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2008.04.20

逓信建築について

向井覺編著『逓信建築年表1885~1949』(東海大学出版会、2008)をいただいた。あつく御礼申し上げます。逓信省の建築について、作品の写真を数多く掲載し、おもに官報にもとづく詳細な年表をまとめている。歴史家にとってたいへん利用価値のある貴重なものだ。

いわゆる逓信建築なるものについて、今さら注釈をつける必要もないかもしれない。しかし20世紀的なものを反映した典型的なものと思われるので、書いてみる。

逓信省に営繕課的なものができたのが1987年(明治19年)である。佐立七次郎、吉井茂則らの明治折衷主義の時代、内田四郎、渡辺仁らが切り開いた大正モダニズムの時代、と発展した。そこは官庁営繕というより自由な建築デザインの揺籃であって、内田祥三もまた当時、その自由な空気と、設計能力の高いスタッフが集まっていたことを証言している。

なぜ自由であったか?それは大きな政府の強い政策のもとに結集した、よくもわるくも、エリート集団であったからだ。組織の論理に従うのではない。自分そのものが、時代であり国である、自分の信念をとおすことが社会のためになる、という確信を持ちえた。そんなエリートが存在しえた幸福な状況であった。

雇員であった山口文象もまた逓信省技手たちを結集して「創宇社建築会」を設立して、建築運動をはじめたのも、興味深い一例である。下級技師であることの矛盾からはじまったいわゆる社会的意識に根ざしたものであった。当事者からみれば社会の階級性の問題だが、遠くからみればそうした運動を生み出しうる社会なのであった。

1910年代は黄金時代の始まりであった。大島三郎(1917)、岩本録(1918,夭折の天才であった)、吉田鉄郎(1919)、山田守(1920)が入省してくる。山田は1929年に海外出張し、CIAM第2回大会に出席し、メンデルゾーンに会う。吉田鉄郎は、ぴんとはりつめいた緊張感のあるミニマリスムである東京中央郵便局(1930)の完成をまって、1931年、1年間にわたる海外旅行にでかける。そして近代建築運動をその目で目撃するのみならず、日本建築を英語で海外に紹介する文献を執筆するなど、日本の近代建築史にとって忘れ得ぬ存在となった。

1930年代、逓信省はまっこうから進歩的な合理主義建築を展開した。いっぽうで東洋趣味などと様式規定された美術館や植民地総督府建築では、反動的な地域主義的建築が展開された。まさしく省庁縦割りが建築スタイルにも反映された。しかし日本の合理主義は、省庁の壁によって守られたともいえる。

こうした逓信省建築家山脈のなかに、片山隆三がいる。たまたまご縁があったので、思い出した。

編著者の向井覺さんは「官報」の「叙任及辞令」から関係者の足跡がわかるということで本書をまとめられたようだ。そしてまとめきって、自覚されていた病いからお亡くなりになった。細いご縁かもしれないが、向井さんに導かれ、片山の足跡をたどってみたい。

そういうわけで『逓信建築年表』にもどってみると、片山の代表作は、札幌逓信局庁舎(1938)である。緊張感のある合理主義建築である。吉田がまだ古典主義的な感覚を残しているのにたいし、片山はもっとふっきれたプロポーション感覚をはっきりしている。とはいえまさに吉田門下といったところである。このころは吉田スタイルが確立し、逓信省は吉田スクールという一面もあった。

別の資料によると片山は1934年に大学卒業。おそらく学生時代、ぼくたちの世代が丹下健三や磯崎新をみて感激したように、吉田がつくったばかりの東京中央郵便局などを見にいったりしたであろう。それを模範にしてこの札幌逓信局を完成させた。卒業後4年目である。まだ30歳にならないときにこんな仕事を担当させてもらうのは幸運である。

1936年(昭和11年)に入省。「年表」には「11月2日 任逓信技師(10月29日内閣)逓信技師 片山隆三 叙高等官7等」とある。高等官にもランクがあって親任官、勅任官、奏任官がある。奏任官は高等官の三等から九等までである。大学卒でいきなり七等ということである。

片山隆三についての記録は、任命と俸給にかんするものである。

1937年11月2日には「9級俸下賜(10月31日逓信省)逓信技師」

1938年4月1日。「陞叙高等官5等 逓信技師」。2等いっきに昇級である。

1938年11月4日。「8級俸下賜(10月31日逓信省)逓信技師」。お手当は1級あがった。位階と俸給とは別というのも面白い。

1939年8月1日。「任航空局技師(7月31日内閣)逓信技師 正七位 叙高等官6等」。配置換え。記録ではこれに先だって、航空局の拡大がなされたことを物語る記述があり、日本がしだいに戦時体制となり、逓信省もそれに対応していく過程で、彼は航空局に配置転換された。そして実際、格納庫などを建設している。

1940年4月11日。「陞叙高等官5等(4月9日内閣)航空局技師」

1941年4月2日。「6級俸下賜 航空局技師」。手当はいっきに2級アップ。

1942年4月8日。「5級俸下賜 航空局技師」。

1942年7月1日。「陞叙高等官4等 航空局技師」。

1943年10月9日。「4級俸下賜(9月30日逓信省)航空局技師」。ほぼ毎年、俸給はアップしている。これは若手の国家公務員なら普通である。

1944年7月7日。「陞叙高等官3等(7月6日内閣) 運輸通信技師」。これも運輸通信局の組織改編の結果であることが資料よりうかがわれる。配置転換ごとに昇級している。

1944年10月10日。「3級俸下賜(9月30日運輸通信省)運輸通信技師」。敗戦半年前になっても俸給アップである。ただ実態はどうであったか。

1946年2月18日。「2級俸下賜(2月4同(内閣))同(通信院技師)」。これだけみると敗戦がどこにあったかわからない。

1949年、郵政省と電気通信省に分割され、逓信省はなくなる。

片山は大学から逓信省にはいり、すぐ庁舎建設をまかされ、師とあおぐ吉田鉄郎の作風をよく理解したものを建設した。ここまでは順調であった。しかし時代が不幸であった。建設中の1937年に物資統制がすでに始まっており、建設は冬の時代を、むかえた。ちゃんとした建築をつくる機会はほとんどない。もちろん国家の政策の中枢的部分をうけもつ逓信省だけに、1939年でもまだ建設例はすくなくない。しかし1940年は激減である。そして彼もまた航空施設の建設などを命じられるのであった。

もし戦争がなかったら、もし平和がせめてあと10年続いていたら、建築家キャリアもとうぜん違っていたろう。宮仕のあやで、等級に反比例して仕事はつまらなくなる。彼はそんなキャリアをすごしたのであろうか。三橋四郎のように自営に転じて満州関係の仕事をしようにもできない状況であった。そのまま在職できることじたいが例外的に幸運な時代であった。超越していた、達観していたという評判がわかるような気がする。

片山は建築家として、幸運であったとも不遇であったともいえる。札幌逓信局の建物をみると、吉田風でありながら違う感覚をもっていたようにもうかがえる。吉田がまだクラシカルであったのにたいし、片山には彼にない若々しさがある。仕事に恵まれていれば、それなりに自分の作風を出していたかもしれない。これは想像であってわからない。そうなっていたかもしれない。そうでなかったかもしれない。いずれにせよ、それは時代であったのだ。

それはそれとして逓信省そのものは郵便、貯金・保険、通信、電話、放送、運輸、航空など多方面を管轄した。この省は、つねに時代の最前線の課題にかかわった。だからスタッフに若い新しい発想をもとめたのであろうし、その伝統は子孫組織のメディア戦略にも引き継がれている。

しかしそうした文明と国家の中枢を、省が担うというところが、20世紀的な大きな政府らしいところであろう。そしてよくもわるくも、その省のなかにエリート建築家が集まった。彼らは、国の政策を担っているつもりで、近代建築運動にふかい共感をしめし、日本の近代におけるひとつの軸を形成した。

ぼくはそこにある奇妙な風景を見る。通信・交通といった国家的ミッションと、建築家たちの「建築いかにあるべきか」の探求は、まったく次元の異なるものであった、と思えてならない。個人と国家は、ここでは密接ではなくむしろ疎遠だ。ふたつのベクトルはたいして矛盾もせず、ぎゃくにいえば緊密に結びつくこともなく、対決すらなく、自由に併存していたのではないか。よく考えてみれば、これは不思議な光景である。言い換えれば戦前の「大きな政府」のなかには、こうしたことが許される自由空間があったとしか思えない。

こうした奇跡とも思える自由空間のなかに、困難な時代、日本の近代建築は守られたように思える。その外では帝冠様式が支配的となり、前川や丹下でさえ国粋主義的な建築を設計しようとしたのであった。しいて自己主張をしなかった片山は、自分の時代をどう受け止めていたのだろうか。逓信省にとどまったのは、たんなる安全な選択だったのか、そこに態度というものがあったのか。

21世紀の小さな政府の時代、建築家は20世紀には考えられなかった自由(しかも困難な自由)のなかにおかれている。しかしもうすこし時代がたって、大小政府の比較をしてみると、大きな政府のほうが建築家にとって良かったかもしれない、なんてことになりかねない。パトロンがしっかりしていた、ということではなく、建築家がそちらのほうが自由であった、などということになると歴史の皮肉だろう。

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