『村上ラヂオ』を読んじゃった。
1センテンス30行17世紀フランス語という拷問翻訳はチャプターの区切りがついたので、ブックオフにゆく。読める文章を読まないと、自信喪失になってしまうよ。で『村上ラヂオ』だよん。
奥さんと結婚記念日でレストランにいって、若いカップルの会話がきこえてきたんだって。これからできちゃうかもしれないカップルで、「フェロモンの白い靄」がただよっていたのに、結婚30年のこちらはあまり漂っていないんだって。
アウチ。痛いだけにわかるよ。あはは。
でもこの話はオチがついていて、その若い男はスパゲティを、音をたててすすりはじめたので、レストラン全体が凍りついてしまった。そののち若いカップルがどうなったか、それがとても心配だったそうだ。
・・・・。
ネズミ取りの特殊技能を発揮する機会もなくかった猫さんたちは、全国会議をひらいて「ドラスティックな意識改革」が必要だと叫ぶ、なんて空想を披露してくれる。犬のまねなんかしてられない、なんてタンカをきる猫もいるらしい。
うふふ。独特の擬人化。おかしいね。
柿ピーを、柿の種とピーナッツをカスタマイズされた配合で食べる村上さんは、そのバランスを崩す奥さんとの抗争に戦う気もなく敗北し、そして柿とピーを一夫一婦制に喩える。
お。こんなメタフォア、そうは思いつかないよね。
チンドン屋がブンダカブンダカやる《オブラディ・オブラダ》にはサビがない。同じようにサビがない人、いちおうまともなことをいうのだけれど、けっきょく世界観などもっていないような人は、退屈で恐ろしいくらい。
ううむ。サビのない歴史もつまんない。気をつけよう。
ローマでもたもた運転していたおばさんが、パスタでもゆでてろ、なんて怒鳴られて。でもパスタはイタリアで食べると特権的においしい。料理は「空気つき」という。
おお。ナイスなメシ。じゃなくてシメ。
《スカイ・パイロット》をエンドレスで聞くとハイになるらしい。
ははは。当たり前。
ちらし寿司を食べるのに、ご飯にのっている魚をぜんぶ別皿に移してたべる人がいたらしい。親から、ご飯のうえにものを載せて食べるのは下品、っていう躾を受けていたらしい。
あはは。
アトス山や、モンゴルのお手洗いも悲惨な状況を呈していた。人工衛星のなかでの用足しはおなじくらい悲惨であるという。だから「べつに月になんか行かなくていいや」。
あは。あはは。うう。
童話では、イントロで登場した老夫婦がにどと出てこなかったり、構造が整合性のないことがあり、そこがぎゃくに面白い。
ほう。これは教えられる。物語りは整合しなくてもいいだあ。
アメリカ人?の書いたSFで、地球人がさらわれて異星で動物園の動物にされてすまうが、つがいとして檻に入れられたのが金髪グラマーだったりして、それなら檻に入れられるのもわるくない・・・
あぁあ。なんてさらっと書けるのは力量。
円周率おじさんは自宅では疎んじられていたり、地球からのメッセージとして円周率を宇宙に発信したおかげで、宇宙人が地球に超巨大爆弾をみまうとか・・・
うん。おじさんは孤独だ。地球のように。
ハイティーンの恋愛はさわやかに抜けていて、そこでの感情育成は、一生ものだそうです。人生はそこでの栄養を、長い長い時間をかけてゆっくり味わってゆくようなものだとか。
せつない。ううう。仕込みなんだね。
世の中で退屈なことといえば、骨董に興味のない人間が骨董屋につきあいで行くこと以上のものはないらしい。
あはは。でも骨董品もずっとずっと退屈してたんだよ。
ゴルファー。「で、ウッズさん(タイガーさんとは何となく呼びにくいよね)」。
あ、あははははは。寅さん。なんちゃって。
自分が正義を独占しているなんてスタイルをとらないこと。擬人化、あるいはぎゃくに、人を別のなにかに喩えるやりかたが、軽妙で面白い。でもギリシア神話でも日本の神話でも、ひょっとして、ほとんど擬人化の手法でなりたっているのではないかい。だから村上春樹の小説は、一種の神話を読んでいるようなものなんだと思う。虚構という意味ではなくて、ね。
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