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2008.03.17

建築家シンケルと景観

シンケル(Karl Friedrich Schinkel, 1781-1841)はプロイセンの建築家で、ドイツ建築史のなかの最大の巨星といっていいでしょう。ロマン主義の流れのなかで、古典主義を継承しながらも、ゴシック建築を再評価し、さらにランドスケープのなかで建築を群としてとらえ設計するという新しい展開に成功した建築家でした。

1794年にベルリンにうつり、そこで1798年に建築家ジリーとの運命的な出会いがあり、その弟子となった。下図はGilly, 《フレデリク大王のための記念碑》、ベルリン、1797。これは建築プロジェクト図ですが、雲の描き方などは風景画のつよい支配下にあることがわかります。新古典主義は、ときにはロマン主義的古典主義といわれるゆえんですが、つまり建築家はその内面、自分が訴えようとする偉容、偉大さ、超越性を、景観に託して表現しようとしているのです。

Gilly_monumento_to_friedrich_ii_in_

1803年にイタリア旅行に出発する。とくにミラノ大聖堂が気に入った。シチリアには1803-04年に滞在した。

とはいえ古代建築はすでに学習済みのものであって師ジリーにも、古代建築はすでに知っているので、古代建築を見学してもたいした効果はないと書いている。しかし、建築が自然のセッティングのなかで、ピクチャレスクな群としての造形を展開している様は驚きであった、と書いている。下左は古代ギリシアの景観を、下右は古代都市を描いたもの、下右は宿からローマ市、とくにサン・ピエトロ聖堂を描いたもの。

Photo 1805 Schinkel_view_in_rome_stpeters_1803

さらに「ゴシック建築は、スタイルは別物としても、ギリシア建築とは共通点だらけである」とも書いている。つまりランドスケープにしかるべき場所を占める建築、中世のゴシック建築、という彼の生涯を決定づける指向がすでにはっきりと意識されている。

1806年から舞台デザインの活動をはじめる。当時はディオラマ、パノラマと呼ばれていたものであった。とくに1815年にはモーツァルトの《魔笛》のためのデザインをしたのは有名。(下左は夜の女王の場面。下右はランス大聖堂の眺め。)

Schinkel_magic_flute_1815 Schinkel_rheims_cath_1818

シンケルは当初からプロイセン王室の御用達建築家であった。国民にも人気のあったルイーゼ王妃(1776-1810)は、彼に宮殿のインテリアを依頼したばかりか、公共事業局の局長に指名した。

王妃は不幸にも1810年に若くして亡くなる。その霊廟のためのデザインも、彼は提案した。彼がゲンツとともに設計した厳格なドリス式神殿にものはシャルロッテンホフに建設された。さらにゴシック様式の幻想的なものも設計した(下図)。同1810年、ベルリン・アカデミーの展覧会で展示された。

Schinkel

ところで前稿との関連で興味深いのは、この展覧会にはC.D.フリードリヒも絵画2葉を展示していたことである(cf. Watkin, 1987, p.87)。フリードリヒもシンケルもロマン主義運動のおおきなうねりのなかにあった。とはいえシンケルは巨匠画家の真似をしていたのではなかった。画家はゴシック建築の廃墟を描くことをこのんだが、建築家はそうではなかった。

下の4葉は左からそれぞれ芸術家の妻、木々に隠れたゴシック教会堂、 川辺の城、朝、を描いたものです。対象の正確な描写というより、観察者の内面を投影したその画風は、フリードリヒと同様、あきらかにロマン派のものです。しかしフリードリヒと若干異なるのは、肖像はこちらを向き(背中を向けられては肖像画にならないのですが)、木々はやさしい。しかし川辺の城では、光源が木の幹で隠されており、神=超越の存在がそれだけ強調されています。また最後の《朝》でも同様に光は扱われています。超越ゆえにそれに到達できない。しかしその超越と一対一のはっきりした関係が保たれている。

Schinkel_artists_wife_1810 Schinkel_gothic_church_behind_trees 1820 1813

シンケルはゴシックリバイバルの建築家であった。さらにそれはナショナリズム的な理念にもとづく復興であった。なぜならゴシックは「国民精神の発露」であり「人間を神や超越的な世界に結びつけていた顕著で目に見える記号」であった。そしてゴシックは「古代よりも優れた原理を備えている」のであった(cf. Watkin, 1987, p.90)。

シンケルの大聖堂は、都市生活の頂点であって、高台の上にそびえていなければならなかった。ゴシックは高邁な理念の表現であり、とくにプロイセンの文化的・政治的な立場の表明であった。

下左は、現実には市中にあるミラノ大聖堂を、海のみえる丘の上に置いた、舞台装置。様式はゴシックだが、ランドスケープとの関係は古代的といえます。下中は大聖堂の風景を描いたもの。いわゆる逆光で、隠れた光源から光はむこうから(つまり超越から)やってきます。塔は透かし彫りのように、半透明です。古典主義建築は、光を反射し、はっきりした輪郭を示します。しかし中世建築は、光を吸収し、光と一体化します。あたかも人間が神の教えと一体化するように。下右では、川辺の中世都市が描かれている。兵士たちが、大聖堂を目指している。その大聖堂は塔が一基未完成であり、旗がはためいている。これはプロシア、ドイツが近代国家としてこれから建設する途中にあり(フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ!』)、その完成のための国民的な情熱を注がねばならないことが主張されている。虹は、完成への希望の表現です。

Schinkel_theater_set_cathedrale_on_ 1814 Schinkel_medieval_city_on_a_river_1

1815年からベルリンの都市計画の担当者となる。新衛兵所、劇場、古代博物館などを建設した。ここでは古典主義を展開した。このプロシアの首都は、その厳格で清廉な性格を表さねばならなかった。下3葉はアルテス・ミュゼウム(古代博物館)です。景観との関連で、ギリシアのストア建築を再現したものが、描かれています。とくに下右は、列柱廊の階段から、都市景観を眺めたものです。19世紀のベルリンは、古代ギリシア都市の景観をまとうように設計されたのです。

1832 Schinkel_altes_museum_river Schinkel_altes_museum_colonnade

1820年から王室の依頼により、ポツダム郊外のシャルロッテンホフ宮殿の整備を進める。ここで彼は、ロマン主義的なゴシックでもなく、国家的偉容を体現すべきベルリンの厳格な古典主義でもなく、若い頃にイタリア旅行で驚嘆をもって眺めた、自然のなかで群としての建築がのびやかに展開してゆく様を、再現したのであった。

Photo_2 182940 

さらに晩年のプロジェクトでは、ランドスケープの意識がさらに強くなっています。下左図はオリアンダ城計画です。これはギリシア風です。下右は、ライン川沿いにある城の景観で、これはドイツ風というか中世風。しかしどちらも、ランドスケープのなかに展開してゆく建築が強調されています。

Photo_3 Schinkel_stolzenpels_rhine

シンケルが亡くなったときプロイセン国王はその葬儀を国葬扱いにし、毎年シンケル祭を開催しようとしたそうです。ベルリン中心部の公共建築を建設し、王宮を整備した彼は、まさに国家的建築家であった。しかし業績ゆえではなく、彼がドイツ的建築の心情そのものを形成したからであろうと思われます。

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