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2008.04.10

故ミッテラン大統領の「郊外89」と「グラン・パリ」構想を思い出した

前稿でラ・ヴィレットの改造計画にふれたとき、ミッテランの大パリ構想を思い出した。今回すこし補足する。

故ミッテラン大統領というと、《グラン・アルシュ》や《ルーブル・ピラミッド》などのいわゆるグラン・プロジェが有名で、社会党なのに建築の趣味は、新古典主義的な王様趣味という評判である。これらはパリ市内のプロジェクトである。

しかし彼は、パリをとりまく郊外を含めた大パリ構想をもっていて、建築家たちにスタディをさせ、一時期は大ムーブメントになっていた。こちらは社会主義者としての立場をより鮮明に出したものである。

ところで郊外。近年、郊外に居住している移民労働者二世=失業者たちが暴動を起こしたので、パリの郊外問題が日本にも知られるよになった。この問題は、基本的には、ナポレオン3世の時代に現行のパリ行政域が定まったことによる。政府は政策的に、ブルジョワのパリ市内/労働者が住む郊外、という構図を堅持してきた。パリを取り囲むコミューン(市町村)はおおむね革新政体である。さらに戦後の一時期、郊外に団地ができ、そこに中産階級がすむようになった。高度経済成長のおかげで豊かになった中産階級は、パリ市内に移住するか、戸建て住宅を求めて別の郊外に移っていった。すこしずつ団地の住民は交代していった。中産階級から、低所得者、さらには失業者などの社会的弱者たちへと。

1980年代、この郊外問題は顕在化し、ミテランは大々的にこの問題に取り組んだ最初の大統領となった。問題はあまりに深刻であった。近年の暴動が示すように、80年代の試みは問題をすべて解決はできなかった。しかしそのプロジェクトのいくつかは実現された。

ことのあらまし。

1982年~83年・建設局にあつまった建築家たちは、郊外について、建築家が創造的なイニシアティブをとれるように検討を定期的におこなった。

1983年6月26日。共和国大統領は郊外を視察。ロラン・カストロ(この人も左翼であった)が案内する。

1983年11月7日。大統領の要請により、総理大臣は、ロラン・カストロとミシェル・カンタル=デュパールに、委任状を送り、3項目からなるミッションを与える。
・郊外の整備についての検討と提案。
・市街発展(まちづくり)のための国民委員会からの諮問をうける。
・パリ周辺地区の長期的な整備計画となりうるものを検討(《ル・グラン・パリ》計画)。

1983年12月11日。建築家・都市計画課集会。ロラン・カストロとミシェル・カンタル=デュパールは同僚の専門家たちにこれらプロジェクトに「着手」することを呼びかける。

1984年2月29日。「郊外89」の73プロジェクトについての展覧会。大統領がオープニング。

1984年6月24日。「間省庁都市委員会」(都市について検討する省庁横断型の委員会)の設立。

1984年7月14日~8月4日。要塞の祝祭。

注:フランス好きの日本人にもあまり知られていないが、パリを取り巻くように、一定の間隔で、要塞が設置されている。場所はまさに郊外の市町村。城壁ではもはや首都防衛はできないようになって、要塞が建設された。19世紀初頭、いわゆるティエールの市壁がパリを防衛するために建設されたが、そのさらに外側に20カ所ほどの要塞が建設された。19世紀の戦争の時代にそなえてであった。しかし「防衛」とは、外国軍からとともに、国内の反乱軍からでもある。それはパリ=コミューンのときに赤裸々で悲劇的な真実となった。潜在的には、政府に反抗的な勢力を多くかくまっている郊外の自治体を監視するためであると、ぼくは推測している。下は地理学の文献から、要塞配置図を引用したもの。

Wefew

ミッテランの《グラン・パリ》計画では、これら要塞を結ぶような環状道路が構想された。郊外の自治体を監視するためであったかもしれないこれら要塞を、こんどは自治体どうしの連帯のために、活用するのである。

1984年7月26日。「郊外89」の第二回展覧会。220件のプロジェクトが展示された。

1984年9月。「郊外89」展覧会に展示されたもののうちのいくつかに補助金を出すことが、はじめて、「間省庁都市委員会」により決定される。

1984年9月~1985年10月。毎月「間省庁都市委員会」が開催された。

1985年10月24日。1985年最後のCIV=「間省庁都市委員会」。100プロジェクトに補助金が出された。

1985年12月5,6,7日。「カジノ・ダンジャン郊外会議」。220の市の市長たちが、彼らのプロジェクトを展示した。建築家、都市計画家たちはそれを説明。行政はその実現可能性を検討。法規の検討。住民との対話が必要なことの再認識。《グラン・パリ》計画についての図版など展示。この会議の議事録、それにともなってプロジェクト図録などが出版された。ぼくはたまたまそれを購入して、今も持っていた。

全体としては社会党大統領によるばらまき政策のような感じがしないでもない。しかし緒プロジェクトを一挙に公開し、相互検討をするなど、ショーアップされた補助金行政という面もある。

《グラン・パリ》プロジェクトでなにが目指されたかというと、パリ市内/郊外という分断されたふたつの世界の統合であり、また郊外の自治体という相互に分断されたコミューンの統合であった。

つまり前述の経緯があって、パリ市内は行政区画によって制度的に、環状高速道路によって空間的に、完全にその周囲から孤立している。これは1902年まで存続した入市税の負の遺産でもある。さらに郊外のコミューン(市町村)は、道路網、公共交通機関などによって、放射状の構造のなかで、パリとの連絡はとれている。しかしコミューンと、隣のコミューンをつなぐインフラはきわめて脆弱である。だからコミューンどうしの連帯は弱い。社会主義政権は、こうした支持基盤の社会的空間を改善しようとしたのであった。

だから《グラン・パリ》は、同心円状のインフラを整備しようとした。まず道路。それからトラム。下は、ポール・シュメトフ立案の、パリ郊外東北部のトラム計画である。この資料ではまだ「詩的プロジェクト」とされているが、しかしこれは実現された。

Tram_paris_nord

さらに郊外には、上述のように、パリ市を取り囲むように要塞が一定の間隔で建設されている。1984年7月14日~8月4日の要塞の祝祭では、そのうちのいくつかが公開され、祝祭が開かれた。パリを取り囲む要塞を、地理上の拠点として、郊外の一体性確保のために役立てようという理念がある。

プロジェクトは詳細に記述されていて、ここですべてを紹介する余裕はない。以上はほんのさわりである。しかし、都市ネットワークの充実、成長なき郊外の整備(成長ではなく「深化」)、ランドスケープの向上、産業施設の再利用など、先進的なアイディアがいっぱいであった。いっぽうで「連帯」などという80年代ですでに古くさいスローガンも掲げられた。レーガン、サッチャーの新保守政策が展開されていた時代だったのに。

ぼくの解釈では、父親的イメージを抱かせていたミッテラン大統領の、慈善あふれるプロジェクトであり、その意味では19世紀的でもあり、また政策としては典型的な大きな政府によるものであった。しかしこの時点ではいわゆる「ヨーロッパ統合」や「グローバル化」がまちづくりにどのような枠組みを与えるかは、そんなに議論されていなかったと思える。それより80年代初頭に法制度が整備された、地方分権の枠組みが意識されていたように記憶している。

数年前にパリのシャイオ宮で開催された遺産会議では、招待された地方の市長たちが、この「郊外89」を回顧していた。それなりに評価していたが、現在行うに価値のあるものとも考えていないことは明らかであった。

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