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2008.03.21

ウェルギリウス『牧歌』について

ウェルギリウス(Publius Vergilius Maro, B.C.70-B.C.19)はローマの詩人で、『牧歌』、『農耕詩』、『アエネイス』を書いて牧歌文学の原型となった。ランドスケープ史や庭園史のなかではかならず言及される作家である。

その邦訳が2004年に京大学術出版会の西洋古典叢書として出ていたことを知ったので、通販でとりよせて読んでみた。以前他の邦訳に目をとおしたことはあったが、途中で飽きてしまった。

今回あらためて気がついたのは、『牧歌』は十歌構成であるということだ。ちなみにウィトルウィウスの『建築書』も十書構成である。ふたつの古典にはなにか共通点があるのではないか、と気がついてがぜん興味がわいてきた。ようするに建築にからめないとはじまらない習性は直らないのである。懺悔。

まず、ウェルギリウスの『牧歌』は十歌が円環構造をなしている。第一歌の冒頭で、ウェルギリウスのことであるティテュルスが、森のなかの木陰で葦笛により森の歌を奏でるところから始まる。そして第十歌は、やはり森が舞台である。森のなかで愛する女性への思いを歌にして奏でるのであった。しかし森の木陰にいつづけることを体によくないと、家に戻ろうとするところで、終わる。その間さまざまな逸話が展開されるが、それらは森のなかで繰り広げられる豊かな回想と空想であるように思われる。

つぎに、ある危機意識が『牧歌』の根底にはある。京大出版会版の解説にあるように、帝制ローマの政策によって、ウェルギリウスはマントヴァ近郊の農地を没収されたことを背景として、「私たちは祖国を逃げ出すのだ」・・・という衝撃的な一句からはじまり、不敬な軍人すなわちアントニウスとオクタウィアヌスが戦勝の褒美として退役軍人に没収した農地を与えたことを暗に揶揄するように、不幸な市民について触れる。

『牧歌』のおおきな部分を占めているのが、ふたりの登場人物による歌や音楽の競い合いである。つまり田園は音楽と結びついている。田園は、大きな楽器でもある。

第四歌は特殊であり、クマエの予言どおり新しい時代、アポロの時代が始まることが語られている。この第四歌は、悲惨な現状を乗り越えるための勇気を与えるためにあるように感じられる。この新しい時代には、商品交換はなくなり、すべての大地からあらゆる物が生み出される。つまり都会の商品経済に従属しない、田園の自給自足の生活が示唆されている。

『牧歌』における歌や音楽の競い合いということに戻る。それはダプニスへの頌歌でもある。ヘルメスとニンフの息子で、牧人の理想とされる美男子であり、歌と音楽とにひときわすぐれていた。だからこの『牧歌』そのものがダプニス頌といえるのだが。

しかしこのダプニスは非業な若死にをした。彼についての歌は、挽歌でもあり、過去に想いをはせる歌でもある。つまり第四歌だけが未来を歌い、そのこととの対比において、挽歌が詠われるのである。

第八歌はクライマックスである。ダモンが歌う。牧神パーンの故郷アルカディアにある山脈であるマエナスルでは、松と牧人とパーンがいつも音楽を奏でていることを歌う。「始めよ、わが笛よ、私と一緒にマエナスルの歌を」。アルペシボエウスは死んだダプニスを蘇生させるためのまじないの歌を繰り返す。「町から家へと連れもどせ、私のまじないよ。ダプニスを連れもどせ」。田園のなかに歌と音楽をもたらしていた彼を回復せよというのである。それは田園そのものの回復を叫んでいる。

ダプニスを連れもどせ。

『牧歌』はある意味で喪失の歌であり、つよい批評精神にもとづいている。

同様なのがウィトルウィウス(Marcus Vitruvius Pollio, B.C.80/70-B.C.25)の『建築書』である(それを『建築十書』と呼ぶのは、古典を翻訳したフランスやイギリスの事情であった)。生没年からわかるようにウェルギリウスとウィトルウィウスはほぼ同時代人である。彼らが古典となった経緯も似ているのではないか。

『建築書』も円環構造をなしている。第一書では建築家が備えるべき資質が列挙された後、まず都市の城壁について触れられる。第二書では都市計画のような話題となり、以降、神殿と建築オーダー、バシリカなどの公共建築、建材・石材、日時計、揚水機、建設機械と展開し、最後は敵の攻撃から市壁とそれによる防御を巧妙にしくんだ建築家が賞賛される。彼は市民の自由を守ったことが、手短に言及される。つまり建築家たるものの解説を除けば、これは市壁にはじまり市壁におわる物語りであり、その中間にあるものは都市、建築、機械という段階をおった、その内部の叙述である。これは建築というディシプリンを機械的に分類したものではない。建築家が生身でかかわる緒断面のいきいきとした、まさに物語りなのである。そして彼が守るのは都市の市民の自由なのである。

音楽の重要性もやはり強調されている。劇場の音響効果のみならず、都市という小宇宙は天空の音楽に応答している。ルネサンスの新プラトン主義で復活したテーマである。

危機意識も同様である。オナイアンズやリクワートは、アウグストゥスがレンガのローマを大理石のローマに変えたあいだに、建築は奢侈に流れ、そののモラルは低下したが、その危機的状況のなかでモラルを強調したのが、ウィトルウィウスであるというように位置づけている。ウィトルウィウスの書はひからびた建築技術の百科全書的体系化ではなく、まさに現実が体系を失い、崩れ、流動化しているからこそ、それに歯止めをかけようとしたのであった。危機意識のもとづく体系化なのであった。

このように比較するとウェルギリウスとウィトルウィウスは、同時代人であるのみならず、その価値観や叙述の仕方においてよく似ているといえる。前者は田園を描き、後者は都市を描いた。そういう対比はあるが、似た精神をもっていたのではないか。それはローマが共和制から帝政に移行する時代のきしみであったといえよう。

21世紀初頭、そんなきしみはないのであろうか。

ダプニスを連れもどせ。

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