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2008年5月の27件の記事

2008.05.30

文化財に広告!キャンパス・大プロジェクト!ヌーヴェルに批判!

今日も今日とて・・・。仕事の息抜きに30分、散歩気分のお手軽ブログ。

>>>>>ブーローニュ・ビランクール(パリ郊外)のアルフレッド・ランバール邸は、施主が画家、建物は1920年竣工のアール=デコの秀作、ということで歴史的モニュメントに指定されている。その補修工事のための仮囲いに、そろそろロラン・ギャロス(仏オープン)ということでラコステの巨大広告。フランスも変わったね。

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WEB報道(Le Moniteur 2008/05/29)によれば、上記の事実関係の他に、関係法規が変わったのである。1979年の法律は、指定されたモニュメントでの広告をいっさい禁止していた。去年までその規定が生きていた。しかし2007年10月1日から施行された新しいデクレ(行政命令)は、いわゆる「遺産法典」にも登録されたものだが、指定、登録されたモニュメントの修復工事の仮囲いに、全面積の50%以内なら、広告をだしてもよいことにした。

広告料はとうぜん不動産所有者に支払われる。このお金は、工事代に使われる。すると公的補助が少なくてすむ。広告はMétropole Média & Régiesというところがデザインしたそうである。この社は、これまでも広告が許されていた、郊外、高速道路脇、などに工事用防水シートなどに広告をデザインしてきた。

・・・ここで考察だが、モニュメントを維持するために、所有者の個人資金からの負担を軽減させるためならよいことだが、公的資金だけの節約なら、政策的には後退ではないだろうか。この報道では、具体的な%で負担率を説明していないから、いまのところよく判断できない。しかしともあれ、時代はかわりつつある。しかし文化財というものが、そもそも個人資産への公的介入であったことを考えると、第三者民間資金あるいは商業資本の導入は、本質的におかしいとはいえない。あとは広告景観を市民がどう受け取るかですけれど。

>>>>>フランスの6都市で、キャンパス・プロジェクトLe Moniteur 2008/05/29)。教育大臣ヴァレリ・ペクレスは6都市19大学の施設更新のための予算措置を公表した。ボルドー、グルノーブル、リヨン、ストラスブールなどである。大臣の下に選定委員会(メンバーはすべて「独立の」だから、外部委員会ということ)がおかれ、46のプロジェクトから10案選ばれた。6案が公表され、4案は後日。これはサルコジの「キャンパス」プロジェクトの一環である。しかもこれが、国がもっていたEDF(フランス電気会社)の株を、2007年12月に大量に売却し、その資金の一部(37億ユーロ)も活用したらしい。巨額。プロジェクトの予算総額50億ユーロ。

・・・・50億ユーロ。というから8000億円ですか。計算は正しいかな。フランスは教育予算削減でいろいろ大変といわれながら、でもさすが。年次予算でやらないで、特段の意志によりやるのは、やはり功績を、ということでしょうか。でも建築家たちにとっては朗報です。日本人建築家も呼ばれるかもしれない。TD大のM先生とか、S工大のA先生とか、仕事がいくといいですね。

>>>>>ジャン・ヌーヴェルのラ・トゥール・シニャル案に、ピュトー市の市長が反対している(Le Moniteur 2008/05/29)。「天守閣」「中世への回帰」と罵詈雑言。建設用地はピュトー市内らしく、市長ジョエル・セカルディ=レノは見直しを要求する権利がある、といきまいている。彼は、UMP(右派)の国会議員にして市長、ジュリィのメンバー、ソシエテ・ジェネラルの案を推薦していた。ヌーヴェルの多機能混在というコンセプトを疑問視し、ほんとうの社会的混在(ソーシャルミクスト、ミキシテ・ソシアル)はない、という指摘。事実90戸の住居は床面積が平均200㎡で、とても社会的性格の住居、などといえるものではない。

・・・・・まあラ・デファンスの超高層にいれる住居はこんなもんでしょう。そこに公的補助をうけた住宅なんてだれも想定はしていないでしょう。むしろリッチな外国人に優雅な生活をしてもらって、どんどん外貨を落としてもらうのが国策というものです。あまり強行だと、背景を勘ぐられますね。

さてちゃんと仕事もやってますよ。

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2008.05.29

ル・コルビュジエのロンシャン教会近くにピアノが建設することになって紛糾しているらしい・・・

・・・で仕事も一段落で、ちょっと休憩。ルモンドなんかパラパラ、というかカチカチとクリックする。なんか騒動である。(WEB Le Monde 2008年5月28日17時28分

ブザンソンのクララ女子修道会レンゾ・ピアノに、建物を建てるよう、依頼した。敷地はロンシャンの丘の上、ル・コルビュジエのノートル=ダム=デュ=オ教会がすぐ近く。有名な礼拝堂。年間10万人の来訪者、過半数は外国からの建築巡礼者、しかし9月8日は聖母マリアの生誕祭・・・。

歴史的建造物委員会は2007年6月28日に合意を表明し、2008年3月13日に建設許可を出した。しかしフランスは「ル・コルビュジエの建築・都市作品」を2009年にユネスコ世界遺産に登録する手続きをしている最中であり、それとの関連で、論争がおこった。近隣環境を損ねるとして、反対の声があがっている。

建物はとても小さく、軽やかなもの。礼拝堂からは見えないが、それでも告発されたのでレンゾ・ピアノは当惑している。ちょうどポンピドゥ・センターのときのように。

ノートル=ダム=デュ=オ慈善協会は、新築推進派である。この協会が敷地を保有し、また教会堂の芸術的な施策を決めている。ジャン=フランソワ・マテは「この遺産も陳腐化した。人びとは近代建築に慣れているし、新しいものを望んでいる」。彼の父親は、ル・コルビュジエに礼拝堂を発注し、ポンピドウ・センター建設にも関わった人物である。

修道会はブザンソンにあった土地を売却し、その資金で、ロンシャンちかくに自分たちの施設を建設する。丘に彼女たちが常駐することで、環境をメンテできるし、逆に礼拝堂が私物化されることもない。

プロジェクトは、12人の修道女を収容し、食堂、集会室、祈祷室などがそなわったもの。さらに旅行案内施設の建て替え。1500㎡だから、ちいさくはないが。でもピアノは、景観を損なわないよう、半分地下に建物を埋めるなど、最大限の配慮をした。

賛成派。ル・コルビュジエに仕事を与えた復興大臣の息子Dominique Claudius-Petit。地元市長のジャン=クロード・ミルはやや好意的。地元は元気がないから、有名建築家物件が増えれば、まちおこしに有効だと考えているようだ。

反対派。建築家ミシェル・カガンは、修道会というあまりに宗教的なものが近くにくることに反対。建築史家ジャン=ルイ・コーエンは、宗教政策の背後にあるのは、たんなる不動産取引、宿舎は将来ホテルになってもおかしくはない、と懸念。ル・コルビュジエ財団のジャン=ピエール・デュポンも、ル・コルビュジエは景観、自然の音(ざわめき)、緑にも配慮をし、それらを含んでの礼拝堂なのであって・・・と反論し、さらにル・コルビュジエ自身の1960年前後の「ロンシャンはこれで完了」という声明まで聞かせる。

・・・考察。

短い記事ですが、人間で追ってゆくといろいろ背景が推測できて面白いですね。

まあそれぞれの立場の思惑は理解できる。どこにでもあることだから。とくに市長さんにとっては、観光客を増やしたいところです。

もちろんピアノは、ボブールにあるポンピドウ・センターの建築家。このミュージアムは20世紀美術のためのもの。いっぽうIFA(フランス建築協会)を継承しつつシャイオ宮にできた建築・遺産博物館は、コーエンも立役者の一人でる。だからボブール/シャイオのライバル関係という背景があって、コーエンさんがピアノさんに意地悪したっておかしくはないけれど。ただこれは可能な邪測シナリオというにすぎない。

だから巨視的にしか見れないのだけれど。

じっさいのところこの礼拝堂はふたつの宗教が同居している。ほんらいのカトリック。そしてル・コルビュジエ教。これは純粋宗教/世俗宗教の抗争ともいえる。

フランス革命はカトリックを弱体化させて、いっぽうではアートを宗教的なものに格上げした。フランスがなぜ芸術の国かというと、誇張していえば、それは(おかしな表現だけど)世俗の宗教、宗教の代替物のようなものだからです。実際は宗教もまた芸術のパトロンだからそんな厳格な二項対立ではありませんが。

ロンシャンについても、宗教団体にくらべ文化団体の発言は強いなあ、という印象がするでしょう?フランス世俗社会はいちどカトリックをやっつけたという自負があるのです。たんなる文化政策の充実ではない。

で、よく考えてみよう。18世紀末に、歴史的建造物は、民家と軒を接してはいけません、なんて考え方ができた。カトルメール・ド・カンシーの「孤立するモニュメント」理念です。それがたとえばパリのノートル=ダム大聖堂の周辺地区整備計画の根拠にもなった。今回のはだから、世界遺産的制約でもあるような、しかし結局は、200年前の、そもそも「記念碑」という概念ができた時代の、まさにモニュメント概念がそのまま継続しているようなものである。

でもル・コルビュジエ/ピアノは建築宗教どうしの宗派争いですね。ピアノはピアノでフランスにも信者は多いので。日本にもル・コルビュジエ神社をたてよう!なんて人もいましたし。

結論としては、純粋宗教/世俗(建築)宗教のいざこざ、世俗宗教/世俗宗教(ピアノは相対的に世俗的で、ル・コルビュジエのほうが神格化されている)のいざこざがクロスしているという、じつはこみいった話しでもある。

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続報、第二のトゥール・シニャル

ジャン・ヌーヴェルのトゥール・シニャル速報はしましたが、続報がはいってきました(Le Moniteur 2008年5月28日)。落選案?についてです。

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抄訳から。

不動産開発業者エルミタージュ(ロシアのストロイモンタジュ社の系列)は、ジャック・フェリエ案をあきらめない、と宣言。

エルミタージュが指摘するには、自分たちの案は実現される価値があるので、クールブヴォワに建設するし、ラ・デファンス整備公社社長パトリック・ドヴジャンもすべてのプロジェクトは実現される価値があると言っていた、と強調。たしかにドヴジャンは落選案も別の可能性があることを示唆していた。とくにフェリエ・エルミタージュ案についてはいい案で、セーヌ川岸にあるといいかもね、と。

建物は(Hermitageにちなんで)H字型の外観である。

ところでクールブヴォワには社会的住居がある。Damiers d'AnjouとDamiers de Bretagneであり、250戸の中間家賃住宅(PLI, prêts locatifs intermédiaires)と40戸の社会的家賃賃貸住宅(PLS, prêts locatifs sociaux)があり、【訳注:日本でいえば市営住宅があるようなもの、市営そのものではないが】、パリ交通公社(RATP)の系列のロジ・トランスポールの所有である。住人やこの会社はコンペをたいへん心配していた。自分たちが追い出されるかもしれないからである。

エルミタージュはプレスで声明を発表し、居住者全員を再入居させる、すくなくとも同等の、あるいはすこし上のランクの住居に、と述べた。一時転居のための場所を受け入れた21世帯もあり、51世帯分のも確保され、のこりの178世帯も提案をうけるだろう、と。

タワーは多目的。勤労、居住、余暇、・・・・住居、ホテル、レストラン、オフィス、店舗、温泉、文化施設、ホール・・・。環境、エネルギー、対策も万全。HQEと一種の建築環境アセスメントであるBREEAM (Building Research Establishment Environmental Assessment Method)の証明書も取得する予定。

感想。

落選案にもチャンスが与えられるのも、それらが投資をもたらすからである。

公金を使ってのコンペなら、当選案のみ、これは当たりまえ。ラ・デファンス整備公社は、独立採算が原則のはずだから、赤字を税金で埋めるようなことはしない。だから投資グループは大歓迎なのでしょう。

しかし今潤っているロシアの資金を使って、ラ・デファンスに高層建築をつくる。もとからいた、公共政策として準備された社会的住宅に住んでいる人びとは追い出されるが、でもまあ、荒っぽいことはされず、ちゃんと再入居させてもらえる。そうしなければ一騒ぎおこるのだろうけれど、これは金持ち喧嘩せずなのですね。

でもまあほんとうにHermitageのHなのだろうか。最近世界中で建設されている超高層のなかでは特筆されるものではありません。

さて、仕事。

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ヌーヴェルで思い出したので『ジャン・ヌーヴェル、すなわち媒介する建築』を再録させてください

過去論文の再録です。初出は、ギャラリー・間叢書01『JEAN NOUVEL Lumières』(1995)、です。まずはお読みください。自己評価は最後に。

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 ジャン・ヌーヴェルが日本特に若手の建築家たちに及ぼす影響は近年ますます大きくなっている。例えば、様々な原色の蛍光燈を同時に使うこと、広いガラス面を壁体から独立させること、外に面するガラスにロゴを書込むこと、等は彼らも試みていることである。おそらくその影響力はレム・クールハースに並ぶところまできているのではないだろうか。

 彼が日本で認知されたのはアラブ世界研究所(IMA)がきっかけであり、雑誌での本格的な特集としては1988年のa+u誌でのそれが最初であった。しかし当時の日本はいわゆるバブル経済時代の最後の時期であり、建築ではポストモダンがモダンをほぼ完全に駆逐したかのような雰囲気があったので、ヌーヴェルに対して正統な位置付けがなされたとは思えないし、今でもその状況には大きな変化はないと考えられる。モダン対ポストモダンという日本的な議論の平面の中で彼を理解することは困難だろう。

 彼がパリのボブールに事務所を構えているということは単純だが重要な事実である。
19世紀に近代化された、しかし古い闇の部分を多く残しているこの首都は、私の考えでは2つの要素によって支配されている。すなわちオスマン的秩序とベンヤミン的混沌である。

 オスマンは19世紀後半パリに大通りを切り開き、開放的な都市空間を実現した。そうしたオスマン的な秩序とは、構築的で、合理的で、明晰なものの代名詞である。それは軸線とパースペクティヴにより都市空間を支配し、特権的な視線の先にモニュメントを置くことであり、既知の形態言語でそれを飾り、明晰なメッセージを伝えることであった。

 そしてフランスにはボザールに代表される古典主義と、ル・コルビュジエに代表される近代建築という2つの伝統があったが、そのどれもオスマン的である。ボザール的造形とは歴史的様式を使うことであり、軸線を強調し、左右対称を守ることである。近代建築の造形は、こうした手法そのものは拒否するものの、都市は理性的に把握できるという信念にやはり基づいていた。このパリではヴォワザン計画を提案したル・コルビュジエさえも、都市空間の開放性、軸線の強調、明確なボリュームによる構成という点でオスマン的な範疇に属する。

 一方ベンヤミン的混沌とは、その主著『パサージュ』に見られるような世界観であり、非体系性、非構築性で特徴づけられる。あるひとつのパサージュはガラス屋根で覆われた長い廊下という単純な造形であるにすぎない。19世紀に多く建設された博覧会の展示場に比べれば規模でも構造的な大胆さでも較べものにならない。しかしそれらは既存の敷地や建物に拘束されながらも、逆にそのことによって、オスマンが築いた合理主義的なブールヴァールの体系とは別の次元に、不規則で経験論的なネットワークを築く。パッサージュを高いところから眺めたのでは意味はない。それは地上に立ってあちこちを歩きまわることで、体験され把握される。そしてその体験的世界には、19世紀的なパノラマやジオラマといったスペクタクル、19世紀末になれば映画、すなわちテクノロジーによって喚起された感性の世界が広がっていた。それは街灯によって近代的な夜の都市が生まれた時でもあった。

 ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』は映画をテーマとした論文が述べられているが、そこでは大衆が散漫な観賞者という概念で位置付けられている。すなわち建築はもはや特権的な教養の世界に属するのではなく、散漫な観賞者という新しい感性の持ち主たちの知覚の対象となった。

 ところで、フランスの戦後建築の不毛な時期は1970年代まで続いた。都市の郊外では単調なベッドタウンが建設され、ボザール的な建築教育はハウジングといった目の前にある問題に対してはなんの解決案も提供できなかった。1968年の5月革命はそうした不毛な時代を根底から覆す機会となり、この時期に若者だった世代が80年代になって彼らの多様な試みの成果を世に出し始めてはじめて、フランスにおいて文化としての建築が再生した、というのがこの国における共通の認識である。

 学生運動のさなかに建築を学んだヌーヴェルは制度と戦う建築家でもあった。1976年には"Mars 1976"、「建築組合」を組織し、職能団体制度や土地専有制度(POS)等に戦いを挑んだ。

 ヌーヴェルは、全体を知により把握し支配し構築するための建築とは正反対の立場に最初からいたわけである。そうした彼がベンヤミン的な建築家に見えるのは自然なことと思われる。彼は、都市においてはある一つの意志が貫徹されることはなく、そうした意味では都市はカオスであり、都市を生きることはちょうど映画を見るように継起的に発生する光景を次々と体験してゆくことだと述べている。それはベンヤミンのフラヌール(遊歩者)の概念に近い。

 彼の作品からある明確なスタイルやイズムが読み取れるだろうか。彼はあるひとつのスタイルや、従来の意味でのイズムを求めない。彼には概念も方法論もあるが、それをひとつのものに要約しようとはしない。それこそが彼の方法論である。

 彼はテクノロジ志向型のようにも見えるし、一時期ハイテク建築家だと思われたことがあった。IMAが日本に紹介された頃、彼はフォスターやピアノ等の建築家と同一視されていた。しかしどちらかといえばブルータリズムの伝統を引き継いでいた彼らは、機械やテクノロジーそのものを表現することを目的としていた。しかしヌーヴェルのテクノロジーに対する態度はフォスターらとは違うし、さらにフランスの合理主義者たちとも違う。ロジエ、ヴィオレ=ル=デュク、ジャン・プルーヴェらにとっても建築の合理性とは技術のそれであり、技術の論理を表現することがすなわち建築であった。しかしヌーヴェルは自己目的化した技術には興味をもたない。その点でIMAはカメラのメカニズムを持込んだことは注目すべきだ。つまり彼は、支持と支持されるものの関係すなわち静力学を可視的にしたものではなく、カメラの絞りという本来は隠されているが人間の知覚に必要不可欠な光をコントロールする媒介に注目したのである。彼はこの点では、カメラを飛躍的に進歩させたダゲールや、ゴシック建築の内部空間をステンドグラスによる光で見たそうとしたシュジェールにむしろ近い。

 実際「光」を指標として彼と他の建築家たちを比較することで、彼の姿がより明らかになってくる。例えばブレは光と影のコントラストに、ル・コルビュジエは「光の下での形態の戯れ」に言及した。彼らは光を、理性が形態を知覚させるための手段、つまり理性のシンボルとしてとらえていた。フランス語では光はすなわち啓蒙をも意味することを思いだそう。

 しかしヌーヴェルはシュジェールらのように、人間の知覚を刺激し、仮想の世界を生みだすために光を用いる。光はむしろ主役であり、それは透過し、反射し、発光する。IMA、サン=ジェームズ・ホテル、ピエール・エ・ヴァカンス集合住宅、ダックスのホテル・レ・テルムでは透過する光がテーマとなっている。実際、カメラの絞りで覆われたIMAと、鎧戸(ジャルジ)で覆われたピエール・エ・ヴァカンス集合住宅は同じ位相にある。またサンティミエのカルティエ工場では屋根全体が光のフィルターとなっているが、この庇は距離をおいて下から見上げると反射した光で明るく輝くという驚きに満ちた効果を生んでいる。垂直面であろうが水平面であろうが、ここでは透過する光がテーマであり、そこでは建築はフィルターとして位置づけられている。

 光は反射するものとしても扱われる。ニームのメディアテーク+現代美術センター案では、建物を消去するためにガラスによる反射が使われており、地上面よりさらに低くはられた広いガラス面が、メゾンカレという古代ローマ神殿と空を写しだしている。一方、東京オペラ座、トゥール・コンベェンション・センター、リヨンのオペラ座等ではホールの形態が、怪しく黒光りするモノリスとして表現されているが、この鈍い反射はそのボリュームの表面を強調している。ル・コルビュジエは建築を船に例えたが、ヌーヴェルは流線形の自動車や航空機の形態に見られるエロティシズムに例えている。

 反射は、鏡という概念に結びつく。ギャラリ・ラファイエット・フランクフルトには円錐形のヴォイドが見られるが、その内側は湾曲する鏡面となり、そこに様々な光りや光景等が反射されるようになっている。円筒形の鏡によって、平面に描かれた歪んだ絵を正しく見せるバロック的あるいはシュールレアリズム的な手法を彼は反転させる。しかし実在よりも仮象を求める点ではヌーヴェルはこうした伝統に繋がっている。

 「光」という指標でみられた以上の分析からなにが言えるだろうか?ヌーヴェルは、伝統的なヨーロッパ建築の概念、すなわち構築とリプリゼンテーション(representation)の概念を解体しようとしていると、私には思われる。

 彼は1985年に『見かけ-透明性 Apparence-transparence』という論文を書きたが、それはコーリン・ロウによる透明性に関する議論の単なる受け売りではない。すなわち建築はかつてリプリゼンテーションのためにあった。古典主義建築は古代という理想を宣言し、近代建築はテクノロジーの時代の精神を表し、ポストモダンの建築も建築=記号という概念のうえに成立していた。モニュメントであれ、「語る建築 architecture parlante」であれ、記号としての建築であれ、それらはリプレゼンテーションの建築であった。ヌーヴェルが透明性の概念をもってくるのは、それへのアンチテーゼとしてである。

 代理代表でない建築とは、媒介する建築である。無限の搭は材質のグラデーションによって、空中と大地への2方向に消えてゆくのだが、言い換えれば、それは建築として自己主張しているのではなく、大地と大気を連結し、媒介している。これはピエール・エ・バカンス集合住宅にも見られるデザインである。

 オスマン的秩序とは昼の世界であり、そこではすべて現実的で明晰である。ベンヤミン的混沌とは夜の世界であり、そこでは実体と仮象の区別は曖昧である。媒介の建築とはその2つの世界の境界線上に存在する。そこでは軽さ、透明性、はかなさ、脆さ、色、ヴァーチャルなもの、といった概念が浮上する。

 ヌーヴェルは、技術から唯一のスタイルが生まれるのではなく、状況はそれぞれユニークだから、技術の応用の仕方も多様であるはずだと述べる。そこには「時代精神」という超越的なものは拒否されている。

  ヌーヴェルは、社会を構築しリプリゼントするのではなく、都市=社会を時には正確に時には歪めて「反映」するユーモアと批判精神に満ちた「鏡」となろうとしている。

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13年前に書いた拙論ですが、こういういいかたは顰蹙ものですが、よく書けています。細部の危うさはあっても野心的、意欲的なのが印象的です。自分が書いたものとは思えません。あなたは最近なにをしているんですか、田舎教師で満足しちゃだめですよ、という面と向かって若い人から何度もいわれた叱咤激励も、ああそのとおりだな、としみじみ思います。

これはおそらく日本で初めてのヌーヴェル展のためのカタログだったと思います。ジャン・ニーヴェル自身もそのために来日していた。彼がぼくの論文を読んでいい評価をしてくれたことをTOTO出版の人から聞いて安堵しました。レセプションに来ませんか、と誘われたのですが、ぼくは地方勤務で月曜から金曜まで授業があって、泣く泣くお断りしました。自分だけのことを考えて、いってればよかったと今では後悔しています。

それから13年たって体験も少し増えました。だから分かっているつもりなのですが、ドミニク・ペローもそうですが、ヌーヴェルもやはりフランス的なエッセンスを継承している。スケール、都市との連続性といったことでもありますが、とくにヌーベルの場合、19世紀にすでにパノラマ、パッサージュ、などを経験して仮象性、ヴァーチャル・リアリティの端緒を経験したパリの、やはり正統な後継者だと思います。もちろんぼくという外国人から見た偏見もはいっています。でも、それはそれとして、たんなる民族的造形などというものではなく、すこしは普遍性をもったフランス的なもの、に関する分析もまた、このさき、しても面白いのではないかと思っています。

ヒントをいいますと、「モダニズム建築」症候群について批判しましたが、モダニズムなどというのはアングロ=サクソン概念であって、今のグローバル化はアングロ=サクソン的支配だから、まあ、しかたないかもしれません。しかしフランスは19世紀に爛熟した都市文化を開花させ、モデルニテ=モダニティを云々していた。それをも勘案する複眼的な視線が、日本人がとことん疑似アメリカ人化している今日、状況を相対的にみるということで、役立つと思います。だって外国にいって、英語が通じないのはけしからん、などと憤慨している非英語圏の人類は、日本人くらいではないですか。自己植民地化ですね。英語が通じないことは素晴らしいことですよ。

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2008.05.28

ジャン・ヌーヴェルがラ・デファンスのコンペに勝った

まずWEB報道(Le Moniteur2008年5月27日)の抄訳から。

"la Tour Signal"(ラ・トゥール・シニャル)だからランドマークタワーなのでしょうが、直訳すると信号機塔、でも赤・黄・青でもなく、国旗の三色でもないような。都市軸にそってさらに郊外に拡張するゴーサインなのでしょうか。ともかくもヌーヴェルの仕事がひとつ増えた。

ジャン・ヌーヴェルとスペインの投資グループ、メデア、ライエタナ、のチームはシニャル・タワーのコンクールに勝った。ジャック・フェリエ、N・フォスター、D・リベスキンド、J・M・ヴィルモットをおさえて。ラ・デファンスはパリ西部のオフィス街で、設立50年にあたる。高さ300メートル、まさにこの街区の象徴的機能をも果たす。

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パトリク・ドヴジャン(オ=ド=セーヌ県議会議長、ラ・デファンス整備公社社長)によればこの建築は「グラン・パリを象徴する建物」となる。

ヌーヴェルは「グラン・パリの中心は唯一ではなくいくつかあるであろう。ラ・デファンスは歴史的街区のない中心地のひとつの最初の表現となる・・・」

建設費6億ユーロ、竣工2013年予定、延べ床14万㎡のなかに、オフィス、高級住宅、公共施設、商店、レストランなど。

このオフィス街ではこれまで、Cnitとグラン・アルシュが象徴的存在であったが、このタワーは第三の象徴となる。もっとも同規模の高層建築も他に構想中。灯台タワー、など。

今回、最終選考で選に入らなかった案もいくつか建設されるかもしれない。敷地は全部異なるからである。J・M・ヴィルモット+センチュリア融資グループ+ブイグ不動産は、ラ・デファンスの南門近くに。ジャック・フェリエ+エルミタージュ(ロシア)はすでに用地買収を開始して、竣工は2010年。

さて、愚見です。

グラン・パリに向かってスタートはすでにきられたのであろうか。けっこう関係者は意識している。国、自治体の騒ぎ方は、むしろ投資を呼び込むためのお祭り的宣伝なのかもしれない。またそのように機能してしまうであろう。世界の投資家のみなさん!どんどんパリに投資しましょう!ということでしょうか。

ジャン・ヌーヴェルは少なくともグラン・アルシュのコンペのころから挑戦し続けていたので、やっとプロジェクトが実現できそうで、おめでとうございます。20数年前のいわゆる「テット・ド・ラ・デファンス」では立体グリッド案であったが、これはナント市の裁判所で仇をとったのかな。「終わりのない塔」と呼ばれる10年ちょっと前のプロジェクトのほうも面白かったな。上にゆくほど透明感を増して行くタワーで、空のなかに消えてしまいそうな、ポエティックな外観、新しいランドスケープを演出したであろう。ただ内部空間はありきたりかもしれなかった。

とはいえ20年前のプロジェクトは、パリからの大都市軸をそこで終わらせよう、という位置づけであった。しかし新凱旋門は、中央にボイドを持ち込むことで、フランスが好む古典的形態を実現させつつ、それまで欠けていたモニュメンタリティを与えつつ、門、という象徴性、そして都市軸をさらに延長する可能性を残していた。

現在のマスタープランは、大都市軸をここで終わらせず、さらに延長しようとするものである。建築空間の力が、都市計画に影響を与えるという、ヨーロッパ的現象である。

当選したヌーヴェル案は、超高層でありながら、キューブ4つを上下に積み上げ、キューブのひとつひとつがアトリウムを内包しており、そこが人工的・立体的な広場、公共空間になるというもの。箱形のグラン・アルシュの隣にあると、なじんでいます。このアトリウムは、パリ方向、ピュトー方向への大都市軸とほぼ平行なので、このボイド空間(それぞれテーマが違っていそうだ)のかなたに既存都市を感じられる、結構なものになるでしょう。(おそらくヴォイドのひとつをコアにして、空中のゲイティド・コミュニティができるのではないかと想像している)。

このラ・デファンス地区は、オフィス空間を集中させることで、古都パリを機能的に補い、外国からの投資の受け皿になるという立場であって、国内投資は全体の数分の1なのだそうだ。そういう意味ではパリの出島のようなものである。いっぽうでそんなに居心地のいい町でもない。シカゴのようなハードボイルドさもない。むしろヌーヴェルは、キューブとボイドというなかに古典的スケールを導入した、そのことが建築的意味を担っているように感じられる。

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2008.05.24

グラン・パリ構想はやはり国が主導するのであろうか?

ともかくも「大パリ計画」の展覧会が、来年あたりパリで開催されるかもしれない、といったようなことですが。2006年あたりから国や自治体でこのプロジェクトを熱心に議論しているようです。

Grand Parisと書くと、グラン・パリ、大パリということでグレーター・ロンドンみたいな言い方になる。しかしGrand Pariは、グラン・パリと読んで、「大いなる賭け」という意味なのだな。1980年代にフランソワ・シャランが『ミテランの大パリ(大きな賭け)』というシャレた?題名の本を出版して、当時はじまっていた大統領のグラン・パリ計画を解説していた。どちらかというと好意的な立場ではあった。

補助線を引いておくと、かつては小パリ=保守派・右派、大パリ=革新派・左派、という構図であった。今は逆のようだ。どうも保守/革新ということでもなさそうだ。もちろん地方分権、グローバル化、という下から上からの流れの変化のなかで、パリという特殊な都市もいろいろ行き先を模索しているようである。

どこが特殊かというと、1970年代にジャック・シラクが市長になるまで、パリには市長がいなかった。中央集権国家の首都ということで、首都は国家事項なのであった。とはいえパリは独自の意志をもっている。このあたりが、面白いところなのだが。

さらに市町村、県、地域圏、国、欧州という多層構造のなかで、小パリをふくめた広がりの枠組みを決定するというのは、従来にはなかった問題であるからだ。

ボルドーの都市共同体は、市町村と県の間にある。しかしパリの場合、パリは市町村の地位にありながら、パリを含む連合は、県と地域圏のあいだの位階にならざるをえない。類例のない枠組みづくりである。

20世紀までの、国家と都市の対立は、国とさまざまなレベルの地方自治体との対立というかたちにより錯綜している。しかしやはり、国主導でしかありえないようです。

とりあえずWEBをだらだら引用してみる。Le MoniteurのWEB記事からである。

>>>>>2008年4月9日の記事。セーヌ=サン=ドニ県代表上院議員フィリップ・ダリエは、パリを中心とする4県融合案を提案した。これは市町村、地域圏の存在を脅かすものではないと強調。理想的解決ではないが現実的、という弱気の自己評価。

>>>>>2008年4月15日の記事閣外大臣ロジェ・カルチは、「グラン・パリ」について、2008年末までに計画の骨子を決め、2009年にはあたらしいガバナンス形式を決めるのであって、国がリードして法制化しなければならない、という態度である。フィリップ・ダリエの4県融合案は大失敗になるだろうと、反対。ジャン=ポール・ユション(社会党、イル=ド=フランス地域圏議会議長)はビジョンがないと切って捨て、ベルトラン・ドラノエ(社会党、パリ市長)はパリ独裁と、批判。「ガバナンスの信奉者ではない」と自認したうえで、クリスチャン・ブランの首都圏閣外大臣就任を紹介。

彼が考える具体的プロジェクトは、「メトロフェリク」(パリの外側の環状地下鉄で8~10年以内に完成)、「エコポリス」、エコ地区、東部に大規模なオフィス・センター、大規模な大学キャンパス、など。

>>>>>2008年5月6日の記事では、ロベール・スピジチノなる専門家が、諸勢力の構図を開設している。セーヌ=サン=ドニ県代表の上院議員フィリップ・ダリエは県など自治体の力が弱いと指摘。県議会は、地域圏を補強、新たな方向付けで問題に対応できると回答。サルコジ大統領は、首都圏特任の閣外大臣のポストを創設することで、あくまで主役は国だということをはっきりさせた。土木の大物ジャン・マルク・オフネールはすでの『ル・グラン・パリ』を出版して詳しくデータを分析した。建築家ポール・シュメトフとフレデリク・ギリはDIAT(国土整備のための省庁間組織)の要請で、フランシリアン(パリ地方の意)の空間を分析した。

国=文化通信省は、国の内外から意見聴取をしようとしている。スローガンは「京都議定書以降の21世紀のメトロポリス」で、スタディの結果を展覧会にする計画。ジャン・ヌーヴェルは、ガバナンスなどの観点からこうした大パリ計画に前向きであることを表明した。SDRIFやPLUといった現行都市計画についての議論はまったく価値がないと、IAURIFやAPURといった都市計画事務所も意見を表明した。いかなる種類のガバナンスか。ロラン・カストロなどは「グラン・パリ・コンセプトの父」を自称する【訳注:ミテランのグラン・パリのこと】。国が音頭をとって意見聴衆する背景には、地域の左派政治家はこのような構想をする能力はなく、国だけがその任に堪えうる、という考えがみえみえである。この意見聴取では、サステイナブル、環境などは配慮されているが、経済規模、ゲットー化、多文化性、生活様式の発展、などは考慮されていない。クリスチャン・ドヴィレ、レム・コースハースは意見を表明しなかったり、表明することがパリの現状に不適切であることを表明し、正面からの回答を避けた。

・・・・ロベール・スピジチノとしては、市民的、共和的議論をすべき、という。組織改編と、市民参加を呼びかけており、まさに彼の主張は、市民的であり共和主義的である。彼は地方圏議会には好意的で、クリスチャン・ブラン(この大臣はやがて意見表明する)には懐疑的である。

>>>>>同日(2008年5月6日)の記事では、パリ市長ベルトラン・ドラノエが、意見を表明した。この現職のパリ市長は、「グラン・パリ」という表現が嫌いであり、その首長になる意志もない。むしろ「パリ・メトロポール」が好きで、「間市町村=インテルコミュナリテ」の信奉者である。つまり独立した地方自治体の共同体がいい、という主張である。彼はパリ周辺29の市町村の長を集めた会合を2006年から開催しており、連合の形式をいろいろ模索中である。たとえば都市共同体(パリと123の市町村)、パリを含む4県を融合する、自治体連絡協議会の形態、など。ただ周辺自治体にもパリ・メトロポール案に反対意見もある。周辺部はパリのねぐらになるだけ、といったハウジング問題は大きいようだ。この自治体首長会議は、国のグランパリ計画が2009年に法制化されるか法案が出るかなので、それまでに意見表明しなければならない・・・。

>>>>>2008年5月13日の記事では、首都圏開発を担当する閣外大臣クリスチャン・ブランは就任2ヶ月後、5月13日、大パリ計画について声明を発表した。「ガバナンス」にもとづくプロジェクトだが、「国」はほかのパートナーと同格というわけではない。インフラ、交通機関の整備。2030年がめど。新しいかたちの財政方式、すなわちPPP(partenariat public-privé )【訳注:おそらく伝統的な混合経済のかたちを変えたもの、株式会社方式ではない官・民資金の結合方法】、「地代騙受」などというアングロ=サクソン方式の導入。すなわちインフラ整備、施設整備による地価上昇による利益を、整備事業に還元する。こうしたことを念頭に置いて、意見聴取をはじめる。ミッションの中心人物はピエール・ヴェルツ(ヨーロッパ領土開発整備高等研究所所長)。

>>>>>Le MoniteurのWEB記事(2008年5月22日)によれば、「パリ都市圏の大いなる賭け」のためのスタディ・開発のための国際ヒアリングがなされた。38人の建築家が回答した。そのうち10人が選ばれた。誰であるか、公表は6月3日。しかし「ル・モニトゥール誌」は大胆にも、独自の情報源から予想を出している。それによると;

ポルツァンパルク、ジャン・ヌーヴェル、イヴ・リヨン、ロラン・カストロ、アントワーヌ・グランバック、ジャメル・クルーシュ、リチャード・ロジャース、MVRDV、フィン・ガイペル、ベルナルド・ゼッキである。当然ほとんどフランス人だが、イギリス、オランダ、イタリアから各1エントリー。

2007年9月17日に建築・遺産都市の開館式においてサルコジ大統領は、グランパリの包括的再整備のための新プロジェクトを望み、そのために国際ヒアリングをすることを表明した。問題意識、戦略、理論、理念などを共有するためで、サルコジによれば「京都以後の21世紀のメトロポリス」を構想するためであった。(・・・おやおや「京都議定書」って日本で考えるより、時代の転換点として重要視されているのですね。)

意見聴取の暫定スケジュール:(*実体・実態を知らないでの訳語は適切でないかもしれません)

2008年6月3日:選ばれた建築家たちによる最初の会合
2008年9月15日:専門部会の調整会議(のようなもの)
2008年9月16日:スタディ作業の第二期の始まり
2008年11月07日:コンセプト決定版、活動計画の中間報告
2008年11月14日:専門部会の調整会議・第二回目(のようなもの)
2008年11月17日:スタディ作業の第三期の始まり
2009年01月09日:活動計画の決定版
2009年01月16日:専門部会の調整会議・第三回目(のようなもの)
2009年01月09日:建築・遺産都市における展覧会

意見聴取の背景。2006年に文化通信省が構想して大スケール建築(AGE)についての省庁横断型スタディを開始した。エコロジ発展サステイナブル整備省、などが参画。

・・・などなど。

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2008.05.23

ロワール川の城館、あるいはシュノンソー城とボフィール

写真は左からシュノンソー城、ボフィール、ル・コルビュジエであるが、似ている。知っている人は知っている話しだが、ル・モンドの記事を読んで思い出したので、大昔写真虫干し作戦として展開させてもらいます。

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ウェブ版ル・モンド(2008年5月21日17時02分アップ)から。広域観光地ネットワークづくり、といったお話し。地方分権時代を反映して、国でも県でもなく、地域圏が主体であるといったことが特徴ですね。中国、ロシアからの観光客をあてこんでいるのも、時代というものですね。そんなにすごい話題でもないですが、あくまで写真虫干しです。

まず抄訳です。

文化の経済的活性化のため、遺産界の新しい運営モデルとして、ロワール渓谷の18のシャトー(城)は、1月30日から共通の憲章を発動させている。オフィスをネットワークで結び、接客向上、プログラム活性化に役立てるためである。

最初の措置を講じたのは、エルヴェ・ボノHervé Bonneauさん。サントル地域圏のプレジデント(社会党だが)、「ロワール渓谷ミッション(使節団)」のそれでもある。このミッションはサントル、ペイ・ド・ラ・ロワールというふたつの地域圏、国、不動産所有者(市、県議会、公共団体、民間など)と連合する。ロワール渓谷は、2000年にユネスコ世界遺産に登録された、フランス遺産の宝石群である。シャンボール国有地、アンボワーズ城、アンジェ城、シュノンソ城、フォノヴロ修道院・・・・。

18のシャトーはしっかり活動している。全体としてこの2年間で来訪者は10%アップ、全体で1年500万人。しかし偏っている。シャンボール城は70万人、ランジェ城やシノン城には10万人しかいかない。

ひとりの観光客は平均3.3カ所をまわる。「ロワール渓谷ミッション」はひとりあたりの訪問先を増やすことを考えている。インターサイト・チケット(共通キップ)が検討されている。

シャトー間の協同にとって必要なのは、スタッフの育成、ハンディキャップの受け入れ向上、多様なアトラクション、デジタル化・インタラクティヴ性の向上、協同インターネットサイトなど。中国やロシアへの営業活動。

・・・感想。

まずシュノンソー城の写真。

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この城は、フランソワ1世の財務秘書長であったトマ・ボイエが建てさせたもの。しかしボイエが亡くなると、公金調査がなされて、公金横領が発覚した。子孫は重い課徴金が科せられた。その結果、所領は王室に召し上げられる。こういう話しは多い。中世にはテンプル騎士団や、17世紀にはフーケも、汚職により財産を取り上げられている。フランス王室のテクニックのようなものだったのではないだろうか。

それはともかくこのような経緯で王室のものとなった。アンリ2世は愛するディアヌ・ド・ポワティエにプレゼントする。以降、所有者はころころ替わっていったが、カトリーヌ・ド・メディシス、ガブリエル・デストレなど女性の関わりが多く、「淑女のシャトー」とも呼ばれている。革命あるか以前にこの地所は、私有地となり、地主はなんども交代した。フランス革命のより共和国は、ChenonceauxのxをとってChenonceauとし、それが今日の名称となった。

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川の上に、橋状に建設されたお城である。前身建物であった水車の基礎を利用したということになっている。それはともかく、橋上に建築を建てることは16世紀では一般的であったし、そんなに驚くことではない。ル・コルビュジエのユニテ、ボフィールのパリ郊外集合住宅も、こんな感じである。上の写真は、ボフィールがサン=カンタン=アン=イヴリンヌに建設した集合住宅で、池のなかに張り出している。

まあここの住人が王に寵愛されたセレブ女性のような気分を味わえるかどうか、知りませんが。ともあれボフィールは、歴史的建築のあざといリバイバルで、仕事をたくさんとっていた。1980年代のことであった。終わり。

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2008.05.21

カーンの住宅に買い手みつからず、など

バーチャル朝刊のひろい読み、ななめ読みです。

080520kahn1_2 >>>>ルイス・カーンが設計した住宅がいまだ買い手みつからず。---この前の続報。マーガレット・エシェリク邸(1961)。シカゴのオークションハウスである「ライト」(専門は20世紀のアートとデザイン)はロケーションがよくないからかなあ、とため息。この住宅は彫刻家の邸宅。1992年にAIAフィラデルフィア支部からランドマーク・ビルディング賞が与えられている。現在のオーナーは健康上の理由で手放すが、住宅を大切にしている新オーナーを希望している。ライトは専用のオークション・ウェブで宣伝し、プロ写真家による写真集まで出した。懸念はブローカーが買い取って、住宅を取り壊すこと。ライト氏はそうならないと希望している。ちなみにライトはケーススタディハウスNo.21やブロイヤーのウォルフソン邸などモダニスト住宅(注:モダニズム住宅とはいいません)を転売した実績がある。(AR2008年5月20日

---教訓。自由主義市場における住宅遺産の継承のためには、良心的な、モダニズムに理解と共感を示す代理店が必要ということ。アメリカの20世紀住宅は、施工もよい例が多いから、建築家物件でもあり受賞歴もあり、さらには建築史の教科書にも載っているのだから、投資と思って買ってみて、それでメンテもちゃんとしたらアメリカ人に感謝される、などということのために、一肌脱いでみるお金持ちはいないのだろうか。ちなみに日本の近代住宅、あるいはモダニスト住宅というのはかなりアメリカが手本だから(アメリカ屋なんてのもあったし)、日本文化の根源のひとつを相続するということでもあるのだが。

D3s1ranvcrennes_2   >>>>レンヌのアルベール・バイエ広場に金属の雲、誕生。「ユニヴェール」なるアトリエ(景観・都市計画が専門)が設計。強い視覚的要素が「異化作用」をもたらす、という主張。(Le Moniteur 2008年5月20日)  -----レンヌでなければとらげないのだが。いまどきの造形。国際的なレベルではとくによく評価すべきものとも思われないが。でもまあ、19世紀の鉄骨建築である市場建築とか、これを都市的文脈における特殊解とさせない、造形の文脈というものが、たしかにある。

>>>>公共建築への民間資金の適用についての議論。日本でいうPFIに近いような、でもすこし違っていそうなPPP(英語的にいえばパブリック・プイベート・パートナーシップ、もちろん言語はフランス語だが)は、フランス産業に伝統的な同業組合主義の根強いメンタリティのおかげで、苦戦しているのだそうな。(Le Moniteur 2008年5月20日

>>>>ベルリン・フィルで火災。演奏家にも観客にもけが人はなかった模様。クラウディオ・アバドの特別指揮のコンサートも予定どおり行われるとか。(Le Moniteur 2008年5月20日

>>>>大学都市のオランダ館が修復費用の不足から、募金を募っている。大学都市とはパリ南部にある留学生学生寄宿舎団地。アメリカ館、日本館、スイス館(ル・コルビュジエ)、ブラジル館(同じくル・コルビュジエ)などたくさんの学生寮がある。オランダ館は、W.M..デュドック設計で、1938年完成、2005年歴史的建造物に指定。修復工事は2009年から2012年に予定されている。(Le Moniteur 2008年5月16日

1 >>>>マドリッドに、緑の塔(注:緑の党ではなく緑の塔)。こういうのが3つあって、ツタ系の植物を生やし、街路樹が生長して木陰を提供できるようになるまで、15~20年間、地域の環境を保つという代役をつとめるのだそうだ。だから構造はテンポラリーなもの。2007年に新人建築家賞があてえられたという。Ecosystemaurbanoというのがマドリッドを本拠とする建築家・デザインからなるアトリエの名前。(Le Moniteur 2008年5月13日)  ------これがほんとうに緑に覆われたら壮観だろうね。都市内の巨大なトピアリというところだろうか。上にはソーラーパネルも見える。なにか卒業設計を洗練させたような外観だが、これがうまくはまるのは、交差点や道路がロータリー方式であったり、都市という背景の違いがあるのだが。

>>>>日本のテレビから。これは周知のことでしょうが、若者のマイカー離れ、アルコール離れ、ということは消費者マインドの急激な落ち込み、が顕著なのだそうな(まるで山寺からの発言ですが)。この現象は、20代と30代前半にあてはまる。これは識者や経済界がさかんに懸念を表明していた、将来危惧すべき消費者の姿です。つまり消費したがらない消費者。これが世代的、一時的なもので終わらず、構造的にそうなってしまったら、日本の将来は暗い。世代のメンタリティは変わらない。団塊は老人になっても団塊。

これは社会学でいう典型的な「再回帰性」の現象になるかもしれない。つまり悲観的な観測が、現実に反映されてしまい、ますます悲観的な状況を生む。すると住宅産業をエンジンとした昭和の終わり、消費社会の終わりはすでに始まっていて、かなりの段階を進んでいると考えるべきでしょうね。なんとかの隠れ家とか、カーサなんとかとか、そんなの見てるのはもうおやじ、なのですね。カーンの住宅を買おうなんていうのは60代以上の人にしかつうじないおとぎ話でしょうね。

つづきは随時。

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2008.05.20

「建築的価値」はこれからのトレンドになってくれるか?

「建築的価値」という言葉は、ありそうでまだまだない言葉です。

しかしこれが定着することが建築界にとってはいいことと思われます。現状をざっと眺めてみましょう。

文化庁のサイトで、制度の言葉を見てみます。日本の文化財行政での位置づけがわかります。たとえば重要文化財(建造物)とは「歴史上,芸術上,学術上価値」が高いものという説明です。指定基準には「価値」という述語は一部にのみかかわり、「優秀なもの」という表現と混ざっています。で、なににおいて指定されるかというと、意匠な優秀さ、技術優秀さ、歴史的価値、学術的価値、それから流派的又は地方的特色において顕著なもの、という5項目です。

登録有形文化財登録基準は、建築物をふくむ工作物一般が対象ですので、歴史的景観や、造形の規範、といった曖昧な基準にとどまっています。しかしいくら景観についての研究が進んでも、少なくとも建築という日本においては1世紀以上の長い学問と実践の蓄積のある分野が、景観のなかに解体され解消されるということはありえなく(欧米ではなおさらそうですが)、建築的価値というくくりはスローガンではなく実体なのです。

ともかく「建築的価値」という表現は、公式にはまだない。たぶん芸術上、学芸上の価値というもののなかに込められるのでしょう。まだまだです。

つぎに「建築的価値」でgoogle検索してみよう。95万件ヒットだが、「建築的価値」と連続的・一体で使われているのは例外的です。

例としては富岡製紙工場のHP、心斎橋大丸のファンサイト、建築家のいえづくりサイト、日土小学校校舎の保存要望書(歴史的・建築的価値)、「壽丸渡辺家住宅の建築的価値」ぼくのサイト(19位は立派)、シルバーロッジ、韓国観光局の世界遺産サイト東京駅保存インタビュー大阪府庁本館の立替えについて、建築学科の旧枢密院庁舎の建築学価値についての文書、・・・など上位50件のなかで10件ほどです。また建築や保存の専門家が意図して使っているのは6~7件ほどと思われます。

これまた世の中を山寺から眺めるような言い方で申し訳ありませんが、意識の高い例外的な人びとが「歴史的価値・建築的価値」と2項並立でいうようになった。つまり「建築」そのものが独立した価値体系であり、建築にも独自の審級(価値や意味を判断するために固有のモノサシ)がある、ということを主張しはじめているようです。

英語圏では『建築的価値を判断する』といった文献が2007年に出版されており、意外とと遅れているなという感想をもちました。しかし英語圏でそうなら、これからのトレンドだろうと思われます。

もちろんこうした文脈で言及すべきはフランスだと思います。フランスにおける歴史的建造物の概念は、公式には、その歴史あるいは建築に特筆すべき点があるので公益のために保存すべきもの、というような規定があります。

言い換えると「歴史的な価値、建築的な価値、どちらか」があれば歴史的建造物なのです。

イタリアやフランスでは、建築家はルネサンス以来芸術家としての立場が認められていたし、フランスでは17世紀から建築アカデミーが、絵画・彫刻アカデミーからは独立してありました。また19世紀には建築史学研究もすすみ、建築を歴史的に学問的に研究することの膨大な蓄積ができてきました。だから20世紀になって保存の法制を考えるときに「建築的価値」という表現はごく自然に出てきます。

日本はこうした伝統はきわめて浅かった。しかし昨今の動向を観察すると、すでに書いたように、「建築」独自の価値体系があるという方向に流れてゆくと思われます。

つまり以前は、建築はたんなる構築物であるが、それに歴史的な価値や、文化的な価値が付随すれば認められた。それは「この建物は、江戸時代の歴史を彷彿させるからいい」や「この建物にはすばらしい装飾がほどこされるからいい」といった感じの判断でした。

しかしある建物が「建築的価値」によって認められるということは、建築固有のスタイル、主義、思想、理念などがその基準となりうる、ということです。つまり建築関係者が、建築について思念し、思索し、手で構築し、技術を展開し、といった建設にかかわるさまざまな営みが、それぞれ創造的であり、価値あるものと認定されることへの道を開く、ということなのです。

いままでは文化、芸術、歴史といった濃厚なソースを、建築というソース吸収食材のうえにかけていた。これからは建築もその奥の深いソースに仲間入りできるかもしれません。

「建築的価値」という言葉の意味はとても大きいと思います。それは建築を、文化、芸術、歴史などといったこれまでの上位に審級を頼らなくともいいからです。あるいはまちづくりや地域再生といった(それはそれで大切ですが)プログラムに位置づけないと建築が生かせないような、ことがなくてもよくなるからです。

さて素描ついでに、そのうち「歴史的価値」と「建築的価値」の関連にも言及してみましょうか。

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2008.05.17

競売にかけられる近代住宅

WEB版ルモンド紙の記事(2008年5月17日17時28分アップ)によれば・・・

5月13日、NYの有名なクリスティ競売場で、リチャード・ノイトラが1946年に建設したカウフマン邸が、1680万ユーロで売却されたそうだ。またシカゴにあるライト(あのライト?)なる販売会社は、ルイス・カーンが1959年に建設したエシャリック邸を競売にかけるそうだ。

この競売は来る5月19日だそうで、お金持ちの日本人のみなさん、押しかけましょう。

そういえばシカゴ郊外のファンスワース邸もイギリス貴族のものであった。

フランスでも近代住宅を美術品扱いして競売にかけるのはブームだそうです。数ヶ月前に建築コレクション・パリ代理店なるものができて、20世紀、21世紀の作品を取り扱っているそうです。記事は面白くて、20世紀の巨匠建築家は「ライオン」、21世紀の若手有能建築家は「ウルフ loup」なんて形容されている。まるでカサ・ブルータス的なノリですね。1998年に設立された同種の代理店atelier, Lofts & Associesの代表者Nicolas Libertは「不動産とってもアートですよ。建築的価値によってアート市場における・・・」と指摘している。

インターネット上にアート扱い近代住宅の主要物件が掲示されており、専門家=鑑定家がいろいろ説明しているようだ。

ル・コルビュジエのヴィラ・シュタインも100万ユーロという値がつけられているのだそうだ。1億5000万円というと、安いなあ。ぼく的にではなく、相場として。

オープンハウスもやるらしい。その他、詳細は上の記事を参照してください。

・・・で、ぼくはこういう現象は、世界遺産の裏表でしょう、と思います。文化的価値、資産価値、建築的価値、遺産価値、けっきょくは同根であり、計測するモノサシを変えているだけです。メートル、インチ、尺、キロなど。

ちなみにイタリアでは国宝的存在が民間に売却されたということで、問題にされた事件があったらしい。それは文化財や世界遺産といった公共的な枠組みなのか、このクリスティのような民間的枠組みなのか、違いがあります。もちろんその間のせめぎ合いがあります。

しかし近代住宅の価値を認めているということは共通しているし、大きい。

それから欧米ではすんなり受け入れられる概念として「建築的価値」があります。これは「芸術的価値」に準ずるものですが、アートほどは純粋ではないがそれなりに、建築も、アートにはない価値があると求められているようです。

しかし日本では「建築的価値」そのものはまだ認知されていない。建築は「芸術的価値」や「歴史的価値」を認められて、はじめて文化財やなにか価値あるものとして認められる。つまり日本では、建築はまだ翻訳の対象であるような気がします。

いずれにせよ日本における世界遺産は、世界といいながら、国策としての展開だから、クリスティのようなダイナミックな資本の動きとは関係がないでしょう。

でも日本は昔はまだダイナミックであった。福田和也『日本の近代(上)』(新潮新書2008年4月20日)でも紹介されていますが、岡倉天心がヨーロッパ滞在中に日記をつけているが、それはまさに画商として美術品のマーケットにおける値段の上下を観察し、日本からなにが売れるか、懸命に観察するものであったようです(p.165参照)。

つまりクリスティ的状況は、明治のころの岡倉天心的状況なのです。なにも変わっていないような気さえします。ところが、国が指導しなければなんともならない状況なのでしょうか。

ついでにいえばイームズ自邸は子孫がファンデーションを創設して必至で遺産を守っています。

日本は、相対的にですが、文化を守ってゆく民間というか個人が弱体化しているようです。あるいはお金持ちの方々が、しばらくそっちの方面を忘れていたからかも。だからいっているのです。お金もちの方々はクリスティに押しかけましょうと。

あるいは日本のIT長者や、不動産長者に嘆願して、国内の近代住宅競売マーケットをつくってもらう。建築家物件代理店をつくってもらう。いや、もうあるのかな。すでにあれば教えてください。

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イームズ自邸を見学したことを思い出した

ちょっとまえにイームズ夫妻記念切手のことを書いた。そこで2000年のアメリカ観光旅行を思い出したりした。LAには1週間いて、ニュービートルなんかを借りて、あちこち見にいった。イームズ自邸もね。

いまではEames Foundationなんかがあって、そこのHPでこの自邸の略史などが説明されている。それによると夫妻はもともとアパート住まいの延長のようなものを考えていた。エーロ・サーリネンとの共同設計であった前身計画は「ブリッジハウス」と呼ばれ、写真はみてないが、大地と切り離されたものだっただろう。で夫妻は「牧草地meadow」と恋に落ちてしまい、今のようなデザインとなった。

ふたりが大地に目覚めた経緯のようにも読める。でもそれは現地におけるぼくの実感どおりなのであった。

ケーススタディ・ハウスとしてとても有名であり、日本では岸和郎さんたちが本を書いていた。ぼくは撮影した写真の虫干し的公開でやってみましょう。

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この建築の本質は、宅地造成である。基本的にはここは斜面でしたが、すこし土地を削って、そこは擁壁にしてある。これが空間をつよく区切っている。さらに建物に平行に樹木を一列に植えている。この樹木と建物のあいだが通路となっている。

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フラットな大地。それが本質です。イームズさんたちにとっての「牧草地」ですね。

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この旅行ではLA市内の美術館もたちよった。そこでイームズ展をやっていた。家具が中心で建築もちょっと、って感じかとおもっていたら、彼らの撮影したスライドは素晴らしくきれいだった。グラフィックなセンスがすごくあるのだ。この自邸もこのセンス抜きに考えられない。

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クリックして拡大してください。こうしたグラフィックなセンスが全体を支配しているように思える。写真の撮り方によっては、立面はモンドリアンもどきになる。もっともこれはぼくがそう意識して撮影するからなおさらである。日本建築をモンドリアンもどきで撮影した写真があったでしょう。

ところが興味深いのは、平面つまり床、土地などでもまた、グラフィックなセンスが展開されている。ここは徹底的に、床と庭がおなじレベルにされている。するとグラフィックとして処理できる。いうはやさしいが、室・建物の内外、そこは土、植物、レンガ、セメント、鉄(柱)、床タイル(石?)が遭遇するとてもクリティカルな局面だ。イームズさんたちはそれにヒエラルキーをつけず、彼らの得意のグラフィックに呼び込むことで、うまく美しく処理している。

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ミースのファンスワース邸も、H鋼の支柱を大地にどうつなぐか工夫していた。土台となるコンクリートを地面すれすれにして、ほとんどないがごとくで、大地にH鋼がそのまま突き刺さった、いわゆる掘立ての外観だ。建築家はそこまで気をつかう。もっとも近くで見れば、土台ははっきり確認できますけどね。

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これなんかは日本の踏石みたいですね。玉砂利もあるし。しかし日本の踏石は庭と縁側というように違うレベルを結びつけているが、ここではあくまで平面的。ミースのようにピュアに切り離すのではなく、雑多な要素がそのまま露出している。しかしその面をそろえることで処理している。

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こうした素材の突き合わせ。イームズさんたちはメイソンリーもカーペントリもほんとうは嫌いだったんじゃないか、と思いたくなる。

それから、グラフィックなセンスと書いたが、これはものづくりのセンスでもある。イスをデザインしていたことと、やはり関係がある。つまりデザインは、異質な素材の出会いにとても気をつかう。継ぎ手、遊び、収まりなど。素材と素材の突き合わせかたが、やはり通常の建築からはすこし違うように感じられる。もっともぼくは構法のプロではありませんから、あくまで美学的なことですが。でもそういう意味で鉄骨はうってつけの素材であった。

それから土地をそのまま床にした点が特徴だろう。太田博太郎先生流に、住宅は高床か縦穴(接地型)に分類できるとしよう。前者の代表はファンスワース邸。後者はたとえばこのイームズ邸であり、ライトの住宅であろう。つまり土間型の内部空間と暖炉の組み合わせは、アメリカの伝統であり、アメリカそのものといっていいだろう。

そういう意味で、この住宅にとって決定的な一手は、宅地の造成にあった。

・・・なんて感じで、スライドショーをやるのも、ブログネタになりそうですね。

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2008.05.16

シャンボール城大階段の修復は老舗の修復会社が担当する

2008年5月13日付。LeMoniteurサイト「シャンボール城大階段修復のためのメセナ契約」なる記事。

・・・とその前に、過去写真の紹介。

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1980年代中盤のものの虫干しです。ニコンF2、PC28mm、コダクロームというすごい装備でした。回顧すると。ずいぶん気合いはいってました。今はずいぶん堕落しましたが。

さて記事ですが、まず抄訳。・・・・サルコジ大統領府官房長官エマニュエル・ミニョン(Emmanuelle Mignon)は、シャンボール国有地行政委員会の委員長の立場においても、このルネサンス時代の城館の大階段を修復するため、メセナ協定にサインするであろう。この官房長官が、国領行政委員会を主宰する。

このシャンボール城はフランソワ1世が建てたもので、中央部分の二重螺旋階段で有名。ダヴィンチの影響下での設計とされている。1930年に国の所有となった。年間80万人の観光客がくる。1981年にははやばやとユネスコ世界遺産に指定されている。

シャンボール国有地のプレスリリースによれば、このメセナは「はじめて、歴史的記念碑を専門とする民間企業の参加を、大規模な修復事業にもたらす」。この民間企業とはルフェーヴル社である。1944年に設立、シャンボールとのかかわりは1947年以来である。修復工事はまず、スタディが2008年からはじまり、工事期間は4年の予定。大階段全般だが、とくに196の柱頭がおもなターゲット。

・・・・以上のようなことでした。若干考察すると、16世紀に建設された王城は、18世紀にはポーランド国王のものとなり、兵舎にもなった。ナポレオンは彼の元帥のものにした。所有者はなんどか変わり、時には兵舎や野戦病院にもなったが、基本的には貴族などの個人所有であった。結局、1930年の国有化、そして1947年からのルフェーヴル社の修復工事により、現在のような観光名所となった。

中世の教会建築は19世紀から、王や貴族の不動産はかなり遅れて20世紀から文化財となったことが、ここでもはっきりしている。

なにが決定的な要因であるかを考えてみよう。教会建築にとってはフランス革命が転換期であった。教会組織が、教会堂など施設を維持できなくなった。城館の場合は、第一次世界大戦ではないかと今のところ思っている。このシャンボール城のように個人や一族では維持できなくなり、国有化となったと考えられる。

いわゆる保存や遺産の理論についての説明がときどきおかしいのは、それら理念の発展により政策が展開したとするのが普通である点だ。そうではなく現実(下部構造といっていいかもしれない)が激変し、その結果、制度を変えざるをえなくなり、新しい理念が要請された、ということではないだろうか。

つまり「保存」(都市計画の人は「保全」らしいが)とは、すぐれて近代の理念であるが、保存行為は歴史上いつの時代でも行われていた。この理念と実践の関係をわきまえないと歴史はわからない。遡及主義はいつもこの点で誤りをおかすのではないか。

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2008.05.15

『パラレル・ニッポン展』がパリで開催されている

ぼくも関わった『パラレル・ニッポン展』がパリの日本文化会館で開催されている。6月21日まで。入場料3ユーロは、まあこんなものか。

これは1996年から2006年までの日本の現代建築から約100作品を選び構成したもの。日本建築学会とジャパン・ファンデーションが主催である。

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ル・モンド紙ウェブ版でそれについての記事があった。Les aléas de l'architecture japonaise だが、2週間たつと定期購読者だけしか読めなくなってしまう。2008年5月14日17時15分(現地)アップの記事である。

いろいろ厳しいことが書いてあった。以下は抄訳。

すでに歴史的となったせんだいメディアテークからはじまり、プラダにような海外建築家の日本における作品、日本人建築家の海外における作品、など日本という輪郭が崩れている。

作品の選定については多様性があるが、最悪の作品までセレクトしている。

総論と組み立ては、この10年間をいくつかの「サイクル」概念で分析軸をたててゆくものであった。生活(生命)のサイクルはよく描けているが(注:この項はぼくが書いたので、ありがとうございました、というところだろうか)、文化と住居のサイクルはそれほどでもなく、都市のサイクルの記述はよくない、という評価。伝記的レトリックはお勧めできない、云々。

「仮説」つまりバブル経済の崩壊と阪神大震災が転機になり、新しい世代の登場をもたらしたということについては(注:「仮説」という書き方が信用していないという意思表示なのだが)、本質的な要因を無視しているという指摘。記事(無署名)が指摘する本質的要因とは、建築における日本派の優秀性、西洋化した他の国よりも専門家が多くて活発で彼らが職能団体に助けをもとめたがる、という点。

分析はパネル展示と矛盾している。建築も都市ももっと長い時間のスパンに属しているのでだが、それと無関係なものになっている。安藤忠雄、谷口吉生、槇文彦は「当初の静けさ」を保ち続けているではないか(なにが変わったというのか)?ヴェネツィア・ビエンナーレでひょうきんさを展開した藤森照信は位置づけられていないではないか?

・・・とほとんど酷評なので、反省、というか自戒してみよう。

批判の核心はまず、企画が内向きではないかということである。これは日本社会の特質のようなことである。つまり最近10年間の100作品というような大きな枠が最初に設定されている。するとそのなかでバランスを考えはじめる。ぼくも気の弱さが出て、あのゼネコンははずせないな、あの建築家は拾わなきゃ、などである。これはわかっていてもとまらない。やはり企画者に呼ばれて仕事をさせていただいているという意識があるからだ。自戒を込めて。

さらにル・モンド紙の評者のような、対話者を、企画の段階で想定できない。なるだけ企画しながら、内なる対話をして問答想定などするのだが、世界が相手だと、自分の経験も限られている。これを見たら、韓国人は、中国人は、アメリカ人は、フランス人はどう思うのだろうと、考えてはみるのだが、考えられないよねえとため息がでるだけである。これまた自戒を込めて。

しかし相手をおもんばかるのが国際性というものではない。一貫した自己主張があるかどうか、がもっと大切だ。そういう意味では、日本はどちらかというと、状況や潮目を読んだり待ったりするほうである。それが理解されようとおもうと不利であろう。

この記事でわかったのは、彼らが期待するのは、10年間の紹介であるとともに、そこを踏み台にして100年、200年という展開を見たい、あるいはそもそも日本建築とはなにか、というようなことなのだ。だからそこに業界内的なうじうじした話しをもちこんでも通じないのだ。建築の永遠性を信じる人びとと、いまここの状況がいちばん気になる人びととの相違でもあろう。

しかし日本建築界はこれから、ぼくが「モダニズム建築」問題と呼ぶものに象徴的に示されるように、普遍化をめざすどころか、ますますセクト化するだろうね。セクト化するのは本人たちの自由だが、その限界はあくまで内向きだってことで、外国にむけての対話ができるようには、ならないだろう。

こうしたことは建築史家はしっかり処理しなければならない。しかし歴史家は歴史家で、近代が嫌いな人、西洋建築そのものが嫌いな人もふくめて建築史家だから、まとまらないというか、すでに限界までセクト化している。まあどの国も似たようなものかもしれないが、あまりに極端で歴史すら書けなくなってしまっている、というのが日本の現状です。

やはり建築史家がだらしないのはたしかで、建築史家として猛反省。

企画した委員会のメンバーとしては、こうした反応をちゃんとストックしてフィードバックできるようにすべきでしょうね。そのための情報収集、アーカイブ化、が望まれる。遠く離れたぼくがどこまでフォローできるかわからない。しかし、こうして、みずから痛みをともなう記事にするのはせめてもの将来貢献だと思います。

まあ10年後はすこしよくなっているかもしれません。・・・食事が遅くなってしまいましたね。でも大切なことだから。

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イームズ夫妻の記念切手など

おはようございます。バーチャル朝刊斜め読みです。

ARサイトの2008年5月14日付けの記事「チャールズ・アンド・レイ・イームズの記念切手」。6月17日はチャールズ・イームズの100回目の誕生日。そこで合衆国郵便局は記念切手を発行するのだそうだ。1枚42セントが16枚セット。代表作が選ばれている。ほとんどイスだ。でもケーススタディ・ハウスのひとつであるイームズ自邸もスタンプとなっている。チャールズはそこで1949年から亡くなる1978年まで、レイはやはり亡くなる1988年まで過ごす。

ぼくは2000年の夏にこの住宅(+オフィス)を見にいった。こんだけカジュアルでもいいんですよ、って感じの住宅だった。そういう意味では、アメリカ的というよりあくまで西海岸的なのであるが。それを普遍化して解釈しようというのは、どうかな。

記事には背景も書かれている。合衆国郵便局を代表してDerry Noyesが、こうした形式の記念切手はまれなことで、小売業者もイームズの名前は今の世代のデザイン愛好家たちに再発見されつつあるのだそうな。

ぼくがアメリカの切手のことなど知っているはずもないが、なんでも政府には、郵便切手にアドバイスをする市民委員会があるらしい。そこでたくさんの提案がなされるとか。なんかすごい。で、前述のDerry Noyesさんは、ご両親がイームズ夫妻の友だちで、子供のころから知っていて・・・。彼女にとってイームズデザインは「戦後アメリカの夢」だったのだそうな。でイームズオフィスは今は孫によって運営されていて・・・・。

などとかかれると、たしかに、かつて学生だったぼくにとってイームズの名前はすでに神話であり、ふたりは神格的な存在であった。でもこう書かれるとすごく等身大だ。

ちなみにビル・ゲイツは将来、記念切手になるのだろうか。そのときイコンとなる図像はあるのだろうか。アイコンで動かすPCを発展させた功労者にとってイコンはない、なんてことになったらちょっと悲劇だね。

Le Moniteurサイトの記事によると、サン=ゴバンがイギリスのGibbs and Dandy社を買収するのだそうだ。5400万ユーロで。ただGibbs and Dandyの名前は、ロンドン周辺地区では歴史がありよく親しまれているので、そのまま使い続けるそうだ。なので記事のタイトルには、サン=ゴバンが「建材商の看板を買収」した、とある。日本もデパートはそんな感じですが。ちなみにこのサン=ゴバン建材運搬部門はいまや24カ国に7万人の従業員をかかえる。サン=ゴバン・グループ全体だと54カ国、20万人。

なぜサン=ゴバンかというと、これは1665年にコルベールが設立したガラス会社なのです。当時はヨーロッパでガラスといえばヴェネツィアの独占であったが、コルベールはその牙城を崩そうとしたのであった。その後、有力製鉄会社を傘下にし、世界的な企業に成長した。1981年にミテランが国有化したが、1986年にふたたび民営化。ルーブルのガラスのピラミッドをつくった、といえば存在感が感じられようか。

フランスは企業が国策のための駒として使われている。こんなところは基本的には、日本と似ているのだが。

ちなみに東京は汐留にジャン・ヌーヴェルが設計した高層建築では、セリグラフィー入り強化ガラスがつかわれているが、これもサン=ゴバン製である。

そのほかヴァンシ会社が売上げ目標堅持、ブイグが中央アジア最大のモスク建築を契約、スペインの電気会社とアメリカのジェネラル・エレクトリク社とが風力発電機200台の契約。2010年には北アメリカに設置されて300メガワットを発電するのだそうだ。

2011年にUIA大会が開催される。日本のアーキテクト資格がほんとうに国際標準にすりあわさるのかどうか、知らない。日本の政治・産業界には、建築設計が産業を牽引してゆく、という発想が希薄であるとの指摘がつねづねある。ヌーヴェルは汐留で設計料をせしめて外貨獲得に貢献しただけではなく、サン=ゴバンのガラスを使うことで、おおきな利益をもたらした。設計は色と形のみならず、仕様を決める。

この基本的な構図が日本ではつたわりにくいのは、日本の建築雑誌は基本的には、写真誌であることだろう。それと建設新聞のような業界紙は別の世界のように存在している。ほんとうはひとつのものの多面であるのだが。それが読者にはストレートに伝わってこないような組み立てになっているのであろう。

うん。そろそろ目がさめてきたぞ。

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2008.05.14

NYのアダプティヴ・リユースはテイトそっくりなんだよね

AR誌サイトの2008年5月13日付の記事。「ドミノ砂糖プラントについての厳しい論争」。NYのアダプティブ・リユースの事例です。ロンドンのテイト・モダンとよく似ています。

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抄訳ですが・・・・

「アダプティヴ・リユース」や「ロフト・リビング」が古い産業施設をトレンディなコンドミニアムに改装するデベロッパーにとって人気のあるキャッチ・フレーズとなっている(注:すでに皮肉な態度がただよっていますが・・・)。しかしNYのブルックリンにある「ドミノ砂糖プラント」を居住施設にかえる計画については「拙速はだめ」と反対の声がとても大きい。NY市の「ランドマーク保存委員会LPC」は公聴会を開催した。Beyer Blinder Belle Architects は、25階建てガラス屋階を、ランドマークであった精糖工場の上に附加することを提案していたが、反対の声がおおきく、提案は見直しとなった。

NYを拠点とする歴史地区保存会社は、「精糖施設」(詳細省略)の上にできるだけ多くの住居を詰め込めこむという仕事を受けている。旧施設はロマネスク・リバイバルの建築(注:アメリカらしい)で、敷地はウイリアムバーグの川岸にあった旧工業団地であった。マスタープランはラファエル・ヴィニョリ・アーキテクツで、高層住居、店舗空間、公園を担当。全2200戸、そのうち30%はアフォーダブル。

反対派は活発なロビー活動をつづけている。歴史的建造物への脅威であるとか。このドミノ砂糖プラントは1884年開業、2003年まで操業。2004年に施設は、Community Preservation Corporation傘下にある営利組織CPCリソースに売却された。当初は建物をとりこわして住居を建設するというプランであったが、すぐ却下された。開発側にはアイザック・カーンというメガ・デベロッパーがいて、彼は長いことブルックリンの保存主義者たちの敵であった。

工業団地はまだランドマークの身分は与えられていないが、「ランドマーク保存委員会LPC」はそれに準ずる選定をしたので、改築のためには、11人の委員会の過半数の合意が必要である。5月4日のヒアリングでは、Beyer Blinder Belle の計画を支持しているのは2名だけである。ガラスの箱は大きすぎ、施設の産業遺産としての面影を損ねるとするのが支配的な意見であった。また「ドミノ砂糖プラント」の看板という長い間イースト・リバーの景観を支配してきたものを計画に盛り込めなかったのも残念である。

「ランドマーク保存委員会LPC」によれば改定案が出されれれば2回目の公聴会を開催する。デベロッパーは2ヶ月以内に再提出するとか。

・・・アメリカでは、歴史地区保存はすでにディベロッパーが保存委員会と協議するものにかわっている。基本はビジネス・ベースである。新聞報道からは、たとえば委員会が実際はどんなメンバーで、なんの利害を代表していて、どういう思想をもっているか、わからない。ただ開発も、保存も、それぞれしっかりした法人格が代表している点で、利害の対立を透明にしている点はよろしいのでは。

なおこのデザインはあきらかにロンドンのテイト・モダンの真似である。ウオーターフロント、工場、煙突、上にガラスの箱を増築する手法、すべて似ている。そういう意味では、ドミノ精糖工場的なランドマークとすべきところを、ロンドン的な世界的有名ランドスケープにしようとしたところにデザインのあざとさがあるといえる。逆にいえばテイトのデザインはそれほど良かった、ということか。

アメリカの保存を賞賛する声も多いが、(所詮は)デベロッパーの仕事であるということを問題にする人は少ないのではないか。アダプティヴ・リユースだとか、アフォーダブルとか、いわゆるデヴェロッパー的言説が日本にはいるとなにか先進的で学問的な言葉になってしまうのだけれど。所詮は営利活動であるものに社会的正義というフレームを与えるための言葉がこれらです。まあ使ってもいいと思いますが。生理的にちょっとやだよね、くらいの感受性はもちたいなあ。

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2008.05.13

フランスの建築雑誌L'Architecture d'Aujourdhuiの危機

2008年5月6日付の情報。

フランスの建築雑誌で『AA』(L'Architecture d'Aujourdhui 今日の建築)と『T&A』(Techniques& Architecture 技術と建築)という2大有名雑誌がある。おなじ出版社からでている。そこのスタッフたちが声明を発表し、懸念を訴えている。

Edition Jean-Michel Placeというのが上記2誌の出版元であるが、2008年4月24日、パリ商事裁判所による精算手続きをうけた。スタッフたちは「2誌が廃刊になるなど想像できない。長い歴史を誇る2誌は、国内外の建築家たちの情報、育成にふかくかかわっている。この状況にたいへん憂慮している編集チームは、定期購読者、一般読者、関係専門家たち(地方公共団体、公共・民間建築の建築主、都市計画家、ランドスケープアーキテクト、デザイナーなど)にたいし、編集チームとしては2誌の新しい未来を構築し、専門的知識や技能を独立性、それぞれのアイデンティティ、のためにささげ、高品質の編集プロジェクトを探求してゆくことを続けることを、お知らせる」と表明している。たとえ会社がつぶれてもなんとかして出版はつづけるぞ、みたいなことだろうか。

インターネットが出現したころ、英語の建築雑誌も淘汰されたので、いまさらかもしれないが、フランスもこうなるとすこし考えますね。老舗デパートもつぶれたし。

もっとも20世紀的メディアの運命をリアルタイムで追うことができるのもインターネット時代だからであろう。

つらつら思い出すに、19世紀はおもにドローイングや版画を中心とした雑誌メディアの時代、20世紀は写真を中心にすえた建築雑誌メディアの時代であったといえよう。このフランスの雑誌もそうだし、ル・コルビュジエの『エスプリ・ヌーボー』、ついでにいえば日本の『国際建築』や『新建築』などもそうである。写真=雑誌=メディアの世紀であった。

日本の建築雑誌の生き残りというか、存在意義はまだまだあるだろうし、それは編集行為の文化性、社主の個性、審級性、よくもわるくもセクト性、サロン性、しかいもっと評価されていいアーカイブ性、継続性などいろいろ。ぼくはすでに雑誌メディアの当事者たちから遠いところに住んで長いから、空気を読めるような立場にない。でもたとえばブログなどで、レスポンスのいい情報提供、あるいは意見提供などがおこなわれ、その活力に魅了されはじめると、わからないね。悪魔的にいえば、古かった建設業界がほんとうにメディアにめざめるとか、これまた古かった大学研究者がほんとうに目覚めちゃったりすればね。

写真がメディアとなって支配的になった同時代に、構成主義などの活動が活発になるのは、当然といえば当然か。つまり機械仕掛けのような舞台装置、パピエコレの手法もそういえば機械インスピレーションだ。つまり写真、写真機のメカニズムそのものが、絞りを決め、シャッタースピードを調節し、対象をどんどん切り取ってゆく、そんな機械的な行為そのものが、被写体となる。写真=メディア=雑誌とは、考えてもみれば、写真が写真機的メカニズムを写す、機械が機械を自己愛的にプリントしてゆく、対象と主体が相似的になってゆく、そうしたナルシシズムの構造であったのは明らかだ。

ちなみにドローイングや版画だけがメディアであったとしたら、デステイルやロシアアバンギャルドの作品紹介はずいぶん間の抜けたものとなっていたであろう。メディアはそれにふさわしい対象をもとめる。この意味でもメディアは権力である。

さて建築メディアはどうなってゆくのだろうか。21世紀なのだから。

シナリオはふたつ。

(1)電子メディアは情報インフラ、情報OSとなり、このプラットフォームの上で、旧来のメディア、口コミ、マスコミ、雑誌、単行本、展覧会は生き延びてゆく。もちろん弱小化とか周縁化はありうるとして。

(2)電子メディアが圧倒的に支配し、旧メディアを代替する。旧メディアは伝統芸能として、博物館行きになる。

いすれにせよ、19世紀(版画・ドローイング)、20世紀(写真)、21世紀(IT?)というように建築メディアが色分けできれば歴史家としては楽しいんですけどね。

・・・・メディアは専門ではないので、このくらいにいたしましょう。(なにしろ息抜きは30分までと自己規制しないと、怠惰なぼくは本業に戻らないので)。

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2008.05.11

レンヌ市がリードする都市会議(CVAA)

CVAA(Conférence des Villes de l'Arc-Atlantique)、英語ではCAAC(Conference of Atlantic Arc Cities) を「大西洋弧状都市会議」とでも訳そうかな。むりにarcを訳さなくともいいかもしれませんが。これは2000年にレンヌ市が音頭をとって創設した都市会議である。当初は「西岸大都市ネットワーク Réseau des Grandes Villes de l'Ouest 」と呼んでいた。参加都市はAngers, Brest, Le Mans, Nantes, Rennesであった。現在、アイルランド、連合王国(イギリス)、フランス、スペイン、ポルトガルの5カ国の40以上の都市、都市ネットワークがメンバーとなっている。まだ都市連合とまではいえないだろうが、ヨーロッパでさまざまに構想されてきた都市ネットワークのひとつです。

Members_map

なぜこれに注目するかというと、以前、別件でレンヌに出張したとき、レンヌ大学出版会の叢書などをあさったり、図書館・書店めぐりをしたのですが、あきらかに大西洋沿岸文化圏、あるいはヨーロッパ大陸西端文化圏の構想があって、その中で個々の研究が位置づけられているように感じられたからです。

またラ・ロシェルについてすでに書いたように、大陸的・内陸的ロジックと、海洋的・港湾的ロジックはつねに対立するようです。レンヌ市は、ヨーロッパの拡大にともない、自分たちが辺境化することに危機感をいだいていることは明らかです。そこで沿大西洋というネットワークをつくって共闘しようとしています。歴史的に見れば、それはむしろ自然なことと思えます。

歴史的にはどうかというと、ローマ帝国時代末期より、ブリテン島からの移民が盛んであったし、彼らはブレイズ語をつたえた。グレイト・ブリテインにたいし、ブルターニュは、リトル・ブリテインである。イギリスとの関係は深い。1532年にフランス王国に「併合」されるが、独立精神はつねに旺盛であった。・・・このようにレンヌ市にとって、フランス、大陸、とは違う枠組みというものは、つねに探求すべきものなのでした。

またこれは必然的に海のネットワークです。ぼくが大学の設計演習としてやらせている「平戸プロジェクト」とも内容はつながっています。

レンヌ市サイトによると、2008年5月5日では、同年4月30日にスペインのサンティアゴ=デ=コンポステラで執行部の会合が開催され、サステイナブル・デブロップメントについての新しいストラテジーが協議されたとある。論点はふたつ。

(1)憲章。これは6月のサン=セバスティアンで総会が開催されるためである。総会では『サステイナブル都市発展憲章 Charte de développement urbain durable』が採択される予定。その準備というわけだ。

(2)文化事業。ミュージアム構想。2009年をにらんでの組織検討。文化部会では、ヨーロッパ・ミュージアムとパートナーシップを保った「大西洋弧状ミュージアム Musées de l'Arc Atlantique」をネットワーク型に展開する構想がある。そこでの展覧会としては「大西洋都市、グローバル化の港」などが企画されている。

同サイト2008年5月8日の記事によれば、上記4月30日の会合が報道されている。憲章の内容が、たんなる意志表明にとどまらず、具体的な行動目標を掲げている、という内容。文化・遺産作業部会も上記展覧会について検討した。レンヌ市が音頭をとっていることだけ、彼らのにとっっては重要。ルネサンスから現在までの、商業、人的交流、文化交流を扱う。つまり大西洋弧状ネットワークがいかに歴史的な実体であったかを示そうとしている。

CVAAのサイトもあって、いろいろ書かれています。

CVAAの目的。(1)ヨーロッパ内の地域間不均衡の解消、バランスの回復、とくに周辺部の活性化。(2)リージョン発展の核としての都市(ヨーロッパ人口の80%は都市人口)を認識する、(3)都市会議参加国が共有できる、経済・社会・環境の問題における野心的目標を、設定する。

参加都市は、フランスではレンヌ、ボルドー、ナントなど。イギリスではカーディフ、グラスゴーなど。地図からもわかるように、周辺都市連合ですね。サイトではさらに、国ごとに、地方行政システムの相違が説明されています。

こうした枠組みで、運輸・交通、環境、都市整備、経済発展、文化・遺産などを論じ、目標を設定してゆくようです。

などなど。残念ながらCVAAサイトはまだ充実しているとはいえない。

継続調査とします。

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2008.05.10

コーヒーブレイク/大きな政府と小さな政府の対比を建築史に適用してみれば

きのう、院生やなんかとダラダラお話をしました。

(1)大きな政府/小さな政府

大きな政府/小さな政府という構図はけっこう使いでがある。グローバル化が必然的に小さな政府をもたらしつつあるが、大きな流れで、とくに住宅供給をみると、はっきりしている。つまり19世紀は小さな政府の時代で、住宅建設は民業であって、国や公共機関がやってはいけないものだった。民の仕事がなくなってしまうからだ。しかし19世紀末から20世紀初頭にかけて、住宅供給がうまくいかなくなる。これは民業であることの限界がきたことや、家主と借家人の関係がうまく調節できないこと、などであった。であるので公的介入なむなし、とヨーロッパ諸国では住宅供給への公権力が介入していった。ドイツやオーストリアややオランダはうまくいった。ドイツのジードルンク、赤いウィーン、などはその成果です。ざんねんながらフランスは遅れた。興味深いのは、関係者がなんども国際会議などをおこなって政策の相互理解とすりあわせをやっていること。これは各国史にはみえてこない点です。

たとえばフランスでは18世紀後半というのは、民の時代で、パリの高級住宅地開発なんてけっこう投資家ががんばっていた。革命はそれらを根こそぎにしてしまったので、ナポレオンは公共事業をあるていどしなければならなくなった。大きな政府ですね。それはオスマンのパリ大改造もそうでしょう。しかし同時にイギリスを手本にして産業革命をなしとげたフランスは、民の力を育成しました。だから19世紀の都市住宅は基本的には業者の建設したものでした。労働者住宅だって、そうです。あまりに機械的、単調、なので兵舎などと呼ばれていました。

というわけで20世紀は大きな政府による住宅供給の世紀となった。世紀も終わりになるとそれが崩れていって、民営化、NPO、アソシエーション、などのうねりがやってきます。ドイツなどは先進的で、まちづくりのためのNPO的なものができて、ひとつの団地などを建設したりするそうです。

これは都市計画そのものの誕生と終わりを物語っている。19世紀中盤から、衛生法、住宅法、都市計画法というように段階をおって制度ができていきました。しかしベネヴォロの指摘とはちょっとちがって、住宅法と都市計画法は相前後して、ではなかったか。すくなくとも公共住宅と都市計画は、いわゆる相互補完的であることは誰にでもわかると思います。だからオランダでは1902年あたりに住宅と都市計画の法律ができます。人口一定以上の都市はマスタープランを作成しなければならなくなった。それとともに住むことの質の保証を、公共団体がしなければならなくなった。

フランスはちょっと遅れていていますが、「都市計画」と「住宅への公的介入」は同時期的です。どちらも1910年代末です。1919年に大パリ計画が公募され、大学レベルの都市計画研究所が発足しました。さらに1910年代に段階的に、公的資金を使って、自治体がハウジングできる制度が整えられました。この時期、ロスチャイルド財団などが音頭をとって都市部に低家賃住宅を整備するコンペやなんかをやっている。都市(住宅)建築のスタディをちゃんとやっている。

日本の場合、1919年に都市計画法(旧法)と市街地建築物法(建設基準法の前身)が制定されました。これは先進国と比較してそんなに遅くないのです。しかし住宅公団ができるのは1955年、しかも戦後のまったく違う状況のなかで発足した。つまり都市計画/住宅供給という同時性がなかった。いいかえれば都市やゾーニングをどうするというマクロな視点はあったが、どうやって住むかというミクロな視点は、公の側にはなかった。それは民にまかされてしまった。だから大正時代の、文化住宅、文化村、日本的田園都市、などが開花したのです。それはそれでよかった。しかしよくもわるくも20世紀の背骨であった、公的介入からは距離があった。

都市計画の専門家と空港でばったりあって立ち話をしたことがありますが、日本には都市建築という概念がないのですよ、などといっていた。あたりまえだと思う。つまり日本の都市計画にはミクロな視点がない。学問としてそのように制度設計されているからです。たとえば1970年代の『都市住宅』誌に代表されるような、ミクロな側から都市に住まうことはどういうことか、いかなる建築によって都市に住まうのか、という議論が、もし1910年代にやられていて、それが黎明期の都市計画に反映されていれば、かなり日本でも「都市建築」のタイポロジーができていたことでしょう。そうならなかった。

そのころの住宅は、都市から逃避することを考えていた。すでに述べた文化住宅、文化村、日本的田園都市、などはすべて都市を否定し、そこから逃走するためのプロジェクトだったのです。だから日本では、都市/住宅のあいだには深淵な裂け目が、すり込まれていたのです。

しかし歴史の責任ということで空想をさらに展開すると、ヨーロッパ的な流れと歩調をあわせるためには、江戸時代末には、民間デヴェロッパーが住宅地を建設していたり、するとか、「民業としての住宅建設」がそうとう発展していなければならなかった、計算になります。専門家の先生、教えてください。

あっと、大きな政府/小さな政府が脱線しましたね。

(2)シャッター商店街

他の話題といえば・・・・

アメリカ。グローバル化とは世界をアメリカ化することです。世界を内包していたアメリカが、そのアメリカ化を世界に輸出するのです。レーガン大勝利といえます。そのアメリカの1960年代くらいの様子を、先人にきいたことがある。大都市にスラムができる。困ったことだ。しかし家賃は下がる。するとお金のないヒッピー、売れないアーティストがやってくる。彼らが地区のイメージをあげる。すると高級な住宅街に復帰する。アメリカ的なスクラップアンドビルドは壁の内部でおこる。日本のシャッター商店街も似たような話かも。しかしカンフル剤的発想は、延命にすぎない。識者たちがご指摘のように。

(3)確率分布的な居住

人間は確率分布的に存在するようになる。ネットカフェの住民は、あちこと移住する。定住しない。貧しいひとがこうなのだから、豊かな人はなおさら。古代ローマ以降の別荘建築の伝統、イギリスのタウンハウス/カントリーハウスの例はいうまでもない。パリのひとびとは、中産階級以上なら、かならず別荘や週末住宅をもっていて、余暇を楽しむ。日本でも住宅を2戸以上もつ人びとが増えている。人口統計学的には、人口は減るから住宅はあまる、多人数世帯はすくなく単身者世帯が激増している、すると余った空間を埋めるのは、極端な話し、エネルギーあるひとりの人間が、住宅を2戸でも3戸でも持つことである。

つまり定住でもない、移住でもない、第三の概念。「確率分布的な居住」。

・・・時間がないな。

(4)「じつは」歴史学

自分史的な歴史、「じつは」歴史学、系譜学、なども学生と話しましたが、もう書く時間がない。最後にお説教しました。自分がこれこれの興味を抱いている、その震源は?枠組みは?それがわからないと自分はわからない。自分探しは社会探し。自分探しそのものの起源があるのです。40歳前後のひとびとは「個性」がなきゃだめ、というように教育されてきたので、それがトラウマになり、さらには彼らの子供たちにも伝染している。現代思想ではあたりまえの理屈ですが、「自分」とは他者の反映にしかすぎません。もちろん鏡のありようはさまざまで、だから鏡とはいっても個性はあります。しかし自分を構成するものは、自分の内部ではなく、他者に、そして社会のなかにあるようです。

最後は走り書きですが、続編をそのうち書くかも。

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2008.05.08

建築オタクも死んだか?

岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書2008年4月20日)を読んでみました。オタクの死とは昭和の死であり、時代は変わった、ということがけっこう格調高く書かれていました。「ウィキペディア」上での定義を参照するなど、ぼくもそうしてますが、時代ですね。ともかく時代のドラスティックな変化を語っています。現代建築の歴史とも関連もありそうなのです。

ぼく自身はオタクを自称するほど上等ではありません。必要とされる勤勉さも実績ももちあわせていない。だからほんとうは語る資格はないのですが。ただ同世代の書き手の説明は、ほんとうによくわかる。

ぼくは世代的に、「おたく」なる用語が登場した頃をよく知っているつもりです。ちなみにぼく的初出は、「カワイイ」は1973年、「おたく」が1980年すぎ、「ウソー」も1979-81年ころでした。あくまでぼく的に、ですが。最後のものは、はやばやとすたれた。ともかくも男子が「おたく」化するのを見ていた女子が、「カワイイ」と肯定するか「ウソー」と否定するか、というわかりやすい構図であった。(昨今は「カワイクナイ」といわれバッサリ切り捨てられる)。

だから『建築キーワード』(1999)の監編集をしたとき、当時まだ若手であった森川嘉一郎さんに「サブカルチュア」なる項目をお願いしました。間接的にしか彼のことを知らなかったのですが、しかも今だに直接会っていないのですが、ぼくなりのインスピレーションだけにもとづいて判断しました。当時すでに地方勤務も長い状況で、アキバのことなど感覚はありませんでしたが。

岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』ですが、SFの隆盛と衰退という流れときわめて似ているということで、オタクの滅亡を説明しています(もっともぼくはオタクとの類推で、ああSFってそうだったんだ、とわかったのですが)。それによると1980年以降、第一世代のオタクは「貴族主義」であり、白眼視され、差別されても、自分は自分、わかってもらえなくとも、内面はしっかりしている、という態度だった。M事件でさえ、オタクの知名度を上げるという効果をもたらした。第二世代は「エリート主義」で、すでに海外から認められているので、国内で迫害されても、オタクが理解できないのは鎖国的、後進的、と逆襲することができた。この違いはかなり断絶的だが、貴族主義でもエリート主義でも、岡田さん流にいうと、オタクたちは同じ「大陸」や「共同体」や「文化」に所属していた。つまり迫害される人びとがつくる感性の共同体であった。

しかし第三世代の「萌え」オタクたちには、この「共同体」がなりたたない。旧オタクはじつは、興味の対象にしたがってさまざまに細分化され、しかし同じオタク大陸に生息しているという共通意識があった。しかし新オタクにとって「わたし」と「アイデンティティ」しかなく、自分と異質なもの、異質なオタクとの共存という概念がなくなって、「共通文化」も「相互理解という幻想」もなくなったので、オタクは「死んだ」ということらしい。

あらっぽくいうと「オタク」は負の共同体であった。それがバネであった。しかしその負性がなくなったのです。そして求心力を失った。

こうした変化は、オタクからマニアへ、と言い換えられつつ、社会的背景、つまり昭和の死、が語られる。つまり日本人は、子供のままでいたくなった。大人になりたくなくなった。で回顧してみれば、日本の子供文化ってそうとうハイレベルであった。世の中は、将来に希望をもてない時期がこれからも続く。がんばって大人になることに、なんの意味がある?そんなことを日本人は考えるようになっていて、それが第三世代オタクの登場をうながす、というわけです。岡田さん自身は、貴族主義的オタクで、このオタクは大人以上の自負をもっていた(理解されなくとも自律する)だけに、率直に衝撃を述べています。

さてこのわかりやすい、そして普遍的であるように思える図式を、建築界に投影してみましょう。

建築界のオタク第1世代(貴族主義)は、もちろん藤森照信先生たちです。彼の70年代の路上観察学、看板建築(学会で大顰蹙だった)、などというのは、逆説的貴族主義ともいえます。1977年に新建築社から出版された近代建築再考3部作は、いわゆる近代化のための建築に異を唱えて、様式建築、擬洋風建築といったまがい物視されたものを再評価するというベクトルをもっていました。この時期の建築史研究には、これまで評価の遡上にのせられなかったものを対象にしようという、おおきな流れもありました。しかし「落ち葉拾い」と揶揄もされました。こんなところが第一次オタクとの相似性です。建築のそれをサブカルチュアとまではいえませんが。

建築界のオタク第2世代(エリート主義)は、今の40歳前後の方がただと思います(個人差ゆえにきっちりと世代区分できないので象徴的な数字をあげたまでです)。歳をとると自分より若い世代のことをあれこれいうのは、はしたないとわかってきますので、一般的にのみいうと、彼らは、岡田さんの図式どおりに、どちらかというと選良主義的、やや被迫害者的、共同体指向的、です。学会的、正統的なものとは違うんだ、という自己主張をもちつつ、ハイレベルなことを論じる。思想的には浅田彰やニューアカの影響下にあります。

こうした図式は『建築キーワード』のときに考えていましたが、今回の岡田さんのオタク本ですっきり再整理していただいたような気がしました。

これを機会に、戦後史の再考、昭和の終焉なるもの、近現代建築史再考、などのために、ついでに、ぼくなりの補助線をいくつか引いておきましょう。

(1)転換期としての1970年代

これは大澤真幸が『戦後の思想空間』でも指摘していたことですが、理想と夢の時代がおわり、虚構の時代がはじまった。この社会的説明はしごく簡単で、ようするに都市型消費社会がはじまったということです。ぼくは1976年の『ポパイ』創刊がもっとも象徴的な出来事だったと思う。カタログ雑誌、つまり都市型消費社会をこれほどよく象徴するものはない。情報も発信するほうも、受け取るほうも虚構と知りつつ、虚構であるがゆえに、それを楽しむという構図が生まれました。『カサ・ブルータス』はこの流れですので、おじさんはむしろ驚きません。むしろ若者のおじさん化に、雑誌がつきあってくれています。

あるいはこれは政治と革命の時代が終わり、経済と消費のそれがはじまった。オタクはそれにみごとに対応している。ぼくは、オタクとは全共闘活動の代替ではなかったか、とさえ思っています。

環境法、景観法なども団塊世代が定年退職まえに権力をつかみ、積年の恨みをはらし、本懐を遂げたということなのです。部分的挫折をした70年代思想の復讐なのかもしれません。

オタクの貴族主義、エリート主義はとにかく頑張った。もっとも単独で頑張れたというのは幻想で、アメリカの傘の下にあったわけですが、高度経済成長以降モーレツに(若い人、モーレツ、ってわかりますか?)頑張ってきた日本人には、実感として、日本単独で頑張ってきたし、そうした自負があったのです。しかしバブルがはじけ、グローバル化。日本は単独でがんばってもだめで、パラサイトするしかない。どうするんでしょうか。

(2)集団主義/個人主義の振り子的往復

建築界には世代の循環構図があるように思えます。いちど『建築雑誌』で話しましたが、たいして重要視されなかった。つまり、あたりまえなことに、団塊世代と団塊ジュニアはよく(すこし、かな)似ている。とくに共同体指向という点で。

団塊世代は、議論が好きだ。いかにお互いに傷つけあおうとも、激しい議論をとおしてコミュニケーションが成立しうると考えていた。傷つけあうことはむしろコミュニケーションの証しくらいに、元気に考えていた。ジュニアたち(世間でいう団塊第二世代とはすこし数字はずれている気がする)も、こうしたセクト、感性の共同体、を目指す。もちろん親の代のように激しい議論はもうしない。しかしあうんの呼吸、アイコンタクトで信号を交換し、感性を共有できるかどうかを確認し、一緒になにかする。ついでにいえば、現在の建築論壇は、団塊世代がバックアップして団塊ジュニアたちを盛り上げているふしがある。

しかしぼく自身は谷間の世代なので、この世代の率直な感想を書いてみよう。共同体が好きではないのである。あさま山荘事件や、内ゲバの犠牲者たちを考えざるをえない。活動的な先輩を尊敬はするが、同じ事はできない、したくない、という思いで共通している。だから個人の裁量のおよぶ範囲というのをよくわきまえ、自分の我をとおせる範囲でとおす、という態度である。これは隈研吾さん、妹島和世さん、青木淳さんには顕著にみられると思う。だから彼らは、他者からの批判にたいしてもある意味で毅然としていられる。だからといってわがままなのではない。これもまた貴族主義的オタクといえなくはないけれど、共同体ではありません。しいていえば建築そのものが共同体、というスタンスです。

(3)建築界の第3世代は?

ラウンドナンバーが象徴的機能を果たすかどうか知りませんが、たとえば1980年生まれは、2010年で30歳。彼らは、バブル経済も実感としてわからない。将来は暗い、と子供の頃から教えられてきた。大人になりたくない、「わたし」でいたい、共同体はいらない、という世代、であるらしい。もうおじさんは実感としてはわかりません。あくまで学者のいうことを信じるならば、です。しかしいよいよ彼らが登場してくる。

おそらくそれは団塊/団塊ジュニアという超世代連帯による支配がそろそろ終わりつつある、ということなのかもしれない。そのドラスティックな変化は、2010年でなくとも、もうそろそろのはずです。傍観者にすぎないぼく自身にとっては対岸の火事ですが、万が一視界が良くて、火が見えれば通報くらいはいたしましょうか。

・・・ということで、そろそろ仕事の時間なので、やめます。建築界の世代概念はあくまで理念型であって、数字そのものではなく、象徴、といえるようですが。ともかく気がつけばまた続きを書きます。

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2008.05.07

ボルドーにはまったのではありませんが・・・

ボルドーについてWEB調査をしているうちに、いろいろ最近の動向も簡単に知ることができるので、ついつい。で、ちょっとだけ。雑情報のてんこ盛りです。いやまあ、とくにどうってことないけど。でも月イチで定点観測も面白いかも。そのためのブログではなかったんですが。・・・なんか言い訳が多いね。

でもまあ、ボルドーは野心的で活発だ。市長の手腕も大きい。しかし「都市間競争」というヨーロッパの姿がかいま見える。さらには1980年代前半からの地方分権政策の成果があらわれているともいえる。

日本と違うのは、プロジェクト(建築でも都市でも)=文化、であり、それで都市どおしが競争するという構図である。日本でも創造性都市とかなんとかで文化庁が表彰しはじめた(これもヨーロッパの真似)が、ちょっとスケールと気合いが違う。まあそれはいいとして。

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>>>2007/11/30 市長アラン・ジュペとランドスケープ・アーキテクトであるミシェル・コラジュ(Michel Corajoud)とミシェル・デヴィニュ(Michel Desvigne)がシンポジウムで講演。ボルドーのプロジェクトの紹介。伝統的に切り離されていた右岸と左岸をつなぐ。川岸の整備や公園化などによって、ランドスケープの力で。*これはシャイオ宮で開催されたが、ぼくは残念ながら聞けなかった。.

>>>2007/12/21 ジャン・ヌーヴェルが、サン=ジャン駅近くの地区や、そのほかの地区、5カ所ほどで、集合住宅を建設することに。中産階級が対象。HLMとPLI(prêt locatif intermédiaire)の中間の家賃(フランスには家賃格付けがあるが、詳細は割愛)。とくに建築に新機軸はないが「持続可能な発展」のための素材を使っているそうだ。ということは壁面緑化かなにかを意味する。ブランリ岸博物館のように。

>>>2008/02/05 ローン代表議員ドミニク・ペルバンはサルコジ大統領に「将来のメトロポリス」レポートを提出した。パリ、リヨン、パルセイユ、ツールーズ、ボルドー、ナント、ストラスブール、リール、ニースが対象。「エコ街区」制度の設立。「エコ街区」憲章、「持続可能な発展の都市」ラベル、の創設。都市における道路通行税、ミラノがモデル。さまざまな税制改革。国とメトロポリスの関係の調整。50万人以上の都市圏におけるガバナンス向上。・・などなど19項目にわたる提言である。まだ提言にすぎないが。

>>>2008/02/06 ヨナ・フリードマンの講演。ボルドー建築センターであるアル=カン=レーヴにて。また展覧会は6月1日まで開催。60年代を語らせようとするのは、どこもおなじようだ。

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>>>2008/02/13 ツゥール/ボルドー間でTGV(フランスの新幹線)建設の計画。ブイグ、エファージュ、ヴァンシ、のどこが受注するか注目されているらしい。

>>>2008/02/15 ツゥール/ボルドー/ツゥールーズTGV線も建設されるらしい。関連自治体が、融資で合意したらしい。しかしこれら自治体は国に、自治体の出資は38%までにしてくれ、と要求しているらしい。2018年にはボルドー/ツゥールーズが2時間→1時間と短縮される。またパリ/ツゥールーズが5時間→3時間に。便利になるなあ。でもパリからツゥールーズ日帰りとなると、結局パリのひとり勝ちなので、共存のあらたなあり方を模索せねば。

>>>2008/02/21 第9回「ユーロパン・コンクール」。このコンクールは、ヨーロッパ70以上の都市を対象として、建築家・都市計画家が彼らのプロジェクトを競うもの。各都市がそこのいくつかのプロジェクトをポートフォリオにかかえ、競いあう。今回はフランスから12グループが入賞した。サステイナブル指向が顕著。また見捨てられた手つかずの土地の再活用が検討の中心とされる傾向があった、という報告。フランスの入賞は、ボルドー、ル・アーヴル、ミュルーズ、ランス、クレルモン=フェラン、サン=シャモンの12グループ。ボルドーのものは、旧鉄道駅スペースの再活用なので、ラ・バスティードのことか?

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>>>2008/03/18 アラン・ジュペがボルドー市長に再選(4期目)。都市計画について抱負を述べる。3500戸の住宅を供給。サステイナブルな都市にする。スポーツ施設、託児所、など建設。省エネ建築。TGV整備。橋建設。・・・などなど具体的なのが印象的である。そのなかでも2013年の「ヨーロッパ文化首都」に立候補する、というのが、ボルドーにとっての象徴的な試みとなるであろう。過去にはツゥールーズ、リヨンが受賞しているそうだ。

>>>2008/04/14 ボルドー建築ビエンナーレに23500人来る。いろいろ盛りだくさんだが、詳細は割愛。

>>>2008/04/17 モニツゥール・グループが主催する「都市整備杯Trophées de l'aménagement urbain 」なるものがあり、2008年は、人口5万人超クラス(ちなみに1万人以下、1~5万人クラスもある)でボルドーが選出された。右岸整備が対象だそうだ。ぼくがすこし紹介したZACラ・バスティードもそこに組み込まれている。ちなみにこのコンクールはフランス国内のもので、ランドスケープ、道路、アーバン・ファーニチュア、サイン、などを指標にどれだけ住民生活を向上させたかなどで審査するそうである。・・・なんとなく美人コンテストに似てますね。

>>>2008/04/22 ボルドーは2013年の「ヨーロッパ文化首都 Capitale européenne de la culture」を目指している。EUは1985年より毎年1都市を選んで表彰している。フランス勢では2004年のリールが最後に選出。2007年12月にはすでに予選突破している。

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・・・というわけで1時間たちましたので、仕事にいかなければなりません。つづきはいつの日か。

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2008.05.06

ボルドー歴史地区とストラテジー、とくに住宅ストック改善プロジェクト

ボルドー市のサイトからのつづき。

仕組みがよくわかりますが、「混合経済会社」は日本の3セクとは似て非なるものなで、補足します。「混合経済」とはフランス特有の、資本主義と社会主義の混合であり、民間企業と公共セクターがおなじプラットフォームで協同するシステムです。だから国は、産業のある部分を国有化しつつ、ある部分は自由にやらせることができる。あるいは国が、自由競争のなかの企業のひとつのように振る舞うことができる。「混合経済会社」とは株式会社であり、その資本の51~85%が国、地域圏、県、コミューンからによるもの。1980年代の地方分権化からさかんに創設された。パートナーシップという言葉が一般化する以前から、このようにその基盤ができていた。

ということでWEBによれば。

この歴史地区は、ボルドーにとっても、大都市圏にとっても重要。その文化的、商業的、余暇的価値を高めることは都市圏全体に貢献する。

第三次産業を優遇する。ボルドー全体の12%にあたる3000人の雇用がここ。この数年でサント=カテリーヌ通り整備(FNAC, GO SPORT, Sephoraなど入居)、サン=クリストリ・センター再整備(Monoprix)、ボナック街区からメリアデクまでの商業圏の拡大など、商業空間が整備された。

文化政策。いろいろな祝祭(novart-bordeaux, ワイン祭り、川祭り)、文化・大学機能、国立演劇センターの支所、ボルドー国立音楽院の改築、美術学校の分校など。

建築・都市遺産のためのさまざまな措置。(1)ファサード洗浄運動。1977/2000は川岸のファサード。2001/2005はトゥルニ広場からはじまりいくつかの重要拠点で展開。(2)ライト計画。いわゆる「ライトアップ」だけではないが。モニュメントはライトアップ。歴史地区では統一的に銅ランタンをつるしたりしている。(3)都市美装。看板、広告の整理。室外機を隠すなど。(これはどこでもある取り組み)

近隣サービス施設。日常生活を向上させるため、市は近隣サービス、近隣商業機能を発展させることに取り組む。地域諸団体、NPOなどを市が援助。ボルドー商業工業会議所と市がおこなった2004年の調査。それによってストラテジー、行動プラン、が練られた。投資、活性化プログラム、配達条件などについて。またInCitéは2010年までに商業・手工業空間として5000㎡を整備する。家族生活。市は、学校の改装、活動センター設置を終え、子供戦略(La Petite Enfance)に力を注ぐ。4カ所に保育園(2001~)など。

環境と都市の管理(歴史地区では、清掃と騒音対策が、とても大切)。ゴミの分別(tri)と清掃。地下分別ゴミ捨て箇所を増やす。またトラム沿線では、各戸でのゴミ収集をすることで、ゴミ箱が路上に姿を表すことを阻止する。また張り紙除去などにも力を入れる。さらに、(1)すべての建設許可は、建物内にゴミ箱置き場の設置を前提とする。(2)商業施設、レストランでもゴミ箱置き場の設置が要求される。産業・商業廃棄物処理の契約を済ませていることが求められる。(3)夜間の騒音防止、安全にもさまざまな措置が。

近隣都市空間の整備。川岸空間、トラムにちかい広場、さまざなまな主要広場、の整備、など。

住居と遺産は、パートナーシップにより維持・発展されている。

歴史地区内では住宅ストックの改善がなされている。その目的は、(1)今快適である住居を維持して、社会的多様性を守ってゆく、(2)不動産商品を多様化し、不動産購入を促進しつつも、自由家賃・中間家賃・社会的家賃(つまり安く設定された)の賃貸住宅をつくり、(3)家族、若いカップル、・・などに新しい住居を提案する。

InCitéは建築遺産を活用し、ニーズに応えられる住居を整備する。(1)不動産購入のプログラム、自由家賃・中間家賃・社会的家賃(つまり安く設定された)の賃貸住宅のプログラムを、きめこまかく多様化させる。(2)大・中規模の住居を優遇し、小規模住居は一定数保つ。

低品質住居を改善する戦い。これは現状において劣悪であるのみならず、そうなる可能性のある住居にたいする対策。

人口をこの歴史地区にひきとどめておくために・・・。InCitéによる再入居調査。さらに各種パートナーで構成された委員会がある(Centre Communal d’Action Sociale, Direction Départementale des Affaires Sanitaires et Sociales, Direction Départementale de l’Équipement, Caisse d’Allocations Familiales, travailleurs sociaux…)

InCitéがここの唯一の整備機構である。このInCitéは、2002年に市がサインした公共整備協定の枠組み内で設置された混合経済会社である。計画の推進者。不動産所有者、借家人、住宅業者・専門家などの仲介者。都市・建築遺産の視点から、施工される住宅改修工事などを監視する。不動産プログラムの多様性を確保する。こうして全体計画の一貫性を確保する。・・・このInCitéの介入方法は、(1)不動産所有者への勧誘、助言、資金援助、仮再入居、最終再入居。(2)公益事業。不動産所有者をこの公益という枠組みに従わせる。(3)密度の高すぎる建物・ブロックの再構造化。

OPAH(Opération Programmée d’Amélioration de l’Habitat et de Renouvellement Urbain 住宅改善・都市刷新のためのキャンペーン) が不動産所有者にリフォーム融資などをする。このOPAHは、2003年に市がサインした協定によりできたもの。1300万ユーロが、リフォーム融資、住宅関連施設(ゴミ箱置き場、自転車置き場、駐車場など)整備などにあてられる。 2008年までに760戸の改修。うち自由家賃485戸。中間家賃65戸。協定家賃145戸。社会政策的家賃(PST家賃)65戸。

歴史地区の整備はパートナーシップでなされている。パートナーとは具体的には。(1)国。ANAH(国立住宅改善協会)。ボルドー都市共同体。供託金庫。これらはプロジェクトを共有し、財政出動をする。(2)ジロンド県議会。アキテーヌ地域圏議会。これらは上記を補完する。(3)ボルドー市、InCitéの直近には。住宅専門家。公証人。地理学者。建築家。不動産経営者。財産管理者。不動産経営者。など。彼らはこの計画を指示し、2003年2月、住宅パートナーシップ憲章にサインした。

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『村上ラヂオ』を読んじゃった。

1センテンス30行17世紀フランス語という拷問翻訳はチャプターの区切りがついたので、ブックオフにゆく。読める文章を読まないと、自信喪失になってしまうよ。で『村上ラヂオ』だよん。

奥さんと結婚記念日でレストランにいって、若いカップルの会話がきこえてきたんだって。これからできちゃうかもしれないカップルで、「フェロモンの白い靄」がただよっていたのに、結婚30年のこちらはあまり漂っていないんだって。

アウチ。痛いだけにわかるよ。あはは。

でもこの話はオチがついていて、その若い男はスパゲティを、音をたててすすりはじめたので、レストラン全体が凍りついてしまった。そののち若いカップルがどうなったか、それがとても心配だったそうだ。

・・・・。

ネズミ取りの特殊技能を発揮する機会もなくかった猫さんたちは、全国会議をひらいて「ドラスティックな意識改革」が必要だと叫ぶ、なんて空想を披露してくれる。犬のまねなんかしてられない、なんてタンカをきる猫もいるらしい。

うふふ。独特の擬人化。おかしいね。

柿ピーを、柿の種とピーナッツをカスタマイズされた配合で食べる村上さんは、そのバランスを崩す奥さんとの抗争に戦う気もなく敗北し、そして柿とピーを一夫一婦制に喩える。

お。こんなメタフォア、そうは思いつかないよね。

チンドン屋がブンダカブンダカやる《オブラディ・オブラダ》にはサビがない。同じようにサビがない人、いちおうまともなことをいうのだけれど、けっきょく世界観などもっていないような人は、退屈で恐ろしいくらい。

ううむ。サビのない歴史もつまんない。気をつけよう。

ローマでもたもた運転していたおばさんが、パスタでもゆでてろ、なんて怒鳴られて。でもパスタはイタリアで食べると特権的においしい。料理は「空気つき」という。

おお。ナイスなメシ。じゃなくてシメ。

《スカイ・パイロット》をエンドレスで聞くとハイになるらしい。

ははは。当たり前。

ちらし寿司を食べるのに、ご飯にのっている魚をぜんぶ別皿に移してたべる人がいたらしい。親から、ご飯のうえにものを載せて食べるのは下品、っていう躾を受けていたらしい。

あはは。

アトス山や、モンゴルのお手洗いも悲惨な状況を呈していた。人工衛星のなかでの用足しはおなじくらい悲惨であるという。だから「べつに月になんか行かなくていいや」。

あは。あはは。うう。

童話では、イントロで登場した老夫婦がにどと出てこなかったり、構造が整合性のないことがあり、そこがぎゃくに面白い。

ほう。これは教えられる。物語りは整合しなくてもいいだあ。

アメリカ人?の書いたSFで、地球人がさらわれて異星で動物園の動物にされてすまうが、つがいとして檻に入れられたのが金髪グラマーだったりして、それなら檻に入れられるのもわるくない・・・

あぁあ。なんてさらっと書けるのは力量。

円周率おじさんは自宅では疎んじられていたり、地球からのメッセージとして円周率を宇宙に発信したおかげで、宇宙人が地球に超巨大爆弾をみまうとか・・・

うん。おじさんは孤独だ。地球のように。

ハイティーンの恋愛はさわやかに抜けていて、そこでの感情育成は、一生ものだそうです。人生はそこでの栄養を、長い長い時間をかけてゆっくり味わってゆくようなものだとか。

せつない。ううう。仕込みなんだね。

世の中で退屈なことといえば、骨董に興味のない人間が骨董屋につきあいで行くこと以上のものはないらしい。

あはは。でも骨董品もずっとずっと退屈してたんだよ。

ゴルファー。「で、ウッズさん(タイガーさんとは何となく呼びにくいよね)」。

あ、あははははは。寅さん。なんちゃって。

自分が正義を独占しているなんてスタイルをとらないこと。擬人化、あるいはぎゃくに、人を別のなにかに喩えるやりかたが、軽妙で面白い。でもギリシア神話でも日本の神話でも、ひょっとして、ほとんど擬人化の手法でなりたっているのではないかい。だから村上春樹の小説は、一種の神話を読んでいるようなものなんだと思う。虚構という意味ではなくて、ね。

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2008.05.05

ボルドー歴史地区のストラテジーだが、今日的というよりまさに歴史的につみあげてきた制度や仕組みがみてとれる

またもやボルドー市公式サイトからのだらだら書き写し。こんどは歴史的中心地区について。

結論先取り。

ボルドーでも都市の空洞化の危機に瀕していることは、日本の地方都市と同じである。都心の住居はほとんど賃貸であり、それだけ「公共財」としてとらえやすい状況だとも、逆に言える。家主と自治体は協同して維持につとめる。

都市計画の人びとは「保全」などといっている。しかし歴史的街区の「保全」だろうが、保存だろうが、その組織や方式をよくよくみてゆくと、19世紀や20世紀初頭の制度がまだまだ生きていることがわかる。パートナーシップなどと呼ばれるものも、都市整備の長い歴史をみないとよくわからない。都市には歴史があるが、政策・制度そのものの歴史性についての理解が必要であろう。

官民協同体制は、今日パートナーシップなどといわれるはるか以前から仕組みがある。それはそもそも都市とはなにか?なんであったか?という歴史と認識の日仏相違までさかのぼるであろう。

さてWEBから。

ボルドー市の歴史的中心地区は203ヘクタール。活力、共生、居住を目的に、まず地区構造化(トラム、広場再整備、環状道路、河岸整備)、歴史的都市と現代的生活様式の両立、をまざす。さらにアキテーヌ地域圏の首都としての機能、居住の快適性、日常生活の質、街区ごとのアイデンティティを確立する。

市とパートナーは、その歴史的中心地区のための目標を定めた。
(1)生活の質と都市の快適さを優遇する。
(2)経済的、文化的にしっかり輝くようにする。
(3)遺産地区のなかに現代住居を提供する。

歴史地区の現状:

環状道路とガロンヌ川の区域。203ヘクタール。市行政域の4.1%。強いカードも弱いカードもある。
・雇用30000人(うち市は2000人)をもつ経済
・都市域人口の70%は月に一度はここにくる。
・ボルドー市人口13%にあたる2万7700人の人口。多くの学生。40年間、減少傾向。
・2万3500戸の住居。住居市場は不均衡。85%は賃貸。65%は狭小。12%は質的に良好ではない。20%は空き室。

市はこうした与件に対し、2002~2010の8年にわたる計画を実施中である。それは住宅ストックそのものの刷新と充実。
・2000戸を改修。
・建物地上階の、住居以外の機能をみたす部分を、再整備。5000㎡を予定。
・パーキングの設置・改修。330台分。
・近隣施設の設置・改修。
・公共空間や生活道路の改修。

財源:ボルドー市、ボルドー都市共同体、ANAH, CDC, 県議会、ヨーロッパ、民間。

開発主体:ボルドー市、InCité、ボルドー都市共同体。

もっとも反対も根強い。家賃を上昇させ、経済的弱者を追い出すからである。800人の署名を集めた地主・間借人の団体が、精力的に反対活動をつづけている。

記事だけではわかりにくいので、注釈。こちらのほうが本質を語っているかも。

*ANAH:「住居改善国立協会」。リフォームの財政支援などをおこなう。

*CDC(Caisse des dépôts et consignations):「供託金庫」。1816年に設立。国会の直下に置かれている。国家予算とは独立した資金を、国家が管理するというユニークな金庫。しかしフランスの社会的ハウジングは、この金庫から融資された資金で、地方自治体(おもに県)が建設したという、歴史的事実を忘れてはならない。

*InCité Bordeaux:混合経済会社。主要株主はボルドー市、ボルドー都市共同体、供託金庫、ボルドー商工業会議所。そのミッションは歴史的都心部における住宅整備と都市更新。整備計画についての契約は2002年にサインされた。2010年までに、3万平米を買い取り、630戸を提供する。老朽化した住居の目録をつくり、買い取り、改修し、開発業者に転売する。また老朽化した住居を改修したい不動産所有者に財政支援もする。このように合計930戸が改修されるであろう。すなわち、これは反開発的・保全的な政策ではない。そうではなく、市場原理、民間との共生、を守りながら、積極的に、買収、改修、転売することで、利益を上げつつ地区を改善してゆく。つまり地区の歴史性や環境や空間のいわゆる「保全」にとどまらず、経済原理をまもり、むしろ積極的に、住宅マーケット・ストックそのものの維持と活性化を、なしとげるものである。これは大きな政府によるばらまきではなく、いかにもフランス的な、実績のある、官民協力のやりかたを踏襲するものである。日本だと民業圧迫なんてことになりかねない。

(つづく)

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2008.05.04

ボルドーの都市整備プロジェクトについてだらだら書く

うう。苦しい。17世紀のフランス語。

文法は現代と同じなのに、文体が。そもそも1センテンスが20数行にわたり、関係詞、接続詞でつなぎ、さらにはセミコロンはカンマなのかピリオドなのか、曖昧で、フランス語として読めば簡単明瞭なのに、いざ翻訳すると、一行もすすまない。構文がグチャグチャ、に見える。拷問です。

思うのだけれど、文学理論や文学史のことなどさっぱりわかっていないが、結構、言文一致というか、話し言葉をそのまま文章にしたような感じ。17世紀ならもっと推敲してたんじゃあないの。とグチもいいたくなる。

そこで現代文を読もう。ボルドー市のサイトに紹介された、都市計画とプロジェクトなんかに目をとおす。ぼくは勤勉でブログを書いているのではありません。ほとんど本職からの逃避です。しかしロングテール理論によってちりも積もれば・・・なのであろうと思います。

ボルドー市では、協議整備区域(ZAC、Zone d'Aménagement Concerté)が図のように定められている。ボルドーの顔はこれで変化する。都市を大規模に刷新し、都心部に人口を呼び集める。これらプロジェクトを牽引するのはCUB。これは「ボルドー都市共同体」のこと。ボルドーとその周辺市町村の自治体連合であり、都市整備など政策を共有して広域都市計画を実施する。これらZACは公共団体が行うが、民間資本の導入される。企業も参画する。フランスではずっと以前から官民協同体制が整っている。

新しい街区の整備が目的である。道路、住居、公共空間、近隣施設、店舗、オフィスなどが整備される。

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とても全部のプロジェクトを紹介してられない。最近滞在して泊まったホテルの近くだけ除いてみよう。「ZACボナック街区」プロジェクトである(上右の航空写真)。まずかなりリッチなマンションが多数建設される。それから商業施設をつくる。「メリアデク」ショッピングセンターと、歴史的市街地を結ぶ。地所はUnibailグループの所有、開発はEspace Expansion、後者はメリアデク・ショッピングセンターの管理者でもある。大規模店舗の勝利か?パリのプランタンのような老舗デパートはここでは影が薄い。

いちおうボルドーでは大規模店舗と小規模のそれはうまく共存しているようである。ちかくはシネコンもあって、いちおう都心から環状道路まで賑わいを連続させられるであろうことは、よく理解できる。

それから右岸はプロジェクトがすくなく、「ZACラ・バスティード」のみ。ここは造船工場などの産業地区であって、住民も労働者が多かった。産業移転により、ここを多機能な街として、あらたな拠点とすることがなされている。シネコンがほぼできあがり、さらに計画されているものとしては、住宅はもちろん、大学、国立アキテーヌ州センター、多機能地域センター、植物園とその温室、商業施設、Sud-Ouestなる地域では著名な新聞社の本社、などが建設される。都市計画のチーフのひとりがドミニク・ペローであることも忘れてはならない。

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上の写真は昨年のもの。左は既存建物にあわせてデザインされた銀行。右建物の地上会アーケードのレベルが、左の建物の、歩道に面した石壁となって連続しているでしょ?それから2階3階も。まあこんなデザインは序の口です。しかし対岸から眺めたときは効果的でしょうね。

中の写真はカンチレバーで川に張り出したレストランと対岸の旧王像広場、右はトラム。まだまだ殺風景でしたが、今ではもっとよくなっているでしょうね。実情はよく知りませんが、雇用の問題もうまくいっているのでしょうね。ここにいた労働者たちを、都市整備で吸収し、都市が整備されたのちはなんらかの職につけてあげられるような。

ちなみにこの地区を望む丘の上にジャン・ヌーヴェルが建てたサン・ジャム・ホテルがある。評判はいいので期待したら、がっかりでした。つまり現代建築的センスはなくとも、フランスの地方には、ほんとうに気持ちのいい、人を幸せにする、外の世界を忘れさせるようなちいさなホテル、レストラン、がいっぱいある。それに比べればここはちょっと都会的センスをもちこんだだけである。これを誉めるひとは、フランスのほんとうの奥深さを知りませんな。ちなみにオーナーが何度も代わって経営は難しいらしい。あたりまえ。車をすこしころがせば、いいところはゴロゴロしている。

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行ってわかったが、近くには教会堂を中心とする小集落もある。ゴミゴミしたボルドー市内よりも、ここに戸建でも建てたほうがよっぽど快適だ。天国といってもいいでしょうね。だからコールハースの「ボルドーの住宅」も、そういう意味で納得がいく。ペリユルバニザシオンである。もともと丘の上はお金持ち、下はそこそこ、といった棲み分けははっきいりしている。地区都市計画では、そのことを配慮した立案がなされている。

ともあれそういたかたちで人口流出しないように、歴史的街区、中心地区の整備をがんばらねばなりません。

というわけで、つかの間の逃避はここまでか。う~ん。また翻訳にもどらねば。いやだよう。でも仕事さ。

http://www.bordeaux.fr/ebx/portals/ebx.portal?_nfpb=true&_pageLabel=pgSomRub11&classofcontent=sommaire&id=3570

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TEAM 10展

パリはシャイオ宮にある「建築・遺産都市」ではTEAM X展が開かれている。5月11日までなので、とても行けません。WEBで案内などを眺める。

周知のことですが、CIAMは近代建築運動を国際的なものに広げましたが、いきすぎた機能主義が批判されました。なのでその1956年の10回大会で、若手建築家たちが、謀反をおこした。人間的価値、コミュニティなどすこし伝統的価値をふたたびとりあげましたが、都市の多層性、インフラ、モビリティ、フレキシブルな構造、「都市建築」の概念など、今日にも有効な発想がこのときに出ました。

おおきくは日本のメタボリズムもこの枠組みであることがわかります。

バケマ、ヴァン・アイク、キャンデリス、ウッズ、スミッソン、といったそうそうたる顔ぶれ。ぼくたちには現代史であるが、若い学生にはすでに歴史的研究の対象である。

展覧会の企画から、ヨーロッパの建築勢力地図がすこしわかります。

当然、NAI(オランダ建築協会)での展覧会が出発点。2005年、ロッテルダム。それからパリのポンピドゥ・センターに巡回し、ここのコレクションも追加展示された。NAI、デルフト工科大学、IFA(フランス建築協会)、ル・コルビュジエ財団、ストックホルム建築博物館、ヴェネツィア大学・・・からの資料も集められた。

主催は、建築・遺産都市、IFA、NAI、協賛がデルフト工科大学建築学部、ポンピドゥ・センター。ようするにアーカイブ連合といったところでしょうか。

シャイオとボブールとは、内容的にかなりかぶっている。どう棲み分けするのかよくしりませんが、関係は悪くないようです。

・・・でよくよく考えてみる。「運動」でくくれるのは、やはりヨーロッパ。アメリカはどうかというと、「運動」ではないでしょう。やはりビジネスが基本にあるような気がします。キュレーションもありますが。日本はどうかというと、「運動」も少しはありました。でも「政策」がいちばん根底にありますね。日本近代において「主義」などというものを考えるむなしさがここにあります。

ヨーロッパを考える場合、市など自治体の行政のなかに専門家としての建築家のポストがずっと確保されていたという歴史的事実がもっと強調されるべきです。これが日本とヨーロッパの違いです。日本の自治体にとって、建築家はときにはアウトソーシングの受け皿、ときには図面作成の業者にすぎません。

日本の場合、やはり「建築家」という職能は国家が近代化のために導入した政策的なもので、じつはまだまだなじんでいないのかもしれない。だから日本人の建築家がこれだけ外国で活躍し、評価されているのに、国内ではどうも違うのは、こうした歴史的経緯が反映していると考えられます。前途にいろいろ仕事は多いようです。

ヨーロッパの場合、建築家の自発的な運動が、建築家コミュニティを媒介として、行政の内部に伝わるパイプがある(だからといってすぐ伝わるわけではないが)、そんな社会構造があります。これがヨーロッパが歴史的に構築してきた、専門性を尊重したうえでの、民主主義的なシステムです。これは考えてもみれば、同職組合が都市を成立させた、その構図が薄まりながらも生きている、そんな感じさえ、します。建築家というイマジナリな同職組合といえます。

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「モダニズム建築」の問題についての続き

数日前の投稿の続きです。モダン/モダニズムという分裂、この日本固有の概念枠組みの問題はなんとかしたほうがいいと思います。そこで気になってModern Architectureの意味で「近代建築」によりウィキペディア検索してみました。これもまたあきらかに専門家の記述と思われます。そのまま引用してみます。

「近代建築(きんだいけんちく)

1.近代の時期に建てられた建築物を指す一般的なことば。

2.日本建築史の用語として、西洋の建築様式や技術を用いた幕末期以降の日本の建築物で、とくに洋風の意匠を取り入れたものを指す。

3.世界的に建築史の用語として、近代建築運動の理念に基づいて建てられた建築物を指す(Modern Architecture)。正確には上記1や2との混同を避けるために「近代主義建築」と呼ぶのが正しい(モダニズム建築参照)。第二次世界大戦後のものは「現代建築」と呼ぶことが多い。

例えば赤レンガの東京駅は、2の意味では近代建築になるが、3の意味では近代建築とはみなされない。」

仰天するのは最後のくだりで、まさに、東京駅は近代建築であり、近代建築ではない、と書ききっています。ここまでくると、個人ではなく、学界が組織的に責任を感じるべき問題です。

つまり「近代建築」は言葉としてとても曖昧だ!と堂々と説教する。この自信はいったいどこからくるのでしょう。まずいかな、なんて思わない。さらには「近代主義建築」といった表現が正しい、などという「正統性」の根拠はどこにあるのでしょうか。そもそも世界の常識ではないことが前提なのですから。

問題提起すればキリがありません。

たとえば洋風の建築でさえ、はっきり近代化、西洋化を目指したものであり、「近代」になるのだという「主義」がはっきりあらわれているでありませんか。だからこでは「近代建築」であってもいいけど「近代主義建築」といえる。

1,2,3の意味の混合を避けるとある。しかしそこでは区別しなければいけない理由、を述べるべきです。近代建築とはそもそも多くの矛盾する建築を含んだ広い概念であり、そのなかから排除されるためには、よっぽどの理由が必要です。

「3」の説明にいたっては仰天の極みで、近代運動の理念に基づいているから「近代建築」というカテゴリーから排除されねばならない、とある。これっていったいなに?

世界遺産になるであろうル・コルビュジエのサヴォワ邸は、日本人にとっては近代主義建築で、日本人以外にとっては近代建築だ、ということになって、ぼくは目眩がします。

ちなみに1977年版『建築大辞典』(彰国社)では「近代建築」項のみです。そのなかで1920年代前後の近代運動にもとづくものは「国際建築」とも呼べる、と書かれているだけです。ですから1970年代に、幕末、明治、大正のころの建築の研究や文化財化が進んだので、そこに「近代建築」のラベルが貼られてしまった。そののち昭和の戦前や戦後の建築も歴史的研究の対象になったり、DOCOMOMOの活動対象になったりしました。しかしそこで「近代建築」を延長するのではなく、先学に敬意をはらって?、別の言葉が探された、ということです。

これは重大な問題で、背景でさえ、いくつかあります。ぼくは専門家ですからよく知っています。

(1)そもそも「近代」概念が曖昧。歴史概念としての「近代」がはっきりしていない。これは建築史家の責任。(ぼくがごめんなさいするのは、自信過剰ですかね)。

(2)この「近代建築」という言葉によって現象を記述できない、言葉が成り立っていない、ということが、問題であるという認識さえない。おそらく専門家は、このダブルミーニングが理解できない素人をみて、見下すのであろう。しかしそれは専門家の自殺行為だと思う。

(3)いわゆる「近代建築」専門家と、いわゆる「近代主義建築」専門家が、セクト化してしまった。おたがいに哲学が違いすぎてしまった。セクト問題、世代問題かもしれません。じつはこの問題がいちばん深刻です。だから学会ではかえって議論できないのではないか。

くりかえし言いますが、日本独自の和製英語というものも、たしかにあります。たとえばドタキャンだとか。野球のトンネルだとか。しかしよくもわるくも西洋の強い影響下にあった19世紀・20世紀の日本建築(ここでも「日本建築」は、近代化以前だろうが、という反論はあります)が、それを論じるためにはこうした鎖国的状況しかないのも困ったことです。

さて最悪の近未来シナリオも書いてみましょうか。

(1)グローバルな枠組みとシンクロした日本建築の歩みが書けなくなる。日本は永遠の鎖国である。

(2)日本国内の学界的セクト化がどんどん進む。共通の「建築」という文化的基盤すらなくなってゆく。日本は永遠の幕藩体制である(それがいいという議論もあるが)。

(3)その結果、世界で活躍する日本人建築家のバックアップができなくなる。あるいはそれに便乗してビジネス拡大ができなくなる。グローバル化した建築家にとって、建築史家はますます有益な存在でなくなる。

(4)想定される時代区分。幕末~第二次世界大戦=近代。戦後=現代。そして近代/現代の連続性を再発見、再々発見するなんて企画が数十年後になされるのだろうか?

ぼくなりにモダン/モダニズムを整理します。

「モダン」を歴史概念として使うときは、「時代区分」にしかなりません。ですから世紀、年代、事件~事件、というように機械的に決めるしかない。そのなかに支配的な傾向と、マイナーな傾向にわかれます。それはいたしかたない。時代区分とは乱暴なものであり、さまざまなフォローと一体となって提供されます。

「モダニズム」は、「モダン」という時代をつくった主要な考え方、システムのひとつです。ですからときには「モダン」を越えて発生することもあるし、「モダン」すべてを支配しているわけではない。

日本の近代建築/近代主義建築の理論的な誤りはじつに明快です。「モダン」と「モダニズム」は、当たり前すぎることに、そうとう重なります。しかし「近代建築/近代主義建築」という理解では「モダン」と「モダニズム」は、それぞれ違う時期を示しており、排他的です。こんなことがおこる日本はどうなっているのでしょうか。

引用した定義では、時代既定なのか、派(スクール)定義なのか、スタイル定義なのか、それを分けていないのが混乱の原因でしょうね。いろんな概念があるばあいは、階層化とか、クロス定義できるシステムとか、いろいろ手はあると思いますが。

・・・もっとも、ぼくはそれほど心配してませんけどね。建築史の人びとはほんとうに優秀ですから。そのうち志の高い若手研究者が日本にもっと普遍的な建築概念、歴史概念をもたらすべく、活動をはじめるだろうと期待しています。でなければ、このブログもまったく問題にされず、世の中は平和のまま、それはそれでいい、と。

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2008.05.03

フィリップ・ジョンソンの《グラス・ハウス》というアルカディア

どれ、Architectural RecordのDaily News、朝刊がわりに読むか(もう隠居じじいだね)。2008年5月1日付の記事『グラスハウス、チケット完売につき追加発券』を抄訳すると・・・

このグラスハウスは2007年夏から一般公開。しかし近づいて拝むのは難しかった。建築家の自邸で、1949年完成、コネチカット州ニュー・カナンにある。近代建築の偶像的作品。ガイド・ツアーは10人ごと。年に7カ月の公開。2007年のチケットは、6月23日のグランド・オープンはるか以前に完売。2008年度分も同様。

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要望に答え、地所の所有者であり管理者である歴史的保存ナショナルトラストは、ツアー一日5回を6回にし、1500券を新規発券。現地ディレクターChristy Maclearさんは、見学内容が犠牲になることはない、と説明。入場料40ドル。所要時間2時間。(このショナルトラストは28件の建築を所有。)4月から10月まで、火曜日以外は毎日オープン。去年は11カ国から8000人の入場者。

地所は47エーカーで、グラスはウスのほかに13棟。現代美術ギャラリーが印象的。ジョンソンは美術学芸員David Whitneyとともに長いこと、ここで生活していた。1986年、ジョンソンはこの地所をトラストに遺贈する決心をした。2005年、ここで没。98歳であった。

2007年の公開にそなえて、トラストは26件の保存計画をたてた。建物の屋根や壁などだけでなく、美術作品の修復も含まれる。こうして「時の試練に耐えてゆく」のだそうな。

さて感想。

じつはこの物件は見ていない。ライトの落水邸をみたとき、神話性はすでになくなったと感じた。ここもそうなのであろう。しかしライト=大衆的、ジョンソン=エリート的という構図はそのままです。

とはいえ《グラス・ハウス》は近代建築のイコンです。MoMAのキュレーターとして建築トレンドをリードしたキュレータ・建築家フィリップ・ジョンソンの自邸。工業化された建築、装飾の排除、ミニマル、均質空間、インターナショナルスタイル・・・技術そのものはさらに進化するにせよ、ある種の極北がここにあります。

歴史家として位置づけるなら、これは20世紀建築を支配したアメリカのエッセンスです。つまり19世紀末から20世紀にかけて、アメリカは経済大国となり、戦争で疲弊したヨーロッパにかわって、世界の芸術、建築をリードするようになります。資金にまかせて、世界中の美術作品を買いあさり、それで美術館を建設します。裕福な家庭に育ったフィリップが、かつてヨーロッパ貴族がイタリアを旅行して教養を深めたように、ヨーロッパを旅行し、文化を蒐集する。それを展覧会として、自邸として、集大成させる。18世紀のバーリントン卿を思い出させます。

フィリップは偉大なる教養人です。だから日本的にモダニストと解釈するには無理がある。ひょっとしたら日本的モダニストは本気で伝統文化から離脱しようとして、西洋のモダニストは切れるといいながら切れていなかったということが、あるかもしれない。

そう考えると、意外と古くさいのかもしれない。偉大なる個人としてのパトロンなのだから。ついでにいうと、モダニズムを支えたのは、社会主義政策もあったかもしれないが、お金も教養もある特権階級でもあったことを忘れてはならない。

《グラス・ハウス》といえば中村敏男さんの写真集 Toshio Nakamura, Philip Johnson's Glass House, 2000をいただいたことがある。だいぶ前になる。あたふたしていたので、お礼もまだのような気がする。遅くなりましたが、御礼申し上げます。(下の写真はコピーですが著作権を考えて大幅縮小してあります)

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このなかでフィリップは英国18世紀の風景式庭園が好きだということを述べていた。そうか。そうだったのか。それで納得がいった。上の写真集をみていると、「アルカディア的風景」という言葉が頭に浮かんできて離れなくなったのは、そのせいであった。

行って見てきたひとの話しはいろいろ聞いた。アメリカ人が西部を目指したフロンティア・スピリットの表現という指摘もあった。そうかな。しかしここはNYの郊外住宅地のようなもので、彼の敷地はそのへりであるらしい。《グラス・ハウス》は人工的な住宅地と、自然のボーダー上にある。

そこで気がついた。これは18世紀イギリスのジェントルマン庭園である。類例としては、ジョン・ウッドが18世紀バースに建設したプライア・パーク。見下ろした池に、パラディアン・ブリッジを造作し、スケールをわざと小さくして、距離感を演出するとこともそっくりである。なお下の写真で、白黒は、別の場所のパラディアン・ブリッジです。いかに流行していたか、です。フィリップはとうぜん知っていたでしょう。

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18世紀イギリスの風景式庭園を愛好していたと告白しており、プッサンの絵画くらい知っているのは当然で、実際、《フォーキオーンの葬送》の贋作はもっていたという。それでプッサンの風景画のなかから似たものを探してみたが、うまくはいかない。《葬送》もそうだし、妻が遺灰をあつめる光景を描いたものでは、神殿が湖をみおろしている。ただしこの神殿は遠景の中央にあるので、視線の向きは逆である。

さらに様々なスタイルのフォリー。イギリス紳士たちが自分の庭園を、ギリシア風、ローマ風、インド風、中国風といった様々なスタイルのフォリーで飾り、そこを世界の縮図としたように、フィリップもまた古典主義(自邸はミニマルにされた神殿である)、ゴシック、簡素な小屋、幾何学のコラージュ、ポストモダン、などで満たす。彼は変節していったのではない。さまざまなものが共存していたのだ。そして18世紀イギリスのジェントルマンが、その庭園において、イギリスが支配した世界に同化していったように、フィリップは自分自身が舵をとった20世紀建築に無限に同化していった。

エルヴィン・パノフスキーとの関連はないのだろうか。1933年にアメリカに渡り、1936年にはプッサンの《アルカディアの牧人》の解釈をめぐって論文を書き、1955年にはそれを含んだ『視覚芸術の意味』を出版した美術史家。「アルカディア」概念そのものは教養人なら当然しっているはずである。フィリップもまた、この伝統的概念や、プッサンの絵や、それについてのパノフスキーの議論を承知しながら、自邸を建設したのであろうと想像する。もちろんそれを単純な影響などとすることはできない。自意識溢れる人びと間のアイディアの交流なのである。

すくなくとも誤訳、曲解・・・で解釈はかわっていくでしょ、というパノフスキーの物語と、フィリップのトレンドメーキングは近いものがあるなどと感じる。

パノフスキーが、アメリカの美術史研究を賞賛していた。ご本家ヨーロッパでは、思い入れや党派性が強くて自由な発想ができないなくて、アメリカのようがよっぽど自由で、客観的で、平等で、スケールの大きい発想ができる。フィリップもまた、ヨーロッパ建築を少し遠いからぎゃくに全体がわかるといった、そんな視点から見ていたのであろう。そしてアメリカにおける建築業界との関わりはどうだったのだろうか。トレンドメーカーでありながら、醒めた距離感というものはなかったのだろうか。

これを日本で昨今話題になっている「モダニズム建築」などと関連づけると、まったく浅いものになるだろうね。なんとかしてください。

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