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2008年4月の17件の記事

2008.04.30

「モダニズム建築」ってなんだ?その保存とは?

(1)「モダニズム建築」の「保存」ってなんだ?

巷では「モダニズム建築」の「保存」が話題になっているらしい。山寺にこもっていたあいだにたいへんなことになっていた。・・・は大げさにしても、わかる点と疑問な点がある。1996年に登録文化財制度ができたが、日本の近代建築の黄金時代といわれる1960年代のものが、いよいよ2010年からその対象となってゆく。これはよくわかる。そのとき丹下健三の代々木オリンピックプールが中心となるであろう。ただこれは1940年代生まれの方々が中心となるものであろう。

しかしそれがことさら「モダニズム建築」となぜ、呼ばれるのか。そして専門家にとってもまか不思議な点は、Modernism Architectureという、グローバルには通用しない和製英語でそれらを語るということだ。事情に精通しているはずの専門家たちがあえてそうするのが、わからない。

そしてその新たな保存の波が、建築史学をどう展開してゆくか、という点も。

(2)建築学会の『建築雑誌』では

『建築雑誌』2008年2月号では「モダニズム建築の保存」が特集されていた。

年表があって、ぼくがすこしだけかかわったのは大分県立図書館と長崎市水族館だけであったことも思い出した。あまり汗を流さない執筆、発言のたぐいにおわっていた。なにも貢献していない。これからもそうだろうと悲観的な予測しかないが。

倉方俊輔さんが総括的な『「モダニズム建築の保存」がもたらすもの』論文を書いていた。

想定問答集のようなものが書かれていて、予期される批判としては、機能主義の哲学を貫いていさぎよく解体されるべき、保存ではなくより生かされるべき、ポストモダンなど他の概念との関連、モダニズムの本質を忘られがちではないか、歴史家だけの議論ではないか、などというものであった。それらにひとつひとつ反論して対抗している。いろいろ仮想敵(のふりして現実敵)を想定しての対応だけに、包括的で、スキがないようにも見える。しかしぼくには決定的ななにかが欠けているように思えてならない。

それは建築とはなにか、歴史とはなにか、という本質論。そこから反省的に見えてくる日本の建築史学の責任である。

いろいろ矛盾点がある。「モダニズム」という以上「イズム」であり「主義」である。主義であるからには、共産主義にとっての資本論とまではいかなくとも、ちゃんとしたコアになるひとつかいくつかのテキストがなければならない。欧米の近代建築運動はまさに「運動」であった。そして運動を運動たらしめ、主義を主義たらしめる、意識、そして言葉、マニフェストがあった。しかし日本の「モダニズム建築」には書き散らかされたエッセイがあるだけで、主義として総括されたものではない。つまり運動の主体から発せられた概念ではない。

「モダニズム建築」のイズムとは歴史家、あるいは歴史家的立場の人びとが、懐古的、事後的にまとめとしてたものだ。歴史家が懐古的に眺望してこしらえた言葉だ。主張ではなく、観察のことばである。だから本来ならそれを「イズム」とすることはできない。

というわけで建築史家だからいえないことがあった、それが書かれなかった、と解釈する。だから、ぼくがかわりに書きましょう。

つまり日本における建築史学において「近代建築(Modern Architecture)」とは、日本における「近代化の建築」なのだが、それは欧米での近代建築運動とは「違う位置づけ」をされてしまった。

日本の近代建築とは、まず文明開花と近代化における建築であり、それは擬洋風、様式建築(これまたわけのわからない概念だが)、西洋風建築、東洋趣味建築などである。それらは20世紀初頭の、いわゆる近代建築運動がもたらしたものから否定されることとなって、近代化に貢献しながら、模倣主義的で、退嬰的で、先進国追随的なものと歴史的評価は与えられなかった。さらには都市の近代化のなかで取り壊されはじめた。日本の近代建築(Modern Architecture)とは、そんなかわいそうな建築として、歴史研究と保存の対象になったのであった。

それらは村松貞次郎先生などが落ち葉拾いと揶揄されながら積み上げてきた研究と実践であった。

20世紀の近代建築運動は合理主義という普遍的な思考と、近代工学という普遍的な技術に立脚して、19世紀的なものを否定し、ヘゲモニーを握った。そこからすると「日本の近代建築」とは保守派からも革新派からも劣ったものとみなされた。

その二重構造のなかで、区別するため、近代建築運動の影響をうけたものは「近代建築(Modern Architecture)」と呼ぶことはできなくなった。だからわざわざ「モダニズム建築」などと呼ぶ。なるほどイズムをかぶせると、理論武装をした建築家がとりくんでいる雰囲気はする。しかしイズム建築の以前の建築家たちが、理論や理念に不足してたかというと、そんなことはない。そう考えるのは冒涜もいいところである。

個人的感想を述べると、日本の近代化も長いから、そのなかでかなり追随一方だった時期と、かなり対等に近くなった時期があって、さらに欧米でも近代建築運動でかなりドラスティックな変化があったから、そこで線を引きたくなったということだ。

日本では、このように、なんとも摩訶不思議な図式ができた。

     日本の「モダン」=西洋19世紀的

     日本の「モダニズム」=西洋20世紀的

ところが、

     西洋の「モダン」=おもに20世紀、ときに19世紀も視野にいれる

というへんてこりんな分け方になってしまった。ぼくは日本のこんなモダン/モダニズムなんていう二分法が本質的とは思わない。正確ですらない。こんな図式ができるからくりは、じつはくだらないところにあると思っている。くだらないし、西洋に追随し、近代化していった日本の近代建築についての時代概念が、当の西洋とはずれてしまった。さあ、たいへんである。

ただぼくがいいたいのは、そこで安直に先学たちが引いてしまった線を、無批判に、若手研究者たちが受け入れてしまうのはいいことなのか、ということだ。つまりそうした歴史的枠組みには、研究者たちという、それを観察分析する立場のさまざまな世代的、学派的、イデオロギー的対立がすでに投影されている。

いいわるいはさておき、「モダニズム建築」などという言葉を使うには、たんにこれこれの建築を擁護したいだけというのではなく、しっかりした歴史観と、建築史家としての自覚のようなものは必要であろう。それなしに、いかなる歴史観から判断してゆくのか、その歴史観はどのような(しっかりした)骨格をもっているか、がなければ保存も各論的、対処療法的なものに終わってしまうだろう。

(3)ウィキペディアでは

国際学術会議で日本のModernism Architecture in Japanなんて発言できるのだろうか。欧米の人とそんな話しができるのだろうか。ぼくには、とてもできない。そんな言葉は使わない。

日本語版「ウィキペディア」には「モダニズム建築Modernism Architecture」なる項目がある。おそらく、いちおう、専門家が書いているようだ。その定義はぼくとしては納得できるものではない。その定義は、20世紀における合理主義的な建築の起源を、ルネサンス、新古典主義、19世紀などさまざまに遡及して定義づけようというものである。だから「建築を理念によって支えるという点は新古典主義において萌芽した」が、などとそれ以前は理念がなかったかのような書き方をする。具体的にはっきりわかるのは、バウハウス、CIAM、ギーディオン、ル・コルビュジエによって代表させ、日本では分離派、前川國男、丹下健三(堀口捨巳もはいるであろう)といったひとびとによって代表させようとしている。これはこれで間違いではない。

日本語版の解説は、あちこちとさまよい歩き、それもある、これもある、ではっきりと指標を選べていない。

しかし英語やフランス語ではモダン・アーキテクチュアである。逆にモダニズム・アーキテクチュアとは、逆翻訳できない、和製英語である。

英語版ウィキペディアならModern Architectureといい、フランス語版ならArchitecture Moderneという項目である。Modernism Architectureではないのである。日本語では「モダニズム建築」という互換性のない言葉を、専門家ならそのことは知ってきながら、あえて使うのか、使わざるをえないか、という問題である。

内容だが、フランス語版では、遠いルーツは革命、啓蒙であるが、近くはバウハウス、CIAM、MoMAという指摘で、簡潔でわかりやすい。英語版では、産業革命をいちばん重要視しているし、いわゆるモダニズムは様式を否定しながら、しかしモダンという様式を作ったというまっとうな指摘をしている。定義とは、あれこれの列挙ではなく、ある決意をもった選択なのだという態度がみえる。

ぼくにはこれらにはお国柄がそのまま反映されているように思える。フランス人は啓蒙をいいたのだし、アングロ=サクソンは産業革命をいいただる。しかし日本は、モダンとモダニズムを分裂させ、しかもはっきりした定義にはいたらない。右往左往している。日本ではこうなんだ、という決意もない。西洋的枠組みを中途半端にあれこれうじうじとこねくりまわし、バランスを考えながら、バランスさえとれていない。

では居直って、日本特殊事情を語ることで、モダニズム建築を和製英語として認めさせる。カラオケ、カワイイ、などのように。しかしなんか情けない。それから日本の特殊事情など、グローバルにはどうでもいいことだ。

しいていえばモダン/モダニズムという日本的な特殊枠組みには、近代=近代化=西洋化という、当の西洋にはない背景が、色濃く反映されている。そのことが定義づけ作業における態度の揺らぎとなっている。さらにはこれを逆手にとって、堂々と居直るということさえない。

(4)なぜ歴史観にもとづく議論にならないか

ぼくはいわゆる「モダニズム建築」なるものの保存は、保存の対象がひろがり近くなるということにとどめてはならないと思う。それは戦後を歴史として考える、絶好の機会となる、これが最大のメリットだと思う。

稲垣栄三先生も藤森先生も、ついでにいえば八束はじめさんも、戦争で歴史叙述を終わらせてしまい、戦後を含めた歴史を書かなかった。

そのうち整理したいし、ぼくでなくとも誰かが書くであろうが、これまでの歴史的建築保存における欠陥は、建築史の側の問題として、歴史をいかに現代につなげるか、という点に配慮してこなかった、あるいは足りなかった。

その証拠に、建築史家として著名な先生でも、時間がたち、残ったものこそ、いろんな試練を経てきてその価値が実証されたわけで、そうしたものに歴史的価値があり、それを登録なり指定すべきだ、とおっしゃる。現代建築は、歴史的建築ではなく、さらに歴史の評価や淘汰をうけていないから、生き残ったものよりも価値は劣る、といわんばかりである。

一見、矛盾ないようだが、歴史観として大きな欠陥がある。つまり「現代は歴史ではない」という暗黙の前提がある。しかしこの場合、彼のいう歴史とは過去のことであるにすぎない。歴史的連続性をもって現在が続いていれば、現代のなかに歴史的価値があって当然なのである。そう考えられないのは、思考の枠組みそのものがおかしい。

さらにそこには「淘汰」という概念が含まれている。時代の淘汰、歴史の淘汰、である。しかし淘汰のなかには、建築を物的財としてしか見ない立場も、文化財になると困るから壊したい立場も、含まれる。

淘汰されたものに文化的価値があるとするのは、素人の方法である。自分に価値を判断する能力がないから、歴史や、世間や、委員会などに任せてしまう。専門家は、生まれたばかりのもの、萌芽的なもの、のなかに価値を発見しなければならない。たとえ世間と諍っても。

さらに現代において文化的価値がないものに、時間がたったら、歴史的な価値がどうやってつくのだろう。ゼロからなにかが生まれることはありえない。それは再解釈などの変換は必要だ。しかし現代的価値が歴史的価値に、いかなるかたちか、変換されゆくことを考えねばならないだろう。

また審級としての「歴史」をいうとき、この「評価」をする主体である「歴史」とは、なにか超越的なものであり、人間はむしろ不在のようである。そこには主体はない。しかし評価とは、見識とときには資格がある、生身の人間がおこなうのが普通である。歴史などという超越者ではない。

ぼくなりの考え方である。歴史を風景としてみてはいけない。平和にみえても、そこにはいろんな争いがある。それを生き直すことが歴史家のつとめである。「モダニズム」などという漠然とした、存在証明しようのない、雰囲気としてしかわからない、へんてこりんな時代精神をねつ造しないことだ。

現代において歴史を見るということは、いいかえれば、現代を歴史の先端とみること、そうみつづけること、という平凡なことに他ならない。ちなみにこの考え方は、現代と歴史の接続を考え、フランスの歴史的街区保存の制度を確立したアンドレ・マルロからの借り物にすぎない。でも普遍的な考え方だと思う。しかしぼくは極端な少数派にとどまるであろう。日本内部は、平和共存しているようで、じつはきわめて細分化されたセクト社会である。そのことはじゅうぶんご存じでしょう。この国では歴史とは過去なのである。過去をいくつもに分節化し、さまざまなセクトが住み分けている。

戦前、戦後を一貫して書けない理由もすこし見えてきた。モダン/モダニズムなんて分けていたら、書けるはずがない。前近代/近代、戦前/戦後、モダン/モダニズムといったさまざまな切断。それは歴史の問題でもあり、それ以上に歴史学の問題なのである。

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2008.04.25

ボルドーへの道

ボルドーへいきたいなあ。ワインがおいしいし、観光名所だし、スペインも近いからビルバオのグッゲンハイムも見られるし。運河づたいにクルージングして地中海にそのまま出られるし。この運河巡りをしたひとはいませんか?アメリカのお金持ちはよくやっていると聞きますが。

ぼくはヨットを調達できるほどのお金持ちではない。しかしレンタカーで漫然と南仏を旅行したとき、運河ぞいをねらって走ったことがあった。標高が異なるところはフランス語でエクルーズとよばれる水門=水位調節装置で、舟はずんずん内陸に高地にわけいる。この水門たるや、女の人ひとりで簡単に開け閉めできるのだな。これは見物です。

下のものを連続写真的に見てください。要クリック。

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ぼくはお母さんが開け閉めしているのをずって見ていた。ぼくがほほえむと、彼女はどう?って顔をした。

それはともかく、交換留学である。詳しい内部事情は漏洩できないが、大学というのはややこしいところで、当事者どうしがOKでも、たんに物見遊山な短期留学で許されるはずなのに、担当がどうの、規定がどうので、うまくいかないことがある。

国際交流などもっと気軽に考えよう。ヨーロッパでは車を数時間運転して、隣の国にいってどうのこうのやっている。教員ではなく学生が。ウィーンの学生が、パリで卒論を書けるくらい、カリキュラムの相互互換性が進んでいる。日本は地理的に不利だから、だからこそ、いろいろ工夫して、無意味な障壁をなくしていかなければならない。

それからアーキテクト系の学生にとってはドローイングや模型そのものがことばなのである。だから英語やフランス語などのいわゆる外国語は文系学生からするとかなり劣っている。それは学習にかけている時間が桁違いなので、しかたないのである。

なんとかしてほしい。

ボルドーはユネスコ世界文化遺産に登録されていることはすでに報告した。有能な市長アラン・ジュペが頑張って、プロジェクトを打ち立てて有能な建築家を呼んだり、トラムを導入して、しかも中心部の外ではパンタグラフ付き、内部はなし、など工夫している、建築文化センターもあって企業から資金をうまくもらっている、など、地方のコンパクトな都市であってもここまで文化育成できるのだという見本である。

そこでの建築教育。日本では、現代建築系と、歴史・伝統・遺産系はほとんど対話が成り立たないほど分かれているという、ちょっと情けない状況もときどきある。しかしボルドー建築大学を訪問して、授業風景などを見せてもらって、感心したことがある。それはフランス全体でそうであろうが、よくもわるくも、教育メソッドがきちんとしているということだ。悪くすると保守的に流れやすいが、ともかくもちゃんとしている。

ボルドーの先生は、まず正方形の空間(ぼくが教えているキューブ教育に似ている)を与え、外に面しているのは1辺、2辺、3辺、4辺と段階をおって、内部の分割、外部との関係づけ、などを教える。スケールは1辺が数~10メートルくらいだったと記憶している。

抽象的に思える。しかし具体的でもある。なぜなら1辺、2辺がオープンというのは、伝統的な都市建築の状況だし、4辺オープンは戸建て住宅のスケールである。というように伝統的な、ということは日常的に関われる空間の特性というものがはっきりとあり、それを抽象化してモデル化して演習課題としている。

それからスケール。抽象課題のスケールだが、このスケールそのものはボルドーなど伝統的都市空間を構成している代表的なスケールなのだ。ここに演習から具体的都市へと展開してゆけるカギがあるように思える。

これは古典主義時代の芸術教育において、デッサン教育を中心にすえ、まず手のデッサン、肩のデッサン、頭部のデッサン、それらを組み合わせて人体全体のデッサンというやりかたをしていた。ボルドーで見たものは、それを思い出させる。

日本の建築教育は、目下需要であるテーマ、プロジェクト(コンバージョンであれ遺産であれ都心回帰であれ)を中心に据えることがおおい。しかしボルドーでは、アーキテクトの基本能力はなにか、それを養成するにはどんなトレーニングがいいか、はっきり見極めているように感じられる。

日本のように教育者=研究者=建築家が、自分が目下とりくんでいるプロジェクトや課題を読み砕いて学生に与えるのも、もちろんよい。切実さが違ってくる。しかし学生の能力のなにを鍛えるか、という視点がないとうまくいかないだろう。

ボルドーの学生は、まずオルレアンなどの現代日本建築展をみて、雑誌もみて、日本のアーキテクトの優秀さをもちろんしっており、それから日本は伝統と現代のどちらも見所ある国と認識している。彼らは、しっかりと設計する。基礎ができている、といった感じの設計である。学生だからもちろん知恵はそこそこである。しかし学生だから未熟も夢想もあるけれど「基礎がしっかりしている」感はなかなか得難いものがある。

日本の地方大学的には、近隣国との交流を展開するのはこれから期待できる可能性であろう。

・・・以上15分の愚痴でした。今日は東京から非常勤の先生をよんでの、集中設計演習である。がんばります。ということでいってきます。

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2008.04.24

バーチャル朝刊によれば(さよならレム、こんにちはザハ)

ゼミのあと、ひさしぶりに学生と飲んだ。フランス人留学生がいるが、ゼミでは日本人学生が大部分だから英語で会話し、個人的にはフランス語で話す。アルコールも、ビール、ワイン、焼酎とチャンポン、言葉も日英仏とチャンポンである。

ダニエル・ビュレンのパレ・ロワイヤルの柱、ラ・ヴィレットのプロジェクト、トラム、ミッテラン大統領のグラン・パリ、はたまたフランス・ギャル、フワンソワーズ・アルディ、エミリー・シモンと共通の話題はけっこうあったので、優しい学生たちがぼくにあわせてくれたってことかな。お礼に、ではないが、たまたまもっていたキャロル・キングのCDを貸してあげる。もっともぼくもサンテミリオンをいただいたので、ぼくのほうが得をしたのだけれど。

そんなわけですこし遅めに起床。朝刊に目を通すといった感じで、建築最新情報のチェック。

Architectural Record, Daily News 2008/04/22の記事。みだしは「グッゲンハイム、さよならコールハース、こんにちはハディド」。アメリカらしく刺激的な言い方ですね。

リトアニアのビリニュスグッゲンハイム美術館分館が建設されるという内容である。

このポーランド領、旧ソ連領であったなど複雑な歴史を生きてきたリトアニア。ビリニュス旧市街地は1994年にユネスコ世界文化遺産に登録された。ルネサンス、バロック時代の建築が多い。

ラスベガスのグッゲンハイム美術館は2001年に開館、2008年5月13日で閉館である。ヴェネツィア・リゾート・ホテルのとなりにあった小規模美術館であった。外部はコールテン鋼でおおわれていたこの「宝石箱」「ひとときの真実性」は、ラスベガスのほかとは異彩をはなっていた。NYを拠点とするグッゲンハイムとロシアのエルミタージュとのジョイントであった。7年間に、10企画、110万人の来館者。ラスベガスにはもうひとつ、やはりコールハース設計の美術館を用意していたが、15ヶ月しか運営されなかった。両美術館を運営していたThomas Krensは、もうやめたと宣言。911事件の直後に開館したこれらは、地域の支援を得ることがむつかしかった。つまり新しい状況を念頭におくことができなかった。

新美術館はリトアニアのビルニュスに建設される。こんどもエルミタージュ美術館とのジョイントである。地理的に近いから、コレクションの融通などももっと円滑になるのだろう。地域社会との関係はよく調節されるであろう。しかしフィジビリティ調査の結果を待たねばならない。コンペの結果、ザハ・ハディド案が選ばれた。川岸のランドスケープにおかれたぐにゃっとしたザハの建築。竣工は2009年らしい。そのときビルニュスは「ヨーロッパの文化首都」となるであろう。

最後の引用の意味するところ。つまりルーブル、大英博物館、アルテスミュジアムなどと張り合っているのである。西ヨーロッパ枢軸v.s.アメリカ・ロシア連合軍のアート対決といったところだろうか。ダイナミックだね。

ところでフランスでは、地球から見るとささやかなメディア抗争が起こっている(ル・モンド紙のサイト、4月23日)。以前ル・モニツゥール誌の建築年鑑の編集方針に異をとなえた建築家たちが団結するようなことを書いた。そのつづきである。彼らは「フレンチ・タッチ」(なぜか英語)なる建築家グループを結成し、『楽観主義的建築年鑑Annuel optimiste d'architecture』なる対抗年鑑を編集して、ル・モニトゥール誌の年鑑、銀の定規賞、といった牙城をくずそうとしている。

メンバーは9月のヴェネツィア・ビエンナーレに参加しているので、この年鑑は待たれている。ル・モニトゥールの年鑑は大人路線であるのにたいし、optimiste年鑑は大胆で創造的なものにスポットライトをあてている。ようするに自己宣伝ではないか、掲載を断った建築家もいる、などの批判もあるが、建築イメージを高めることだけが目的と、主催者は反論する。

興味深いのはフランス国内の構図がすこし見えてくることだ。ボルドー建築センターArc-en-Rêveは協力を断った。IFAのディレクター(Francis Rambert)、アルスナル建築博物館のディレクター(Dominique Alba)は巻頭論文を書いた。Francine Fortの文章は掲載されなかった。出版に間に合わなかったということだが、本人は検閲だったと受け取っている。フレンチ・タッチの建築家たちは大人げないとも。年鑑は2007年のフランス建築を代表しているとは思えない、とも。

肝心のル・モニトゥールは涼しげ。とくに論争に加わろうとはせず、出版はいいことと、書店のいい棚に飾っておくこととしたとか。

フランスにはフランスの風が吹いている。

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2008.04.23

GA JAPAN 2007回顧

まさにリハビリ的投稿です。いろいろ事情があって山寺に引きこもり的生活をしておりました。さぼってると批判もされました。そろそろ娑婆に戻らねば。

そこでGA JAPAN誌の2007年版6冊に小一時間で(はじめて!)目をとおしました。すごい。去年、いろんなことがあったんだ。なんとまあ、ぼくは遅れてるね。実質復帰のためです。レポート課題を書かされている学生の気分です。感想文をかいてみて、どれだけ時代とのギャップを縮めたか、ご審査ねがいます。

まず伊東豊雄さんが若い。彼はまだ若手と戦っているという気概があるのです。そこが凡人とちがう。

90年代のあとの00年代はもちろん情報とグローバル化がキーワードです。さらにいえば「脱ヒエラルキー化」とでもいいましょうか。たまたま幸運にも10年近くまえ妹島和世さんにオランダの文化施設プロジェクトをみせてもらったことがある。四角い部屋をならべたそのプランは、まさにそれで「ヒエラルキーというものがない!」と感嘆したら、隣にいた石田壽一さんもそうだよと同意してくれた。

ヒエラルキーがなくフラットなのは情報のもつ本質的な性格である。だから情報が新しい建築をうみだせるかということで、グニャグニャや、ディスプレイ埋め込み、インテリジェント、ユビキタスなどいろんなアイディアが出された。しかし「情報の本質のひとつを空間形式に翻訳した」とはっきりと指摘できるのはSANAAの作品であろう。

金沢21世紀美術館も、ランダムアクセスができる平面である。平面が円だから、これって喩えていえば、PCのハードディスク。いろんな楽しいもの美しいものが、たくさん書き込むことができ、追記も消去もでき、自由に編集できる。ストックも発信も自由。融通無碍。そして時間がたつにつれ、どんどん充実してゆく。マジカル・ハードディスクなんていっておきましょうか。

かつてブレ、シンケルらが構想した殿堂的美術館では、柱廊があって、玄関ホールがあって、中央には芸術にささげられた円形神殿としてのホールがあって、展示は時代別、ジャンル別でというように形式そのものに意味をもたせとうとした。この旧形式は、形式そのものに意味があって、それは芸術を芸術たらしめる形式であった。だから形式的であることは悪いわけではない。しかし今日では、形式があらかじめ用意されてはいけない。

情報の時代、情報はそのままダラっとあるわけではない。それはつねに検索され、選択され、構造づけられなければならない。つまり編集されなければならない。そうすることで、ぼくたちは情報の海のなかで、自分の環境、あるいは自分のニッチ、をつくってゆくのである。グーグルはそのために必要である。ぎゃくに世界政府などには賛同しませんけど。

つまりエディットさせねばらない、ということだ。施設だから大きな枠はどうしても要請されるが、そこでエディット空間・環境を提供するのである。これが新しい美術館が意図していることである。

丹下建三は20世紀を代表する建築家だというのは賛成です。しかし本格的な評価はまだ先でしょう。国家をになおうとする緊張感をもった建築。そんなものは当分、共感をもたれません。しかし状況が変われば、再評価される。その再評価のされかたによって、ほんとうに歴史的存在になるかどうか、が決定される。ルドゥもそうでした。ル・コルビュジエはすこし早すぎたようにも思われます。群がる人びとが多すぎます。  

○×などディスカッションはメンバーが固定化しており、サロン的という批判がなされるようだ。仕切るひとがはっきりしている。でも情報化の時代だからこそ、こうしたキャラクターのはっきりしたメディアが求められるのでしょう。メンバーが固定されていて、議論してもおたがいに手の内をよく知っており、技もよくかかり、受け身もうまい、というプロレス的状況です。建築界定点観測のような意味合いもあるでしょう。最長不倒をめざしてとことんやるべき企画だと思います。

また感じるのは、二川幸夫さんは日本のフィリップ・ジョンソンになるのだなあ、ということです。キュレーターと写真家・出版社主とすこし異なっていますが、メディアの力を知り活用しようとしているし、ある種、選良主義的なところも似ています。ジョンソンの伝記があるように、ぼくはそのうち二川さんの伝記がかかれてもいいと思っています。年代からして1960年代から70年代くらいの書き手がほどよい距離があっていいでしょうね。

アメリカといえばアメリカ建築の時代は終わった、という風評がもっぱらです。超大国となったアメリカがヨーロッパの文化を移植して本家を凌駕してしまったことはヨーロッパ人でさえ認めるところです。ところがアメリカの学生はもはや建築設計などという苦労の多い職種は見向きもせず、金融工学、ハイテクなどを指向しています。で、そこにおこるのが空洞化です。それがグローバル化とパラレルに発生している。

つまりアメリカのディヴェロッパーにとって建築家はすでにアウトソーシングの対象です。また建築教育も、いい大学はたくさんありますが、アメリカ人スタッフが不足しているのなら優秀な建築家を海外から呼べばいい。アメリカはとっくに建築にあきてしまった。でメタ建築でもはじめてしまった。建築家でも、教員でも、才能を呼んで使えばいい、ということになった。

日本人建築家はそこで使い勝手のいい才能となって、仕事に恵まれ、活躍しています。高度経済成長時代にさんざん試行作をつくって訓練したからさ、という皮肉な見方もあります。しかし日本はそれなりに、学生の能力をどうやって高めるか、ということにちゃんと向き合って、教育をおこなってきたのだと思います。これは中小企業にいい技術がたくさん生まれたような状況だと思います。だから建築リテラシーがあり、ちゃんと空間の言語で思考できる人材をこれからも養成しようとすることは、それなりに世界のなかで自分たちのニッチを設定することにつながるはずです。ときどき情けなくなることもなくはないでしょうが。日本は、アジアほど乱暴ではなく、ものづくりの一定のクオリティがあって、西洋とも親和的だから、グローバル資本にとってもいい才能であろうと思われます。

アニメ産業でさえ空洞化が進行していると聞きますが、建築は開き直ってレトロでよろしいのではないでしょうか。

さて若者気質ですが、教育にかかわるぼくとしては、他人事ではない。しかし社会学者でもなく、狭い体験の範囲でしかいえない弱点も自覚しています。

でも今の学生には、上下関係の重要性というのは希薄で、むしろ同世代との関係が死活問題となります。この類似したバックグランドで、いじめやシカトの問題がおこっています。大学でもそれをかいま見させる現象がときにおこります。

だから学生社会が脱ヒエラルキー化し、フラット化している。でもだから平等で気持ちいいのではなく、だから辛いようです。階層でもあれば、それによりものごとは決まってしまうから、個人は楽。でもみんなフラットなら微少な差異で悩みはじめます。こうしたよく指摘される現象が建築界に反映したらどうなるかというと、たとえば卒計日本一展に代表されるような、同世代バトル。他大学の学生の動向に異様に詳しくなってしまう、ネットワーク型学生の発生。良い悪いは表裏一体なのです。

学生たちが、同世代内の戦いに方向付けられているということは、ぎゃくにいえば、世代間抗争が相対的に希薄になった、ということです。実際、今の学生はききわけはいいのです。しかしそのかわりオイディプス・コンプレクスをいかに克服するかという儀式はなくなってしまうおそれがあります。反逆ではなく、肯定からはじまる、という別のスタンスもここから生まれます。

森山邸の問題提起は、だからふたつあると思います。ひとつは「宅地」というものを、むしろまっこうから肯定し、そこに宅地の可能性を最大限に展開したこと。近世の中下級武家住宅の延長で、プチ屋敷としての戸建て住宅のための、宅地。それによって形成される都市のイメージをもちあわせていないことが、批判の中心でした。しかし森山邸は、そのオイディプス・コンプレクスを克服しようとするのではなく、それを最大限活用するという突破口を開いた。もう一点は、平面です。住宅の輪郭には関心がない。そうではなく分節化された部屋のたがいの関係を、細心な注意をもって、デリケートにきめてゆく。これは同世代住居ではないかもしれませんが、そこに世帯構成員が基本的にフラットな関係にあり、しかしそれが単純な同一要素の繰り返しではなく、微妙な調整を要求しているところに、同世代人間関係の調節と同じようなメンタリティーを感じます。それは観察して理屈ではわかっても、おじさんには踏み込めない部分です。とくにぼくってがさつですから。

だから伊東豊雄さんは「社会性」批判はおこるべくしておこった、のかもしれない。たとえば彼は80年代だったか、消費という概念を重要視しました。しかし消費、経済は基本的には私的なものです。だから消費社会の社会性は、それを外側からみるのでなければ、生まれない。公共圏はとても細くなった。公共建築もへっていきます。環境が公共圏を用意してくれなくなったときに、自分で社会を構築するなどフツーの人にはできません。そしてフラット人間関係のなかでは、隣人へのデリカシーあふれるKYでもない配慮、根回しなどがこれからまずます発展するとして、それは社会性ではなく、世間性なのです。

・・・さてここまで一時間。午後の仕事がありますから、やめます。伊東さんの多摩美の図書館についても書きたかったけどタイムオーバー。なるだけ時代に追いつきたいと思っていますので、ぼくの認識において遅れているところなど、ご指摘ください。

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It's too late by Carole King

70年代はぼくにとってかけがえのない時代だった。スーパースターは間違いなくキャロル・キングだった。そんなわけで昔のCDなんか買いそろえている。20世紀を代表する傑作《TAPESTRY》も買った。十代のころはお小遣いが足りなくてLP買えなかったのさ。でもなんですね。やはり傑作It's too lateの訳詞はちょっとどうかな。ぼくにとってかけがえのないものをこんな風に訳されると、ぼく的には不満だな。でもって勝手に翻訳しちゃう。でもいっておきますが、別れの歌だからといって、他意はありませんからね。あくまで十代で聞いていたってだけです。

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朝からずっと起きる気がしない

いまくいかない

はっきりしている

私たちもう昔のままじゃない

昔のままであろうとさえ、しない

遅すぎるの、ねえ、もう遅い

(*意訳のつもりで「終わったのよ、ねえ、終わったの」としてみたが、さすがに直訳に戻してみました。)

ふたりで頑張ってみた

でも私のなかでなにかが終わった 隠しようもない

ごまかしようもない

あなたと暮らした  ほんとうに、当たり前のように

あなたは晴れ晴れとしてさわやかだった

やるべきことはやった

でも、あなたは不幸で、私はおさない

遅すぎるの、ねえ、もう遅い

なんとかしようとした

でも私のなかでなにかが終わった 隠しようもない

ごまかしようもない

ふたりにはこれから幸せもやってくるでしょう

でもふたりは一緒ではない

そう思うでしょ?

ふたりだけだった時が今もかけがえない

どんなに愛していたことか

遅すぎるの、ねえ、もう遅い

なんとかしようとした

でも私のなかでなにかが終わった 隠しようもない

ごまかしようもない

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*いろいろ添削しなければ。詩はむつかしい。

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2008.04.22

早起きは三文の得(AR誌Daily Newsをのぞいてみれば)

このごろ朝早く目が覚めるんだよ。年取ったね。でもいいこともあるかもしれない。コーヒー飲みながらパラパラ新聞をめくる・・・というかんじでウェブをのぞく。

たとえばArchitectural Record誌のDaily News欄なんか面白い。

3月31日。ジャン・ヌーヴェルがプリツカー賞受賞。フランス人としてはポルツァンパルクについで二人目。(長い紹介の記事は省略)・・・そうだったっけ?個人的にはヌーヴェルのほうが上だと思っているけどね。

4月2日。RMJM(エディンバラの国際デザイン会社)がハーバード大学のGSD(デザイン大学院)に150万ドル寄付。デザイン実習の研究教育統合プログラムの「RMJMプログラム」設立のためである。これはデザイン教育のなかにビジネス原理を導入するためであるという。RMJMのCEOピーター・モリソンは「建築はドバイや中国などのビッグプロジェクトで潤っているが、ブローカーやエージェントが支配しているし、人材供給もこの先不安で、優秀な学生はハイテクやマネジメントを指向している」。ハーバード大学も50万ドルを準備している。建築ではもっと資金とテクノロジーを教えねばならない・・・。まさにそのとおり。しかし日本ではむしろ昔風の個人スキルをみがくことにまだ集中している。そんなニッチで生き残るという逆説もあるのかも。

4月8日。ロサンジェルスで《洪水のあと》展。ハリケーンによって洪水にみまわれたニューオーリンズに関する展覧会が開催される。ヴェネツィア・ビエンナーレで2006年に展示されたもの。

4月15日。ニューヨーク・パブリック・ライブラリは大改装のため、建築家選定の作業をしている。3億ドルの工事を担当するのは、だれか?館長は「真の天才がほしい」。シアトルの図書館はレム・コールハースであったが、NYでは?

4月21日。テルアビブの「ホワイト・シティ」はその4000棟のインターナショナルスタイル建築によってユネスコ世界遺産に認定されたが、そこにバウハウス・ミュージアムが開館した。オープニング展が4月25日から。ミース、ブロイヤー、ベルなどの家具、グラフィックなどを展示する。この「ホワイト・シティ」そのものが、1930年代の建設ブームのなかでナチから逃れてきたユダヤ人建築家たちが建設したものであった。そしてヨーロッパの近代運動を地中海にもたらした。キュレーターは画商で、朽ちかけていた1920年代の住宅を、市と協議して残し、ギャラリーとしたとか。・・・遺産、遺産といえばいうほど日本は素質的にプアということに気がついて悲しくなる。潜在的資産、つまり歴史的に蓄積してきた富の総量がまるで桁違いなのだから、ますます外国との違いが明らかになる。日本は過去ではないのです。近現代から近未来にかけてのそこそこよかった時代の遺産を、これから残すことを考えるべきです。つまり日本はもっと自分の近現代に自信をもてと。

・・・などなど記事満載で、けっこう内容もあるので、はまってしまいそうである。

architectural review誌のサイトはイベント、展覧会、各賞、新刊案内など充実しているが、レコード誌のようなニュースはない。

Architectural Record誌は数年前からこのdaily newsをやっているが、それでも年々充実している。他紙もやればいいのに。

メディアは普遍的ではなく、それぞれの国やネットワークに依存しているし、レコード誌もよくよめばNYから世界をのぞいた視線というものを感じる。グーグルもさまざまなサイトを総括するようなものを建築でもつくれば面白いのにね。そうなればメディアの存在意義も変わるであろう。

そうなるとメディアはぎゃくにローカル性、固有の世間性、固有の審級(誰が経営者であるかによっておおきく変わる)などが全面に出てくる。メディア・キャラクターということになるであろう。読む側はそのキャラクターを区別する能力を要求される。メディアリテラシーである。

情報によって世界は均質化されるわけではないで、結構なことである。ぎゃくに村や世間をつくりたがる人間性がより前面にでてくるということだろう。

さて仕事するか。

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サルコも「グラン・パリ」構想をもっている

ミッテランの「グラン・パリ」構想についてすでに回想した。20年以上してサルコジ大統領もおなじタイトルの計画をたちあげた。見通しは暗いようだ。左右それぞれ「大パリ構想」には賛成する理由も、反対する理由もある。歴史的にそうだ。

もしこの「大パリ構想」が実現すれば、ナポレオン3世が1860年ころにおこなったパリ市域拡大(周辺市町村統合)いらいの大改革となるであろう。パリの発展を考えてのことであったが、同時に、革新戦力の牙城である周辺市町村の切り崩しという政治的ねらいもあった。しかし彼は19世紀的大パリが実現すると、そのなかで労働者階級のための政策を展開した。

サルコジはかなりデコボコのある市町村の差をなくそうとしている。この点ではナポレオン3世に近いといえる。

ナポレオン3世にとってはなかったが、サルコジにとっては重大な新課題。それはリージョン(地域圏)の存在である。もはや国家/都市の二項対立ではなく、その中間に介在するリージョン。あるいは特権的でありすぎたパリを、いかにその他に結びつけてゆくか、という歴史的?大事業である。都市共同体、広域行政はパリ以外ではちゃんとできている。パリはその例外性ゆえに、まとめにくい。

パリと周辺自治体は、経済的、社会的、文化的にまったくバラバラであり、統合は困難であろうが、それをすればメリットもあるだろう。左右それぞれにメリット・デメリットがあるようだ。しかし政党の支持基盤かどうか、というのが隠れたハードルではないか。

WEB版ル・モンド(4月19日13:50)の記事を抄訳してみよう。

グラン・パリ計画の撤退か?自治体選挙における交代いらい、大統領府とパリ右派は、イル=ド=フランスの中心地区をきりとって、そこを新しい行政区画とすることをあきらめたようである。

この地域の経済的求心力と交通網を展開するために、サルコジはパリ都市圏スケールの「都市共同体communauté urbaine(注:複数の市町村が結ぶ都市計画・行政協定であり、ボルドーなどすでに例がある。日本の広域行政に相等)」を創設するという案をすでに2007年6月に表明している。

国家元首の頭を占めているのは、人口650万の区域のなかに相互主義的財政をきづくという行政的解決を構想することである。この区域は、自治体間の貧富の差がきわめて大きい。それとともに、パリは専門職からの税収が大きく、ラ・デファンスはオフィス街ということで税収が大きいという利点がある。課題としては、市長や県の個人的利害を調節することである。

右派は地域圏での市町村・カントン選挙で議席を失った。サルコジ氏にとっては逆風である。オ=ド=セーヌ県の知事や、小環状帯(パリ直近の市町村)の市長たちにからその特権を奪うのはますます難しくなった。メトロポリスの中心はパリだ。そのパリの市長は社会党ベルトラン・ドラヌエだ。県議会における多数派の議長であるロジェ・カルチは「グラン・パリが、首都がその権力を周辺の市町村に及ぼすだけというなら、反対だ」と4月17日にすでにのべている。

カルチは2010年の地方選に立候補しているが、2007年12月にすでに「決定権のあるメトロポリス構想」(注:メトロポリスがひとつの自治体として自己決定権があるということ)を出していた。彼は選挙の前日、メトロポリス規模の市町村「混合組合」という案を擁護していた。今日、彼は、イル=ド=フランス地域の組織大改変を加速するためには、「国家がより力強く、あらたに推進力を発揮し、財政投資する」というプロセスが必要だとする。新しい「ガバナンス」というよりは、クリスチャン・ブランの方針に望みをかける。ブランは首都圏発展担当の閣外大臣であるが、夏までには首都圏を「統合するための10あまりの大プロジェクト」を決定するとしている。

グラン・パリをなりふりかまわず擁護する右派もいる。セーヌ=サン=ドニ県の上院議員(UMP)フィリップ・ダリエは、4月上旬に上院に提出したレポートのなかで、パリとその隣接3県(オ=ド=セーヌ県、セーヌ=サン=ドニ県、ヴァル=ド=マルヌ県)を融合することを提案している。「国はとっくに予算不足だ」と彼は嘆く。予算捻出の唯一の方法は、はしご状の制度を廃止することだ。ダリエは自分ひとりではないと確信する。4月14日、県議会で彼の発言を聞いた、100人あまりの市長、県会議員、UMP議員のなかで、明確な指示を表明したものはひとりもいなかった。

左派もグラン・パリ構想については分裂している。首都圏の緑の党と共産主義者たちは、パリ周囲の「マーガレットの花弁」モデルの大「地方自治体相互性」(注:従来ばらばらであった市町村のつながりを深めようということ)をふたたび強化することを訴えている。県議会における社会党党首のジャン=ポール・プランチュは4月17日、県会議員たちのまえで、メトロポリスが地域圏から孤立した場合のリスクを示した専門家レポートを擁護した。パリやオ=ド=セーヌ県の税収が増えるとしても、都市圏はその交通、公共住宅、研究拠点のために単独で財政出動することができないという。したがって地域圏(リージョン)の財政支援が必要なのだ。ユション氏はグラン・パリにかんする「安易なスローガンに固執した論争は終わりである」としている。

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2008.04.20

逓信建築について

向井覺編著『逓信建築年表1885~1949』(東海大学出版会、2008)をいただいた。あつく御礼申し上げます。逓信省の建築について、作品の写真を数多く掲載し、おもに官報にもとづく詳細な年表をまとめている。歴史家にとってたいへん利用価値のある貴重なものだ。

いわゆる逓信建築なるものについて、今さら注釈をつける必要もないかもしれない。しかし20世紀的なものを反映した典型的なものと思われるので、書いてみる。

逓信省に営繕課的なものができたのが1987年(明治19年)である。佐立七次郎、吉井茂則らの明治折衷主義の時代、内田四郎、渡辺仁らが切り開いた大正モダニズムの時代、と発展した。そこは官庁営繕というより自由な建築デザインの揺籃であって、内田祥三もまた当時、その自由な空気と、設計能力の高いスタッフが集まっていたことを証言している。

なぜ自由であったか?それは大きな政府の強い政策のもとに結集した、よくもわるくも、エリート集団であったからだ。組織の論理に従うのではない。自分そのものが、時代であり国である、自分の信念をとおすことが社会のためになる、という確信を持ちえた。そんなエリートが存在しえた幸福な状況であった。

雇員であった山口文象もまた逓信省技手たちを結集して「創宇社建築会」を設立して、建築運動をはじめたのも、興味深い一例である。下級技師であることの矛盾からはじまったいわゆる社会的意識に根ざしたものであった。当事者からみれば社会の階級性の問題だが、遠くからみればそうした運動を生み出しうる社会なのであった。

1910年代は黄金時代の始まりであった。大島三郎(1917)、岩本録(1918,夭折の天才であった)、吉田鉄郎(1919)、山田守(1920)が入省してくる。山田は1929年に海外出張し、CIAM第2回大会に出席し、メンデルゾーンに会う。吉田鉄郎は、ぴんとはりつめいた緊張感のあるミニマリスムである東京中央郵便局(1930)の完成をまって、1931年、1年間にわたる海外旅行にでかける。そして近代建築運動をその目で目撃するのみならず、日本建築を英語で海外に紹介する文献を執筆するなど、日本の近代建築史にとって忘れ得ぬ存在となった。

1930年代、逓信省はまっこうから進歩的な合理主義建築を展開した。いっぽうで東洋趣味などと様式規定された美術館や植民地総督府建築では、反動的な地域主義的建築が展開された。まさしく省庁縦割りが建築スタイルにも反映された。しかし日本の合理主義は、省庁の壁によって守られたともいえる。

こうした逓信省建築家山脈のなかに、片山隆三がいる。たまたまご縁があったので、思い出した。

編著者の向井覺さんは「官報」の「叙任及辞令」から関係者の足跡がわかるということで本書をまとめられたようだ。そしてまとめきって、自覚されていた病いからお亡くなりになった。細いご縁かもしれないが、向井さんに導かれ、片山の足跡をたどってみたい。

そういうわけで『逓信建築年表』にもどってみると、片山の代表作は、札幌逓信局庁舎(1938)である。緊張感のある合理主義建築である。吉田がまだ古典主義的な感覚を残しているのにたいし、片山はもっとふっきれたプロポーション感覚をはっきりしている。とはいえまさに吉田門下といったところである。このころは吉田スタイルが確立し、逓信省は吉田スクールという一面もあった。

別の資料によると片山は1934年に大学卒業。おそらく学生時代、ぼくたちの世代が丹下健三や磯崎新をみて感激したように、吉田がつくったばかりの東京中央郵便局などを見にいったりしたであろう。それを模範にしてこの札幌逓信局を完成させた。卒業後4年目である。まだ30歳にならないときにこんな仕事を担当させてもらうのは幸運である。

1936年(昭和11年)に入省。「年表」には「11月2日 任逓信技師(10月29日内閣)逓信技師 片山隆三 叙高等官7等」とある。高等官にもランクがあって親任官、勅任官、奏任官がある。奏任官は高等官の三等から九等までである。大学卒でいきなり七等ということである。

片山隆三についての記録は、任命と俸給にかんするものである。

1937年11月2日には「9級俸下賜(10月31日逓信省)逓信技師」

1938年4月1日。「陞叙高等官5等 逓信技師」。2等いっきに昇級である。

1938年11月4日。「8級俸下賜(10月31日逓信省)逓信技師」。お手当は1級あがった。位階と俸給とは別というのも面白い。

1939年8月1日。「任航空局技師(7月31日内閣)逓信技師 正七位 叙高等官6等」。配置換え。記録ではこれに先だって、航空局の拡大がなされたことを物語る記述があり、日本がしだいに戦時体制となり、逓信省もそれに対応していく過程で、彼は航空局に配置転換された。そして実際、格納庫などを建設している。

1940年4月11日。「陞叙高等官5等(4月9日内閣)航空局技師」

1941年4月2日。「6級俸下賜 航空局技師」。手当はいっきに2級アップ。

1942年4月8日。「5級俸下賜 航空局技師」。

1942年7月1日。「陞叙高等官4等 航空局技師」。

1943年10月9日。「4級俸下賜(9月30日逓信省)航空局技師」。ほぼ毎年、俸給はアップしている。これは若手の国家公務員なら普通である。

1944年7月7日。「陞叙高等官3等(7月6日内閣) 運輸通信技師」。これも運輸通信局の組織改編の結果であることが資料よりうかがわれる。配置転換ごとに昇級している。

1944年10月10日。「3級俸下賜(9月30日運輸通信省)運輸通信技師」。敗戦半年前になっても俸給アップである。ただ実態はどうであったか。

1946年2月18日。「2級俸下賜(2月4同(内閣))同(通信院技師)」。これだけみると敗戦がどこにあったかわからない。

1949年、郵政省と電気通信省に分割され、逓信省はなくなる。

片山は大学から逓信省にはいり、すぐ庁舎建設をまかされ、師とあおぐ吉田鉄郎の作風をよく理解したものを建設した。ここまでは順調であった。しかし時代が不幸であった。建設中の1937年に物資統制がすでに始まっており、建設は冬の時代を、むかえた。ちゃんとした建築をつくる機会はほとんどない。もちろん国家の政策の中枢的部分をうけもつ逓信省だけに、1939年でもまだ建設例はすくなくない。しかし1940年は激減である。そして彼もまた航空施設の建設などを命じられるのであった。

もし戦争がなかったら、もし平和がせめてあと10年続いていたら、建築家キャリアもとうぜん違っていたろう。宮仕のあやで、等級に反比例して仕事はつまらなくなる。彼はそんなキャリアをすごしたのであろうか。三橋四郎のように自営に転じて満州関係の仕事をしようにもできない状況であった。そのまま在職できることじたいが例外的に幸運な時代であった。超越していた、達観していたという評判がわかるような気がする。

片山は建築家として、幸運であったとも不遇であったともいえる。札幌逓信局の建物をみると、吉田風でありながら違う感覚をもっていたようにもうかがえる。吉田がまだクラシカルであったのにたいし、片山には彼にない若々しさがある。仕事に恵まれていれば、それなりに自分の作風を出していたかもしれない。これは想像であってわからない。そうなっていたかもしれない。そうでなかったかもしれない。いずれにせよ、それは時代であったのだ。

それはそれとして逓信省そのものは郵便、貯金・保険、通信、電話、放送、運輸、航空など多方面を管轄した。この省は、つねに時代の最前線の課題にかかわった。だからスタッフに若い新しい発想をもとめたのであろうし、その伝統は子孫組織のメディア戦略にも引き継がれている。

しかしそうした文明と国家の中枢を、省が担うというところが、20世紀的な大きな政府らしいところであろう。そしてよくもわるくも、その省のなかにエリート建築家が集まった。彼らは、国の政策を担っているつもりで、近代建築運動にふかい共感をしめし、日本の近代におけるひとつの軸を形成した。

ぼくはそこにある奇妙な風景を見る。通信・交通といった国家的ミッションと、建築家たちの「建築いかにあるべきか」の探求は、まったく次元の異なるものであった、と思えてならない。個人と国家は、ここでは密接ではなくむしろ疎遠だ。ふたつのベクトルはたいして矛盾もせず、ぎゃくにいえば緊密に結びつくこともなく、対決すらなく、自由に併存していたのではないか。よく考えてみれば、これは不思議な光景である。言い換えれば戦前の「大きな政府」のなかには、こうしたことが許される自由空間があったとしか思えない。

こうした奇跡とも思える自由空間のなかに、困難な時代、日本の近代建築は守られたように思える。その外では帝冠様式が支配的となり、前川や丹下でさえ国粋主義的な建築を設計しようとしたのであった。しいて自己主張をしなかった片山は、自分の時代をどう受け止めていたのだろうか。逓信省にとどまったのは、たんなる安全な選択だったのか、そこに態度というものがあったのか。

21世紀の小さな政府の時代、建築家は20世紀には考えられなかった自由(しかも困難な自由)のなかにおかれている。しかしもうすこし時代がたって、大小政府の比較をしてみると、大きな政府のほうが建築家にとって良かったかもしれない、なんてことになりかねない。パトロンがしっかりしていた、ということではなく、建築家がそちらのほうが自由であった、などということになると歴史の皮肉だろう。

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2008.04.14

『シドニー!』から北京へのシュルレアリスム的な小旅行

平戸にいってきた。直行バスも、直行鉄道も、直行舟もない。事情があって、車も運転したくない。のですこぶる能率の悪い移動ではあった。でも読書時間は少しふえた。

行きは村上春樹『シドニー!』(上下)、帰りは塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』という組み合わせ。なにも塚原が引用しているミシンとこうもり傘の手術台上の出会いを、オリンピックとアバンギャルドの高速バス内における混在に置き換えたというつもりはない。結果的にそうだというなら面白いね。

嬉野あたりで事故を目撃した。さいわいけが人はいなかったが、車は小破。乗っていたと思われるカップルが電話をしている。

村上春樹『シドニー!』ねえ。8年前はどうしていたのだろう。ちょうど8月をアメリカ観光旅行に費やして、翌年消えてなくなった対のタワーにもちゃんと上って、帰国して、上機嫌で高橋尚子をみていた。才能あふれるコワイモノシラズの人は輝いていたし、そう見てしまう自分は年取ったなあ、と感慨深かった。しかし2008年予定のオリンピックなど、さらには東京(戦前)、メキシコ、ミュンヘン、モスクワ、ロサンジェルスなどを考えると、シドニーは例外的に平和なオリンピックではあった。しかもアボリジニーなどこれまで内部問題とされてきたのを、あえて表に出して、痛みを出すことでトラウマを解消する道筋がついていった。

作家の文章で感心するのはいつも「比喩」である。建築専門家が建築について書くときは、いつも技術的、事実主義的、統計的、である。建築史家も比喩が苦手だ。もちろん機械的な事実が大きな歴史を背負っているということはあるし、それを発見したからこそ書いているのだが。しかし事実をもって語らせるのを中心にすえてきたので、「比喩」能力はかなり退化している。ぼくはこれを鍛え直さねばならないかもしれない、と考えている。

たとえばオーストラリアは動物の宝庫だが、ある動物は編集者のようにフルーツパフェをばかっぽく食べる、であるとか。つまり比喩とは、森羅万象のなかで関係ないと思われたことがらどうしを、関係づける作業でもある。

さらに比喩の例。退屈な開会式で、ブラジルの国歌を聴いたあと、君が代を聴きながらの日の丸は「サイドブレーキを引いたまま、いそいそと坂道を上っている自動車」のようである。そんな自動車見たことないけれどね。これは非現実の比喩。それからマラソンの選手が「まるで映画の『タイタニック』で、傾いたデッキから乗客がずるずる滑り落ちてゆくみたいに」(下巻139ページ)脱落してゆく、だとか。これは無関係の関係のおかしさ、という比喩。

作家はさらに、オーストラリア、イギリス、アメリカの歴史的な関係だとか、アボリジニとの和解のこととか、それからオーストラリアらしさのようなものを皮肉と愛情をこめて書くのである。

そのなかでもスポーツとはそもそもなにか?的な論考も面白かった。もちろん人間の本能である闘争が形式化したものという一般的な理解からはじまって、オリンピック観戦とは「クオリティーの高い退屈さ」(下113)なのであって、そこでは「意味というのは、一種の痛み止めなのです。」(下113)などと展開する。

そしてスペインの哲学者オルティガを引用して、「冒険とは物質界の脱臼であり、非現実なのだ」ということであり「意志は現実そのものだが、欲求されたものは非現実的なのである」。そして「結果的に達成されたものが、どのくらい大きく現実から脱臼しているか、それが問題なのだ」(同176)。

ううむ。「物質界の脱臼」ですか。スペイン人という、大航海時代の立役者の子孫からいわれると納得です。

平戸。史跡をめぐって、坂をのぼって、写真をとって、博物館で図録を買って、人にあって、温泉にはいって、ビール飲んで、寝る。チャンポンはちゃんといただいた。クジラはありつけなかった。

やはり平戸。ここには大航海時代さなかにオランダ人も、スペイン人も、オランダ人も、イギリス人もやってきた。最初は、大航海のあげく船は数隻のなかで一隻、人も例外的に生き残るという、たいへんな訪日であった。これがなければ今の平戸はない。人間は現実が退屈なのでときどき非現実で憂さ晴らしをする、のではない。むしろ非現実が現実をつくってゆくのだ。非現実という名のひろいひろい荒野があって、そのなかにぼくたちは現実という名の城壁を築いて、その内部の町に住んでいるのだ。その外部の広大な非現実からのさまざまな補給がなければ、現実は現実でなくなってしまうのだ。(ぼくもすこし比喩が上達しましたね!)

帰路では塚原史の『ダダ・シュルレアリスムの時代』を読む。320ページほどをすらすら読めたが、それほど頭に残っていなくて申し訳ありません。記憶にのこっているのは、2点。

まずツァラらが考えたのは、言葉を意味から切り離すということ。つまりブルジョワ的正統派文化では言葉は意味そのものであり、両者は完全に調和しているのであって、そもそも両者などと考えることはおかしい。しかし「DADA」という名前そのものが辞書ランダム検索から偶然に選ばれたように、ダダはなにも意味しない、ことが重要なのである。

同時期ソシュールがシニフィアンとシニフィエを切断したように、まず意味にむすびついていないなにか、というものの存在が考えられるようになる。

もうひとつはこうした過去から切り離された前衛運動が、20世紀初頭の政治文化と地下水脈でつながっていたのではないか、という指摘である。ムッソリーニやヒトラーの全体主義におけるプロパガンダには、前衛運動的な表現なしには考えられない手法がある。

しかし1896年という近代初頭に再開された近代オリンピックも、物質界の脱臼だとしたら、そこには前衛的なものもすでにはいっているのであろう。そして商業主義、国家主義、グローバル化という要素の先駆的なものも。それにしても、意味を切り離すこと、は物質界の脱臼、ではないか。

・・・というわけでオリンピックとダダは、高速バスのなかでうまく出会えたのだろうか。

ところでシドニーから平戸だろう。シドニーから北京へ、の「北京」はどこにあるんだ、とおっしゃるでしょう。下をクリックしてください。

Img_7075

オヤジギャグで申し訳ありません。おふざけと受け取られてもしかたありません。

しかし平戸の真実のなにがしかがあります。歴史の道という、特別な場所ですが、そこでも住民はどんどん去っていっています。中華料理店・北京の両側も転居してパーキングになっています。地方都市の典型的な風景です。

6月になったら学生たちといっしょに取り組んでみます。

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2008.04.13

世界遺産都市ボルドー(つづき)

ベルリンの次はボルドーです。

手持ちぶたさなので、ボルドー市のサイトから世界遺産関係のページを抄訳してみます。

まず2007年6月28日に、とくに素晴らしい都市全体として世界遺産に登録されたということは、ブログで報告しました。その区域は1810ヘクタールにも及んでいます。ユネスコ世界遺産委員会がこのようなことを認めたのは初めてのことです。「顕著な普遍的な価値」(仏語からの直訳なので、日本語の行政用語とは違います)が認められた背景には、2003年いらい、市が地元パートナー、国、内外の諸機関と協同して努力を重ねてきたたまものです。

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世界遺産に申請するために、地元パートナー、国、学者、歴史家、建築家、都市計画家の尽力がありました。

2003年より、市は専任の代議士をたてて検討に着手しました。すぐ明らかなことは、歴史、建築、都市計画の事実からしてボルドーは「顕著な普遍的な価値」として申請できるということです。ガロンヌ川から環状大通りまでの区域を申請すべきということもすぐ判明しました。

専門委員会(複数)はまず書類を作成し、2005年に文化省に提出しました。文化大臣はほかの申請書類も検討したのち、書類をパリの世界遺産センターに送りました、2006年1月のことです。

こうして審理がはじまった。世界遺産センターはこの書類に欠落がないことを確認し、2006年3月、イコモス事務局にゆだねる。イコモスが評価するために、それぞれの分野で傑出した建築家、都市計画家、歴史家の鑑定人からなる2つのグループを招集した。第一グループは、「顕著な普遍的な価値」について疑問を呈し、第二のグループは、この区域の管理と保存を市がどのような手段で施行してゆくかをスタディした。

2006年12月、イコモスから派遣された鑑定家は、ボルドーを訪れ実地で検証し評価し、書類をその場所で検討した。いわゆるバッファゾーン(フランス語では「ゾーン・タンポン」)についてもコメントがあった。市はただちに修正をし、それはPLU(地区都市計画)に反映された。

審理がここまでくると、市の役目はもうない。鑑定家のレポートと国が準備した提案書類はイコモスに提出され、フランス世界遺産委員会の何回かの会合でもまれる。2007年初等である。この委員会は26名からなる。世界のあらゆる地域を代表している。専門性もきわめて広い。最終的に委員会は評価書類をまとめる。これが、世界遺産委員会の年集会で検討の対象となる。

最終段階というのが、ボルドーの申請を、フランスが、世界遺産委員会にプレゼするというかたちである。その総会は毎年6月に、違う場所で、開催される。ボルドーが認定されたのはニュージーランドのキリストチャーチにおいてであった。

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1810ヘクタールもの広さの区域が認められたのは、1976年いらい最初である。ボルドー行政域は4455ヘクタールだから、その広さがわかるであろう。その周囲のバッファゾーンは3725ヘクタール。これらふたつの区域は「地域都市計画PLU」のなかにしっかり位置づけられている。

ユネスコ世界遺産に登録されても、都市計画法規で科せられた以外の義務は負わないし、関連する財産の保存や価値付けへの財政出動はまったく期待されない。しかしボルドーはボルドーのアイデンティティを構成するすべての要素を、保護し、次の世代に受け継いでゆくためのユネスコの要請に応えねばならない。

登録された区域は・・・・・(しかじか)・・・・・であるが、これは固有のアイデンティティをもつ異なる街区からなるモザイクであり、都市の都市的連続性を保証している。

それをとりまくゾーン・タンポン(バッファゾーン)は、左岸は旧環状鉄道の線におおむね沿っている。右岸にも及んでいる。いわゆるバスティード地区を含む。(訳注:バスティード地区は、もともと造船を中心とする産業地区であり、労働者も多く、したがって産業転換、環境改善が望まれる地区であったが、近年、都市計画により駅舎は改装され、複合文化施設、金融機関、公園施設が整備され、住宅も建設された。なによりトラムによって古くからブルジョワが住む左岸と結ばれた。ヨーロッパの都市には珍しく、両岸の一体性がまったくなかったのだ。1990年代、ボフィールが呼ばれて彼独特のばかばかしい新古典主義が提案されたが、もちろん実現しなかった。)

市は、世界遺産に対応するための特製の制度的枠組みを立ち上げた。

2007年、市議会は「世界遺産委員会」を設立することを採決した。この委員会は「世界遺産管理プラン」を策定し、実施する。委員会もメンバーは市長助役、文化省の代表者、ボルドー都市共同体の代表者、歴史家建築家など専門家、商業会議所などの代表者、などである。またユネスコの絶えざるチェックに対応する。

・・・がんばってください。

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2008.04.12

ベルリンの「ゲルマニア展」

ベルリンでゲルマニア展が開催されている。WEB版ルモンドによる。

ゲルマニアとはヒトラーが計画した首都ベルリン改造計画であった。アルバート・シュペアに計画させた。想定された工期1938-1950年。連合軍の空爆(1943-44年)があったので実現されなかった。建築関係では有名なプロジェクトである。

この展覧会、正式名称は《ゲルマニア神話》はベルリン地下協会が主催しているという。12月31日まで。

南北軸、東西軸からなるモニュメンタルな都市プラン。各省庁が配置される。中央には《人民大ホール》。これは巨大なドーム建築で、高さは280メートル。新古典主義的な造形において、ヒトラーはローマとアテネを念頭においていた。建材も石灰石、花崗岩という、古代復興の意志にもとづいていた。

ドイツ財務大臣Peer Steinbrückは「建築的になにかが成し遂げられるという類のものではなかったろう。独裁政体の表現でしかない」とコメント。財務省は、ゲーリングがもといた省の建物を使っている。これはゲルマニア計画の数少ない遺構である。このプロジェクトのため、多数のユダヤ人が土地を収用された。用地から追い出された住民たちに住まいを提供するためである。また強制収容所にいた多くのユダヤ人が労働者として動員される予定であった。

ベルリン地下協会のひとりは、「シュペアを「良いナチ」とするむきもあるが、この点ではそうではない」と指摘する。ニュルンベルグ裁判において死刑を宣告されるのを避けるために、シュペアは回想録を出版し、「ドイツの集合的記憶によって部分的に名誉回復された」。

ヒトラーとシュペアは、ベルリンのみならず、ニュルンベルグ、ハンブルグ、ウィーン、リンツに同様な計画を実施しようとしていた。

・・・・20世紀は大計画の世紀であった。しかもアナクロニックに。

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2008.04.10

故ミッテラン大統領の「郊外89」と「グラン・パリ」構想を思い出した

前稿でラ・ヴィレットの改造計画にふれたとき、ミッテランの大パリ構想を思い出した。今回すこし補足する。

故ミッテラン大統領というと、《グラン・アルシュ》や《ルーブル・ピラミッド》などのいわゆるグラン・プロジェが有名で、社会党なのに建築の趣味は、新古典主義的な王様趣味という評判である。これらはパリ市内のプロジェクトである。

しかし彼は、パリをとりまく郊外を含めた大パリ構想をもっていて、建築家たちにスタディをさせ、一時期は大ムーブメントになっていた。こちらは社会主義者としての立場をより鮮明に出したものである。

ところで郊外。近年、郊外に居住している移民労働者二世=失業者たちが暴動を起こしたので、パリの郊外問題が日本にも知られるよになった。この問題は、基本的には、ナポレオン3世の時代に現行のパリ行政域が定まったことによる。政府は政策的に、ブルジョワのパリ市内/労働者が住む郊外、という構図を堅持してきた。パリを取り囲むコミューン(市町村)はおおむね革新政体である。さらに戦後の一時期、郊外に団地ができ、そこに中産階級がすむようになった。高度経済成長のおかげで豊かになった中産階級は、パリ市内に移住するか、戸建て住宅を求めて別の郊外に移っていった。すこしずつ団地の住民は交代していった。中産階級から、低所得者、さらには失業者などの社会的弱者たちへと。

1980年代、この郊外問題は顕在化し、ミテランは大々的にこの問題に取り組んだ最初の大統領となった。問題はあまりに深刻であった。近年の暴動が示すように、80年代の試みは問題をすべて解決はできなかった。しかしそのプロジェクトのいくつかは実現された。

ことのあらまし。

1982年~83年・建設局にあつまった建築家たちは、郊外について、建築家が創造的なイニシアティブをとれるように検討を定期的におこなった。

1983年6月26日。共和国大統領は郊外を視察。ロラン・カストロ(この人も左翼であった)が案内する。

1983年11月7日。大統領の要請により、総理大臣は、ロラン・カストロとミシェル・カンタル=デュパールに、委任状を送り、3項目からなるミッションを与える。
・郊外の整備についての検討と提案。
・市街発展(まちづくり)のための国民委員会からの諮問をうける。
・パリ周辺地区の長期的な整備計画となりうるものを検討(《ル・グラン・パリ》計画)。

1983年12月11日。建築家・都市計画課集会。ロラン・カストロとミシェル・カンタル=デュパールは同僚の専門家たちにこれらプロジェクトに「着手」することを呼びかける。

1984年2月29日。「郊外89」の73プロジェクトについての展覧会。大統領がオープニング。

1984年6月24日。「間省庁都市委員会」(都市について検討する省庁横断型の委員会)の設立。

1984年7月14日~8月4日。要塞の祝祭。

注:フランス好きの日本人にもあまり知られていないが、パリを取り巻くように、一定の間隔で、要塞が設置されている。場所はまさに郊外の市町村。城壁ではもはや首都防衛はできないようになって、要塞が建設された。19世紀初頭、いわゆるティエールの市壁がパリを防衛するために建設されたが、そのさらに外側に20カ所ほどの要塞が建設された。19世紀の戦争の時代にそなえてであった。しかし「防衛」とは、外国軍からとともに、国内の反乱軍からでもある。それはパリ=コミューンのときに赤裸々で悲劇的な真実となった。潜在的には、政府に反抗的な勢力を多くかくまっている郊外の自治体を監視するためであると、ぼくは推測している。下は地理学の文献から、要塞配置図を引用したもの。

Wefew

ミッテランの《グラン・パリ》計画では、これら要塞を結ぶような環状道路が構想された。郊外の自治体を監視するためであったかもしれないこれら要塞を、こんどは自治体どうしの連帯のために、活用するのである。

1984年7月26日。「郊外89」の第二回展覧会。220件のプロジェクトが展示された。

1984年9月。「郊外89」展覧会に展示されたもののうちのいくつかに補助金を出すことが、はじめて、「間省庁都市委員会」により決定される。

1984年9月~1985年10月。毎月「間省庁都市委員会」が開催された。

1985年10月24日。1985年最後のCIV=「間省庁都市委員会」。100プロジェクトに補助金が出された。

1985年12月5,6,7日。「カジノ・ダンジャン郊外会議」。220の市の市長たちが、彼らのプロジェクトを展示した。建築家、都市計画家たちはそれを説明。行政はその実現可能性を検討。法規の検討。住民との対話が必要なことの再認識。《グラン・パリ》計画についての図版など展示。この会議の議事録、それにともなってプロジェクト図録などが出版された。ぼくはたまたまそれを購入して、今も持っていた。

全体としては社会党大統領によるばらまき政策のような感じがしないでもない。しかし緒プロジェクトを一挙に公開し、相互検討をするなど、ショーアップされた補助金行政という面もある。

《グラン・パリ》プロジェクトでなにが目指されたかというと、パリ市内/郊外という分断されたふたつの世界の統合であり、また郊外の自治体という相互に分断されたコミューンの統合であった。

つまり前述の経緯があって、パリ市内は行政区画によって制度的に、環状高速道路によって空間的に、完全にその周囲から孤立している。これは1902年まで存続した入市税の負の遺産でもある。さらに郊外のコミューン(市町村)は、道路網、公共交通機関などによって、放射状の構造のなかで、パリとの連絡はとれている。しかしコミューンと、隣のコミューンをつなぐインフラはきわめて脆弱である。だからコミューンどうしの連帯は弱い。社会主義政権は、こうした支持基盤の社会的空間を改善しようとしたのであった。

だから《グラン・パリ》は、同心円状のインフラを整備しようとした。まず道路。それからトラム。下は、ポール・シュメトフ立案の、パリ郊外東北部のトラム計画である。この資料ではまだ「詩的プロジェクト」とされているが、しかしこれは実現された。

Tram_paris_nord

さらに郊外には、上述のように、パリ市を取り囲むように要塞が一定の間隔で建設されている。1984年7月14日~8月4日の要塞の祝祭では、そのうちのいくつかが公開され、祝祭が開かれた。パリを取り囲む要塞を、地理上の拠点として、郊外の一体性確保のために役立てようという理念がある。

プロジェクトは詳細に記述されていて、ここですべてを紹介する余裕はない。以上はほんのさわりである。しかし、都市ネットワークの充実、成長なき郊外の整備(成長ではなく「深化」)、ランドスケープの向上、産業施設の再利用など、先進的なアイディアがいっぱいであった。いっぽうで「連帯」などという80年代ですでに古くさいスローガンも掲げられた。レーガン、サッチャーの新保守政策が展開されていた時代だったのに。

ぼくの解釈では、父親的イメージを抱かせていたミッテラン大統領の、慈善あふれるプロジェクトであり、その意味では19世紀的でもあり、また政策としては典型的な大きな政府によるものであった。しかしこの時点ではいわゆる「ヨーロッパ統合」や「グローバル化」がまちづくりにどのような枠組みを与えるかは、そんなに議論されていなかったと思える。それより80年代初頭に法制度が整備された、地方分権の枠組みが意識されていたように記憶している。

数年前にパリのシャイオ宮で開催された遺産会議では、招待された地方の市長たちが、この「郊外89」を回顧していた。それなりに評価していたが、現在行うに価値のあるものとも考えていないことは明らかであった。

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2008.04.08

パリのラ・ヴィレット公園がたいへんなことになっているらしい

WEB版ルモンド(現地時間4月8日14時26分)によると、ラ・ヴィレット公園の大改造プロジェクトがもちあがっているらしい。

まずは記事の抄訳。

開園25年のラ・ヴィレット公園は、パリ最大規模の公園施設である。55ヘクタール。科学博物館(注:旧精肉施設の改装)。音楽院(注:ポルツァンパルク設計)。大市場建物(注:19世紀)。これが前例のない大改修となる。2012年末にはアクセス、施設、人の流れ、訪問者の性格まで、根本的に変わるであろう。公園園長ジャック・マルシアルは「わたしたちのミッションを見直すべきであろう」。

南にはパリ・フィルハーモニーの建物。2万㎡。ジャン・ヌーヴェル設計。北では科学博物館の第四スパン、1986年から入居者がいなかった部分に、商業複合施設がはいる。映画館16室、店舗1万1000㎡。科学博物館も改修され、アクセスなどが変更され、広場、玄関ホールは改修、スタッフ専用の建物も新築される。公園施設と大市場(Grande Halle)については、「エコロジー」建築が建てられる。

アクセス。トラム新線が建設され、3つの駅から公園にはアクセスされる。パンタン門、ラ・ヴィレット門、そしてその中間の、パンタン・コミューン(市町村)からのアクセスとなるもの。最後の駅は、このコミューンからのアクセスとなるもの。また2009年にはフラン・ムーラン・ド・パリが改修されそこにパリ国立銀行の勤労者がはいるが、彼らにとってもアクセスとなる。

公園施設の改装には3億ユーロが計上されている。たいへんな現場である。さまざまな工事の日程調節、企業組織をどう入居させるか、そしてとりわけ公園の利用者たちの便宜をかんがえねばならない。施設のひとつでも閉館するなどとんでもない。だから駐車場もまた問題だ。

フィルハーモニーの敷地は、今の屋外駐車場であり、ここは600台収容できる。南の音楽院には300台収容、これでは足りない。音楽院だけでなく、大市場、ゼニット(多目的ホール)にくる人もいるのだ。なので科学博物館と契約が結ばれた。そこには1500台収容なので、ゼニットの客にも使わせるのだ。ゼニットは毎年80万人がくるのだから。

以上は経過措置だが、そこには最終計画が予見されねばならない。渋滞もおこるだろう。そくにペリフェリク大通りのパンタン門。とくにコンサートの夜。全体計画はこれを計算に入れねばならない。

2012年、科学博物館とゼニットにくる利用者は公園の北側に駐車する。大市場、音楽院、フィルハーモニーへの客は南側に駐車。

道路網は問題山積。パンタン門はよくても、ラ・ヴィレットはどうか。云々。

人の流れは公園内に及ぶ。運河をまたぐ通路は容易には見つからない。云々。運河に浮かぶ橋を要する案も。

「トラムと呼ばれる希望」。車でなくてトラムで来てくれれば。しかしクラシックを聴きに来る人びとはトラムにのるか?(注:クラシックはお金持ち、トラムはむしろ貧乏人という社会的格差が背景にある)。云々。

社会的問題。地域の人びと。公園を訪問する何百万人もの人びと。ジャック・マルシアルは「それがラ・ヴィレットなんです。ソーシャル・ミクストこそがここの存在理由なんです」というが。

・・・・ということらしい。大プロジェクトはいいですね。

これはミッテランの遺産である。この社会党の大統領は、パリ東部=労働者の地区という構図のなかで、まさに東北部に位置する、運河がつながっている、市場、精肉施設、倉庫、工場があった産業施設を、公園にかえ、パリの魅力あるれる場所のひとつにしようとする。

ミッテランは80年代後半にグレイター・ロンドン・プランを模範にした「グラン・パリ」構想を世に問うた。これは都市的というより社会的なものである。つまりパリ市内=ブルジョワ・保守的、郊外=労働者・革新的という構図のなかで、両者の統合をねがったのであった。それは歴代の保守政権が、伝統的に、パリ市内と郊外の分断をはかってきたことへのアンチテーゼでもあった。

トラムはそのグラン・パリ計画の目玉でもあった。しかし今日、トラムはやはり低所得者の足という位置づけが事実上、できているのではないか。なかなか快適で、死角がないので犯罪も起こりにくいのは確かであるが。

ラ・ヴィレットは市内と郊外を結ぶ地理的位置にある。またサン=マルタン運河など、物資をとおく郊外、地方からパリに供給してきた要所でもあった。ラ・ヴィレットは、ブルジョワ的視点からはインフラとして蔑まされたが、今日、公園、科学施設、文化施設として、その要所としての重要性を、ちがう意味で強調してきている。

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2008.04.06

鉄は古代生物が近代建築にのこした遺産である

先日、地質学の先生に個人教授?のようなことをしていただくなどという特権的なお恵みがあった。その内容はやがて大学広報誌の記事となるので、インサイダー的にあれこれ情報漏洩はしないが、ごく初歩的、常識的なことだけを建築史にフィードバックしても面白いのである。

建築にとって、とくに近代以降の建築にとって、鉄は必要不可欠な物質となった。もちろん鉄はそもそももっと古くから文明にとって不可欠であり、鉄は国家なりなどといわれることそのものが遅すぎたのであるが。建築も、RC、鉄骨造などの時代になって、鉄なしには成り立たなくなった。木、大理石、の時代は終わったのである。

周知にようにコークスの発明で森林を犠牲にしなくとも製鉄ができるようになり、さらにスティールがつくられるようになって建築にも応用された。それはそれとして、鉄がそもそもどういうかたちで人類に提供されているか、である。

人類は鉄をもっぱら酸化鉄からとっている。地球の質量の3分の1は鉄で、量的にはふんだんにあるが、地球のコアまでいって鉄をとろうという人はいない。純粋鉄が地球内部にあるのは隕石衝突説などいろいろあるらしいが割愛して、ようするに鉄はどのようにして酸素と結合したか、酸化したかである。

酸素をつくったのは生物である。太古、地球上に酸素がそれ単独で存在していたのではなく、この科学反応しやすい物質は化合物として存在していた。それが地球上の大気の20%を占めるようになったのは、バクテリア、プランクトン、葉緑素をもつ植物、による光合成のおかげである。そう酸素は生物がつくった。

この酸素は地球内部にふんだんにある鉄と反応して、酸化鉄になる。火山活動などのいろいろな地球の活動が介在しなければいけないらしいが、これも割愛。この膨大な酸化鉄が残ったのが鉄鉱石である。人類は、もっぱらこの鉄鉱石から鉄をとっている。製鉄とは、この酸化した鉄を、COなどにより段階的に還元し、最後には純粋なFeとする一連のプロセスである。

というわけで生物が出す酸素のおかげで、鉄は鉄鉱石となる。こんどは生物の一員である人類が、その鉄鉱石から鉄を抽出する。つまりとても大きなスケールのエコロジーである。

かの地質学の先生は、まさにこの生物が酸素を出し、そこに酸化鉄ができ、やがてそれが鉄鉱石になってゆくという「現場」を再現したり発見したりしていて、そこがとても面白かったのだが、これ以上の情報漏洩はいけません。

「環境」とは内部/外部の区別をやめる、はじまり/それ以前という発想をやめる、というようなことだと個人的には思っている。その環境的発想からすると、木造の原始的な小屋から建築は始まったなどという18世紀の建築起源論はかなりいかがわしい。ほんとうにそんな小屋があったのかといういかがわしさ以上に、大前提として木を、きわめて唐突にしかも当たり前でないことを当たり前であるがごとく想定するいかがわしさである。

太古の生物活動が、鉄を鉄鉱石にさせ、鉄を人類に提供したということであれば、もっと違う建築起源論があってもいいだろう。

さらにいえば建築モデルとしての「有機」である。19世紀、科学者の思考をまねて建築家たちは有機/無機を区別して、「有機的建築」なる概念をつくった。これは今の健康志向の「オーガニック」とはちと違うが、建築は適切なランダム性を含みつつも全体を全体たらしめる組織化の原理をもつ。それは機械とは違う原理であり、たとえば部分は部分で自律的でありそれ自体全体である。といった、そんな論理であった。アアルト、ライトらはそんな有機的建築をめざした。そこには19世紀に発達した生物学からの贈り物があったのである。

逆に20世紀の高度経済成長型の機能主義建築が「無機的」な風景をもたらした、などといわれるとき、前述の「有機」の反対の、負の価値をになうものとなる。そして「無機的」な風景は、すぐれて鉄の建築、鉄で可能になった建築がつくったものである。

しかし鉄は古代生物の残した遺産である、と考えると、このありがたい贈り物を「無機的」などと揶揄するのは子孫としていけないのではないか。

鉄もリサイクルに適した建材ですよ、などとスケールの小さいポリティカルコレクトネスの主張ももちろんよいのだが、建築論的にも違う発想はできないものか。100年200年ではなく数十億年単位の発想を、である。

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2008.04.03

ミュージアム・イノベーションとノモンハン事件と地球幼年期の終わりについて

M先輩からメールで案内していただいたので、出張ついでにのぞいてきた。シンポジウム「ミュージアム・イノベーション」である。平日の午後なのに日経ホールが満員だった。

ところで大都市圏での移動中の娯楽はとうぜん読書である。それで荻上チキ『ウェブ炎上』ちくま新書2007と、村上春樹『辺境・近境』新潮文庫2000、を車中で読む。

鹿島茂だったか、ITを操るシロートおじさんの振る舞いは若者からみると「縄文時代の人間がランボルギーニカウンタックを手で押すようなもの」(不正確な記憶で書いてます)というようなことを書いてあった。ひとり爆笑した。そこで、せめて弥生時代に進みたいので『ウェブ炎上』などを読むのである。

「炎上」とはウェブ上のバッシングのようなもので、すこし踏み込んで事件、人物、などに率直すぎる感想をかいたので、非難書き込みが殺到し、サイト閉鎖にまで追い込まれる現象である。ひとつ勉強したぞ。IT系の著者にしては、日本語がこなれていて、よくわかる。でも基本的にはローテク時代の構図は、失われることなく、むしろ格段に加速されるようです。流行語、デマ、噂、風評のメカニズムはむしろ古い文献を引用して、ドゥルーズ、フーコーなどの理論を援用しているのでわかりやすい。ウェブ上では既存の構図が桁違いに加速されるということで、わかりやすい。

もちろん旧メディアでも既出だけど新メディアでは新規に概念化しないといけないものもある。「コンテクストマーカー」などもそうだ。だから再定義することで、古いメディアが、再分析されるという効用も大きい。

全体的にはウェブ空間は均質どころか自己分節化を加速させるので、この生態系を分析するとともに、この生態系をうまく成り立たせるのが「アーキテクチャ」に期待される役割なのだ、という主張であると解釈した。

さて日経ホールである。文化庁長官の青木さんの挨拶からはじまった。ヨーロッパを手本にした「文化創造都市」制度がはじまり、最初は横浜市、金沢市などが指定されたとか、ヴァレリーやアドルノの美術館批判、今後の展開としては教育(とくに子供への)重視、遅い情報を担う美術館、アジア展開、などを語っていた。

ルーブル美術館館長のアンリ・ロワレットは、革命期における美術館創設から始まって2001~2003年の制度改革まで話す。来館者数、メセナ、開放性、研究、学芸員養成、芸術家のアトリエ、最近のプロジェクト(イスラム美術分館、ランス分館、アブダビ分館など)などいろいろ語った。とくに興味をひいたのが2点。まずパートナーシップ。日本で話していることもあり大日本印刷とのパートナーシップを指摘していた。突出した技術だけがグローバル社会で生き残れるという教訓である。もう1点は、「普遍的美術館」という2世紀前からの理念であった。つまり万人に開かれる万人のアート、という理念。これがグローバル化になって生かされているのだ、という自慢げな話しであった。

パネルディスカッションでは西洋美術館(西美と略記するようだ)の青柳館長が、国の補助金削減プログラムをおおいに嘆きつつ、西洋モノ文化研究指向、来館者サービス向上、時間軸拡大、オープンミュージアム構想、などを語った。とくにメセナからの支援と、ル・コルビュジエ建築の世界遺産申請のはなしをしていたのが印象的であった。日本人への西洋美術の啓蒙機関というこれまでの位置づけを越えた、新しいネットワーク形成がはじまるであろう。それにしても予算。アメリカのキュレーターには集金能力がもとめられるが、日本もそうなるだろいうという予測。ほんとうでしょうか。日本の大学で、そこまで教えられるのだろうか。

徳川記念財団理事長の徳川さんの話しも面白かった。近世の構造はけっこう生きているのだ。近世文化は、まさにその担い手の子孫たちによって継承されている。ビジネス界から転入してきた方なので、なぜ展覧会をするのか、という素朴な疑問を専門家にぶつけるが、きちんとした回答はなかったというようなお話し。つまり「なぜ美術館?」という問いへの回答が、とうぜんフランスでは自明で、日本ではそうではない。日本はやはり大きな鹿鳴館なのだ。

高階秀爾先生がモデレータであったが、その達観した語りが印象的であった。先生は今、倉敷にある私立の大原美術館の館長である。創設者であった事業家大原孫三郎のコレクション公開の意志、現在の活発な活動状況、地域にいかに開かれ、子供への啓蒙も盛んかを強調していた。ただかつてルーブルにもいた彼は、日本の悲惨な現実についてはすでに達観されているようにみうけられた。そのうえで大原美術館に理想的な場をつくっておられる、という印象である。

最後に文化庁長官が挨拶した。文化庁そのものの予算が削減傾向にあるなか、美術館もそうならざるをえない、という。しかしこれからはアジア指向、アジアの美術館の館長会議が開催されるらしい。さらに建築家にとって耳寄りな話題。これから中国では1000~2000の美術館が建設されるのだそうだ。なにを展示するんでしょうね、というコメント。しかし建築家のみなさん。やはり中国です。

シンポを拝聴してのぼくの感想はふたつ。

まず文化予算の圧倒的格差。いまや日本は韓国にくらべても予算では文化小国である。しかしこのことは数十年前からいわれ続けてきた。そして政府にとってアメリカというよいお手本にして口実がある。これも数十年同じ構図だ。民主主義、民による、アートへと投げ出されそうとしている。しかし日本社会にとってアメリカがほんとうによいモデルなのだろうか?

つぎにロワレット館長が自慢していた「普遍的美術館」という理念。彼も「啓蒙主義の時代だったので」というし、欺瞞視する人もいるだろう。しかしこの文化帝国主義はシステムとしてよく機能するし、し続けるであろう。つまり芸術はある意味で超越的なものとなった。だから貨幣、資本、が超越的なものとなっているグローバル社会のなかで、アートはそれに釣り合う超越としてよく機能している。それを日本的文脈で箱庭的に文化、教育などと言い換えた時点で、ぼくたちの認識から本質が欠落してしまうように思える。

宿に戻る。大手町で急行に座れたので、今度は村上春樹『辺境・近境』を読む。なぜこの本かというと『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハン事件を題材にしていたので、その取材記を読みたかったからである。

村上春樹は小学生のころノモンハン事件の写真を見て、なぜかトラウマになってしまい、今回の取材旅行で、さんざんの苦労の旅のはてに、それが解ける、というおおまかなストーリーである。もちろん細部の描写がそれぞれ味わうべきものなのだが、ここには書かない。面白かったのは、国境の両側にある戦争博物館の話し。博物館そのものが戦勝記念モニュメントなのだが、悲惨さの記念碑でもあること。それから旧戦場にそのまま放置されている不発弾や戦車などの、戦争の痕跡、いや戦争=鉄そのものである。近代戦争は鉄の交換であり、先方により多くの鉄を送りつけた(砲弾をみまった)ほうが勝つというあられもない真実である。

彼はそこに旧軍の前近代性をみる。旧軍は前近代的であった。200キロメートル以上を、完全装備のまま、平気で行軍させる。もちろん兵站、ロジスティクスという発想もない。前近代/近代の戦いは、大戦のまえに日本/ソ連(ロシアではないことが重要)というかたちでなされていた。

日本は明治維新のときに、ヨーロッパ的な近代的国民軍をつくろうとした。しかしすぐにはうまくいかなかったので、過渡期的折衷案のつもりで、武士道的軍隊とした、ということは国史の常識である。また日露戦争の成功イメージはあまりに強烈であったので、反省の機会が失われた。

おなじようにユベール・ロベール描くルーヴル改造案に象徴されるようなフランスの普遍的博物館という理念に対応しているのは、そして日本の美術そして建築を支えてきた理念はじつは文明開化のみであり、以降、それを凌駕する大文字の理念は設計してこなかったとしたら?ぼくたちは終わりなき文明開化を生きつづけるのだ。アメリカ的な民営化システムのもとでフランスのような洒落たアートをするのだ。

駅につく。駅と駅前の再開発をしている。今どきのガラス張りのエレベーターシャフトと、取り壊しされている途中の鉄骨骨組みが隣り合わせだ。ぬめっとしたガラス。無骨な鉄骨。ひとつは表象。ひとつは国家としての鉄。世界の象徴である。

駅前のプールでリハビリ水中歩行をしながら今日を振り返る。

村上春樹描く近過去の戦争。しかし現代日本の美術館も同じ状況ではないか。兵站=補助金はどんどん少なくなる。国家はノルマは課すが、ロジスティクスはきわめて細い。自給自足を強いられる。美術館、博物館のみなさん、もう仕送りはしませんから、自活してください。ほらアメリカのお兄さんたちを見習えば、きっとうまくいきますよ。・・・でも問題は、日本はじつは前近代でずっとやってきて、いまさら近代にワープできるのか、そしてアートの超越性などというようなものをほんとうにグローバルな枠組みで受け止められるのか、ということだ。30年後にも日本という悪場所は語り続けられるであろう。

『辺境・近境』のなかでは「イースト・ハンプトン 作家たちの静かな聖地」も書かれていた。作家は人里はなれて住みたがるものだ。

そこでアーサー・C・クラークのことなど思い出す。『地球幼年期の終わり』は、人類の上に、神以上の超越が到来したというような話しだ。西洋のユートピア思想が背景にあると思う。人類は七段階の発展をたどるのであって、いまは4段階だ、などという語りである。劣等人類だと指摘されているようでいやだが、超越を信じることのひとつの形である。日本人が苦手なのは、この類の超越である。日本人にとってのとりあえずの超越は「世間」であろう。ウェブ炎上、カスケードの危機、ウェブ生態系のアーキテクチュアが語られるのも「世間」という上限のなかではないか。そして今の美術館、博物館も旧軍における兵士のようなものかもしれない。彼らは日本的「世間」に縛られつつ、機械化された近代的敵軍のまえに曝されたのだ。そして世間/グローバルはもっと解離しているのだが。

なぜA・C・クラークを思い出したかというと「イースト・ハンプトン」を極端にすれば「スリランカ」になると連想しただけなのだが。ぼくも作家たちがロングアイランドや植民地の島で優雅に執筆するようなことをしてみたいなあ。でも無理だねえ。ぼく作家じゃないし。・・・・というところで今日はもうやめよう。宿でビールでも飲んで、際限のない連想ゲームをストップさせようか。

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2008.04.02

東方旅行(050)1988年1月18日(月)ペトラ

ペトラ。ここには都市の本質が隠されず露出されている。遊牧民が通商活動のために定住するためにできた都市だ。通商とは、広大な東西貿易システムの不可欠の一部である。つまり流動的、ネットワーク的なものの一時の固定としての、その1結節点としての、都市。

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しかし流動/固定の相克とは、遊牧民的・ノマド的な古層/新しいローマ的な都市文明のそれでもある。そこに文明の積層と、そのなかでの民族、都市のアイデンティティの所在というものの問題を感じざるをえない。

商業は、貨幣は、共同体内ではなく間共同体に成立する。それをなぞるように都市ができる。都市は共同体ではなく、間共同体的なネットワークのなかにできた。それは無縁の論理がうみだす非場所=ユートピアであり、それが場所として固定されるという、スリリングな経緯がある。

この経緯はユニバーサルなものだ。網野善彦の視点を発展させてできた「港市」概念。磯崎新の「海市」。そしてぼくが学生たちととりくもうとしている「平戸プロジェクト」。

ペトラはそうした間共同体的な遊牧民に出自をもつという、流動と固定の弁証法をへて生まれ、そして死んだのだ。ヴェネツィアのように衰退を堪え忍び、遺産によって延命してさらに発展している例もある。しかしその頂点でフリーズしたものは、異なる鮮烈な印象をぼくたちに与える。

石を積み上げて構築されたのではなく、岸壁をレリーフのように彫ってできた古代遺跡。保存状態はきわめて良好なのだが、建築の壊れ方、廃墟も面白い。それはピースとなってばらばらになるのではない。腐敗してゆくように、溶けてゆくのである。ながいながい時間をかけて。生肉のような腐敗。

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かつての都市の実在、繁栄、過去がこのように腐敗をとおして、その都市の身体性そのものとして現前する。岩にも年輪はある。それは堆積プロセスの記憶である。だから石もまた有機体だ。それがゆっくりゆっくりと溶解してゆく。気の遠くなるような時間をかけて。ヴェネツィアの石とは対比的な、ペトラの石。

ペトラはアンマンの南に位置する。旧石器時代と新石器時代(紀元前1万年から6000年)の遺跡がペトラ北のベイダBeidhaと南のサブラSabraで発見されている。

エドム王朝。鉄器時代(紀元前800年から600年)にはウム・エル=ビヤラUm el-Biyarahが、ペトラにおけるエドム王朝の定住地となった。

ナバテア人(Nabateans)。もともと遊牧民であった彼らは、紀元前6世紀ごろ、アラビア半島からペトラに移動してきた。彼らはウム・エル=ビヤラの岩山を占拠した。紀元前312年、ギリシアの将軍アンチゴヌスの攻撃にも耐えた。ヘレニズム期、ローマ期に、ナバテア王朝はペトラを首都とした。人口増加により、遊牧民は定住民族化した、というのが定説である。

地理的条件。岩礁地帯であった。水が確保された。だからキャラバンサライとしてはうってつけであった。しかし時に鉄砲水となって災害をもたらすことと表裏一体であった。ダムなどを建設して治水をおこなうとともに、水道設備をつくって給水システムを整えた。まさに都市基盤設備が充実していた。

首都としての繁栄。ペトラは、紀元前4世紀から後106年まで、首都であった。そして大キャラバンセンターとして東西貿易の重要な中継基地であった。アラビアの香辛料、中国のシルク、インドのスパイスなど、貴重な物品をガザやアレクサンドリアに運んだ。ナバテアの王アレタス3世Aretas IIIは、ダマスカスをも支配した。さらにアレタス4世の時代には南アラビアや地中海まで隊商システムを支配した。

ローマの野心。しかしローマ帝国は黙っていない。紀元前64-63、ポンペイウスはペトラを支配した。課税はしたが、自治は認めるという支配であった。ローマ建築の建設が始まった。

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さらに重大なこと。紀元前25年、アウグストゥスはスパイス貿易を支配するために南アラビアに遠征。これは失敗。しかしアウグストゥスは海のネットワークを構築した。紅海とナイル川を経由してアラビアとアレクサンドリアを結ぶのであった。しかしそれはペトラが構築していた通商システムに打撃をあたえるものであった。日本のサイトでは、ローマによる軍事的攻撃しか書いていないが、それよりも通商システムそのものが打撃をうけたのであった。

106年、トラヤヌス帝はペトラを併合する。皇帝は同時に、アラビア属州の首都をシリアのボルサ(Borsa)にする。旧首都はいまやアラビア属州の一都市にすぎない。しかしパックス・ロマーナのもとで、旧遊牧民たちは、ノマド的性格を失い、都市の定住民となって、商業活動にいそしんだ。その繁栄は、やはりローマ的繁栄であった。

363年、大地震で被害。通商都市としての機能はしだいに失われ、やがてその地位をパルミラに譲る。

4世紀にキリスト教改宗。ビザンチン時代、パレスチナ地区tertialにおける司教座が置かれる。

しかしつぎにはアラブ人たちがやってくる。安定はつづかない。

十字軍時代になると重要性をすこし回復し、城砦が建設されたりした。マムルーク朝のスルタンであったバイバルス(Baybars)は、1276年、カラクKarak訪問の途中にペトラを訪問した。それ以降は史実は不明のようで、18世紀末まで、世界から、歴史から、失われてしまう。

1812年、スイス人旅行家ヨハン・ブルクハルトが再発見する。しかし1958年からやっと、イギリスとアメリカの合同調査隊が本格的な調査をはじめた。しかし遺跡の大部分はまだ解明を待っている状態であるという。

1988年1月18日。ぼくはJett Busのバスにのった。アンマンを6時30分発、ペトラには11時着。宿はAlanbat Hotel Restaurant & Student House。素泊まり2JD、2食がついて3.5JDである。アメリカ人のマーチン君とお友達になり、住所の交換など。でも雪が降っていた。とても寒い。

ぼくは細い谷間をとおって遺跡をめざす。脇には水路が彫ってある。犬が吠えているようだ。野犬だと怖いなと思った。でもそうではなく、地元の人びとが石を片づけていた。投げられた石が、地上の石とぶつかり、その音が谷間に反響していた。残響時間の長い、不思議な音だった。

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広い場所にでる。沙漠を旅した商隊は、ここで文明にたどりつき、安堵したことであろう。そこに宝物殿の正面が見える。演出。ペディメントが上下二層に積層された全体であるが、上部中央はそのだけ取り出すと円形神殿風である。ペトラ独自のスタイル。

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遺構は数多い。続く。

   

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2008.04.01

美しい日本は団塊世代のために?

エイプリルフールだからというわけではありませんが、お笑いを一席。

いわゆる団塊世代はぼくから見ると、偉いお兄さんお姉さんたちです。年上だし、人数も多いのでいつも圧倒されます。

大昔に読んだ本に、いいだもも『戦後日本史』とかいうものがあって、風刺的でありながら肩の力が抜けた感じでした。そんな戦後史もいいかも。

そんなわけで戦後日本史ですが、お兄さんたちを主人公とするとよく書けてしまうので、ほんとうに驚いてしまいます。ここでは建築、保存、について書きます。

まず誕生。世代だから幅があります。一般的には1947年から49年までの生まれの人びとです。中間値をとって1948年とします。二月革命の100年後なんていうわけではありませんよ。

お兄さんたちはまず努力家で、お勉強がよくできました。だから国は大学をたくさんつくってあげました。さてここで建築との関係です。別件で必要があってすこしまえに調べました。たまたま九州としましょう。九州の建築学科はすべて戦後に設立されました。前身が戦前のものもありますが、最初が熊本大学(1955年)、鹿児島大学(1955)、九州大学(1954)、九州芸術工科大学(1968年)、福岡大学(1964年)などです。九大で代表させると、第一期生は1935年生まれ。ということはその定年退職はなんと2000年、ということになります。つまりこと人材供給については、地方はまだ第一サイクルがやっと終わったばかりなのです。

ちなみに大学の学科は設置年の世界情勢によってその性格がきまります。1886年設立の東大建築学科(旧造家学科)は国家的造形としての当時のヨーロッパの折衷主義を背負っていました。1909年設立の早稲田大学建築学科はアールヌーボー的な個人的痕跡を優先させるものを求めました。1920年設立の京都大学建築学科はアールデコを当初は背負っていた形跡があります。

そして戦後に誕生した地方の建築学科は高度経済成長と開発を背負っていたとおおざっぱにはいえます。ですので昨今の大学改革は、その設置された状況の初期化にちかい大きな意味をもっています。

話しが脱線してすみません。

ともかく1948年生まれのぼくのお兄さんたちは、順調なら1967年に大学に入学するのですから、経済成長とベビーブーマー大量入学という二重のプレッシャーで、たくさん大学をつくったのでした。

よくいわれることですが、戦後の日本史はお兄さんたちのためにある、といわれるとほんとうに納得してしまいます。

たとえば1970年に、旧国鉄は「ディスカバージャパン」キャンペーンをはじめます。これはアメリカの「ディスカバーアメリカ」にならったものですが、ちょうどお兄さんたちが卒業するころです。ひょっとしたら卒業旅行として、あるいは社会人になって給料がもらえるようになって、学生時代に我慢していた国内旅行をするのでした。時期は若干前後しますが、当時テレビでやっていた富田勲の《新日本紀行》のBGM、ほんとうに目頭があつくなります。

でも彼らは、急速すぎる近代化を批判し、明治時代の近代建築の歴史的重要性を認識し、伝統的な価値を守ろうとするひとびとでした。当時は先進的な自治体で景観条例が制定され、まちなみの保存がはじめられたころでした。建築保存が、点から線へ、そして面へと展開していました。この潮流のなかで、お兄さんたちは古い町並みや、農村や、漁村をサーベイしました。また海外に留学し、ヨーロッパの先進的な保存思想を日本にもたらしたのでした。

旅行好きな人びとでした。『地球の歩き方』は1979年ごろの創刊だったと思います。そのときお兄さんたちは31歳ですね。バックパックを背負って、気軽に海外旅行するというお手本を示してくれました。

ここから話しはとぶのですが、1972年にいわゆる世界遺産条約が成立し、翌73年から発効します。しかし日本が批准するのは遅く、1992年でした。お兄さんは44歳です。働き盛りですね。さらに1996年に文化財保護法が改正され、登録制度ができました。このときは48歳。20代からとりくんできた保存が、政策として開花しはじめました。

そして最近では、2004年に景観法ができます。これからは地方自治体がその権限をつかってまちなみを守り、よい景観をつくっていけます。このとき56歳。お兄さんたちが定年をむかえるので社会は2007年問題はたいへんだ、などと大騒ぎをしました。でもいちおうソフトランディングしそうです。年配の方がたの雇用も順調のようです。海外での雇用もあるとききます。

特筆すべきはこうした景観法など(環境法もあります)が、いわゆる団塊ジュニア世代に仕事などのいろいろなチャンスを与えているという構図ができています。伝授されたのは思想だけではなく、仕事、チャンス、などもそうです。たいへんよい巡り合わせです。まるでだれかがきっちりと設計したみたいです。

お兄さんたちが定年退職したのちの人生は、なかなか魅力的です。介護機能付きマンションも多くなります。頑張ったおかげで、制度は整備されたので、美しい日本はそこそこ実現され、蓄えたお金で旅行を楽しむことができます。しかも20歳代では「ディスカバージャパン」であったものが、なんということでしょう、60歳代では「世界遺産」になったではありませんか。『地球の歩き方』世代の老後の、ひとつのかたちではあります。美しい日本=団塊世代のポスト還暦、なのです。世代に思想というものがもしあるとすれば、彼らは若い頃に主義として主張したものを、しっかりと手にしたのです。

もちろんそれは国策です。これからの20年は団塊世代の個人資産をいかにうまく運用するか、です。それが不幸にも仕事がないお兄さんたちの息子や娘たちの直接の生活費に消えてしまっては、お金は循環しません。でも文化遺産やツーリズムなどのいいことに使い、それが仕事と雇用を生み出すことで、若い世代の人びとがいきいきと働けるようになります。そんなことを偉い人は考えているんだと思います。

でも残念なことがあります。お兄さんたちが若い頃に感銘をうけた現代建築がつぎつぎに取り壊されていることです。2010年からでないと、60年代建築は登録できないのです。しかも10年かかってやっとすべてをカバーできます。でも間に合うのでしょうか。

もちろんこうした制度設計は多世代的になされるものです。団塊のお兄さんお姉さんたちだけのものではありません。しかしお兄さんたちを主人公に置いてみると、ほんとうによくできているので、感心します。

でも特定の世代だけを指標にしていると、困ることもあります。いままで頼りにしていた方がたがいなくなると困ります。だから今20歳代の人は、ぜったいに、ポスト団塊を考えないといけません。まあ、ぼくたちでさえ、そうなのかもしれません。日本では食えません、という状況に拍車がかかるのでしょうか。

とうわけで1948年生まれのお兄さんお姉さんたちが還暦を迎える2008年から15年くらいはひとつのパラダイムが続く時期になるはずです。10年は短すぎる、20年は長すぎる感じがしますが。そのあいだ、ぼくら弟妹はやはり圧倒されながら、団塊ジュニアからは追い上げられ、谷間世代を続けるだけです。いいかげん慣れましたけどね。

おあとがよろしいようで(よくないか)。

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