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2008.03.10

「事実の風景」について

ひきつづきケネス・クラーク『風景画論』の読書ノートです。今回は第二章「事実の風景」について。

キーワードは「光」「雲」「空間」である。しかし「空間」は透視図法との関連も示唆されながら、近景/遠景といったもののことにすぎないように思える。オランダ絵画の話しのなかでわかるように、クラークは「光」(と「影」)によって演出される「空」「雲」について語りたいのである。19世紀イギリスへの序曲とするためである。

だとすると「事実」は、空と雲について述べたかったクラークが、自然主義と事実主義という迂回をしたということだったのではないかと思いたくもなります。しかし「事実」とはなにか、はそれなりにいい設問です。クラークの論を紹介しつつ、ぼくなりに再解釈してまとめてみよう。

(1)小画面/大画面(p.55):目の前に広がる風景を描く風景画は小画面である。構成を工夫しさまざまなものを書き込んだ大画面の風景画は、たいがいアトリエで制作されたものである。ゆえにそれは現地/アトリエの対比である。現地では事実がそのまま見える。しかしアトリエでは、事実は再構成されるか、ねつ造される。

(2)理想/事実:歴史画も宗教画も、面前でおこったことの忠実な記録ではない。聖母マリアの慈愛あるれる表情を描いても、それは事実ではなく理想を描いているのである。それは事実でないからこそ重要視される。いっぽう事実そのものを描くのは、下等なこととされる。ゆえに風景画は蔑視されることもあった。これはイタリア・ルネサンス/北方ルネサンスの対比でもある

(3)理想主義/自然主義:前項の言い換えかもしれないが、クラークは自然主義にたびたび言及している。

(4)風景とはそもそも「事実」なのか?とぼくなりにかんがえると、歴史的には明らかで、風景とはまず目の前にはない、理想化された、空想されたものであった。だから風景=非現実、が歴史的出発点であった。近代になって人間は自然を征服してしまったところで、風景は現実のものとなった。のではないか?自然は芸術を模倣する、といわれるゆえんである。

(5)背景としての風景/単独としての風景:クラークは区別していないが、宗教画などの背景として描かれる風景と、まさに主人公として描かれる風景とは異なると思われる。私見では、風景とは遠景でしか描きようがない。では風景としての風景画は、近景がない、あるいは工夫して近景が空白、不在、虚無として描かれることになる。ぼくはそう考えるのが好きなのである。

ということでクラークは「事実の風景画」=「17世紀オランダ風景画」をこの章で説明しようとしている。そこにいたる前書きは30ページにもわたる。ペヴスナーもそうであるが、イギリス風の語りは個人的には嫌いである。語りに完全に身を委ねるとそれなりに心地よいが、批判的な距離を保とうとするととたんにイライラする。

いちおう読書レジメ風にだらだらと書いてみよう。

フーベルト・ファン・エイク《トリノ時祈書》(p.55)はきわめて小型の風景画であって、最初の近代風景画と呼べる。彼は「事物をみたす光の感覚を色彩でもっていかに見事に描出したか」を示す例であった。

ヤン・ファン・エイク《宰相ニコラ・ロランの聖母子》(下左)(p.60)には「前景から後景へと滑るように進んでいける感覚」が見られる。風景画とは「遠景」の発明であった。さらに《聖女バルバラ》(下中)には、異なる建物の習作が、組み合わされている。これは現実の風景を伝えようとする「地誌学的」なものではない。《ゲントの祭壇画》も(下右)。

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上左の《聖母子》であるが、近景は聖母子などテーマが描かれている。3連アーチ窓が、近景と遠景をしきるスクリーン。遠景はそれ単独で存在しうる風景画となっている。橋の欄干に向かって、こちらには背中を向けて、川か遠くかを眺める人物は、まったくの日常と解釈させていただきたいものだ。聖と世俗=日常がレイヤーをなして共存していると解釈したいのである。

「事実の風景画」が成り立つための条件 として「新しい空間感覚」が必要とされる。この感覚は、ヤン・ファン・エイクなどフランドル絵画にとってはあくまで経験的、まさに感覚的であった。これを科学的に理論化したのがフィレンツェの芸術家たちである。クラークは、ルカ・パチョーリ、アルベルティ(カメラ・オブスクラ)、ブルネレスキ(教会堂をつかった実験)らに言及しているがここでは割愛する。彼が強調するのは、ブルネレスキの方法論では「空」が描ききれなかったように、フィレンツェ的な「明確に科学的な透視図法は、自然主義的芸術のための基盤とはならない」ということである。

だからファン・エイクの「事実の風景」をさらに発展させたのは、フィレンツェではなく、ヴェネツィアであり、とりわけジョヴァンニ・ベリーニにおいてである。《聖フランチェスコ》(下左)ではその「遍満たる光」のもと、膨大な自然物が描写されながら、細部描写は統一的である。天からふりそそぐ陽光は、地上のすべてにあふれるのであり、「神はすべてのものに住み、すべては神のうちに在る」のである。さらに《牧場の聖母》(下右)では、肌寒い日のつかのまの微光が描かれている。

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しかしベリーニの風景画は発展しなかった。ローマのルネサンスでは、あくまで人間中心主義的な芸術観が支配的であって、風景はテーマとされなかった。ミケランジェロにとっては、フランドル人が発明した風景画は、芸術の名に値しない些末事であるばかりか、シンメトリーや比例を満たさない、有害なものでさえあった。

そうした偏見のなかでも傑出した画家として、クラークは、ヒエロニムス・ボス《マギの礼拝》(下左)、ヨアヒム・パティニール《ステュクス川を渡るカロン》(下中)、ブリューゲル《イカロスの墜落のある風景》(下右)らを挙げている。彼らはローマ的な理想主義とはまったくことなる自然主義的な画家たちである。とはいえ面前のランドスケープの写真的描写ということではない。さまざまな営みを展開する人間たちを、その無数の細部を、きわめて綿密に描ききる彼らは、17世紀オランダ風景画の前史なのであった。

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上の3葉は、左から右にいくほど、画題となったテーマの扱いがしだいに軽くなってゆく。

カロンはギリシア神話の登場得人物であり、死者の魂を冥府に運ぶのであるが、この絵ではそれは口実にすぎない。画家はむしろ空想的な風景を描きたいのである。

イカロス墜落の光景など、画中のだれも注目していない。付随的テーマが本来のテーマを凌駕してゆく一例だが、ぼくはこういうのもけっこう好きである。

クラークはやっと本題の「17世紀オランダ風景画」に言及する。その背景として3点。(1)社会学的には、ブルジョワ芸術、市民階級的芸術であって、彼らは理想主義的というより現実主義的であった。(2)自由な科学的精神がオランダでは残っていた。曰く「自然観察の時代」「レンズの時代」。(3)芸術がいわば通俗芸術化していた。

しかしクラークは「目に見えるままを表現することを好むネーデルラント人の古来からの性癖」(p.91)とあるように、民族的性格という視点はぬぐいがたくあったようだ。だから彼は、時間軸に沿って、ひとつの絵画形式がすこしずつ発展しているように記述しながら、根底では、オランダらしさのことを考えているのである。

オランダ風景画の例としては、レンブラント《風車》、ライスダール《アルンヘム近くの渡し舟》1561、フェルメール《デルフト遠望》1660-1661、らが挙げられている。クラークの関心の対象は、ブルネレスキが失敗した「空」であり、その空につねに微妙な表現をあたえつづける「光」であった。ここでコンスタブルの「光と影は決して静止せぬものと心得よ」が引用されている。オランダ風景画の核心であるとともに、クラークにとってオランダ絵画とイギリス風景画をつなぐ絆であった。フェルメールの《デルフト風景》では、空と雲を描こうとしたのにたいし、地上の建物たちは、それぞれ違う姿をもちながら、等価なものとして扱われている。光、影、空などが目的であって、地上のものは絵を描くための口実のようなものとなっている。

1650 1561 16601661

18世紀は風景画にとっていい時期ではなかった。絵画は科学ではなくトリックになり、カナレットなど例外のほかは、自然主義的絵画はきわめて困難となった。しかしながら、英国のロイヤル・アカデミーにおいて絵画教授フューリスが風景画の劣等性を述べているとき、コンスタブルはアカデミーの生徒であった、などとクラークは物語を演出するのであった。

以上です。

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コメント

光、空などを描くために描かれた建物や街というのは
とてもおもしろい話でした。
本来、背景にあるものが実は主題であり、
画面の大部分をしめる建物などは現象を描く付随的なものでしかない。
風景論も少し勉強してみようと思います。

投稿: マコ | 2008.03.11 17:31

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