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2008.05.29

ヌーヴェルで思い出したので『ジャン・ヌーヴェル、すなわち媒介する建築』を再録させてください

過去論文の再録です。初出は、ギャラリー・間叢書01『JEAN NOUVEL Lumières』(1995)、です。まずはお読みください。自己評価は最後に。

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 ジャン・ヌーヴェルが日本特に若手の建築家たちに及ぼす影響は近年ますます大きくなっている。例えば、様々な原色の蛍光燈を同時に使うこと、広いガラス面を壁体から独立させること、外に面するガラスにロゴを書込むこと、等は彼らも試みていることである。おそらくその影響力はレム・クールハースに並ぶところまできているのではないだろうか。

 彼が日本で認知されたのはアラブ世界研究所(IMA)がきっかけであり、雑誌での本格的な特集としては1988年のa+u誌でのそれが最初であった。しかし当時の日本はいわゆるバブル経済時代の最後の時期であり、建築ではポストモダンがモダンをほぼ完全に駆逐したかのような雰囲気があったので、ヌーヴェルに対して正統な位置付けがなされたとは思えないし、今でもその状況には大きな変化はないと考えられる。モダン対ポストモダンという日本的な議論の平面の中で彼を理解することは困難だろう。

 彼がパリのボブールに事務所を構えているということは単純だが重要な事実である。
19世紀に近代化された、しかし古い闇の部分を多く残しているこの首都は、私の考えでは2つの要素によって支配されている。すなわちオスマン的秩序とベンヤミン的混沌である。

 オスマンは19世紀後半パリに大通りを切り開き、開放的な都市空間を実現した。そうしたオスマン的な秩序とは、構築的で、合理的で、明晰なものの代名詞である。それは軸線とパースペクティヴにより都市空間を支配し、特権的な視線の先にモニュメントを置くことであり、既知の形態言語でそれを飾り、明晰なメッセージを伝えることであった。

 そしてフランスにはボザールに代表される古典主義と、ル・コルビュジエに代表される近代建築という2つの伝統があったが、そのどれもオスマン的である。ボザール的造形とは歴史的様式を使うことであり、軸線を強調し、左右対称を守ることである。近代建築の造形は、こうした手法そのものは拒否するものの、都市は理性的に把握できるという信念にやはり基づいていた。このパリではヴォワザン計画を提案したル・コルビュジエさえも、都市空間の開放性、軸線の強調、明確なボリュームによる構成という点でオスマン的な範疇に属する。

 一方ベンヤミン的混沌とは、その主著『パサージュ』に見られるような世界観であり、非体系性、非構築性で特徴づけられる。あるひとつのパサージュはガラス屋根で覆われた長い廊下という単純な造形であるにすぎない。19世紀に多く建設された博覧会の展示場に比べれば規模でも構造的な大胆さでも較べものにならない。しかしそれらは既存の敷地や建物に拘束されながらも、逆にそのことによって、オスマンが築いた合理主義的なブールヴァールの体系とは別の次元に、不規則で経験論的なネットワークを築く。パッサージュを高いところから眺めたのでは意味はない。それは地上に立ってあちこちを歩きまわることで、体験され把握される。そしてその体験的世界には、19世紀的なパノラマやジオラマといったスペクタクル、19世紀末になれば映画、すなわちテクノロジーによって喚起された感性の世界が広がっていた。それは街灯によって近代的な夜の都市が生まれた時でもあった。

 ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』は映画をテーマとした論文が述べられているが、そこでは大衆が散漫な観賞者という概念で位置付けられている。すなわち建築はもはや特権的な教養の世界に属するのではなく、散漫な観賞者という新しい感性の持ち主たちの知覚の対象となった。

 ところで、フランスの戦後建築の不毛な時期は1970年代まで続いた。都市の郊外では単調なベッドタウンが建設され、ボザール的な建築教育はハウジングといった目の前にある問題に対してはなんの解決案も提供できなかった。1968年の5月革命はそうした不毛な時代を根底から覆す機会となり、この時期に若者だった世代が80年代になって彼らの多様な試みの成果を世に出し始めてはじめて、フランスにおいて文化としての建築が再生した、というのがこの国における共通の認識である。

 学生運動のさなかに建築を学んだヌーヴェルは制度と戦う建築家でもあった。1976年には"Mars 1976"、「建築組合」を組織し、職能団体制度や土地専有制度(POS)等に戦いを挑んだ。

 ヌーヴェルは、全体を知により把握し支配し構築するための建築とは正反対の立場に最初からいたわけである。そうした彼がベンヤミン的な建築家に見えるのは自然なことと思われる。彼は、都市においてはある一つの意志が貫徹されることはなく、そうした意味では都市はカオスであり、都市を生きることはちょうど映画を見るように継起的に発生する光景を次々と体験してゆくことだと述べている。それはベンヤミンのフラヌール(遊歩者)の概念に近い。

 彼の作品からある明確なスタイルやイズムが読み取れるだろうか。彼はあるひとつのスタイルや、従来の意味でのイズムを求めない。彼には概念も方法論もあるが、それをひとつのものに要約しようとはしない。それこそが彼の方法論である。

 彼はテクノロジ志向型のようにも見えるし、一時期ハイテク建築家だと思われたことがあった。IMAが日本に紹介された頃、彼はフォスターやピアノ等の建築家と同一視されていた。しかしどちらかといえばブルータリズムの伝統を引き継いでいた彼らは、機械やテクノロジーそのものを表現することを目的としていた。しかしヌーヴェルのテクノロジーに対する態度はフォスターらとは違うし、さらにフランスの合理主義者たちとも違う。ロジエ、ヴィオレ=ル=デュク、ジャン・プルーヴェらにとっても建築の合理性とは技術のそれであり、技術の論理を表現することがすなわち建築であった。しかしヌーヴェルは自己目的化した技術には興味をもたない。その点でIMAはカメラのメカニズムを持込んだことは注目すべきだ。つまり彼は、支持と支持されるものの関係すなわち静力学を可視的にしたものではなく、カメラの絞りという本来は隠されているが人間の知覚に必要不可欠な光をコントロールする媒介に注目したのである。彼はこの点では、カメラを飛躍的に進歩させたダゲールや、ゴシック建築の内部空間をステンドグラスによる光で見たそうとしたシュジェールにむしろ近い。

 実際「光」を指標として彼と他の建築家たちを比較することで、彼の姿がより明らかになってくる。例えばブレは光と影のコントラストに、ル・コルビュジエは「光の下での形態の戯れ」に言及した。彼らは光を、理性が形態を知覚させるための手段、つまり理性のシンボルとしてとらえていた。フランス語では光はすなわち啓蒙をも意味することを思いだそう。

 しかしヌーヴェルはシュジェールらのように、人間の知覚を刺激し、仮想の世界を生みだすために光を用いる。光はむしろ主役であり、それは透過し、反射し、発光する。IMA、サン=ジェームズ・ホテル、ピエール・エ・ヴァカンス集合住宅、ダックスのホテル・レ・テルムでは透過する光がテーマとなっている。実際、カメラの絞りで覆われたIMAと、鎧戸(ジャルジ)で覆われたピエール・エ・ヴァカンス集合住宅は同じ位相にある。またサンティミエのカルティエ工場では屋根全体が光のフィルターとなっているが、この庇は距離をおいて下から見上げると反射した光で明るく輝くという驚きに満ちた効果を生んでいる。垂直面であろうが水平面であろうが、ここでは透過する光がテーマであり、そこでは建築はフィルターとして位置づけられている。

 光は反射するものとしても扱われる。ニームのメディアテーク+現代美術センター案では、建物を消去するためにガラスによる反射が使われており、地上面よりさらに低くはられた広いガラス面が、メゾンカレという古代ローマ神殿と空を写しだしている。一方、東京オペラ座、トゥール・コンベェンション・センター、リヨンのオペラ座等ではホールの形態が、怪しく黒光りするモノリスとして表現されているが、この鈍い反射はそのボリュームの表面を強調している。ル・コルビュジエは建築を船に例えたが、ヌーヴェルは流線形の自動車や航空機の形態に見られるエロティシズムに例えている。

 反射は、鏡という概念に結びつく。ギャラリ・ラファイエット・フランクフルトには円錐形のヴォイドが見られるが、その内側は湾曲する鏡面となり、そこに様々な光りや光景等が反射されるようになっている。円筒形の鏡によって、平面に描かれた歪んだ絵を正しく見せるバロック的あるいはシュールレアリズム的な手法を彼は反転させる。しかし実在よりも仮象を求める点ではヌーヴェルはこうした伝統に繋がっている。

 「光」という指標でみられた以上の分析からなにが言えるだろうか?ヌーヴェルは、伝統的なヨーロッパ建築の概念、すなわち構築とリプリゼンテーション(representation)の概念を解体しようとしていると、私には思われる。

 彼は1985年に『見かけ-透明性 Apparence-transparence』という論文を書きたが、それはコーリン・ロウによる透明性に関する議論の単なる受け売りではない。すなわち建築はかつてリプリゼンテーションのためにあった。古典主義建築は古代という理想を宣言し、近代建築はテクノロジーの時代の精神を表し、ポストモダンの建築も建築=記号という概念のうえに成立していた。モニュメントであれ、「語る建築 architecture parlante」であれ、記号としての建築であれ、それらはリプレゼンテーションの建築であった。ヌーヴェルが透明性の概念をもってくるのは、それへのアンチテーゼとしてである。

 代理代表でない建築とは、媒介する建築である。無限の搭は材質のグラデーションによって、空中と大地への2方向に消えてゆくのだが、言い換えれば、それは建築として自己主張しているのではなく、大地と大気を連結し、媒介している。これはピエール・エ・バカンス集合住宅にも見られるデザインである。

 オスマン的秩序とは昼の世界であり、そこではすべて現実的で明晰である。ベンヤミン的混沌とは夜の世界であり、そこでは実体と仮象の区別は曖昧である。媒介の建築とはその2つの世界の境界線上に存在する。そこでは軽さ、透明性、はかなさ、脆さ、色、ヴァーチャルなもの、といった概念が浮上する。

 ヌーヴェルは、技術から唯一のスタイルが生まれるのではなく、状況はそれぞれユニークだから、技術の応用の仕方も多様であるはずだと述べる。そこには「時代精神」という超越的なものは拒否されている。

  ヌーヴェルは、社会を構築しリプリゼントするのではなく、都市=社会を時には正確に時には歪めて「反映」するユーモアと批判精神に満ちた「鏡」となろうとしている。

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13年前に書いた拙論ですが、こういういいかたは顰蹙ものですが、よく書けています。細部の危うさはあっても野心的、意欲的なのが印象的です。自分が書いたものとは思えません。あなたは最近なにをしているんですか、田舎教師で満足しちゃだめですよ、という面と向かって若い人から何度もいわれた叱咤激励も、ああそのとおりだな、としみじみ思います。

これはおそらく日本で初めてのヌーヴェル展のためのカタログだったと思います。ジャン・ニーヴェル自身もそのために来日していた。彼がぼくの論文を読んでいい評価をしてくれたことをTOTO出版の人から聞いて安堵しました。レセプションに来ませんか、と誘われたのですが、ぼくは地方勤務で月曜から金曜まで授業があって、泣く泣くお断りしました。自分だけのことを考えて、いってればよかったと今では後悔しています。

それから13年たって体験も少し増えました。だから分かっているつもりなのですが、ドミニク・ペローもそうですが、ヌーヴェルもやはりフランス的なエッセンスを継承している。スケール、都市との連続性といったことでもありますが、とくにヌーベルの場合、19世紀にすでにパノラマ、パッサージュ、などを経験して仮象性、ヴァーチャル・リアリティの端緒を経験したパリの、やはり正統な後継者だと思います。もちろんぼくという外国人から見た偏見もはいっています。でも、それはそれとして、たんなる民族的造形などというものではなく、すこしは普遍性をもったフランス的なもの、に関する分析もまた、このさき、しても面白いのではないかと思っています。

ヒントをいいますと、「モダニズム建築」症候群について批判しましたが、モダニズムなどというのはアングロ=サクソン概念であって、今のグローバル化はアングロ=サクソン的支配だから、まあ、しかたないかもしれません。しかしフランスは19世紀に爛熟した都市文化を開花させ、モデルニテ=モダニティを云々していた。それをも勘案する複眼的な視線が、日本人がとことん疑似アメリカ人化している今日、状況を相対的にみるということで、役立つと思います。だって外国にいって、英語が通じないのはけしからん、などと憤慨している非英語圏の人類は、日本人くらいではないですか。自己植民地化ですね。英語が通じないことは素晴らしいことですよ。

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