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2008.06.15

西へ東へ、平戸へ九重へ

6月13日(金)

3年生の設計課題にとってのフィールドである平戸に、日帰りサーベイの強行軍。往路3時間、現地滞在4時間、復路3時間のハードスケジュール。大型バスをチャーターして一行約50人の遠足である。

もちろんあらゆるディテールをじっくりというわけにはいかない。しかしコンパクトな町なら2~3時間の散策と観察で、本質を見抜けなければならない。少なくとも見抜こうとテンションをとことん高めなければならない。

というわけで、先週は1時間をつかって平戸略史を説明し、車中では西先生の『海・建築・日本人』の関連ページのコピーを渡して、簡単な解説をする。

事前に解説してあるので、現地では完全に自由行動、自主責任行動、である。ぼくは他の先生お二方を案内し、オランダ商館跡地、松浦史料博物館、平戸教会、中心街を連れて歩く。

▽写真だが、左から。(1)唐津経由のルート。海が見えて楽しい。道の駅では、海産物のおみやげをたくさん買う。(2)生け垣が、みごとな景観を演出。(3)平戸市内の眺め。(4)レンタサイクルで市内をサーベイする学生たち。偉い。

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市役所に呼ばれていたので、教育委員会の人と、プロジェクトや文化財政策などについて意見交換をする。

オランダ商館の復元について。これから予算措置がなされ、復元がなされるそうだ。なぜ17世紀にここから長崎に移転されたか。ぼくの考えでは、内陸性カソリック国家フランスが、海外通商プロテスタント都市国家ラ・ロシェルを徹底的に弾圧したように、幕府は、平戸が独立した都市国家に成長する芽を摘もうとした。しかし市の人は、長崎の出島がカラになったので、オランダ人を移しただけ、合理的経済政策のため、という。そうかなあ。交易拠点を合理的判断で移したというのは、やはり一国史観だとおもう。通商→植民地化、というヨーロッパ/アジアの決まったパターンを考えれば、やはり戦略的なことが大きかったのであろうと思う。

もうひとつ、平戸はほんとうに海を見ていたのか?という疑問。海を活用したといっても、藩主が海を使って移動しただけ。海沿いの町屋も海から直接物資を荷揚げした、といっても、基本的には町屋の生活は街路に面して展開される。

町民にとっては、海は勝手口である。ロジスティクスが、ひとつの港湾施設を経由してなされるのではなく、各民家がそれぞれ海(船)から物資を補給していた。リゾーム的でおもしろい。しかしそれを、海を見ていた、とはいえない。

海岸通りは戦後の埋め立てである。公共空間が海の面するのはそれがはじめてである。だから海岸通り沿いのファサードには「町並み」が形成されていない。それはあったものが失われたのではなく、最初からなかったのだ。

だから海をみていた、とはいえませんよね、とぼくは指摘した。そうでしょうね、という市の人の感想であった。

平戸を出て、田平教会を覗く。4月に訪れていたときにはあった足場がはずれていて、修復も終わったもよう。ぼくの見立てでは、内部は、ノルマンディー地方のロマネスク建築で、ゴシック誕生の直前の様式にちかい。鉄川は、おそらくしっかりしたお手本に基づいて設計したのではないか。しかもお手本を、3分の2とか、ある割合で縮小しているような気がする。プロポーション、空間構成(断面)などは原型に忠実だが、空間がちいさい、天井が低いのである。

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帰宅。道の駅で買ったさより一夜干しでご飯をいただく。ビールがおいしい。

6月14日(土)

こんどはワゴン車をチャーターして研究室とH大学T先生ご一行とぼくの研究室7名で、福岡を出発。

大分県九重の合宿研修所に1時過ぎに到着。

修論中間発表で、学生たちが発表し、先生たちがご指導(ご批判)する。それにしてもきびしかったなあ。ぼくなら数週間は落ち込むだろうね。この発表会が6時まで続く。

夕食後、7時から懇親会。といっても畳の大広間でのコンパである。

各大学・研究室ごとの自己紹介。ぼくは学生に自己紹介させ、簡単なメッセージ。2点ある。

(1)研究の精度を上げるのはもちろん必要だが、歴史が歴史であるのは、歴史観があるからこそ。そういういみで、今の建築史研究には、「物語を書く」という指向が少ないのではないか。ひとつの大きな流れ、個々の事例を超えた上位の枠組みを、構想し、描くのである。個々の事例はそれがないと生き生きしない。ぼくはどうやったら「物語を書く」ことができるのか、ぼく自身の課題として、挑戦したいと思っている。

(2)ぼくは学生のころ、先生に面と向かって教えていただいたことはほとんどなかった。先生はあまりに偉大であった。ぼくは先生の背中をみて、学習した。そしてぼくも先生の年齢に近づきつつある今、学生を背中で教えることが、ぼくにもできるのだろうか、と自問自答している。背中だけですべてを教えることは今の時代では非現実的だが、そういう部分も必要だと思うのだ。

などと放言する。あとはKy大S先生、Ku大I先生、Ka大K先生、KS大E先生、S大H先生などとあれやこれやと話し合う。途中抜け出して温泉に入り、またもどってビール、雑談、叱咤激励(学生は迷惑でしょうねえ)。12時すぎたので寝ました。最近は行いが正しくなった。

6月15日(日)

H大学T先生の講演。アジア的広がりのなかでの町屋というテーマである。主に中国の都市住宅に、日本の町屋概念を投影して、日中の都市住宅の比較をおこなっていた。さらには日本の近代化は、アジア経由でヨーロッパ文明が伝わった。だから日本近代にはアジア的ネットワークが機構的にインプットされているという指摘は面白かった。

たんなる国際比較、インターナショナルなものの提示、ということにとどまらず東シナ海をメディアとするリージョン、実体的というより関係性的ネットワークにより成り立つリージョンを描いているようで、とても刺激を受けた。

昨晩ぼくがいった「物語を書く」ということ、その背景として大きな枠組みを描くと言うこと、そういうことをちゃんと実践している研究者がいるのであるから、見倣わねばなりませんね。

もう20年くらいまえ、先輩研究者と、ブローデルの『地中海』について論じたことがあった。国や、民族や、時代や、技術的限界を超えて、不変な構造としての、あるいはネットワークのメディアとしての地中海。そんなものを日本から構想できるとしたら、たとえば東シナ海でしょうね、などと放談していたことを思い出した。

そのとき考えたことに近いことを実際にやっている研究者がいたということである。

さて天気は雨。ソフトボール大会は中止になり、早めに解散。

ぼくたちとT先生らは、藤森先生設計の「ラムネ温泉」に直行(途中で迷ったが)。藤森先生の建築は、手、あるいは身体の痕跡を残そうとするものである。あるいは身体を反映していると思える建築である。だから大規模建築にはこの方法論は難しい。建築が巨大化すると、この方法論でできるのはインテリアか、外構の細部であろう。解決法としては、細部が集積した町並みのような大規模建築を造る、ということであろう。あるいはガウディになるか、である。大聖堂のスケールまでなら、可能なのである。

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とはいってもいたって世俗的なぼくたちは、ゆっくり温泉につかり、ギャラリーの絵を楽しみ、食事をし、おじさんたちだけ特権ビールを飲んだ(学生のみなさん、ごめんね)。そしてぼくたちはT先生ご一行をバス停までお見送りして、お別れしたのであった。

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