3週は、日本人学生が10数名ほどいた。留学生はゼロで、すこしがっかりした。4年生の選択科目なので、少ないのは致し方ない。課題はハードである。単位取得のノルマから解放されている学生はどんどん脱落する。
しかし週が進むにつれ、留学生が増えてくる。最終的には、講評に出品したのは、留学生6人(パリから2名、ボルドーから2名、ロサンゼルスから2名)、日本人4名、であった。すっかり逆転していた。
Hさんの課題内容が普遍的であったことがひとつ。もうひとつはHさんが用意したA4数ページにわたる趣意書を、ぼくが全部英訳して留学生に渡したのである(親切でしょ)。
プロジェクトの中身は、圧倒的に留学生たちの勝ちであった。日本人学生はまだコンセプトすら立ち上がってなく、うろうろしている状況であった。
なぜこうか?70年代にも磯崎新は日本の建築教育の惨状を憂えていたし、のちの時代になっても伊東豊雄は学生の社会性のなさを指摘していた。日本の実力はこんなもんかもしれない。ぼくは、状況はますますひどくなっているようにも感じられる。
具体的にいうと、
まずボリュームで考えられない。課題はしかじかの立米のボリュームを、この都市空間のなかに配置すること、というのが大前提であった。しかし粘土やそのほかの素材で、ともかくもそのボリュームを模型のなかに入れてみて、考えてみるということをやった日本人はひとりもいなかった。これはある意味、致命的である。
もうひとつはコンセプトづくりが、自分の心象風景の積み上げでしかなく、それが社会や都市という機構のなかで、操作可能であるための仕組みを考えていない、ということである。ようするに私小説的であるということ。都市は個人の集合であるが、都市の都市たるゆえんは、個人のなかにはなく、それらの集合のさせかたにある。その発想ができない。
ひとことでいうと「全体」がつかめない、ということである。
もうひとつは学生が、教師を頼りすぎているということである。留学生たちは戦略的、行動的である。しかし日本人たちは、先生にしかってもらいたい、導いてもらいたい、という弱さがみえみえである。そりゃあいろいろアドバイスしますよ。でも「君の」方針を見たいんですけど。
というわけで講評ののち、Hさんたちとパスタ屋で生ビールで打ちあげ。世間話で盛り上がる。でもまあ片田舎で、アメリカ人2名、フランス人4名、日本人4名の多国籍建築講評ができるなんて、すこしまえまで想像できなかったことですけどね。そしていったん実現されると、そのときからフツーになる。
さて月曜日は、D論会合、打ち合わせ、授業、ゼミでやはり一日びっしり。ゼミは、研究というよりは、若者の自分探しの旅につきあうようなもの。それはそれで大切なのだが、現代思想の人もいっているのだが、自分のなかに自分は見つからない。他者のなかにこそ自分はある。
それから学生との世代ギャップなのかどうか。彼らの読書発表を聞いていると、ああ人間はこんなにいとも簡単に書物を信じ込んでしまうんだ、という驚きと衝撃でクラクラするのである。というか「疑う」ことをしない。人のいうことでしょ、人の書くことでしょ、といった距離感がまったくないのだ。
ようするに「方法論的懐疑」なんてまったくない(ということは近代以前的な)人びと。それを見て茫然自失するおじさん。とてもシュールな体験であった。
なので休日の疲労はとれず。今日ははやく帰宅しよっと。
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