« 建築オタクも死んだか? | トップページ | レンヌ市がリードする都市会議(CVAA) »

2008.05.10

コーヒーブレイク/大きな政府と小さな政府の対比を建築史に適用してみれば

きのう、院生やなんかとダラダラお話をしました。

(1)大きな政府/小さな政府

大きな政府/小さな政府という構図はけっこう使いでがある。グローバル化が必然的に小さな政府をもたらしつつあるが、大きな流れで、とくに住宅供給をみると、はっきりしている。つまり19世紀は小さな政府の時代で、住宅建設は民業であって、国や公共機関がやってはいけないものだった。民の仕事がなくなってしまうからだ。しかし19世紀末から20世紀初頭にかけて、住宅供給がうまくいかなくなる。これは民業であることの限界がきたことや、家主と借家人の関係がうまく調節できないこと、などであった。であるので公的介入なむなし、とヨーロッパ諸国では住宅供給への公権力が介入していった。ドイツやオーストリアややオランダはうまくいった。ドイツのジードルンク、赤いウィーン、などはその成果です。ざんねんながらフランスは遅れた。興味深いのは、関係者がなんども国際会議などをおこなって政策の相互理解とすりあわせをやっていること。これは各国史にはみえてこない点です。

たとえばフランスでは18世紀後半というのは、民の時代で、パリの高級住宅地開発なんてけっこう投資家ががんばっていた。革命はそれらを根こそぎにしてしまったので、ナポレオンは公共事業をあるていどしなければならなくなった。大きな政府ですね。それはオスマンのパリ大改造もそうでしょう。しかし同時にイギリスを手本にして産業革命をなしとげたフランスは、民の力を育成しました。だから19世紀の都市住宅は基本的には業者の建設したものでした。労働者住宅だって、そうです。あまりに機械的、単調、なので兵舎などと呼ばれていました。

というわけで20世紀は大きな政府による住宅供給の世紀となった。世紀も終わりになるとそれが崩れていって、民営化、NPO、アソシエーション、などのうねりがやってきます。ドイツなどは先進的で、まちづくりのためのNPO的なものができて、ひとつの団地などを建設したりするそうです。

これは都市計画そのものの誕生と終わりを物語っている。19世紀中盤から、衛生法、住宅法、都市計画法というように段階をおって制度ができていきました。しかしベネヴォロの指摘とはちょっとちがって、住宅法と都市計画法は相前後して、ではなかったか。すくなくとも公共住宅と都市計画は、いわゆる相互補完的であることは誰にでもわかると思います。だからオランダでは1902年あたりに住宅と都市計画の法律ができます。人口一定以上の都市はマスタープランを作成しなければならなくなった。それとともに住むことの質の保証を、公共団体がしなければならなくなった。

フランスはちょっと遅れていていますが、「都市計画」と「住宅への公的介入」は同時期的です。どちらも1910年代末です。1919年に大パリ計画が公募され、大学レベルの都市計画研究所が発足しました。さらに1910年代に段階的に、公的資金を使って、自治体がハウジングできる制度が整えられました。この時期、ロスチャイルド財団などが音頭をとって都市部に低家賃住宅を整備するコンペやなんかをやっている。都市(住宅)建築のスタディをちゃんとやっている。

日本の場合、1919年に都市計画法(旧法)と市街地建築物法(建設基準法の前身)が制定されました。これは先進国と比較してそんなに遅くないのです。しかし住宅公団ができるのは1955年、しかも戦後のまったく違う状況のなかで発足した。つまり都市計画/住宅供給という同時性がなかった。いいかえれば都市やゾーニングをどうするというマクロな視点はあったが、どうやって住むかというミクロな視点は、公の側にはなかった。それは民にまかされてしまった。だから大正時代の、文化住宅、文化村、日本的田園都市、などが開花したのです。それはそれでよかった。しかしよくもわるくも20世紀の背骨であった、公的介入からは距離があった。

都市計画の専門家と空港でばったりあって立ち話をしたことがありますが、日本には都市建築という概念がないのですよ、などといっていた。あたりまえだと思う。つまり日本の都市計画にはミクロな視点がない。学問としてそのように制度設計されているからです。たとえば1970年代の『都市住宅』誌に代表されるような、ミクロな側から都市に住まうことはどういうことか、いかなる建築によって都市に住まうのか、という議論が、もし1910年代にやられていて、それが黎明期の都市計画に反映されていれば、かなり日本でも「都市建築」のタイポロジーができていたことでしょう。そうならなかった。

そのころの住宅は、都市から逃避することを考えていた。すでに述べた文化住宅、文化村、日本的田園都市、などはすべて都市を否定し、そこから逃走するためのプロジェクトだったのです。だから日本では、都市/住宅のあいだには深淵な裂け目が、すり込まれていたのです。

しかし歴史の責任ということで空想をさらに展開すると、ヨーロッパ的な流れと歩調をあわせるためには、江戸時代末には、民間デヴェロッパーが住宅地を建設していたり、するとか、「民業としての住宅建設」がそうとう発展していなければならなかった、計算になります。専門家の先生、教えてください。

あっと、大きな政府/小さな政府が脱線しましたね。

(2)シャッター商店街

他の話題といえば・・・・

アメリカ。グローバル化とは世界をアメリカ化することです。世界を内包していたアメリカが、そのアメリカ化を世界に輸出するのです。レーガン大勝利といえます。そのアメリカの1960年代くらいの様子を、先人にきいたことがある。大都市にスラムができる。困ったことだ。しかし家賃は下がる。するとお金のないヒッピー、売れないアーティストがやってくる。彼らが地区のイメージをあげる。すると高級な住宅街に復帰する。アメリカ的なスクラップアンドビルドは壁の内部でおこる。日本のシャッター商店街も似たような話かも。しかしカンフル剤的発想は、延命にすぎない。識者たちがご指摘のように。

(3)確率分布的な居住

人間は確率分布的に存在するようになる。ネットカフェの住民は、あちこと移住する。定住しない。貧しいひとがこうなのだから、豊かな人はなおさら。古代ローマ以降の別荘建築の伝統、イギリスのタウンハウス/カントリーハウスの例はいうまでもない。パリのひとびとは、中産階級以上なら、かならず別荘や週末住宅をもっていて、余暇を楽しむ。日本でも住宅を2戸以上もつ人びとが増えている。人口統計学的には、人口は減るから住宅はあまる、多人数世帯はすくなく単身者世帯が激増している、すると余った空間を埋めるのは、極端な話し、エネルギーあるひとりの人間が、住宅を2戸でも3戸でも持つことである。

つまり定住でもない、移住でもない、第三の概念。「確率分布的な居住」。

・・・時間がないな。

(4)「じつは」歴史学

自分史的な歴史、「じつは」歴史学、系譜学、なども学生と話しましたが、もう書く時間がない。最後にお説教しました。自分がこれこれの興味を抱いている、その震源は?枠組みは?それがわからないと自分はわからない。自分探しは社会探し。自分探しそのものの起源があるのです。40歳前後のひとびとは「個性」がなきゃだめ、というように教育されてきたので、それがトラウマになり、さらには彼らの子供たちにも伝染している。現代思想ではあたりまえの理屈ですが、「自分」とは他者の反映にしかすぎません。もちろん鏡のありようはさまざまで、だから鏡とはいっても個性はあります。しかし自分を構成するものは、自分の内部ではなく、他者に、そして社会のなかにあるようです。

最後は走り書きですが、続編をそのうち書くかも。

|

« 建築オタクも死んだか? | トップページ | レンヌ市がリードする都市会議(CVAA) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/424713/20869080

この記事へのトラックバック一覧です: コーヒーブレイク/大きな政府と小さな政府の対比を建築史に適用してみれば:

« 建築オタクも死んだか? | トップページ | レンヌ市がリードする都市会議(CVAA) »