鉄は古代生物が近代建築にのこした遺産である
先日、地質学の先生に個人教授?のようなことをしていただくなどという特権的なお恵みがあった。その内容はやがて大学広報誌の記事となるので、インサイダー的にあれこれ情報漏洩はしないが、ごく初歩的、常識的なことだけを建築史にフィードバックしても面白いのである。
建築にとって、とくに近代以降の建築にとって、鉄は必要不可欠な物質となった。もちろん鉄はそもそももっと古くから文明にとって不可欠であり、鉄は国家なりなどといわれることそのものが遅すぎたのであるが。建築も、RC、鉄骨造などの時代になって、鉄なしには成り立たなくなった。木、大理石、の時代は終わったのである。
周知にようにコークスの発明で森林を犠牲にしなくとも製鉄ができるようになり、さらにスティールがつくられるようになって建築にも応用された。それはそれとして、鉄がそもそもどういうかたちで人類に提供されているか、である。
人類は鉄をもっぱら酸化鉄からとっている。地球の質量の3分の1は鉄で、量的にはふんだんにあるが、地球のコアまでいって鉄をとろうという人はいない。純粋鉄が地球内部にあるのは隕石衝突説などいろいろあるらしいが割愛して、ようするに鉄はどのようにして酸素と結合したか、酸化したかである。
酸素をつくったのは生物である。太古、地球上に酸素がそれ単独で存在していたのではなく、この科学反応しやすい物質は化合物として存在していた。それが地球上の大気の20%を占めるようになったのは、バクテリア、プランクトン、葉緑素をもつ植物、による光合成のおかげである。そう酸素は生物がつくった。
この酸素は地球内部にふんだんにある鉄と反応して、酸化鉄になる。火山活動などのいろいろな地球の活動が介在しなければいけないらしいが、これも割愛。この膨大な酸化鉄が残ったのが鉄鉱石である。人類は、もっぱらこの鉄鉱石から鉄をとっている。製鉄とは、この酸化した鉄を、COなどにより段階的に還元し、最後には純粋なFeとする一連のプロセスである。
というわけで生物が出す酸素のおかげで、鉄は鉄鉱石となる。こんどは生物の一員である人類が、その鉄鉱石から鉄を抽出する。つまりとても大きなスケールのエコロジーである。
かの地質学の先生は、まさにこの生物が酸素を出し、そこに酸化鉄ができ、やがてそれが鉄鉱石になってゆくという「現場」を再現したり発見したりしていて、そこがとても面白かったのだが、これ以上の情報漏洩はいけません。
「環境」とは内部/外部の区別をやめる、はじまり/それ以前という発想をやめる、というようなことだと個人的には思っている。その環境的発想からすると、木造の原始的な小屋から建築は始まったなどという18世紀の建築起源論はかなりいかがわしい。ほんとうにそんな小屋があったのかといういかがわしさ以上に、大前提として木を、きわめて唐突にしかも当たり前でないことを当たり前であるがごとく想定するいかがわしさである。
太古の生物活動が、鉄を鉄鉱石にさせ、鉄を人類に提供したということであれば、もっと違う建築起源論があってもいいだろう。
さらにいえば建築モデルとしての「有機」である。19世紀、科学者の思考をまねて建築家たちは有機/無機を区別して、「有機的建築」なる概念をつくった。これは今の健康志向の「オーガニック」とはちと違うが、建築は適切なランダム性を含みつつも全体を全体たらしめる組織化の原理をもつ。それは機械とは違う原理であり、たとえば部分は部分で自律的でありそれ自体全体である。といった、そんな論理であった。アアルト、ライトらはそんな有機的建築をめざした。そこには19世紀に発達した生物学からの贈り物があったのである。
逆に20世紀の高度経済成長型の機能主義建築が「無機的」な風景をもたらした、などといわれるとき、前述の「有機」の反対の、負の価値をになうものとなる。そして「無機的」な風景は、すぐれて鉄の建築、鉄で可能になった建築がつくったものである。
しかし鉄は古代生物の残した遺産である、と考えると、このありがたい贈り物を「無機的」などと揶揄するのは子孫としていけないのではないか。
鉄もリサイクルに適した建材ですよ、などとスケールの小さいポリティカルコレクトネスの主張ももちろんよいのだが、建築論的にも違う発想はできないものか。100年200年ではなく数十億年単位の発想を、である。
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