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2008.04.23

GA JAPAN 2007回顧

まさにリハビリ的投稿です。いろいろ事情があって山寺に引きこもり的生活をしておりました。さぼってると批判もされました。そろそろ娑婆に戻らねば。

そこでGA JAPAN誌の2007年版6冊に小一時間で(はじめて!)目をとおしました。すごい。去年、いろんなことがあったんだ。なんとまあ、ぼくは遅れてるね。実質復帰のためです。レポート課題を書かされている学生の気分です。感想文をかいてみて、どれだけ時代とのギャップを縮めたか、ご審査ねがいます。

まず伊東豊雄さんが若い。彼はまだ若手と戦っているという気概があるのです。そこが凡人とちがう。

90年代のあとの00年代はもちろん情報とグローバル化がキーワードです。さらにいえば「脱ヒエラルキー化」とでもいいましょうか。たまたま幸運にも10年近くまえ妹島和世さんにオランダの文化施設プロジェクトをみせてもらったことがある。四角い部屋をならべたそのプランは、まさにそれで「ヒエラルキーというものがない!」と感嘆したら、隣にいた石田壽一さんもそうだよと同意してくれた。

ヒエラルキーがなくフラットなのは情報のもつ本質的な性格である。だから情報が新しい建築をうみだせるかということで、グニャグニャや、ディスプレイ埋め込み、インテリジェント、ユビキタスなどいろんなアイディアが出された。しかし「情報の本質のひとつを空間形式に翻訳した」とはっきりと指摘できるのはSANAAの作品であろう。

金沢21世紀美術館も、ランダムアクセスができる平面である。平面が円だから、これって喩えていえば、PCのハードディスク。いろんな楽しいもの美しいものが、たくさん書き込むことができ、追記も消去もでき、自由に編集できる。ストックも発信も自由。融通無碍。そして時間がたつにつれ、どんどん充実してゆく。マジカル・ハードディスクなんていっておきましょうか。

かつてブレ、シンケルらが構想した殿堂的美術館では、柱廊があって、玄関ホールがあって、中央には芸術にささげられた円形神殿としてのホールがあって、展示は時代別、ジャンル別でというように形式そのものに意味をもたせとうとした。この旧形式は、形式そのものに意味があって、それは芸術を芸術たらしめる形式であった。だから形式的であることは悪いわけではない。しかし今日では、形式があらかじめ用意されてはいけない。

情報の時代、情報はそのままダラっとあるわけではない。それはつねに検索され、選択され、構造づけられなければならない。つまり編集されなければならない。そうすることで、ぼくたちは情報の海のなかで、自分の環境、あるいは自分のニッチ、をつくってゆくのである。グーグルはそのために必要である。ぎゃくに世界政府などには賛同しませんけど。

つまりエディットさせねばらない、ということだ。施設だから大きな枠はどうしても要請されるが、そこでエディット空間・環境を提供するのである。これが新しい美術館が意図していることである。

丹下建三は20世紀を代表する建築家だというのは賛成です。しかし本格的な評価はまだ先でしょう。国家をになおうとする緊張感をもった建築。そんなものは当分、共感をもたれません。しかし状況が変われば、再評価される。その再評価のされかたによって、ほんとうに歴史的存在になるかどうか、が決定される。ルドゥもそうでした。ル・コルビュジエはすこし早すぎたようにも思われます。群がる人びとが多すぎます。  

○×などディスカッションはメンバーが固定化しており、サロン的という批判がなされるようだ。仕切るひとがはっきりしている。でも情報化の時代だからこそ、こうしたキャラクターのはっきりしたメディアが求められるのでしょう。メンバーが固定されていて、議論してもおたがいに手の内をよく知っており、技もよくかかり、受け身もうまい、というプロレス的状況です。建築界定点観測のような意味合いもあるでしょう。最長不倒をめざしてとことんやるべき企画だと思います。

また感じるのは、二川幸夫さんは日本のフィリップ・ジョンソンになるのだなあ、ということです。キュレーターと写真家・出版社主とすこし異なっていますが、メディアの力を知り活用しようとしているし、ある種、選良主義的なところも似ています。ジョンソンの伝記があるように、ぼくはそのうち二川さんの伝記がかかれてもいいと思っています。年代からして1960年代から70年代くらいの書き手がほどよい距離があっていいでしょうね。

アメリカといえばアメリカ建築の時代は終わった、という風評がもっぱらです。超大国となったアメリカがヨーロッパの文化を移植して本家を凌駕してしまったことはヨーロッパ人でさえ認めるところです。ところがアメリカの学生はもはや建築設計などという苦労の多い職種は見向きもせず、金融工学、ハイテクなどを指向しています。で、そこにおこるのが空洞化です。それがグローバル化とパラレルに発生している。

つまりアメリカのディヴェロッパーにとって建築家はすでにアウトソーシングの対象です。また建築教育も、いい大学はたくさんありますが、アメリカ人スタッフが不足しているのなら優秀な建築家を海外から呼べばいい。アメリカはとっくに建築にあきてしまった。でメタ建築でもはじめてしまった。建築家でも、教員でも、才能を呼んで使えばいい、ということになった。

日本人建築家はそこで使い勝手のいい才能となって、仕事に恵まれ、活躍しています。高度経済成長時代にさんざん試行作をつくって訓練したからさ、という皮肉な見方もあります。しかし日本はそれなりに、学生の能力をどうやって高めるか、ということにちゃんと向き合って、教育をおこなってきたのだと思います。これは中小企業にいい技術がたくさん生まれたような状況だと思います。だから建築リテラシーがあり、ちゃんと空間の言語で思考できる人材をこれからも養成しようとすることは、それなりに世界のなかで自分たちのニッチを設定することにつながるはずです。ときどき情けなくなることもなくはないでしょうが。日本は、アジアほど乱暴ではなく、ものづくりの一定のクオリティがあって、西洋とも親和的だから、グローバル資本にとってもいい才能であろうと思われます。

アニメ産業でさえ空洞化が進行していると聞きますが、建築は開き直ってレトロでよろしいのではないでしょうか。

さて若者気質ですが、教育にかかわるぼくとしては、他人事ではない。しかし社会学者でもなく、狭い体験の範囲でしかいえない弱点も自覚しています。

でも今の学生には、上下関係の重要性というのは希薄で、むしろ同世代との関係が死活問題となります。この類似したバックグランドで、いじめやシカトの問題がおこっています。大学でもそれをかいま見させる現象がときにおこります。

だから学生社会が脱ヒエラルキー化し、フラット化している。でもだから平等で気持ちいいのではなく、だから辛いようです。階層でもあれば、それによりものごとは決まってしまうから、個人は楽。でもみんなフラットなら微少な差異で悩みはじめます。こうしたよく指摘される現象が建築界に反映したらどうなるかというと、たとえば卒計日本一展に代表されるような、同世代バトル。他大学の学生の動向に異様に詳しくなってしまう、ネットワーク型学生の発生。良い悪いは表裏一体なのです。

学生たちが、同世代内の戦いに方向付けられているということは、ぎゃくにいえば、世代間抗争が相対的に希薄になった、ということです。実際、今の学生はききわけはいいのです。しかしそのかわりオイディプス・コンプレクスをいかに克服するかという儀式はなくなってしまうおそれがあります。反逆ではなく、肯定からはじまる、という別のスタンスもここから生まれます。

森山邸の問題提起は、だからふたつあると思います。ひとつは「宅地」というものを、むしろまっこうから肯定し、そこに宅地の可能性を最大限に展開したこと。近世の中下級武家住宅の延長で、プチ屋敷としての戸建て住宅のための、宅地。それによって形成される都市のイメージをもちあわせていないことが、批判の中心でした。しかし森山邸は、そのオイディプス・コンプレクスを克服しようとするのではなく、それを最大限活用するという突破口を開いた。もう一点は、平面です。住宅の輪郭には関心がない。そうではなく分節化された部屋のたがいの関係を、細心な注意をもって、デリケートにきめてゆく。これは同世代住居ではないかもしれませんが、そこに世帯構成員が基本的にフラットな関係にあり、しかしそれが単純な同一要素の繰り返しではなく、微妙な調整を要求しているところに、同世代人間関係の調節と同じようなメンタリティーを感じます。それは観察して理屈ではわかっても、おじさんには踏み込めない部分です。とくにぼくってがさつですから。

だから伊東豊雄さんは「社会性」批判はおこるべくしておこった、のかもしれない。たとえば彼は80年代だったか、消費という概念を重要視しました。しかし消費、経済は基本的には私的なものです。だから消費社会の社会性は、それを外側からみるのでなければ、生まれない。公共圏はとても細くなった。公共建築もへっていきます。環境が公共圏を用意してくれなくなったときに、自分で社会を構築するなどフツーの人にはできません。そしてフラット人間関係のなかでは、隣人へのデリカシーあふれるKYでもない配慮、根回しなどがこれからまずます発展するとして、それは社会性ではなく、世間性なのです。

・・・さてここまで一時間。午後の仕事がありますから、やめます。伊東さんの多摩美の図書館についても書きたかったけどタイムオーバー。なるだけ時代に追いつきたいと思っていますので、ぼくの認識において遅れているところなど、ご指摘ください。

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