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2008年6月の8件の記事

2008.06.29

青木淳は「デタッチメント」世代に属するのであろう

1956年~1965年生まれの人びとは「デタッチメント」の世代に属するらしい。

この概念も村上春樹が震源地らしいが、ほんのちょっとだけ広がっているようだ。すこし上の世代が学生運動やら反体制運動に「コミットメント」しすぎたので、それへの嫌悪感から、あるいは違和感から、無関係、無関心を装う世代となった、という解説である。あまりいい意味ではない。

まあそのとおりであろう。

出張ついでに竹橋で『建築がうまれるとき ペーター・メルクリと青木淳』展をみて、この話しを思い出した。そしていい意味でのデタッチメントがありうるとも思った。

M邸のスタディ模型がたくさん展示されていた。それは日常の設計である。設計活動が日常的になされれている、という意味ではない。日常そのものを構築するための設計である。

その「日常」は、こんなにもパラメーターが多い。プランニングの常套、外部、中庭、窓からの見え方、さまざまな現象、・・・。それらのどれかに注目するだけで、その序列をすこし変えてみるだけで、ヴォリュームはおおきく変化する。

住宅の設計でさえ、こんなにも複雑なのだ、ということではない。ぼくにはむしろそれが「日常」へのオマージュになっていることの、偶然だか僥倖だかに、感動する。ぼくたちの毎日は、まったく同じのようでいて、それぞれの一日はかけがえのない、ユニークな、交換不可能な一日であってもいい。他者からみれば同じことの繰り返しのようでいて、結構、毎日なにかにチャレンジしているのだ。そんなことを、設計をとおして再現しているのだとしたら?

ぼくと青木さんはそんなに深いつきあいはない。でもぼくからするとちょっとした恩義もある。大学院時代、デュランの『エコール・ポリテクニーク建築課程』のコピーを貸してもらったからだ。ぼくはそのおかげで修士論文の一章がかけた(ありがとうございました)。

このデュランは、均等グリッドという同じ構文のうえで、語彙が無限に変わってゆくことで、さまざまな建築が生み出されて行くシステムを考えた。無限産出の書である。そこには究極の目的はない。ある解答が隠されていて、それを発見するという手続きがのこされているのではない。19世紀の建築は、無限のバリエーションであった。グリッド上に、さまざまな案をつぎつぎと展開してゆく。バリュの建築もそうであった。「折衷」というとその一貫性のなさが非難される。しかしそれは能産性への賛歌でもあった。

ぼくは模型よりもスライドに感激した。隣家、隣地はまったく変化しない。M邸だけはどんどん姿を変え、無限のバリエーションを示してゆく。それらの異体は、それぞれが環境との関係を結びつつ、機能も満たしつつ、あとからあとから、前例にとってかわってゆく。

そのスライドをみながら、これはグリッド上でさまざまに変身してゆくデュランの建築なんだと思った。基底としてのグリッド、現象としての建築。それは概念のレイヤーでもある。

同時に表層でさまざまに変化してゆく建築、これはひとつの「無関心」である、とも思った。基礎のない建築が建たないように、状況にまったく関係のない建築などない。しかし周囲がまったく同じなのに、どんどん変化できるこの個体は、周辺にたいして無関心、無関係を装うのであり、それは「デタッチメント」を実践しているのである。

ぼくの記憶では、学生時代の青木さんは生意気という噂があった。でも論争を仕掛けて、相手をたたきつぶすような、そんなタイプのものではなかった。超越的なものであった。ぼくはもう結論を出してしまったので、あなたと論争してももう意味はありません、論争しません、といった態度がときどきそう見えるということであった。それは諦めをもった達観ではなく、金持ち喧嘩せず的なものであった。貴族的ともいえよう。

もうひとつ思い出話があって、10年ほど前、野心あふれる若手建築家が「青木淳にはコンセプトなどないですよ」と話すので、ついぼくも血圧があがって、挑発してしまった。そのおかげでその若手建築家と彼を擁護する出版社からオヤジ狩りのような扱いをうけてしまった。(今日、メディアはセクトであり権力装置である)。

ぼくはいまでも、青木淳はコンセプトに満ちていると思う。しかし、おそらく、彼はそれを他者と共有したくないのだ。いや積極的に拒否しているというより、共有という発想がそもそもないのであろう。そして当然のごとく、自分の心中だけでコンセプトを構築してゆく。

彼の「デタッチメント」的メンタリティは、あったとしても建築以前的であり、世代的なものであり、建築の本質に反映しなければならない理由はない。しかしよく符合しているものもある。

《遊水館》には、プールの上を通過する廊下がある。廊下の床に穿たれた穴からスイマーが見える。しかしそれは見えても触れないという、接触不可能性の意識をむしろ強化させる類のものである。それは歩行者とスイマーの「デタッチメント」を強調しているのではないか。接近し、視覚的につながれているからこそ、露呈する関係のなさである。

《青森美術館》の、大地とホワイトキューブは、黒と白は、無関係の関係として処理され、そういうものとして意味をもっているのではないか。これは「デタッチメント」の建築として、形容されてもいいのではないか。「関係のつけかた」が、建築へのアプローチにも、建築そのものにもあらわれている、と解釈すべきなのであろうか。

もちろん、デタッチメントとはいえ最終的には無関係という関係なのだが、上の世代のキーワードであるコミットメントとは対極的である。

青木さんは思想家ではなくむしろ小説家のような建築家なのであろう。小説家は、自分の物語の上位にあってそれを支配しているような理論を構築しない。また自分の作品を事後的に解説するようなことは(あまり)しない。もちろん「動線体」「原っぱ」などの理論的考察は、アプリオリな理論構築である。そんなこともやろうと思えばできるであろう。でもそれは彼の本質ではないようにも思える。ディテールをなるだけ排除しないで、骨太の物語を書いてゆく小説家のような建築家がいたっていい。

世代論でいうと1956年生まれとしては、彼のほかに妹島和世さんがいる。ついでにいうとぼくも同年生まれなのがちょっと嬉しい。しかしぼくは不器用に理論的であるにすぎない。彼らのように理論を越えて生産的でありたいとも夢見る。

1956年生まれが学生時代をすごした1970年代(とくに後半)は束の間の、幸福な鎖国時代であった。凪の時期であった。政治と革命の時代はおわっていた。しかし外圧とグローバル化はまだであった。そこで都市文化が成熟しはじめる。いっぽうで高度経済成長はオイルショックで打撃をうけ、就職浪人まで出したが、今日のような閉塞感はなかった。

この年代の者にとって、指針となるのは目標、夢、理想ではない。これらは社会や他者とのコミットメントが前提である。目標は、社会的目標なのである。夢も理想も、まわりからインプットされるものだ。しかしデタッチメント世代にとってはむしろ「没頭」である。妹島さんがプラトニズムだとは思わない。しかし彼女の没頭は徹底している。青木さんはしっかり没頭しているが、ときどきナンチャッテをする余裕がある。薬でもなく、新宗教でもなく、VRでもない。すごく安全で、健康優良児のようにも思える。しいていえば建築教である。「没頭」のなかに安らぎをえるようなものであろう。ぼくは建築教の世代ではないか、と思う。

1970年代末にいわれた「建築の自律」という理念の影響はさほどないと思える。それは同じ背景から生じたことなる現象であろう。「自律」も「デタッチメント」も。

建築に没頭しながら、思想は思想で勉強しながら、両者を連動させないという不思議なメンタリティ。若手から「コンセプトがない」と見えてしまうのも世代的事情があったのであろうか。しかしそこには、そこにこそ、たいへんな逆説がある。そう、逆説的に、建築をただちには思想の表れとしない青木さんこそ、建築を「考えること」と、建築を「つくること」を一体化させているのである。すくなくとも結果的に。

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2008.06.28

石山修武はコミットメント世代の建築家である

出張ついでに世田谷美術館にいった。そこで『建築がみる夢 石山修武と12の物語』展を見た。

感慨深かった。石山さんについては、1975年の《幻庵》から知っているつもりでいた。もちろん忠実な追っかけではない。関心はそれほど持続していない。だから展覧会はそれだけ驚きがあった。つまり、当然のことながら、かつて、彼はラディカルであり思想を訴えていた。しかし展覧会は、あたりまえのこと、ひとつの達成であり、長い活動をとおしてできた建築家象への素朴なオマージュであった。それは世田谷のお上品な市民たちが、余裕をもって知性で愛でる才能なのであった。とくに政党的なつながりのない市民団体が、途上国に小学校を建設するために、いろいろ活動している、そんな市民もいるであろう人びとに囲まれて、石山さんはひどく座りがよかった。

ぼくは建築史家でありつづけたい。だから近い将来、歴史を書くとしたら、この建築家をどう位置づけるのであろうか、と考える。展覧会を見るときに、基本的にはこのことだけを考える。あとはそのための組み立てである。

結論を出すこともない。しかしいくつか補助線を引いてみよう。

(1)コミットメントの世代である

コミットメント。サルトルならアンガージュマンという。参加、である。《ひろしまハウス》は、市民による平和運動がきっかけであるようだ。いろんな市民が、ボランティアがコミットメントして、レンガを積んだり、三輪車をこしらえたりしている、コミットメントを集大成したような建築である。

この《ひろしまハウス》はポルポト政権下で1970年代後半におこった悲劇のメモリアルである。とうぜん、ぼくもそのことに無関心ではいられない。1950年代、パリに留学していたのちにクメール・ルージュの指導者となるブルジョワたちが、スターリン主義と毛沢東主義を学ぶ。機械的粛正、反都市思想、農村回帰、など。ひとつの思想として整合するのかはべつにして、そこには反近代の姿勢がはっきりしている。

とうじのパリはナチスから解放されたばかりであったが、そのフランス人たち自身ですら、強大なソ連、そしてスターリンの権威のまえで、共産党に入党したり、共産主義に傾斜する傾向があった。ソ連軍が侵攻したあとに、粛正されないためである。この悪夢シナリオは日本人としては実感がわかない。しかしベルリンの壁が崩壊する直前まで、フランスのメディアは「ソ連の戦車」が押し寄せてきたらどうするんだ、という表現をためらわず使っていた。

ポルポトの悲劇は、パリで仕込んだ先進的な思想を、まったくそのまま、なんの媒介もなく実現しようとしたことであった。成熟した産業化社会ではじめて有効な理論を、近代化への助走すらない地域で実現しようとした。彼らはとことんシリアスであったろう。そしてシリアスであるだけ、悲劇は大きくなった。

ぼくが《ひろしまハウス》の現場に立つことはないだろうから、遠くから想像するだけなのだが、これに関わっている人びとは、たんなる人道主義ではないであろう。それは1970年代後半の悲劇が、1950年代パリでの学習の結果であることを知りながら、ときに指導者のパラノイアゆえにと故意に短絡して説明しようとするフランス人の屈折した説明と同じようなものである(のではないか)。ポルポトとの地下水脈での関連性。そのことを感じているからこそ、コミットメントするのであろう。

それは思想が行為にそのまま直結してしまうときに発生しうる悲劇、なのだ。両者のあいだになにも媒介するものがないときに、生身の人間に、岩石が衝突してくるように、思想などというものがふりかかってしまう、その悲劇である。

コミットメントの世代は、経験によってそのことの重大さを知っている。だから《ひろしまハイス》に関わる人びとは、内なる悲劇に動かされてそうしているのであろう。人さまの悲劇に第三者として同情しているのではない。みずからの悲劇と知っているのだ。そして彼らの関わり合い方は、とても間接的な、ソフトなものであり、思いの投げかけ方であるはずだ。思想と工作の無媒介な結合などではない。絶対に。

(2)自給自足

ああ70年代、である。セルフエイド、セルフビルド、中間技術、エネルギー・水・空気などの自活、エコロジー、ビルディングトゥギャザー、地域主義、地方の時代、などなど。すべて70年代のアイディアだ。

石山さんを賞賛しているのは、これら70年代思想を生きた世代である。

しかし彼は、下の世代から、さほど批判されていないような気がする。批判しろといっているのではない。団塊ジュニアたちは、団塊世代の思想と、親たちがつくったいまの政策にすこぶる忠実である。彼らはむしろ行政にべったりくっついている。ということは国策べったり、ということである。

(3)世間の形成

これは日本社会ではしかたないのだろうか。外国の人が、日本ではもう建築批評はない、と指摘しているという。これは書ける人がいないのではなく、書く場がなくなっているからだと思う。つまりパブリックな論の展開場はない。メディア、雑誌など、それぞれが審級をもち、それに抵触するものは排除される。

これはセクトとまではいかない。しかしすでに公共空間ではない。建築的「世間」の形成であろう。世間は複数ある。石山さんたちはそのひとつを形成してきた。ただ社会的にも受け入れられ、ある力となっている。

(4)石山修武さんそのものが作品となり、事件となる。

磯崎新さんは展覧会オープニングの挨拶で、石山さんの建築はむしろ事件をつくることにある、という指摘をしていた。世田谷村もシンボリックな通路である、などとも。もちろんこれもアクションペインティングだの、アクシデントだの、昔の芸術にすでにあった理念ではある。

ゲーム性をもちこむことが必要なようだ。

磯崎さん自身、作品+著作というパッケージで建築を展開している。ル・コルビュジエは「マニフェスト+建築」であったが、それとも違う。むしろゲームとその攻略本の組み合わせであって、ぼくのような建築界の末端人間はその啓蒙的恩恵に浴するのではあるが、ときどき違和感を感じることはある。

(5)作風

石山さんの建築で、やはりいいのは《幻庵》や《開拓者の家》など、ふわっとしたものである。コルゲート管をつかった住居は、もちろん大地に固定されてはいるが、基礎をつくり、土台をおいて、といったしっかりと敷地に繋留されているような印象は与えない。常設/仮説ということではない。そっと置かれた異物が、しかしまわりと対話をはじめ、独特のなじみ方をしている。そんな印象を与える建築が、彼の真骨頂ではないか。

そうしたソフトな異化の仕方が、おもしろい。《伊豆の長八》も左官技術のベタな復刻ではなく、すこしずつずらしている。ベタではなく、すこしメタ概念が見える。そのなにがメタであるかがはっきりすれば、石山さんを歴史的に位置づけて叙述できるようになるであろう。

(6)ふたたびコミットメント

思想だのコミットメントなどというのは、本来はうっとうしいものだ。人は平凡な日常を生きて、なにが悪いのだろう。石山さんの建築が、もし世代を超えて評価されるとしたら、「思想→建築」の機械的・直線的な変換ではないはずだ。両者のあいだになにかが、しっかり介在している。それはとりあえず味、趣味、芸などというものかもしれない。しかしそれをすこし普遍化して論じることができれば、それは建築史家の仕事ということになるであろう。

いかなる偉大な思想でも、それをベタに機械的に実現しようとすると悲劇が発生する、というのが20世紀に得た経験則であり知恵である。媒介が必要だ。それを建築家として実践すること。あるいは建築家が媒体、媒介、そのものとなること。そんな構図が見えてくる。思想と建築のあいだに、第三者的な、しかしなにかしっかりしたものが介在する。それが建築家が建築家であるゆえんであるはずだ。

石山さんは思想と建築をなにが媒介するかを、なにが媒介すべきかを、だれよりも知っているのだ。そしておそらく、彼の30歳代前半におこったカンボジアの悲劇の根源を、知っているのだ。

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2008.06.17

田平教会はテオドール・バリュの教会とそっくり

先日、田平教会(長崎県)を見学して、ただちにある教会を連想した。パリにあるサン=タンブロワーズ教会(1863-69)である。建築家はテオドール・バリュ(1817-1885)。当時のエリート建築家である。

まず写真を見ていただこう。左が田平、右がパリである。

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△半円アーチによる落ち着いたロマネスクの内部である。どちらも四分ボールと、三層式である。高窓も、簡素な半円アーチで、壁面を多く残していることなど、同じである。異なるのは、身廊がやや比例的に高い(パリ)。リブが付柱となって、床まで降りる(田平)か、柱頭上で止まっている(パリ)か、くらいであろうか。また二層目が、5連アーチ(田平)か、3連アーチ(パリ)と異なっている。しかしこれはまだバリエーションの次元である。

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△角度をつけて撮影したもの。ほんとうによく似ている。

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△しかし外観はまったくちがう。田平は単塔式。パリは二塔式。レンガ/石という違いもある。

バリュのこの教会建築は、スタイルとしてはロマネスクの範疇である。しかしリブによる四分ボールとはゴシック時代に完成したものである。つまりロマネスクとはいっても、バリュ個人がいろいろな例を組み合わせて、しかも全体の調和を考えた、独特のスタイルである。折衷でありながら、統一感があるのは、個人的スタイルといっても完成度が高いことを物語っている。折衷主義の傑作と呼んでいいだろう。

だから両者がたまたま似ているということは、常識的にはほとんど考えられない。バリュの教会堂が写真や図面として広がり、田平の建築家・鉄川がそれを採用した、というシナリオしか考えられない。

写真ではよくわからないが、全体のスケールは違う。おそらくパリの教会は、田平の1.5倍といったところである。だから雛形を縮小するという、近代初頭のしばしば採用された手法ではないかと思える。

ちなみに建設は1860年代だが、聖別は1910年と遅れた。聖別したのはレオン=アドルフ・アメットというパリ大司教。彼がロマネスク=ビザンチン様式によるサクレ=クールを聖別したのが1919年。因縁だろうか。

ここでテオドール・バリュ(1817-1885)について。

1835年にボザール入学。ルイ=イポリト・ルバの弟子であった。ローマ大賞を受賞し、1841年から1845年までメディチ荘ですごしたエリートであった。

サント=クロチルド教会建設(以前ふれた)を担当した。主任フランソワ=クリスチャン・ゴの助手であった。この主任が没すると後継者となった。それいらいほとんど教会建築専門家のようになる。

1858年から1863年まで、サン=ジェルマン=ロクスロワ教会脇の塔(フランボワイヤン式のゴシック)を設計し建設。

1860年、パリ市宗教建築主任建築家に指名される。三位一体教会(1841-67、折衷主義の傑作)、サン=タンブロワーズ教会(1863-69)、サン=ジョゼフ教会(1866-75)を設計する。またサン=ジャック教会の塔の修復、アルジャントィユのサン=ドニ教会も。

1872年に美術アカデミーの会員となる。1873年に市庁舎再建(パリ=コミューンで火災にあっていた)コンペで一等。

1871年から76年までパリ市建築検査長。1874年にヴィオレ=ル=デュクの後任として、司教区建築検査長となる。

このようにバリュはフランスにおける教会建築の第一人者であった。だから彼のスタイルが外国に影響を与えても不思議ではない。しかもサン=タンブロワーズ教会堂が1910年に聖別されて、8年後の1918年に田平教会は完成された。パリの教会についての図像が広まっていたとしてもおかしくはない。あるいは宣教師が、パリの教会を意識していたとしても。

田平教会は2003年に重要文化財、2007年にユネスコ世界遺産暫定リスト入り。でも認定されたあとで、こんなことが指摘されるのもおもしろいね。

19世紀はおもしろい時代で、教会は特権を失っていたが、まだ政教分離ではなかった。教会堂建設に国の予算が投入できた。だからバリュは俗人として公共を代表して教会建築の担当となった。しかし20世紀にはいって政教分離。その直後にサン=タンブロワーズ教会堂聖別。それを模した?田平教会。教会堂をめぐる様式の戦いはしっかりあったのではないか、と想像している。

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2008.06.15

西へ東へ、平戸へ九重へ

6月13日(金)

3年生の設計課題にとってのフィールドである平戸に、日帰りサーベイの強行軍。往路3時間、現地滞在4時間、復路3時間のハードスケジュール。大型バスをチャーターして一行約50人の遠足である。

もちろんあらゆるディテールをじっくりというわけにはいかない。しかしコンパクトな町なら2~3時間の散策と観察で、本質を見抜けなければならない。少なくとも見抜こうとテンションをとことん高めなければならない。

というわけで、先週は1時間をつかって平戸略史を説明し、車中では西先生の『海・建築・日本人』の関連ページのコピーを渡して、簡単な解説をする。

事前に解説してあるので、現地では完全に自由行動、自主責任行動、である。ぼくは他の先生お二方を案内し、オランダ商館跡地、松浦史料博物館、平戸教会、中心街を連れて歩く。

▽写真だが、左から。(1)唐津経由のルート。海が見えて楽しい。道の駅では、海産物のおみやげをたくさん買う。(2)生け垣が、みごとな景観を演出。(3)平戸市内の眺め。(4)レンタサイクルで市内をサーベイする学生たち。偉い。

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市役所に呼ばれていたので、教育委員会の人と、プロジェクトや文化財政策などについて意見交換をする。

オランダ商館の復元について。これから予算措置がなされ、復元がなされるそうだ。なぜ17世紀にここから長崎に移転されたか。ぼくの考えでは、内陸性カソリック国家フランスが、海外通商プロテスタント都市国家ラ・ロシェルを徹底的に弾圧したように、幕府は、平戸が独立した都市国家に成長する芽を摘もうとした。しかし市の人は、長崎の出島がカラになったので、オランダ人を移しただけ、合理的経済政策のため、という。そうかなあ。交易拠点を合理的判断で移したというのは、やはり一国史観だとおもう。通商→植民地化、というヨーロッパ/アジアの決まったパターンを考えれば、やはり戦略的なことが大きかったのであろうと思う。

もうひとつ、平戸はほんとうに海を見ていたのか?という疑問。海を活用したといっても、藩主が海を使って移動しただけ。海沿いの町屋も海から直接物資を荷揚げした、といっても、基本的には町屋の生活は街路に面して展開される。

町民にとっては、海は勝手口である。ロジスティクスが、ひとつの港湾施設を経由してなされるのではなく、各民家がそれぞれ海(船)から物資を補給していた。リゾーム的でおもしろい。しかしそれを、海を見ていた、とはいえない。

海岸通りは戦後の埋め立てである。公共空間が海の面するのはそれがはじめてである。だから海岸通り沿いのファサードには「町並み」が形成されていない。それはあったものが失われたのではなく、最初からなかったのだ。

だから海をみていた、とはいえませんよね、とぼくは指摘した。そうでしょうね、という市の人の感想であった。

平戸を出て、田平教会を覗く。4月に訪れていたときにはあった足場がはずれていて、修復も終わったもよう。ぼくの見立てでは、内部は、ノルマンディー地方のロマネスク建築で、ゴシック誕生の直前の様式にちかい。鉄川は、おそらくしっかりしたお手本に基づいて設計したのではないか。しかもお手本を、3分の2とか、ある割合で縮小しているような気がする。プロポーション、空間構成(断面)などは原型に忠実だが、空間がちいさい、天井が低いのである。

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帰宅。道の駅で買ったさより一夜干しでご飯をいただく。ビールがおいしい。

6月14日(土)

こんどはワゴン車をチャーターして研究室とH大学T先生ご一行とぼくの研究室7名で、福岡を出発。

大分県九重の合宿研修所に1時過ぎに到着。

修論中間発表で、学生たちが発表し、先生たちがご指導(ご批判)する。それにしてもきびしかったなあ。ぼくなら数週間は落ち込むだろうね。この発表会が6時まで続く。

夕食後、7時から懇親会。といっても畳の大広間でのコンパである。

各大学・研究室ごとの自己紹介。ぼくは学生に自己紹介させ、簡単なメッセージ。2点ある。

(1)研究の精度を上げるのはもちろん必要だが、歴史が歴史であるのは、歴史観があるからこそ。そういういみで、今の建築史研究には、「物語を書く」という指向が少ないのではないか。ひとつの大きな流れ、個々の事例を超えた上位の枠組みを、構想し、描くのである。個々の事例はそれがないと生き生きしない。ぼくはどうやったら「物語を書く」ことができるのか、ぼく自身の課題として、挑戦したいと思っている。

(2)ぼくは学生のころ、先生に面と向かって教えていただいたことはほとんどなかった。先生はあまりに偉大であった。ぼくは先生の背中をみて、学習した。そしてぼくも先生の年齢に近づきつつある今、学生を背中で教えることが、ぼくにもできるのだろうか、と自問自答している。背中だけですべてを教えることは今の時代では非現実的だが、そういう部分も必要だと思うのだ。

などと放言する。あとはKy大S先生、Ku大I先生、Ka大K先生、KS大E先生、S大H先生などとあれやこれやと話し合う。途中抜け出して温泉に入り、またもどってビール、雑談、叱咤激励(学生は迷惑でしょうねえ)。12時すぎたので寝ました。最近は行いが正しくなった。

6月15日(日)

H大学T先生の講演。アジア的広がりのなかでの町屋というテーマである。主に中国の都市住宅に、日本の町屋概念を投影して、日中の都市住宅の比較をおこなっていた。さらには日本の近代化は、アジア経由でヨーロッパ文明が伝わった。だから日本近代にはアジア的ネットワークが機構的にインプットされているという指摘は面白かった。

たんなる国際比較、インターナショナルなものの提示、ということにとどまらず東シナ海をメディアとするリージョン、実体的というより関係性的ネットワークにより成り立つリージョンを描いているようで、とても刺激を受けた。

昨晩ぼくがいった「物語を書く」ということ、その背景として大きな枠組みを描くと言うこと、そういうことをちゃんと実践している研究者がいるのであるから、見倣わねばなりませんね。

もう20年くらいまえ、先輩研究者と、ブローデルの『地中海』について論じたことがあった。国や、民族や、時代や、技術的限界を超えて、不変な構造としての、あるいはネットワークのメディアとしての地中海。そんなものを日本から構想できるとしたら、たとえば東シナ海でしょうね、などと放談していたことを思い出した。

そのとき考えたことに近いことを実際にやっている研究者がいたということである。

さて天気は雨。ソフトボール大会は中止になり、早めに解散。

ぼくたちとT先生らは、藤森先生設計の「ラムネ温泉」に直行(途中で迷ったが)。藤森先生の建築は、手、あるいは身体の痕跡を残そうとするものである。あるいは身体を反映していると思える建築である。だから大規模建築にはこの方法論は難しい。建築が巨大化すると、この方法論でできるのはインテリアか、外構の細部であろう。解決法としては、細部が集積した町並みのような大規模建築を造る、ということであろう。あるいはガウディになるか、である。大聖堂のスケールまでなら、可能なのである。

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とはいってもいたって世俗的なぼくたちは、ゆっくり温泉につかり、ギャラリーの絵を楽しみ、食事をし、おじさんたちだけ特権ビールを飲んだ(学生のみなさん、ごめんね)。そしてぼくたちはT先生ご一行をバス停までお見送りして、お別れしたのであった。

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2008.06.12

メゾン・カレの隣にN・フォスターが建設したカレ・ダールなんか思い出した

梅雨の合間の晴れ、夏の予感。夏といえば、南仏、地中海・・・・。である。そこでニームのことなど思い出した。

▽メゾン・カレ。ニームといえばこれである。ほぼ完全な姿で現存する数少ない古代ローマ神殿。紀元4~5年の建設。アウグストゥス帝の息子と孫に捧げられたものである。

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18世紀の新古典主義の時代に再注目された。ユベール・ロベールはこれを題材にして絵を描いた。神殿の影響はフランスはおろかアメリカにも及んだ。

▽1798年、神殿のとなりに劇場が建設された。革命期の、新古典主義の建築である。この時代の革命精神にとって、古代ローマの建築はよいモデルであった。だからこの劇場は、メゾン・カレへのオマージュであったはずだ。しかし1952年の火災。それ以降は、ほっておかれたようだ。

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▽この劇場は取り壊され、ノーマン・フォスターが1990年代にカレ・ダールを建設した。

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新古典主義の石の列柱ではなく、鉄の軽快なものである。列柱により都市空間を制御する。この古代の思想を、フォスターは完全に受け入れた。

しかしこれは前身建物のコロネードとおなじ発想である。それによって都市空間を制御するという考えも。しかしもちろんフォスターのコロネードのようが、敷居がひくく、フレンドリーである。

しかも屋上テラスがあり、神殿を最高のアングルで眺めることができる。

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中央階段。神殿の軸船にしたがって、上下移動する。ここでは古代の秩序が支配している。

地下の閲覧室。神殿は基壇の上にのる。閲覧室は地下に。という対位法。

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昔からいろいろ見てきたおかげで、2000年前の古代神殿、200年前の新古典主義、今のハイテク建築を、比べて考えることができるのだが。

200年前の立派な劇場も、東洋の某国なら立派な文化遺産であろう。しかし40年間使われることなく、新しい文化施設に道を譲った。近代の勝利、といえるのだろうか。いえない。

新古典主義は、古代へのオマージュであった。しかしこの主役たる古代神殿は、この程度のオマージュでは満足できなかった。さらなる発展したものを求めた。それがフォスターのハイテク建築である。

しかしハイテク/古代の関係は、ここでは、新/旧でも、伝統/近代でもない。全体の秩序を支配しているのは圧倒的に古代であり、フォスターはここでは古代的骨格のなかでお行儀よく振る舞っているにすぎない。

伝統の継承とか、歴史的コンテクストへの適合とかではない。建築における「永遠なるもの」がここにはたしかにあるのである。

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2008.06.08

日曜日は教会にいこう!・・・というわけで美野島教会となぜかロリアン市のノートル=ダム教会

授業のひとつとして美野島教会にいった。といっても引率の先生としてではなく、むしろぼくは学生たちにくっついていったほうなのだが。

築90年くらいらしい教会堂(いちど移築された)、もと付属幼稚園であったNPO活動施設、司祭館と、いろいろ複合的である。

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今の司教さまが15年前に来日していらい、いろいろな社会活動に貢献している。外国人労働者たちの、生活、滞在許可、医療、教育、などさまざま面にかかわる支援。もちろん日曜のミサもふくめて。それからホームレスのための炊き出しなど。

この炊き出し活動もいろいろ面白かった。彼らは携帯もインターネットもないが、炊き出しの日についての情報など、あっというまに広がるのだそうな。口コミの力である。また炊き出しについては、当局は好意的ではなく、むしろ容認してやっているという態度なのだそうだ。

ぼくは20年前、コルーシュというフランスのコメディアンが始めた「心のレストラン」というのを目撃しているし、炊き出し活動がもともと教会活動でありながらいかに社会的広がりを見せているかを知っている。またそもそも教会が、かつて社会的住宅など、人びとの生活にいかに介入しているかを多少は知っている。

だからぼくは、ああこの司祭さまはフランスでやっていたことを、日本でも普通に継続しているのだな、という印象である。

飛び入り参加のぼくだったので、準備がまったくなく、スピーチでもほとんどしゃべれなかった。こんなこともしゃべればよかった。

・・・・いまでは教会は狭い意味での、心の問題にかかわっている。しかし中世においては、社会のすべてに関わっていた。都市のそれぞれの町には教会があった、いや教会を中心として、地域がつくられていた。だから人は生まれると、教会に出生届けを出し、洗礼を受け、結婚式を挙げるだけでなく婚姻届けを出し(今日でも2重届出制と聞くが確認はしていない)、最後は死亡届けを出して、埋葬される。

しかし近代国家は、社会を徹底的に世俗化した。だから教会は心の問題だけをゆだねられるようになった。それ以外は、教育も、結婚も、世俗のものとなった。

しかし人間は、心だけを抽出してそれ単独でどうこうできるものでもない。またひとりひとり個別にどうこうできるものではない。集団としての人間を救済しなくてはならない。教会の社会的存在とは、世俗化した社会であるからこそ、改めて問われるべき性格なのだ。

・・・・といったことです。

で、帰宅してからぼくの演習の準備なんかをする。ロリアンのノートル=ダム=ド=ヴィクトワール教会の写真をどうこうしていたら、気づくべきことにやっと気づいた。

これはビザンチン様式の近代化である。つまりドーム形式の教会堂の系譜であるが、イスタンブールのハギア=ソフィア聖堂、ヴェネツィアのサン=マルコ聖堂、南フランスはペリグーのサン=フロン教会というように、中世においてドーム式の教会堂の系譜がみられる、というのはぼくの授業でも定番にようにやっている。

さらにいえば19世紀末にできたパリのサクレ=クール教会堂はそのリバイバルである。またRC構造によるビザンチン建築もどきの教会も、パリ市内にある。

しかしロリアンという地方にもあったのである。いかにこのビザンチン・リバイバルが広まっていたかを再確認することとなった。

▼まずイスタンブールのハギア=ソフィア聖堂

Hagia_sophia_2 Hagia_sophia Hagia_sophia_1

▼サン=マルコは省略。ぼくの講義をきいてください。

▼ペリグーのサン=フロン教会

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▼パリのサクレ=クール教会堂

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▼ロリアンのノートル=ダム=ド=ヴィクトワール教会

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ドームは、ルネサンス建築では頂上からの採光だが、ここでは下部のリング状部分からの採光である。

フランス近代には、ペレによるルランシーの教会のようなあきらかにゴシックの系統と思われるものもあるし、ル・コルビュジエによる彫塑的大空間もあるし、もちろん19世紀後半のロマネスク・リバイバルもある。しかしこのロリアンの例は、リバイバルというには遠ざかりすぎているが、それでもビザンチン建築抜きには考えられない。

さらによくよく考えれば、美野島教会とロリアンのそれは、ほとんど同時代のはずです。最大時差10年といったところだろうか(史料が見つからず、すみません)。

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2008.06.05

グラン・パリ計画の続報と「ヨーロッパ・戦略的建築」がテーマとなる今年のArchilab

>>>>>グラン・パリ計画で、建築家・都市計画家が選ばれ大統領官邸に集合(WEB版Le Moniteur 2008年6月4日)。グラン・パリ(Grand Paris)計画とは、パリ都市圏大挑戦(Grand pari de l'agglomération parisienne)であって、ミテラン以来の語呂合わせ。選ばれたのはChristian de Portzamparc (仏), Jean Nouvel (仏), Yves Lion (仏), Roland Castro (仏), Antoine Grumbach (仏), Djamel Klouche (仏), Richard Rogers (UK), MVRDV (オランダ), Finn Geipel (独/仏) 、Bernardo Secchi (伊)の10組である。10のプロジェクトを展開し、持続可能な発展の戦略をさぐる。これは既報のとおり。大統領は2007年9月17日の建築・遺産博物館のオープニングでこの大計画の構想を発表し、京都以降の21世紀メトロポリス構築を目指す。また文化相クリスティーヌ・アルバネルも彼らを迎えた。ただ晩餐会にはイル=ド=フランスの代表はいなかった。

>>>>>パリ市長ベルトラン・ドラノエの反応(WEB版Le Moniteur 2008年6月4日)。大統領の情報操作により官邸での集会には呼ばれなかった、と指摘した。建築家の選定には積極的に関与した、とも。市長によれば、サルコジの計画はパリ市内にはほとんど関係はなく、大統領を待たずに、今後7年間で、パリ市面積の10%が工事現場になる、とのこと。

・・・ミテラン/シラクも建築を介して争った。大統領のプロジェクトとはいえ、市長が反対すれば進まない。

>>>>>2008年の第8回アルシラブ(アーキラブ)は、ヨーロッパがテーマ(WEB版Le Moniteur 2008年6月3日http://www.archilab.org/)。2006年は日本がテーマであった。今回は「ヨーロッパ・戦略的建築」。30都市の50プロジェクトが展示される。招待コミッショナーはデッサウ・バウハウス財団のオマール・アクバール。10月24日から12月23日まで。

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・・・・アクバール氏はすでに2005年に来日し、ドイツの都市プロジェクトなどを紹介している。こんどはオルレアンに乗り込んでのことである。EU的枠組みでの都市計画・建築の成果を再確認し、知識ベースの産業、経済を発展させるための戦略を練るのだそうだ。

「戦略的建築」(ストラテジック・アーキテクチュア)とは、ポスト計画、というような意味であろうと思うのだが。世間の狭いぼくでもデルフト大学にもボルドー大学にも戦略を冠した学科や専攻があることは知っている。都市と地域の生きたネットワークであるヨーロッパでは、国の「計画」によって導かれるのではなく、都市や地域がそれぞれ戦略をねって生き延びてゆく、そんな21世紀の構図が見えてくる。

これは必見でしょうね。うーん、日程調節。難しいがなんとかしよう。

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2008.06.03

ウイークデイのような週末

この週末はてんこ盛りであった。

土曜日は、ある大集会があって、講演を拝聴したり、いろいろ。

まずK先生の講演。アメリカに留学、ロンドンで仕事をしていたが、急遽日本に呼び戻されて、大学教授になった40年前の話から。そのころの日本の鎖国的・二等国的状況から、国の本省の自己植民地化政策的状況から、いろいろなお話。昔話とは思えない。じつは今の社会も、20~30年もすればかなり危うい逸話でいっぱいであろうことを、うすうす感じ始めているからだ。

とはいえあと10年で50年、「戦後」のほんとうの精算がなされるであろうね。

立食パーティではK先生と脊椎の話しで盛り上がる。直立歩行の人類の宿命とはいえ、つらいものはつらい。

ながらく続いてきた卒計展の存続に赤信号らしい。いろいろやってきたので整理整頓の時期ではあるだろう。

立ち話もそこそこ、軟弱なぼくはイスにすわって安楽姿勢。学生にいろいろ話しかけられる。頑張らない、購買意欲のない、将来の目的のない今の若者について率直に語る。ぼくが驚いたのは、あまりに話しが通じてしまうこと。つまり彼らもけっこう、自覚的なのである。

環境、文化遺産など今の国策についても、若者は認識しながら、まったく興味を示していないのも、予想どおりであった。この国策で救済されるのは、団塊世代と団塊ジュニア世代なのであって、今の若者は救済されえないこともはっきりした(ような気がした)。

持ち家政策はもう若者にとって人生の目的にはならない。美しい日本も、世界遺産も、大人たちの小賢しいキャッチコピーであることにも気づいている。しかし間違いなく、あと20年すれば彼らが主役となる社会ができる。ぼくは生身の若者たちを考えた方が、将来の社会を考えられるのだと気づいた。将来の社会像をねつ造して若者たちを押し込めるのではなく。

それにしても待ち人来たらず。お忙しのようです。

日曜日は、午前中プールで泳ぐ。カロリー消費のためでもある。

13時からは設計課題の最終講評。T工務店のH部長を非常勤講師にお呼びしての4週間課題である。

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内容そのものはHさんの企業秘密なので説明しません。ただぼくのコンセプトは、メトロポリタン的環境のなかでの設計、というもの。抽象的な概念から出発し、空間図式を構想し、それを現実の都市のなかに挿入してゆくというもの。

課題は、そのプロセスが面白かった。第1~3週は、日本人学生が10数名ほどいた。留学生はゼロで、すこしがっかりした。4年生の選択科目なので、少ないのは致し方ない。課題はハードである。単位取得のノルマから解放されている学生はどんどん脱落する。

しかし週が進むにつれ、留学生が増えてくる。最終的には、講評に出品したのは、留学生6人(パリから2名、ボルドーから2名、ロサンゼルスから2名)、日本人4名、であった。すっかり逆転していた。

Hさんの課題内容が普遍的であったことがひとつ。もうひとつはHさんが用意したA4数ページにわたる趣意書を、ぼくが全部英訳して留学生に渡したのである(親切でしょ)。

プロジェクトの中身は、圧倒的に留学生たちの勝ちであった。日本人学生はまだコンセプトすら立ち上がってなく、うろうろしている状況であった。

なぜこうか?70年代にも磯崎新は日本の建築教育の惨状を憂えていたし、のちの時代になっても伊東豊雄は学生の社会性のなさを指摘していた。日本の実力はこんなもんかもしれない。ぼくは、状況はますますひどくなっているようにも感じられる。

具体的にいうと、

まずボリュームで考えられない。課題はしかじかの立米のボリュームを、この都市空間のなかに配置すること、というのが大前提であった。しかし粘土やそのほかの素材で、ともかくもそのボリュームを模型のなかに入れてみて、考えてみるということをやった日本人はひとりもいなかった。これはある意味、致命的である。

もうひとつはコンセプトづくりが、自分の心象風景の積み上げでしかなく、それが社会や都市という機構のなかで、操作可能であるための仕組みを考えていない、ということである。ようするに私小説的であるということ。都市は個人の集合であるが、都市の都市たるゆえんは、個人のなかにはなく、それらの集合のさせかたにある。その発想ができない。

ひとことでいうと「全体」がつかめない、ということである。

もうひとつは学生が、教師を頼りすぎているということである。留学生たちは戦略的、行動的である。しかし日本人たちは、先生にしかってもらいたい、導いてもらいたい、という弱さがみえみえである。そりゃあいろいろアドバイスしますよ。でも「君の」方針を見たいんですけど。

というわけで講評ののち、Hさんたちとパスタ屋で生ビールで打ちあげ。世間話で盛り上がる。でもまあ片田舎で、アメリカ人2名、フランス人4名、日本人4名の多国籍建築講評ができるなんて、すこしまえまで想像できなかったことですけどね。そしていったん実現されると、そのときからフツーになる。

さて月曜日は、D論会合、打ち合わせ、授業、ゼミでやはり一日びっしり。ゼミは、研究というよりは、若者の自分探しの旅につきあうようなもの。それはそれで大切なのだが、現代思想の人もいっているのだが、自分のなかに自分は見つからない。他者のなかにこそ自分はある。

それから学生との世代ギャップなのかどうか。彼らの読書発表を聞いていると、ああ人間はこんなにいとも簡単に書物を信じ込んでしまうんだ、という驚きと衝撃でクラクラするのである。というか「疑う」ことをしない。人のいうことでしょ、人の書くことでしょ、といった距離感がまったくないのだ。

ようするに「方法論的懐疑」なんてまったくない(ということは近代以前的な)人びと。それを見て茫然自失するおじさん。とてもシュールな体験であった。

なので休日の疲労はとれず。今日ははやく帰宅しよっと。

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