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2008.03.16

風景画家フリードリヒについて

ドイツの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich, 1774-1840)についてです。この稿も平戸プロジェクトの一環でして、ランドスケープ解釈の一助とするためです。絵画史を専門とするものではありません。

ロマン主義の風景画家である。略歴。13歳のとき、自分を助けようとした弟が溺死してしまう。これが一生のトラウマとなった。コペンハーゲン美術アカデミーに入学するが、ドレスデンに引っ越す。ベルリンの美術アカデミー、ドレスデンの美術アカデミーの会員であった。

クロード、プッサンらが理想的風景画を描いた古典主義画家であったとしたら、フリードリヒはロマン主義という範疇にはいります。

古典派は、ウェルギリウスなどの古代文学から題材を得て、風景を描きます。そこには人間の運命、悲しみ、偉大さ、徳、死、などが描かれますが、いちどテキストに描写されたものを絵画としております。ゆえに型にはまった感じがするし、既存のテキストにそって人物の立ち振る舞いが決められるという点では、演劇的にもなります。プッサンの絵もときには舞台の書き割り的に見えます。

いいかえるとあらかじめ立派なテキストがあって、個々の人間はそれをなぞるだけなので、どうも人間には自我や内面が薄いような気がします。もちろん人間だから心はあるのですが、芸術の創造にとってとくにそれらは必要とされないのです。

ロマン派は近代人の心性を反映しています。

ここで「近代」とは今から200年ほどまえに幕あけた新しい時代をさします。啓蒙主義、科学の発展、フランス革命などの大きな変化によって、王権やキリスト教社会は瓦解し、それに連動した伝統的諸価値は崩壊します。

ロマン派とは、この変化を「新しいものを獲得した」と考えるのではなく、ぎゃくに「なにかを(古き良きものを)喪失した」とする考え方、感じ方をさします。

近代人は矛盾しています。いっぽうで進歩や発展をあくまで追求しながら、他方では本来の自分は、心は、失われただの傷ついたなどと考え、喪失感にさいなまれ、そして失ったものを回復しようとします。

歴史的建造物の保存、今日の用語でいえば文化遺産の概念は、200年ほど前に、このロマン派的心性とともに誕生しました。「歴史的建造物」「遺産」そのものの歴史があるのですが、これらは政策、制度として自動的に動くようになっています。ですのでその文化的、哲学的なからくりは忘れられているといえます。

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それはともかく、アイネム『風景画家フリードリヒ』(高科書店、1991)を要約しつつ、ぼくなりにコメントさせていただきます。上左は《雪の中の巨人塚(ドルメン)》、上右は《リーゼンゲビルゲ山の朝》、山頂に十字架が見えます。荒涼たる自然です。古代的な親和的なランドスケープとはまったく違います。

ロマン主義ということですが、アイネムは、18世紀の啓蒙主義、文化の世俗化という危機を乗り越えて、ドイツ人は「自我」を「創造的な性の統一体として発見」したのであった、と指摘している。フリードリヒの風景画は、まさに彼の内面をそのまま描写しているのであり、風景はたんなる料理の素材にすぎないような感じがします。

主観性。風景はもはや客観的に与えられた単なる物質的なものではなく、主観的な体験の神秘的な反映となります。風景はたんなる観察の対象ではなく、感情の対象です。自然は、神が意味をあたえたり、それ自体に象徴的な意味をもつのみならず、人間の感情がそこに描かれたもの、になってきます。風景は、こうしてあらたに「人物芸術の代わりに宗教的表現の担い手」になります。フリードリヒは「芸術のたた一つの真実の源泉はわれわれの心である」(p.46)と主張します。

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上左の《山上の十字架 テッチェン祭壇画》ですが、ここにはキリストの苦痛は描かれていなく、観察者の心情を投影することが求められています。上右《森の中の猟兵》も、奥にひそむ不安を想像せよといわんばかりです。

宗教性。フリードリヒの風景画はすべて宗教画といえる。しかし伝統的な意味での宗教画ではない。伝統的な信仰は、共同体的であり、宗教画のアレゴリーや書き方は決まりがあった。しかし彼の信仰は、孤独なものであった。その絵画は、自然との孤独な対話(p.133)いがいのなにものでもなかった。トラウマ故に人間嫌いとなったが、反面、自然との親密な交流がなされた。

廃墟。教会の廃墟が描かれる。彼の描く廃墟は「無常」ではなく「明確な過去の象徴」である。つまり古い信仰をそのまま再確立しようというのではなかった。現存するゴシック聖堂が廃墟に変形して描かれた。

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ランドスケープの普遍性。特定のランドスケープを忠実に再現しようとはしなかった(p.123)。たとえばエルデナ修道院、近くにあったが、山の世界のなかに移している。上は左から《エルデナの廃墟》《雪の中の修道院の墓地》 《樫の森の修道院》です。同じ廃墟モチーフをいろんな風景のなかに描いています。風景は、目の前に展開する固有の具体的なものではなく、あらかじめ心のなかに描かれた、超越的、先験的、観念的、一般的なものなのです

人物は風景の「点景」ではなく「意味の担い手」である(p.97)。彼が描く人間は、特性をもった個々の人間ではなく、一般に人間的なものの代表であり、さらには被造物一般の代表である。ということは人間はかんぜんに自然の一部であり、その特別な立場を失っているのであり、木、岩、道具がその代理であってもよい。これはまさに「自我の中に世界への鍵を見出すというロマン派一般の謎」(p.100)なのである。シェリングの「世界霊魂」というものに近いという。

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上の左右は《海の月の出》《人生の諸段階》。これらでは人物も舟も、風景のなかでは等価であるような印象さえ受けます。

アイネムによれば、フリードリヒの絵画は彼のキリスト教的経験に根ざしている。被造物どうしの親密性、孤独であることの苦悩、おなじ内面を有しているという期待、自然との一体性、望郷の念、など。

垂直性。垂直的エレメントが支配的である。水平的エレメントは従属的。これなどは北欧/南欧、ゲルマン/ラテンという典型的な対比となっています。

エレメントの孤独。個々のものを独立させる。個々のものは独立的であり、画面全体の構築性とはつねに対立関係にあった。このエレメントはときには木であり、人間であり、岩であったりする。

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上はそれぞれ《日の出に立つ女性》《霧の海を眺めるさすらい人》《窓辺の婦人》です。これらからわかるように、まず遠近法が否定されています。それまでの風景画では遠景、中景、近景というレイヤーを考え、さらにはそれらが連続的につながるように、プッサンなら蛇行する小道を描いた。しかしフリードリヒは「非常な近さ」と「遙かな遠さ」という対比を描いた。これはルネサンス以来の遠近法を否定するものであった

さらに人物はつねに後ろ向きで描かれている。この人物は、無限や超越にむかってあこがれながら、しかし自分の肉体という有限性に囚われている

「理想の風景」の稿で、風景画とはようするに奥行き、距離、を描くことではないか、と書きました。古典主義的な芸術のなかでは、距離としっても、船出するアエネイス、アテネから墓地に運ばれる有徳のフォキオン、といったように、いくら遠くても到達できる距離であったのです。しかしロマン主義の描く距離とは、超越的なものです。つまり絶対的に到達できない類のものです。しかし近代人にとって、距離とは、絶対に到達できないからこそ意味をもつようです。無限を発見した18世紀啓蒙主義の帰結でしょうか。しかしよく考えてみれば、超越的な、絶対に到達不可能な距離、というのは現代人がイマジネーションをいだけないものとなっているようです。

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