石山修武はコミットメント世代の建築家である
出張ついでに世田谷美術館にいった。そこで『建築がみる夢 石山修武と12の物語』展を見た。
感慨深かった。石山さんについては、1975年の《幻庵》から知っているつもりでいた。もちろん忠実な追っかけではない。関心はそれほど持続していない。だから展覧会はそれだけ驚きがあった。つまり、当然のことながら、かつて、彼はラディカルであり思想を訴えていた。しかし展覧会は、あたりまえのこと、ひとつの達成であり、長い活動をとおしてできた建築家象への素朴なオマージュであった。それは世田谷のお上品な市民たちが、余裕をもって知性で愛でる才能なのであった。とくに政党的なつながりのない市民団体が、途上国に小学校を建設するために、いろいろ活動している、そんな市民もいるであろう人びとに囲まれて、石山さんはひどく座りがよかった。
ぼくは建築史家でありつづけたい。だから近い将来、歴史を書くとしたら、この建築家をどう位置づけるのであろうか、と考える。展覧会を見るときに、基本的にはこのことだけを考える。あとはそのための組み立てである。
結論を出すこともない。しかしいくつか補助線を引いてみよう。
(1)コミットメントの世代である
コミットメント。サルトルならアンガージュマンという。参加、である。《ひろしまハウス》は、市民による平和運動がきっかけであるようだ。いろんな市民が、ボランティアがコミットメントして、レンガを積んだり、三輪車をこしらえたりしている、コミットメントを集大成したような建築である。
この《ひろしまハウス》はポルポト政権下で1970年代後半におこった悲劇のメモリアルである。とうぜん、ぼくもそのことに無関心ではいられない。1950年代、パリに留学していたのちにクメール・ルージュの指導者となるブルジョワたちが、スターリン主義と毛沢東主義を学ぶ。機械的粛正、反都市思想、農村回帰、など。ひとつの思想として整合するのかはべつにして、そこには反近代の姿勢がはっきりしている。
とうじのパリはナチスから解放されたばかりであったが、そのフランス人たち自身ですら、強大なソ連、そしてスターリンの権威のまえで、共産党に入党したり、共産主義に傾斜する傾向があった。ソ連軍が侵攻したあとに、粛正されないためである。この悪夢シナリオは日本人としては実感がわかない。しかしベルリンの壁が崩壊する直前まで、フランスのメディアは「ソ連の戦車」が押し寄せてきたらどうするんだ、という表現をためらわず使っていた。
ポルポトの悲劇は、パリで仕込んだ先進的な思想を、まったくそのまま、なんの媒介もなく実現しようとしたことであった。成熟した産業化社会ではじめて有効な理論を、近代化への助走すらない地域で実現しようとした。彼らはとことんシリアスであったろう。そしてシリアスであるだけ、悲劇は大きくなった。
ぼくが《ひろしまハウス》の現場に立つことはないだろうから、遠くから想像するだけなのだが、これに関わっている人びとは、たんなる人道主義ではないであろう。それは1970年代後半の悲劇が、1950年代パリでの学習の結果であることを知りながら、ときに指導者のパラノイアゆえにと故意に短絡して説明しようとするフランス人の屈折した説明と同じようなものである(のではないか)。ポルポトとの地下水脈での関連性。そのことを感じているからこそ、コミットメントするのであろう。
それは思想が行為にそのまま直結してしまうときに発生しうる悲劇、なのだ。両者のあいだになにも媒介するものがないときに、生身の人間に、岩石が衝突してくるように、思想などというものがふりかかってしまう、その悲劇である。
コミットメントの世代は、経験によってそのことの重大さを知っている。だから《ひろしまハイス》に関わる人びとは、内なる悲劇に動かされてそうしているのであろう。人さまの悲劇に第三者として同情しているのではない。みずからの悲劇と知っているのだ。そして彼らの関わり合い方は、とても間接的な、ソフトなものであり、思いの投げかけ方であるはずだ。思想と工作の無媒介な結合などではない。絶対に。
(2)自給自足
ああ70年代、である。セルフエイド、セルフビルド、中間技術、エネルギー・水・空気などの自活、エコロジー、ビルディングトゥギャザー、地域主義、地方の時代、などなど。すべて70年代のアイディアだ。
石山さんを賞賛しているのは、これら70年代思想を生きた世代である。
しかし彼は、下の世代から、さほど批判されていないような気がする。批判しろといっているのではない。団塊ジュニアたちは、団塊世代の思想と、親たちがつくったいまの政策にすこぶる忠実である。彼らはむしろ行政にべったりくっついている。ということは国策べったり、ということである。
(3)世間の形成
これは日本社会ではしかたないのだろうか。外国の人が、日本ではもう建築批評はない、と指摘しているという。これは書ける人がいないのではなく、書く場がなくなっているからだと思う。つまりパブリックな論の展開場はない。メディア、雑誌など、それぞれが審級をもち、それに抵触するものは排除される。
これはセクトとまではいかない。しかしすでに公共空間ではない。建築的「世間」の形成であろう。世間は複数ある。石山さんたちはそのひとつを形成してきた。ただ社会的にも受け入れられ、ある力となっている。
(4)石山修武さんそのものが作品となり、事件となる。
磯崎新さんは展覧会オープニングの挨拶で、石山さんの建築はむしろ事件をつくることにある、という指摘をしていた。世田谷村もシンボリックな通路である、などとも。もちろんこれもアクションペインティングだの、アクシデントだの、昔の芸術にすでにあった理念ではある。
ゲーム性をもちこむことが必要なようだ。
磯崎さん自身、作品+著作というパッケージで建築を展開している。ル・コルビュジエは「マニフェスト+建築」であったが、それとも違う。むしろゲームとその攻略本の組み合わせであって、ぼくのような建築界の末端人間はその啓蒙的恩恵に浴するのではあるが、ときどき違和感を感じることはある。
(5)作風
石山さんの建築で、やはりいいのは《幻庵》や《開拓者の家》など、ふわっとしたものである。コルゲート管をつかった住居は、もちろん大地に固定されてはいるが、基礎をつくり、土台をおいて、といったしっかりと敷地に繋留されているような印象は与えない。常設/仮説ということではない。そっと置かれた異物が、しかしまわりと対話をはじめ、独特のなじみ方をしている。そんな印象を与える建築が、彼の真骨頂ではないか。
そうしたソフトな異化の仕方が、おもしろい。《伊豆の長八》も左官技術のベタな復刻ではなく、すこしずつずらしている。ベタではなく、すこしメタ概念が見える。そのなにがメタであるかがはっきりすれば、石山さんを歴史的に位置づけて叙述できるようになるであろう。
(6)ふたたびコミットメント
思想だのコミットメントなどというのは、本来はうっとうしいものだ。人は平凡な日常を生きて、なにが悪いのだろう。石山さんの建築が、もし世代を超えて評価されるとしたら、「思想→建築」の機械的・直線的な変換ではないはずだ。両者のあいだになにかが、しっかり介在している。それはとりあえず味、趣味、芸などというものかもしれない。しかしそれをすこし普遍化して論じることができれば、それは建築史家の仕事ということになるであろう。
いかなる偉大な思想でも、それをベタに機械的に実現しようとすると悲劇が発生する、というのが20世紀に得た経験則であり知恵である。媒介が必要だ。それを建築家として実践すること。あるいは建築家が媒体、媒介、そのものとなること。そんな構図が見えてくる。思想と建築のあいだに、第三者的な、しかしなにかしっかりしたものが介在する。それが建築家が建築家であるゆえんであるはずだ。
石山さんは思想と建築をなにが媒介するかを、なにが媒介すべきかを、だれよりも知っているのだ。そしておそらく、彼の30歳代前半におこったカンボジアの悲劇の根源を、知っているのだ。
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