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2008年3月の25件の記事

2008.03.31

平戸の年表

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平戸の略史
1191年。栄西、南宋から平戸島に帰着。平戸滞在中に禅宗を伝え、茶畑を作った。
1225年。松浦党の一族持(平戸松浦氏祖)、小値賀から平戸に移る。館山(松浦史料博物館裏山)に館を築く。
1550年。ポルトガル貿易船、平戸に入港。
1550年9月。フランシスコ・ザビエルが平戸で布教する。
1561年。宮ノ前事件。
1562年。大村領の横瀬浦が、ポルトガル船の貿易港となる。
1584年。スペイン貿易船が入港。
1587年(天正15年)。豊臣秀吉の九州征伐。松浦鎮信(しげのぶ)は、北松浦郡、壱岐を安堵される。
1600年(慶長5年)。関ヶ原の戦い。松浦氏は東軍。徳川家康より6万3000石の領地を安堵される。松浦藩の成立。
・第1大藩主は鎮信(しげのぶ、1549-1614:法印、平戸松浦市26代当主、平戸藩初代藩主として1587-1600)。久信(2代藩主、1600-102)。三代藩主は隆信(たかのぶ, 1592-1637、平戸藩第三代藩主1603-1637。)

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1609年。オランダ商館が設置。
1613年。イギリス商館が設置。(1623年閉鎖)
1615年。イギリス商館長リチャード・コックス、九州(日本本土)で初めてサツマイモを栽培する。(当時の沖縄にあった琉球王国では、1605年初めて栽培されたとされている)
1620年。三浦按針(ウィリアム・アダムス)、平戸で病没。
1637-1638年。島原の乱。
1639年。長崎出島からポルトガル人追放(布教、植民地化を阻止するため)。
1641年。オランダ商館、長崎の出島に移転。平戸での南蛮貿易の終わり。

1880年。猶興書院(猶興館高校の前身)、開設。

1977年4月4日。平戸大橋開通。平戸島と本土がつながる。

行政区域
1871年。廃藩置県で平戸藩が廃され平戸県となり、さらに長崎県へ併合される。
1889年4月1日。町村制度施行により、以下の各町村が発足。北松浦郡平戸町・平戸村・中野村・獅子村・紐差村・中津良村・津吉村・志々伎村・田平村・南田平村・生月村・大島村。
1925年4月1日。平戸町と平戸村が対等合併し、新町制による平戸町が発足。
1940年4月17日。生月村が町制施行。生月町となる。
1954年4月1日。田平村と南田平村が対等合併し町制施行。田平町が発足。
1955年1月1日。平戸町・中野村・獅子村・紐差村・中津良村・津吉村・志々伎村が対等合併して市制施行。平戸市が発足。
2005年10月1日。周辺の大島村・生月町・田平町と対等合併。新市名は平戸市。この結果、長崎県から村が消滅。

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松浦史料博物館
国の登録有形文化財。
江戸時代初期:平戸藩藩主・松浦家の館。
1893年。松浦詮(あきら)が「千歳閣」(謁見・応接の間)を建設。現在の史料陳列室。
1950年。松浦家当主陞、敷地と屋敷を平戸市に寄贈。
1950年10月:現資料館が開館。

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平戸城
松浦鎮信(法印)は豊臣秀吉の九州征伐に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵された。
1599年(慶長4年)。安土桃山時代末期。松浦鎮信(法印)が城を建設。
1607年(慶長12年)。完成間近にもかかわらず火を放ち城を破却。理由:江戸幕府からの嫌疑を免れるため(豊臣氏と親交が厚かった)。あるいは嗣子久信の死。
鎮信、「中の館」と呼ばれる居館を構え、平戸藩の藩庁を建設とする。1893年に松浦私邸が建設され、それが1950年に松浦史料博物館となった。
1702年(元禄15年)。鎮信(天祥・4代藩主)、築城を幕府に願い出る。
1703年(元禄16年)。築城、許可される(きわめて異例)。理由は、将軍家との姻戚関係。あるいは東シナ海警備の必要性。
山鹿素行の軍学に沿って縄張り。鎮信(天祥)は山鹿素行の弟子。素行と全国スタディをし、資料を収集、山鹿流軍学による縄張りがなされた。素行を平戸に迎えるという希望はかなわなかったが、素行の子、高基・義昌の兄弟が藩士として迎えられた。築城は義昌が指導した。
1704年(元禄17年)2月着工。5代藩主棟による。
1707年(宝永4年)完成。 天守はなし。二の丸に建てた3重3階の乾櫓が、その代用。
1871年(明治4年)。廃藩置県により廃城
1872年。建物解体。狸櫓、北虎口門(搦手門)、は残され、現存。
1962年(昭和37年)。模擬天守及び復興の見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓が建設。天守内は、松浦党などの資料館(国の重要文化財の環頭大刀(亀岡神社蔵)も展示)。現在の城跡には、亀岡神社境内、亀岡公園、市民グラウンドなどの施設がある。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(90番)に選定。
2007年(平成19年)6月~。全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始。

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聖フランシスコ・ザビエル記念教会
正式にはカトリック平戸教会。
平戸市・松浦市・北松浦郡地区における主管教会。
1931年(昭和6年)4月。現在の教会堂が建てられた。
1971年。献堂40周年。聖フランシスコ・ザビエル(日本に初めてキリスト教を伝え、平戸にも三度にわたって布教に訪れた)の像が建立。「聖サンフランシスコ・ザビエル記念教会(あるいは聖堂)」とも呼ばれるようになった。
2006年。献堂75周年。ルルドの泉が建設。
*「ルルドの泉」。ルルドとはフランスの町。スペイン国境に近いところにある。1858年に村に住む少女が、聖母マリアの出現を目撃した。それより奇跡の起こった村として、巡礼の対象となった。

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△2008年6月

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△2008年5月

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△2008年4月

2008/03/31  東方旅行(049)1988年1月17日(日)アンマン
2008/03/31  2008年の記事(メンテ用兼)
2008/03/30  「平戸プロジェクト」の考え方
2008/03/30  東方旅行(043-048)1988年1月11日(月)~16日(土)/カイロでの無為な日々
2008/03/29  カルロ・スカルパのこと(トレヴァー・ハウエルズ教授の講演にちなんで)
2008/03/28  東方旅行(042)1988年1月10日(日)ルクソール
2008/03/27  贈ることば/70年代か80年代か?
2008/03/23  「世界の終り」を生きること
2008/03/21  ウェルギリウス『牧歌』について
2008/03/17  建築家シンケルと景観
2008/03/16  風景画家フリードリヒについて
2008/03/15  「理想の風景」について
2008/03/10  「事実の風景」について
2008/03/09  「象徴としての風景」について

△2008年3月

2008/02/27  平戸とラ・ロシェル
2008/02/26  フランスの裁判所(4)レンヌの上座裁判所
2008/02/23  東方旅行(041)1988年1月9日(金)テーベにて(2)王家の谷
2008/02/18  フランスの裁判所(3)エクサン=プロヴァンス/上座裁判所ほか
2008/02/17  東方旅行(040)1988年1月8日(金)テーベにて(1)
2008/02/17  フランスの裁判所(2)Bordeaux
2008/02/16  フランスの裁判所
2008/02/13  東方旅行(039)1988年1月7日(木)アスワンからルクソールへ

△2008年2月

2008/01/18  長い冬休み

△2008年1月

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東方旅行(049)1988年1月17日(日)アンマン

アンマン。帝国、大国のパワーゲーム、難民、といった問題を抱えた・・・というより、そういた課題そのものがこの都市を築く力となった。RCのマッチ箱を単調に並べていったような景観がそれでもそれなりに美しく迫力をもって感じられるのは、そんな背景がにじみ出ているからだろうか。それはともかく。

朝、降雪。寒い。

内務省にて。イエルサレムにゆく許可証を申請。3日後に交付。

Jett Buss Officeにてペトラ行きのチケット購入。往復6JD。

アンマン考古学博物館。死海写本がある。

城砦。ローマ劇場と都市が見える。都市は谷間に形成されていて、平坦な場所はない。建物の敷地はつねに傾斜している。すばらしい眺め。

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ローマ劇場。アントニウス=ピウス帝が2世紀に建設したもの。傾斜は強い。傍らに古代k競技場のような広場があった。

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民族誌博物館。劇場の隣にあった。ヨルダン、ペトラ、ジェラシュ関連の文献や地図を購入。

両替。60$=20,220JDなり。

アンマンについては予備知識ゼロであった。なので後付学習で補おう。9000年前には定住がみられ、古エジプトの支配をうけていた。アンモン人たちがすむラバ、ラバトという名前で聖書にも登場する。ローマ帝国下ではキリスト教の司教座が設置された。ビザンチン時代を経て、イスラム教時代。しかしこの時代にはさびれた。

1887年、ロシア帝国において弾圧されていたチェルケス人が亡命してきた。1900年、オスマン帝国が鉄道敷設、その主要駅としてアンマンが選ばれ、繁栄がはじまった。1921年、イギリス支配下、政府がここに置かれる。1946年、トランスヨルダン王国が独立、アンマンはその首都となった。イスラエル独立により、多くのパレスチナ難民が押し寄せてきた。

ようするに移民でできた、新しい、きわめて人工的な都市である。

モスクは見なかった。しかし調べたところ、20世紀に建設された大規模なものがあるという。様式はオスマン朝のもの。当然というべきか。

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港市のデザイン/ランドスケープデザイン1

設計の実例です。

▼ヘルシンキの聖堂と港。教会の高いドーム。じつはちかくの港にとっては、よりランドマーク。港の景観要素としては、よくある。

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▼アルジェの港。海に面するファサード。パリのリヴォリ通りを模倣したものとされている。

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▼ホンコン(返還前)。高層オフィスと連絡船の、非媒介的接続。

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▼メコン・デルタ(ベトナム)。フランス人が建設した大運河。近代におけるランドスケープデザインとして、これ以上のものがあるだろうか。水上マーケットは庶民の生活。

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▼ブレスト市のパブリックアート。サン=ルイ教会。矩形のホールのような内部空間だが、どちらかというとゴシック的。ハイサイドライト、ステンドグラスがそれ。

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▼カブール Cabourg。ノルマンディ地方にあるリゾート都市。リゾートマンションから砂浜までが間近。

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▼ドヴィル Deauville。やはりノルマンディ地方にあるリゾート都市。ハーフチンバーの様式は、むしろ山地の様式であり、海に特有ではないが。

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▼Cancale;ブルターニュの村。牡蠣市場。

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▼Gruisson。南仏、地中海沿岸のリゾート地。しかし中産階級用?。映画《37.2 Le Matin》(ベティ・ブルース)の舞台にもなった。

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▼ロリアンLorientのノートル・ダム・ド・ヴィクトワール教会。ビザンチン様式を現代化したもの。なぜゴシック様式ではないか、は考察のためのいいテーマ。ポール・ルイ要塞。ここにはフランスの東インド会社の本拠があった。

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▼マルセイユ市。古い港はいまはヨットハーバー。丘の上のNotre=Dame de la Grande教会。丘上の教会と、港が、たがいに景観として見る/見られる関係に。

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▼パリのアンドレ・シトロエン公園。幾何学的なフランス式庭園と、壁で囲まれた中庭にような区画。住宅地との緑の連続性。市/国の行政の垣根を越えることで、公園はそのままセーヌ川まで連続している。

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▼サン=マロ市の港湾と都市。サン=ヴァンサン教会。教会内部の高窓。教会堂と都市空間の媒介性のなさ、直接的な隣接性。軒下を借りたような店舗。

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▼シカゴのダウンタウンと科学博物館。屋上のプール。人工の池に面する古代神殿風ファサードは、まさにクロードが描く、アルカディア的風景。

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▼ソーク・インスティチュート(ルイス・カーン)。中央の水路は、そのまま海にまで連続しているかのようである。

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▼ヴェネツィア、サン・ジョルジョ・マジョーレ教会。水/人間、広場/運河のより直接的な連続性。

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「平戸プロジェクト」の考え方

2008年度「ランドスケープ・プロジェクト」(演習)と「ランドスケープ論」(講義)の内容とスケジュールです。これら講義と演習をあわせて「平戸プロジェクト」と仮称します。

(1)スケジュール(■をクリック)
01 6月06日(金)集中講義
02 6月13日(金)平戸ツアー
03 6月20日(金)プロジェクトの提案など
04 6月27日(金)エスキス1
05 7月04日(金)エスキス2
06 7月11日(金)エスキス3
07 7月18日(金)クリティーク

(2)対象 九州大学・芸術工学部・環境設計学科・3年

(3)担当   常勤=片野、福島、土居
               非常勤=松岡、塩塚

(4)ランドスケープと歴史をどう理解するか

網野善彦は、70~80年代、都市史研究の深化のなかで中世都市論を展開し、百姓≠農民というまったく新しい説を述べた。日本の伝統的ランドスケープ=水田とその村落という通念はかならずしも普遍的ではなく、それは天下統一者の年貢至上主義的な、管理農業的な理念が反映されたものであったという。網野は、それとは対照的な、管理されざる自由空間を、堺、港町、市場、などに発見した。無縁・公界・楽であった。貿易、廻船産業が生む空間は、共同体と共同体の狭間に存在する、管理されざる自由空間であり、そこに大航海時代の世界性とそのシステムのなかでの日本の位置づけを物語る。

安野眞幸(あんの・まさき)はこの論をさらに発展させ「港市」論を展開した(国際貿易都市・平戸、自由都市・長崎)。港市=間共同体な空間という枠組みのなかで、さらに宗教はたんなる内面の救済にとどまるどころか、交易活動を推進するための教えとしてきわめて現実的に機能していった。

西和夫は、こうした海からの日本史という観点をいかして、「建築から海を見る」あるいは「海から建築を見る」という枠組みで、出雲大社、三内丸山遺跡、長崎出島、平戸オランダ商館などについて論考してきた。それは「海から見たランドスケープ」「海をみるランドスケープ」というおおきな枠組みを提供してくれる。

それゆえ:
「稲作=共同体内的ランドスケープ」(日本的ランドスケープ)は、伝統的に日本の為政者たちが必要としてきたイデオロギーであったといえる。それは必然的に農本主義的、村的、土着的、定住的である。
「港・港市=間共同体的ランドスケープ」(異国的ランドスケープ)は、それに対し、伝統的に日本の為政者たちが、経済的に必要としながら、宗教的、文化的、外交的、国防的につねに注意を払いつつ、コントロールしようとし、ときには破壊しようとしたものであった。それは交易的、都市的、グローバル、流動的、交通的である。

「教会のもたらすランドスケープ」が、後者のなかでは、その間共同体性をさらに強化してゆく。

(5)文化遺産としての建築をどうとらえるか?

現代の歴史的建造物、文化遺産の概念をつくったのはおもにフランスである。

古建築の保存(001)革命から王政復古まで----革命による建築破壊への反省。シャトーブリアンロマン主義の基礎を築いた。いわゆる文学的・ロマン主義的保存運動。

古建築の保存(002)七月王政----ヴィクトール・ユゴーの古建築擁護、古建築保存のための政府委員会、「目録」。

古建築の保存(003)修復家と博物館について----ヴィオレ=ル=デュクらの修復概念、様式概念が生まれた。「歴史的記念物建築家」の制度ができた。

*ヴィオレ=ル=デュクの重要性。伝統的建築を破壊して、近代建築が登場したという理解は一面的。古建築修復のためのスタディのなかから、普遍的建築の概念が形成され、近代建築の理論を提供した。保存運動が、近代建築を生んだともいえる。

古建築の保存(004)指定と登録について----保存の対象は、しだいに広がっていった。

「歴史的建造物」と「遺産」---「遺産」とは、建築、メディア、アーカイヴ、文献、埋蔵文化財などの上位概念、メタ概念である。「遺産法典」とは、従来のいくつかの法律を体系だてたもの。

建築をどう評価するか?

これまでは建築の、歴史的価値、文化的価値、芸術的価値を評価してきた。

これからは建築の建築的価値を評価できるようになるかもしれない。イタリア、フランスではずっとそう。英米では新傾向。

(6)プロジェクトへの展開

ランドスケープの歴史的変遷をふまえたうえで、平戸の文化財ストックをおさえたうえで、「文化施設」プロジェクトを構想し、考案する。しかしこの場合:

「施設」とは、具体的な建物のみを意味しない。それは文化を気づかせるあらゆる装置であり、それが都市や自然の空間のなかに配置される。だから建物、公園、都市空間、メディアも文化施設である。さらには町並みそのもの、景観そのものが、文化であるとどうじに、啓蒙する装置である今日、オブジェクト=メディア、という等号がなりたつ。

学生にはしかじかの課題、プロジェクトが与えられるのではない。各教員はそれぞれプロジェクトを提案するが、それはヒント、枠組みにすぎない。学生は、そうした導きの糸を参考にしてよいが、まず、いかなるプロジェクトが平戸に有効であり、文化的価値を高めるか、を提案しなければならない

(7)サイト  平戸。その周囲の教会建築と集落。

(8)細部
・課題=平戸を景観、都市史、建築史、文化財、まちづくりなどの観点から多角的に分析し、どのような建築的介入が景観や都市に有効かを考えさせ、設計させる。
・イメージ=教会堂を中心とする町並み、それをとりまく農地、丘、河川というのがヨーロッパの典型的ランドスケープのひとつ。その読解も確立している。また教会堂を中心とするまちづくりも例は多い。したがって教会建築を主エレメントとして景観が構成されている平戸は、よき教材を参照しつつプロジェクトを展開できる。
・課題文言「平戸の都市と景観をスタディするなかから、どの場所にどのように介入すべきかを提案し、それを建築として設計しなさい」(例)

(9)学生に提供できる観点、授業テーマなど
・西洋の景観概念「象徴としての景観」「理想としての景観」など
・教会堂を中心的要素とする西洋都市の景観(実際の都市、絵画に描かれた景観)
・教会堂と都市の空間的関係(ヨーロッパの諸例から、多様な関係が可能)
・教会建築の基礎知識
・日本の木造教会堂の構法的理解
・伝統的都市建築の構法的理解
・「長崎県の教会」世界遺産暫定リストのことなど
・文化的景観の概念
・都市史、町並み
・「海からの日本史」の観点から平戸が注目されてきたこと
・海からの景観
・今の都市平戸が抱える問題点。自治体の文化政策など。
・場所の発見。介入すべき場所を、学生に見つけさせる。教員は場所を指定しない。
・介入方法の発見。機能、プログラム、減築か新築か、など。学生が選んだほうがよい。

(10)提出物リストと注意

●提出の注意:

すべてPDFファイルとし、メール添付で提出してください。紙での提出は受け付けません。PDF化は情報基盤センターでできます。なお、「チェックリスト」にあるひな形をカット・アンド・ペーストし、カスタマイズすると便利で正確です。

PDFファイル

「メール件名」=「添付PDFファイル名」=「添付PDF内記載(レポートタイトルに追加して書く)」とし、下記の様式を厳守してください。
             学籍番号 氏名-日付(6桁)HRDP講義1(KW)
講義課題  1DS12345G塩原芸子-080606LSL1(クロード)
演習課題  1DS12345G塩原芸子-080606LPD1(クロード)

提出先(←クリック):片野、土居、福島に同時に同一物を提出。

非常勤の先生が参加されれば、これに非常勤講師のアドレスが追加されます。

●提出物チェックリスト:下記のファイル名(例)を、カットアンドペースト、編集して、それぞれメール件名、添付ファイル名にすることを推奨します。簡便、正確です。
□提出1:講義課題1,2,3、演習課題1,2,3。〆切6月11日(水)。
1DS12345G塩原芸子-080606LSL1-3(絵画・平戸略史)
1DS12345G塩原芸子-080606LPD1-3(KW●)

□提出2:講義課題4,5、演習課題4。〆切6月18日(水)。
1DS12345G塩原芸子-080613LSL4(海からの景観など)
1DS12345G塩原芸子-080613LPD4(平戸サーベイ)

□提出3:講義課題6、7。〆切6月25日(水)。
1DS12345G塩原芸子-080620LSL5-6-7(文化的景観・仏・香港・豪州)

□提出4:エスキス内容。演習課題5。〆切7月4日(金)。
1DS12345G塩原芸子-080627LPD5(地形模型)

□提出5:エスキス内容。演習課題6。〆切7月9日(水)。
1DS12345G塩原芸子-080704LPD6(エスキス2)

□提出6:エスキス内容。〆切7月16日(水)。
1DS12345G塩原芸子-080711LPD7(エスキス3)

□提出7:最終提出。〆8月11日(月)
1DS12345G塩原芸子-080718LPD8(プレゼン)

【注意】「演習の記録項目」等は、2号館6階・土居教員室ドアのメール入れに投函のこと。〆切8月11日(月)。

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平戸プロジェクト・第1週(集中講義)

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6月6日(金)9:00、2号館2階プレゼ室に集合してください。

・簡単なプレゼ制作道具(マーカー、定規など)、デジカメ、など持参。

09:00-:講義1「古典主義絵画・建築などにおける風景概念」(土居)
ランドスケープはまず古代においてウェルギリウス『牧歌』などの文学において記述された。そこにはかつての理想世界が失われたことが書かれていた(ウェルギリウス『農耕歌』)。絵画はそれを回復しようとした。ケネス・クラークの風景画論をベースにして、「象徴としての風景」、「事実としての風景」、「理想の風景」の考え方を学び、クロード・ロラン、ニコラ・プッサンといった風景画家の基本的な手法を知る。
参考文献:ケネス・クラーク『風景画論』、マラン『崇高なるプッサン』みすず書房2000;越宏一『風景画の出現』岩波書店2004;

講義課題1:授業の内容を、A4×1枚、2000字ていどにまとめてください。

演習課題1:古典主義的な風景画とおもわれるものをひとつ選び、内容、構図、思想などを分析してください。A3×1枚にまとめてプレゼしてください。*画家名、作品名、年代、キャプション(説明)、考察(KWなど)、学生証番号、氏名を明記のこと。

参考サイト:
ARTCYCLOPEDIA:            http://www.artcyclopedia.com/
WEB GALLERY OF ART:    http://www.wga.hu/index1.html
アート at ドリアン:            http://art.pro.tok2.com/
アートスケープ:              http://www.dnp.co.jp/artscape/

13:00-:講義2「ロマン派絵画・建築などにおける風景概念、景観のなかの教会」(土居)
風景画家フリードリヒのロマン主義たるゆえんを、思想、技法から理解する。さらに建築家シンケルがおなじロマン主義的構想から、風景画を描き、建築プロジェクトを構想したことを理解する。
参考文献:アイネム『風景画家フリードリヒ』高科書店1991;Snodin, KF Schinkel a universal man, 1991;Szambien, SCHINKEL, Hazan,1989など

講義課題2:授業の内容を、A4×1枚、2000字ていどにまとめてください

演習課題2:ロマン主義的な風景画とおもわれるものをひとつ選び、内容、構図、思想などを分析してください。A3×1枚にまとめてプレゼしてください。*画家名、作品名、年代、キャプション(説明)、考察(KWなど)、学生証番号、氏名を明記のこと。

参考サイト:上と同じ。

講義3「平戸の都市史、教会史」(土居)
平戸の都市史について理解する。まず政治・外交・行政、代表的建築のごく簡単な年表的理解をする。つぎに長崎県には教会が多いことから、教会建築に関する基礎知識と、イエスズ会がキリスト教を日本に布教しはじめ、パリ外国宣教会が長崎に教会堂を建設していった経緯(大浦天主堂とパリ外国宣教会宣教会について)を理解する。代表的研究として、川上秀人『大いなる遺産 長崎の教会』の概略を知る。
参考文献:西和夫『平戸の町並み』日本ナショナルトラスト2003;萩原博文『平戸オランダ商館』長崎新聞新書2003;『長崎県の歴史』山川出版社1998;『長崎県の歴史散歩』山川出版社2005;川口洋平『世界航路へ誘う港市長崎・平戸』(シリーズ「遺跡を学ぶ038」)新泉社2007、

講義課題3:授業の内容を、A4×1枚、2000字ていどにまとめてください。

演習課題3:次週の平戸ツアーのそなえて「マイガイド」を作成してください。マップ、目的となる建物・景観、簡単な年表、など。A4×数枚にまとめてください。下記期日までに提出すること。プリントし、次週ツアーに持参すること。*学生証番号、氏名を明記のこと。

提出:

〆切6月11日(水)。
提出先(←クリック):片野、土居、福島に同時に同一物を提出

●提出物チェックリスト:下記のファイル名(例)を、カットアンドペースト、編集して、それぞれメール件名、添付ファイル名にすることを推奨します。簡便、正確です。

□提出1:講義課題1,2,3、演習課題1,2,3。〆切6月11日(水)。
1DS12345G塩原芸子-080606LSL1-3(絵画・平戸略史)
1DS12345G塩原芸子-080606LPD1-3(KW●)

・講義課題1,2,3をまとめPDF×1ファイル。(1課題1ページ、各ページにタイトルと「1DS12345G塩原芸子-080606LSL1-3(絵画・平戸略史)」など。以下同様)
・演習課題1,2,3をまとめPDF×1ファイル。(計2ファイル)
・提出方法と提出先:PDFファイルを添付しメールする。片野、福島、土居まで。
・注意:メールの「件名」、添付ファイルの「ファイル名」を下記の書式で、統一してください。PC内で提出物を紛失しないためにたいへん重要です。次週以降も同様です。

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平戸プロジェクト・第2週(平戸ツアー)

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6月13日(金)8:30、大橋キャンパス正門に集合してください。

持参するもの:各自の「マイガイド」、デジカメ、画板、スケッチ・メモ用具、など。

■講義4「海・港・都市」(土居)

西和夫『海・建築・日本人』(NHKブックス2002)のなかの、平戸にかんする章を読んで、歴史的な経緯、海と都市との関係、を知る。

西和夫『平戸の町並み』(日本ナショナルトラスト2003)で、歴史的な町並みや海との関連を知る。

・町並みの特徴(瓦葺き、切妻屋根、平入り、揚げ戸、雨戸、出桁(だしげた)形式の庇、2階の手摺、バンコ(折り畳みの台)、など)

・町屋の間取りの特徴(通りニワ、ミセ、座敷、テンガイ(吹き抜け)、など)

・海の町(船入、藩主の乗船場、海に降りる階段、藩主別邸には船で、海を渡った教会(司祭は「カコー船」で移動、教会堂を船で移築)など)

・埋立て(築地町1796-1804年、旧船入、現公会堂、交流広場、など)

参考文献*網野善彦『無縁・公界・楽』平凡社1978;網野善彦・阿部謹也他『中世の風景(上)(下)』中公新書1981;網野善彦他『境界領域と交通(日本の社会史2)』岩波書店1987;網野善彦『日本中世都市の世界』ちくま学芸文庫2001;網野善彦『日本の歴史をよみなおす』ちくま学芸文庫2005;安野眞幸『港市論』日本エディタスクール1992;西和夫『海・建築・日本人』NHKブックス2002;西和夫『長崎出島オランダ異国事情』角川叢書2004;深沢克己『海港と文明近世フランスの港町』山川出版2002   

講義課題4:授業の内容(おもに西和夫『海・建築・日本人』)を、A4×1枚、2000字ていどにまとめて「提出」してください。

■講義5「文化財・景観にかんする長崎県・平戸市の政策」(福島)

「文化的景観」とか何か、その意味、定義を説明する。

文化的景観 参考資料
特集「文化的景観って何だ?」,『季刊まちづくり』11, 学芸出版社, 2006
「文化的景観の保護」, 『月刊文化財』500 号, 第一法規, 2005.05
http://homepage.mac.com/tomohiro_ichinose/changing/hirasawa.pdf
http://210.137.20.12/1hogo/bunkatekikeikan.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E7%9A%84%E6%99%AF%E8%A6%B3

500 字以上。引用箇所、出
典を明記すること。個人的意見を加えても構わない。

【参考資料】以下は土居が探した参考資料です。地元自治体の取り組みについてはここを参照してください。

長崎県・平戸市の景観まちづくりについての情報を、WEBなどから入手し、行政的・制度的な枠組みを理解し、課題のプロジェクトとの関連などを知る。

長崎県まちづくりの情報まちづくり

長崎県まちづくりの情報景観

長崎県・景観まちづくり室

同上>美しいまちづくりとは?
同上>長崎県美しいまちづくり推進条例について
同上>長崎県美しいまちづくり推進計画について
同上>長崎県美しいまちづくり審議会について
同上>美しいまちづくり重点支援地区について
同上>まちづくり景観資産について
同上>長崎県公共事業等デザイン評価制度について

長崎県美しいまちづくり推進条例(平成15年3月17日 長崎県条例第3号)

平戸市すすめていますまちづくり平戸オランダ商館復元計画>各論

  同上>平戸市総合計画>各論

・長崎県において教会堂が構成する景観が世界遺産の暫定リストに登録されました。

・平戸市は2008年3月に「景観行政団体」になりました。

講義課題5:詳細は20日の講義で指示します。(授業の内容を、A4×1枚、500字?以上にまとめて「提出」してください。)

■演習:11:00頃~16:00頃 現地サーベイ。見学。教会。オランダ商館跡。古い町並み。など。

平戸市内を歩きます。いろんな場所、景観、を体験し、観察します。できるだけ多くの写真をとり、その対象の歴史的、都市的、景観的な意味を考え、そこにどのような建築的介入が考えられるか、どのような文化施設を構想できるか、どのような景観を整備できるか、できるだけ多くのことを考えます。

唯一のことに絞り込むのではなく、多様な観点をもてるかどうかを評価します。

参考資料:平戸紀行(土居)

演習課題4:上のサーベイでの観察、考察をまとめ、「プレゼ」を準備し、「提出」してください。

なお「プレゼ」「提出」は、内容は同一であり、アウトプット形式が違うだけです。

「プレゼ」とはA3×2枚ほど。紙にプリント。20日に非常勤講師の先生と常勤教員にみせるためのもの。ですので、このプレゼ史料を、20日にかならず持参してください。

「提出」(下の提出2)とは、上とは別の、成績評価にかんするもの。PDF形式でA4×数枚を、前回と同様、メール添付で送ってください。

■提出2。〆切6月18日(水)。

・講義課題4,5をまとめPDF×1ファイル。

・演習課題4をまとめ、PDF×1ファイル。

提出先(←クリック):片野、土居、福島に同時に同一物を提出。

下記のファイル名(例)を、カットアンドペースト、編集して「メール件名」、「添付ファイル名」、「開いたファイルの冒頭タイトルの一部」、にしてください。

1DS12345G塩原芸子-080613LSL4-5(海・景観・平戸)
1DS12345G塩原芸子-080613LPD4(平戸サーベイ)

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平戸プロジェクト・第3週(プロジェクト提案など)

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6月20日(金) 9:00 2号館3階製図室に集合。

■9:00-:講義6「スライドレクチュア=香港・マカオの文化遺産とまちづくり(仮)」(福島)

下記の3パターンから、自分のものを選んで、レポートを作成し「提出」してください。

【1】演習・講義両方の履修者
6月20 日の福島の講義の概要をまとめる。A4 1 枚、2000 字程度。
演習履修者のみ

【2】13 日の現地見学、及びこれまでの講義で得た知見を基に、平戸の景観の歴史的・文
化的な価値を評価し、説明する。A4 1 枚、2000 字以上。
Tips
・ 平戸が現在有している「価値ある」景観とは具体的に何か?
・ 平戸の景観の中で、将来にわたって守るべき景観とは具体的に何か?
・ なぜそれら景観は価値があると言えるのか?

【3】講義のみの履修学生のみ
6 月20 日の福島の講義を聴き、任意の具体的な水辺景観の現状を分析し、その価値を評価する。同時に、景観的な問題点(景観阻害要因。政策の欠如でも構わない)を挙げる。評価対象は例えば、福岡市博多港、百地浜、門司港、長崎、平戸、唐津など、国内国外どこでも構わない。対象地の概要と共に、現在の景観的特徴を描写、その中に歴史的・文化的価値を見出すことが出来るか否か、景観阻害要因の有無などを説明すること。必要に応じて画像や図版を使うこと。A4 1 枚以上。2000 字以上。

文化的景観 参考資料
特集「文化的景観って何だ?」,『季刊まちづくり』11, 学芸出版社, 2006
「文化的景観の保護」, 『月刊文化財』500 号, 第一法規, 2005.05
http://homepage.mac.com/tomohiro_ichinose/changing/hirasawa.pdf
http://210.137.20.12/1hogo/bunkatekikeikan.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E7%9A%84%E6%99%AF%E8%A6%B3

講義課題6:授業の内容を、A4×1枚、2000字ていどにまとめてください。

■10:30-:講義7「スライドレクチュア=港市の例と、ランドスケープデザインの秀作」

臨海都市(+臨河都市?)において水と関連して生活がいかに展開したかを多くの画像で知る。またランドスケープデザインの秀作を見る。古代建築と現代建築の対比的、相互依存的、相互付加価値的な、傑作を知る。これらからコンセプトづくりのヒントを得る。
参考文献:

講義課題7:授業の内容を、A4×1枚、2000字ていどにまとめてください。

■13:00-15:00:サーベイ結果のプレゼと課題説明。松岡、塩塚、片野、福島、土居がそれぞれプロジェクトを提案。学生はそれらのなかから1課題を選ぶ。

複数プロジェクトを融合してもよい。また共同設計としてもよい。

下記のプロジェクトのために共同スタディとして、地形模型をつくること。40人は2班にわかれる。1班は現在の地形。もう1班は、200年前の、築地埋立以前の地形を再現する。〆切7月4日。

地形模型については、ブログ第4週の項を参考にしてください。参考資料となる図版も掲載しています。

松岡プロジェクト「不在の断面デザイン」

建物は失ったかもしれないが、その空地に現れた状況は、すでにこの土地の断面方向をデザインする可能性を秘めている。失ったことでその奥が垣間見え、事物が重層的に繋がっていく気配が見える。よく練られた断面が複数、ここの地形に編み込まれるとき、「これから」の平戸の空間体験を紡ぐことができるだろう。欠落、喪失、忘却がネガティブではない状況を断面でデザインする課題。

ドローイングや模型に加え、テクストを書いて欲しい。文字数は問わない。
そのテクストが聞き手のイマジネーションを触発し、その体験を共有し、または増幅していくようなテクストを。

今日朗読したのはイタロ・カルヴィーノの「見えない都市」である。

(文責松岡)

塩塚プロジェクト「地形のデザイン

まず、平戸の景観を地形にまで一度還元してください。そこで見い出された地形、その地形から「あり得たかもしれないもうひとつの平戸」の姿を構想しながら、地形をとらえた建築(構築物)を設計してください。それを現代の平戸の景観に批評的に介入させてください。湾を取り囲むような地形、海から丘にのぼってゆく斜面、地形的多様性を反映した、植生、空気、光の微少な差に注目して、それを反映する計画にしてください。

1)海から丘の上までの横断的な空間
2)松浦資料博物館の石積と白壁に代表される水平方向の空間
3)両方を組み合わせた空間
4)海に対する舞台背景のような丘陵地。その面的な展開。・・など。
(文責塩塚)

片野プロジェクト「地べたからのデザイン」

地上に立っているものだけでなく、地下には電線、下水などいろいろなものが内蔵されているし、歴史上の痕跡が残されているし、それが地表に表現されている。道路・歩道・広場などの舗装そのものがデザインである。この観点から出発して、なにを造るかを考える。(文責土居)

福島プロジェクト「コモンの観点からウォーターフロントを設計する」

かつて水辺空間は、緩い共有地的空間、或いは公共空間に近い私的空間であったが、近代には港湾施設など組織的な公共空間になり、また大都市では近年はふたたび組織的な私有空間への回帰が見られる。この歴史的な経緯と現代のライフスタイル、平戸の固有性をふまえ、平戸における新しい水辺空間の共有・利用、そしてそのユーザーは誰か、など、ソフトのデザインをしつつ、共有地的水辺空間を提案・デザインしてください。(文責福島)

土居プロジェクト「現代によって歴史を完結させる」

平戸に決定的に欠けているもの、それは「現代」です。日本の景観行政・文化財行政は「歴史」=「古さ」という誤った概念で成り立っています。しかし、常識的にも、現在を含まない歴史は、歴史ではない。平戸では、17世紀のオランダ商館、18世紀の城、19世紀後半の町屋、20世紀初頭の教会、があります。だからこれらの系譜に追加される、「現代」を代表する要素によって、歴史は完結します。この観点から、次のなかのひとつを選んで取り組んでください。

(1)海に面するファサード。これはいちども構想・構築されていない。「交流広場」は1990年代の「ウォーターフロント」のなごり。海外の類例の直輸入であり、市民のライフスタイルや都市の歴史性には関係のない、土木界の生き残り戦略のようなもの。海岸通りが建設されたとき、それに面する町並みはまったく構想されなかった。これは計画とデザインの空白域を構成しており、なんらかの介入の余地がある。もちろんそこに多くを建設せよということではなく、はっきりした指針を示す、ということである。

(2)市民文化センターの舞台の背後にある壁をぶちぬいて、平戸の景観そのものを舞台装置として取り込む。風景とはなにか?それは都市が都市を眺める、住民が自分たちが住んでいる町をあらためて眺める自己意識でもある。その見え方をデザインする。

(3)その他

補足コメント(5教員の過半数の共有理念)

・ダウンサイジングの整備となるであろう。

・廃墟のデザイン。空白のデザイン。などが考えられる。

・「活用」しなくともよい。充填しなくていい。

・人がたくさん集まって、賑わいがうまれないとよくない、「活性化」しなければならない、という昔の固定観念を払拭する。誰もいない、しかし幸福な空間、景観もありうる。

・以上のような、理念そのものを再デザインする、ということも考えてもらいたい。

●提出3:〆切6月25日(水)。

講義課題5、6、7をまとめPDF×1ファイル、片野、福島、土居にメール添付ファイルとして提出してください。

●提出4;〆切7月4日(水)→ブログ第4週の項にも書いています。

地形模型ふたつを制作して、見せてください。その地形模型に即して、自分のプロジェクトを提案してください。

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平戸プロジェクト・第4~5週(エスキスなど)

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■第4週 6月27日(金)

9:00-10:30 講演「土木の領域からの景観デザイン」 講師:高尾忠志先生(九州大学工学部学術研究員)524教室

*講演ですので、宿題・レポートはありません。

11:00~ 各自模型製作など。

■模型製作のための参考資料:

平戸史編委員会『絵図にみる平戸』2001、西和夫『平戸の町並み』日本ナショナルトラスト2003、より下記の画像を転写します。

Photo Photo_2

△平戸の編年史的航空写真です。埋立の進捗がわかります。海岸通りは戦前のもののようです。

1621 17 23

△(左)1621年平戸図:平戸オランダ商館が見える。(中)正保平戸城下図。「築地」が埋め立てられる以前。(右)平戸城下家中之図。部分。平戸城下町周辺。

Photo_3 Photo_4 Photo_5

△(左)嘉永元年平戸町屋之図(部分)。崎方。浦の町。宮の町。(中)同(部分)。新町など。(右)寛政四年平戸六町図(部分)。宮の町。本町。安富町。----地割が判明する図面。海岸通りはない。各戸が石垣を介して直接海に接している。これをどう解釈するか。土居としては・・・。共有される海岸はない。海辺空間そのものがなく、共有も、公有も、ない。各戸に船着きがあって、船を接岸できる。それはいわば勝手口。

Photo_6 Photo_7 Photo_8 Photo_9

△4点はいずれも亀岡と平戸年中行事絵巻から。左から。①幸橋周辺、②富江町周辺、③築屋敷周辺、④七郎宮祭礼。----接岸空間。石積み+白壁、で海に接している。

以上から海辺空間の歴史がうかがわれる。武家も町人も、海に対しては壁をもって接していた。もちろん各戸が船着きをもつなど、機能的には海を使い込んでいた。その意味で、共同体が共有しているのは、海そのものであった。海そのものが、共有であったが、水辺空間などというものは、そもそも存在していなかったし、共有もされていなかった。

現在あるウォーターフロントは、海岸通りが建設され、さらにフェリーターミナルができたことで、整備された、きわめて新しい、近代的な公共空間である。共同体的な背景がまったくないところに、海外の事例を踏襲したウォーターフロントが、唐突に建設された、というべきであろう。楽しい水辺の生活、賑わい、といったものが、ステレオタイプ化したイメージとなって、それが導きの糸となって公共施設が整備される。しかしそれを受け取る共同体は、かならずしもなじんでいないのである。

諸外国の先例から、にぎわう水辺空間という成功イメージがここにも導入される。しかしそれは共同体の実体とはなんの関係もない、異質なものであり、当然、遊離してしまう。

これは近代化として建設された広場空間が、いつまでたってもヨーロッパのようなヒューマンな広場とはならないことと、相似の現象であろう。

●提出4:地形模型の写真とコメント 〆切7月3日(水)。(*模型そのものは4日のエスキス時に、目の前において議論の土俵とします)

2班にわかれ、18世紀の地形、現在の地形、の模型をつくってきてください。

各自、2模型の写真をとってください。自分の問題意識からアングルを選択してください。各自のプロジェクトにつながるような、写真へのコメントを付記して、またプロジェクトの初期構想を描いたスケッチ・コメントを付記してくだっさい。

A4×2枚をPDF×1ファイルのまとめ、片野、福島、土居にメール添付ファイルとして提出してください。ファイルサイズ1MB以下であることを確認してください。

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■第5週/7月4(金)

地形模型と、各学生のプロジェクトを、対話的・対比的に検討させながら、発展させる。

10:00- 古写真・古図の解説(524教室)、全般的な指示

午後はエスキス

13:00- 松岡プロジェクトを選んだ学生

14:00- 塩塚プロジェクトを選んだ学生

15:00- 片野プロジェクトを選んだ学生

16:00- 福島プロジェクトを選んだ学生

17:00- 土居プロジェクトを選んだ学生

*上記は、関連性の強いプロジェクトが近くに並ぶように配列しています。複数プロジェクト融合型を提案する学生もいると思います。なるだけ他プロジェクトも見てください。

●提出5:〆切7月9日(水)。

今日のエスキス内容を反映したものを、PDF×1ファイルのまとめ、片野、福島、土居にメール添付ファイルとして提出してください。

(→「平戸プロジェクト」の考え方、に戻る)

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平戸プロジェクト・第6週(エスキスなど)

「平戸プロジェクト」の考え方に戻る)

■第6週/7月11日(金)

13:00-13:30 全般的な指示:2階プレゼ室(*全員集合のこと)

13:30-17:30 エスキス:2階プレゼ室(*場所変更に注意のこと)

*スケッチなど各自のプロジェクト原案をかならず持参のこと。口頭のみの説明は受け付けません。

●提出6:〆切7月16日(水)。今日のエスキス内容を反映したものを、PDF×1ファイルのまとめ、片野、福島、土居にメール添付ファイルとして提出してください。

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平戸プロジェクト・第7週(クリティーク)

7月18日(金)13:00-17:30:クリティーク(2号館2階プレゼ室)

準備するもの:

①図面:A1サイズパネルに適宜切り貼りのこと。着想を示すパース、アクソメ、地区平面など1枚(A2ていど)を、かならずそこに含むこと。

 適宜、模型などで補ってもよい。

②発表原稿。600字以内。コピーして5人の教員に渡すこと。発表は、この原稿をそのまま読み上げる。

当日:

12:00~13:00 パネル展示準備。13時の時点で、全員、2階プレゼ室に、自分のパネルを貼り終わっていること。展示準備については適宜、TAの指示に従ってください。

13:00~13:30 クリティーク(5教員)による、全体チェック。審査順位の検討。

13:30~17:30 ジュリイ(審査)

●提出7(最終提出)〆切8月11日(月)17:00: 

(1)上記のプレゼ、クリティークをふまえ、PDFファイルにまとめて、教員5名にメール添付により提出すること。

【注意】

・「演習の記録項目」等は、2号館6階・土居教員室ドアのメール入れに投函のこと。〆切8月11日(月)。

・最終プレゼ以前の提出物も、メール添付で提出してください。

(→「平戸プロジェクト」の考え方、に戻る)

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「環境設計E」(2008年度)について

★編集中

*「環境設計E」の時間割上の位置は、フレキシブルでありうるよう許可されています。他授業、非常勤講師などの事情により若干変則的になるので注意してください。

(1)対象 九州大学・芸術工学部・環境設計学科・4年

(2)担当
常勤=土居 Prof.Doi
非常勤=野口 Mr.Noguchi、萩原 Mr.Hagiwara、石田 Prof.Ishida

(3)基本コンセプト
メトロポリタン的環境における建築と空間の設計である。

Project for universal spatial schemes in metropolitan environments

>>>>>>スケジュール

4月の課題(野口+土居) April: Noguchi, Doi

5月の課題(萩原+土居) May: Hagiwara, Doi

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4月18日(金)

2号館3階・環境会議室に集合

13:00-: プレ課題1「空間図式の汎用性」(即日設計)の課題説明(ふつう学校、病院、オフィスなどいわゆるビルディングタイプはそれ固有のプランの型をもっていますが、ここでは思考の訓練として、ひとつのプランで複数の機能を満たし、複数のビルディングタイプを可能とするようなスペースの型を考案する訓練をします。)

Pre-project 1, Universal spatial scheme, or 1 topology for 3 building types, or topological thinking of space(One day project). Each building type has its proper plan(s) that has been determined historically or institutionally. Since it was not given by God, it can be modified, changed and manipulated. Students are asked to create a plan that will be suitable to three different functions or building types after having analysed some previous architectural works.

17:00-: プレ課題1「空間図式の汎用性」チェック

Discussions about students' works on the pre-project 1.

プレ課題2「40mキューブの発見」の課題説明

福岡市内に、40メートル・キューブを挿入し、それを多機能な複合建築とできるような場所を選んでくること。現地写真、地図上のプロット、場所の特性などをまとめ、PDFファイルとしてまとめること。

Pre-project 2. <Finding 40m cube in Fukuoka>. This is a prepararive work for the Noguchi project of the next week. Students are asked to find a site where they can set their own 40m cubes. Each student is expected to determine his own criteria in terms of society, neighbourhood, economy, zoning, functions, local character of the site by which he can propose his multi-missioned architectural cube.

■提出1:「プレ課題1」と「プレ課題2」のスタディをひとつのPDFファイルにまとめ、野口講師、土居にメール添付で送ること。〆切4月23日(水)18:00

To submit: e-mail with the PDF file of the pre-project 1 and the pre-project 2 to Pr.Noguchi and Doi.

Deadline: 18:00 23rd April

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4月25日(金)~26日(土)

一泊二日演習(野口+土居)  

25日 於:2号館3階・環境会議室
13:00-: プレ課題1・2学生発表
14:20-:本課題1「都市建築の複合性(仮)」出題(野口、土居)
14:50-: 野口先生スライドレクチュア(Slide lecture by Prof. Noguci) *対象=4年生・大学院生
16:40-: 学生各自作業 personal work

26日 於:2号館2階・プレゼ室
13:00-: 本課題1クリティーク(野口、土居)

■提出2:「本課題1」をPDFファイルにまとめ、野口講師、土居にメール添付で送ること。〆切4月30日(水)18:00

To submit: e-mail with the PDF file of the project 2 to Pr.Noguchi and Doi.

Deadline: 18:00 30th April

17:00?-:プレ課題3出題(土居)

■提出3:「プレ課題3」のスタディをPDFファイルにまとめ、萩原講師、土居にメール添付で送ること。〆切5月15日(木)18:00

To submit: e-mail with the PDF file of the pre-project 3 to Profs.Hagiwara and Doi.

Deadline: 18:00 15th May

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5月17日(土) 萩原先生集中講義 

於:2号館2階・プレゼ室

13:00-: プレ課題3クリティーク(萩原、土居)
15:30-: 萩原先生スライドレクチュア  *対象=4年生・大学院生
17:30-:課題説明

(1)5月課題のテーマ「高密度都市における新たな空間図式」の説明

(2)プレ課題4の説明

(3)本課題2「福岡の高密度環境プロジェクト」出題

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5月23日(金) 学生各自作業

To submit: e-mail with the PDF file of the pre-project 4 to Profs.Hagiwara and Doi.

Deadline: 25th May

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6月1日(日) 最終プレゼとクリティーク

於:2号館2階・プレゼ室

授業で指示したように、図面、模型をもってきてプレゼしてください。

1日13:00-: 「プレ課題4」と「本課題2」のクリティーク(萩原、土居)

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■提出4:「プレ課題4」と「本課題2」

〆切:6月6日(金)

提出先:萩原講師、土居にメール添付で送ること。

提出物:6月1日でおこなったプレゼ(プレ課題4+本課題2)の内容をPDFとし、メールに添付すること。

To submit: e-mail with the PDF file of the project 2 to Profs.Hagiwara and Doi.

Deadline: 18:00 6th June

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提出物チェックリスト

■提出1:「プレ課題1」「プレ課題2」。野口、土居に。〆4月23日(水)18:00
■提出2:「本課題1」。野口、土居に、〆4月30日(水)18:00
■提出3:「プレ課題3」。萩原、土居に。〆5月15日(木)18:00
■提出4:「プレ課題4」「本課題2」。萩原、土居に。〆6月6日(金)

★提出の注意:メール添付で:(PDFかWORDか)
e-mail title = PDF file nameとしてください。

1DS12345G塩原芸子-080601AE・プレ課題1
1DS12345G塩原芸子-080607AE・プレ課題2
1DS12345G塩原芸子-080614AE・本課題1

「学籍番号」「氏名」(「日付」「AE=Atelier E」・「授業キーワード」)

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■6月・7月の課題(石田壽一+土居義岳、など)
*詳細はおって石田先生からお知らせします。

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港市のデザイン/ランドスケープデザイン2

ランドスケープデザインの秀作

▼Peter Walker, Toyota Municipal Museum, 1992

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*Peter Walker, 1932-, ランドスケープアーキテクト。ハーバード大学教授。Sasaki HideoとSasaki Walker Associatesを1972年に設立。シンガポール港湾プロジェクト、WTCメモリアルなど。日本でも活躍。丸亀駅前広場、IBM幕張ビル、豊田市美術館、播磨科学公園都市センター、さいたま新都心けやきひろば、など。

▼Robert Smithson, Spiral Jelly, 1970公式WEBサイトサイト

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SPIRAL JETTY

Floating Island to Travel Around Manhattan Island

*Robert Smithson(1938-1973、アメリカ);「ランドアート」「アースワーク」の分野を確立。

Robert Smithson, Frederick Law Olmsted and the Dialectical Landscape, 1973においてオルムステッドのセントラルパーク(NY)は、弁証法、都市との対話を欠いた、古い「ピクチャレスク」であるとして批判。

「サイト・スペシフィック」(場所固有)、人間の介入、デフォルメ。田園、崇高といった18世紀美学に回帰するのではなく、反美学的、反形式主義の流れを確立した。つまり矛盾を隠すのではなく、矛盾を露出させる。

siteとnon-siteの概念。特定の場所を占めるものと、どこでも置けるもの。

▼Walter De Maria, Lightning Field, 1971

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*Walter De Maria, 1935-,アメリカのアーティスト。ミニマル・アート、センセプチュアル・アート、 ランド・アート。大地と宇宙の関係を思索させる《ライティング・フィールド》など。

▼Christo and Jeanne-Claude, Sarrounded Islands, 1980, Wrapped Coast, 1968

公式WEBサイト

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Christo, 1935-, and Jeanne-Claude, 1935-:「梱包」をコンセプトにするアーティスト。

Michael Meizer, 8 of nine Nevada Depressions

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Nancy Holt, Sun Tunnels, 1973

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Ando Tadao, Chirden Museum 1989

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Dani Karavan, Cergy Pontoise、Passage 1990 →公式WEBサイト

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Daniel Buren →WEBサイト

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Emilio Anbasz, Residence au lac

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Ian Hamilton Finlay

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Jefferson Memorial, Washington DC

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Korean War Veterans Memorial

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Maya Linn, Vietnam Veterans Memorial

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2007/07/12  Martine Liotard, Le Havre 1930-2006, Picard, 2007----フランス20世紀の都市計画の古典性"
2007/07/11  Magali Vene,"Bibliographia serliana",Picard,2007----セルリオは建築書の出版をとおしてなにを探求したのか?;
2007/07/11  Nasrine Seraji,"Logement,Matiere de nos villes", Picard, 2007----ヨーロッパのハウジングを読み解くための枠組み
2007/07/11 ポルツァンパルクはラ・ヴィレットの国立音楽院をめぐって国に賠償することに
2007/07/08  1996年10月7日「箱の家」を訪問する
2007/07/08  1988年2月ごろのトルコ奥地
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2007/06/29  近代建築におけるスイミングプールの位置づけ
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2007/06/28  metroを読んでParis
*2007年6月28日ブログ開設 

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2008.03.30

東方旅行(043-048)1988年1月11日(月)~16日(土)/カイロでの無為な日々

カイロで無為な日々をすごした。

1988年1月11日(月)(東方旅行043)

夜行列車は正午にカイロ到着。日本大使館を探したが見つからず。旅行案内、郵便局、市役所、市内地図などはまったく役にたたず。宿泊はHotel Beau Site。ツインの部屋を独り占め。朝食付きで7£。

1988年1月12日(火)(東方旅行044)

日本大使館はカイロ・センター・ビルの3階にあることが判明した。住所、電話番号を調べる。旅行代理店Misr Travelに所用。日本航空オフィスはナイル・ヒルトン・ホテルにあった。ヨルダン大使館にでむいて問い合わせる。ヴィザには日本大使館の紹介状と、証明写真2点が必要とのこと。なのでつぎに日本大使館にでむいて、紹介状の申請などをする。支給されるのは13日の9時以降である。

アメックスのオフィスに送ったはずの郵便物をとりにゆくが、到着していなかった。

しかたがないのでエジプト博物館を見学。入場料1.5£、写真撮影許可料5£、ガイド4£。うっとうしくなるほどのコレクションの豊穣さ。ピラミッドの模型。

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情報収集。カイロから、シナイ半島陸路で、Ste.Cathrine経由でヨルダンにゆくルートを調べる。カイロからシナイ半島先端のリゾート都市シャルム・エル・シェイクまで8時間。そこから修道院まで片道6時間。ヌエバまで3時間。そこから船でヨルダン領アカバにゆく。また連絡船経由でのカイロ/アンマン往復バスは1日2便あるという。

1988年1月13日(水)(東方旅行045)

朝一でヨルダン大使館。日本大使館に発行してもらった紹介状を添付して、9時30分に申請書を受理してもらう。当日13時に発行してもらう。きわめて順調。

郵便物を投函。

Misr Travelにいってアンマンまでのバスを調べる。ミニバス33番でオペラ広場からアベセ広場へ。そこにSinai Internationalという代理店があって、そこに問い合わせた。しかしアンマン行きのバスは、ヘリオポリスのイスマリア広場に移ったという。そこで新しいオフィスまでの行き方をごていねいに書いてもらった。メトロを乗り継いで、その新しいバスステーションにいくと・・・・「アンマン行きは2月2日まで満席ですよ」。まあアラブ式交渉術を展開してもよかったのだが、このときのぼくは疲れすぎていた。

そこで結局、ナイル・ヒルトン・ホテルに戻って、エジプト航空のチケットを求めた。明日でも出発したかったが、すでに満席。最短の16日(土)15時の便を予約した。片道120£=60US$=8000円ていどであった。

1988年1月14日(木)(東方旅行046)

航空券を確保すると、もう気分はヨルダン。エジプトに用はない。すると疲れがどっとおしよせる。一日中休息。こなした用事はたたひとつ。エクタクローム(ASA200、36枚どり)を10本購入した。115£であった。1本あたり5US$=600円ていどと安い。

1988年1月15日(金)(東方旅行047)

一日中休息。

1988年1月16日(土)(東方旅行048)カイロからアンマンへ

バンク・オブ・アメリカは閉行であった。場所は忘れたが40米$を現地通貨に、ドルのTCを現金に両替した。もういちどエクタクローム(ASA200、36枚どり)を10本購入した。さらにおみやげのエジプトのカラースライドも購入。

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観光当局は近代化したカイロを見せたいのであった。

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でも崩れかけた建物、現代用語でいえば遺産クラスの建物が崩れているそばでたくましく生きる人びと。偽善より素直な真実のほうがいいねえ。

カイロ空港にて、「ホテルは見つかった?」「これからアンマンにゆくんだけど」「ああ!いってきな!」。荒涼たるシナイ半島を上空から見学。15分ていどですます降下は乱暴で、なんども腰が浮いた。

着陸。空港で両替。60US$=20,190JD。ということは1JD=3$。バスで空港からバスターミナル。そこからさらにタクシーでホテルへ。「ホテル・イラク」。ツインを一人占め。シャワー、暖房完備。すばらしい。一泊2500JD=1000円ていど。部屋はカイロにくらべるととてもきれい。気温はたいへん低い。ホテルのおやじが石油ストーブをもってきてくれる。

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2008.03.29

カルロ・スカルパのこと(トレヴァー・ハウエルズ教授の講演にちなんで)

トレヴァー・ハウエルズ教授というシドニー大学の先生がきて、建築保存についてのミニ講演会をしていただいた。先週のことである。春休みなので動員はあきらめていて、学生も数人であったが、かえってアットホームなゼミのような講演となった。

内容はまったく学生むけのもので、シドニーのいわゆる「アダプティブ・リユース」の概念と例に触れ、さらにパリ(ルーヴル、オルセ)、ローマ、ヴェローナ、イスタンブール、ロンドン(テイト・モダン)の保存再生の例を見せるというものであった。「学生むけのパワポをもっていただけなんだ」ということであった。しかしプレゼの最後が、ヴェローナのカステルヴェッキオ博物館すなわちカルロ・スカルパであったことがぼくの興味をひいた。

スカルパはヴェネツィアの建築家であり、不遇の時代もあったが、70年代になると国際的に有名になった。私見によれば、時代の後押しがあった。つまり近代建築批判、伝統回帰、古建築と町並み保存の黎明期にあって、イタリアの伝統を身体にしみこましながら、伝統的な都市空間のなかで、その文脈を踏襲しつつ、伝統的でもあり個人的でもあるすばらしい造形を展開した。世界がイタリア芸術を忘れつつあったなかで、それを思い出させた。

サンテリーアやテラーニなど合理主義者はやはりミラノ、ローマなどの生粋の古典主義のフレームワークにおさまっている印象である。またスーパースタディオなどのフィレンツェのラディカルたちは、ブルネレスキ流のいわゆるテクノニヒリズムの系統であろう。

それらとの対比においてスカルパはやはりヴェネツィア的なのだ。つまり建築的には中世という最盛期がすぎ、商業的にはルネサンスにおけるピークがすぎ、18世紀以降ははっきりと衰退が顕著になった、澱みつつ蓄積しながらも屈折してゆく、異質なものを受け入れつつつねに自己回帰してゆく、そういうヴェネツィアなのである。

ぼくの恩師である故I先生はスカルパを絶賛していた。そんなこともあって彼は弟子のJ大先輩をイタリアに送り込んだということになっている。そしてそれが日本における保存運動のひとつの流れとなった。だからスカルパは日本の70年代をも象徴している。

おそらく同じ時期に、オーストラリア人であるハウエルズ教授もまた、スカルパに関心をもったのであろうことは容易に想像できる。もっとも70年代においてスカルパはもはや個人的嗜好の対象ではなく、普遍的な大きなうねりを世界にもたらされていたのであるが。

講演のあと、ぼくはハウエルズ教授に2~3質問した。

まずなぜ最後にカルロ・スカルパかという問いには、スカルパは修復家ではなくすばらしい建築家だから、という答え。これが今の学生にはもっとも理解しにくいであろう。今世の中では文化財保存だの世界遺産だのわかりやすいポリティカル・コレクトネスが用意されているので、なにが本物で、本物はなにゆえに良いのか、という本質論を自問するということがしだいに忘れられてゆく。しかしハウエルズ教授がスカルパを最後の〆にもってくるそのメッセージ性を受け取らねば、おじさんになったぼくと、若い学生との距離は無限大になってしまうのである。

つぎにヨーロッパ諸国や日本では、古建築の保存の歴史的なプロセスにおいて、「フランス建築」や「日本建築」という概念が確立していったのであり、日本では1930年代に「日本建築」が確立したとぼくは思っているが、そのような意味での「オーストラリア建築」はあるか、という(すこし意地の悪い)質問もした。オーストラリアは6州がバラバラで、また白人ばかりでなくアジア・中国からも移民が多い(だからひとつのナショナルな文化は生まれにくい)、という返答であった。

オーストラリア建築の状況はSD誌のバックナンバーでも簡潔にして要を得た紹介がなされているし、ヨーロッパへの劣等感が根底にあることも想像の範囲内であった。でもぎゃくに日本式にいえば、保存といっても近代建築の保存しかない。そしてそこでは、日本にように50年経過しなければ保存の対象として考察されることもない、また保存の専門家でありながら(あるがゆえに)現代建築がわからない、だから建築的価値そのものがわからない、といったことではない。

スカルパは近代建築をくわしく学習していた。彼はライトを模倣していたつもりであり、ル・コルビュジエもとうぜん知っていた。フィリップ・デュボイがマクミラン建築家百科で指摘しているように、パリのピカソ美術館が遺作なのだが(実施は別の建築家)、そのプロジェクトでル・コルビュジエの建築プロムナードを応用しようとした。

スカルパについては熱狂的な愛好者が多くいるし、文献における解説も少なくはない。なのでとくにオリジナルでもない説明をしておこう。

良くも悪くもヴェネツィアの建築家なのだ。またムラーノ島でガラス職人の訓練をつんでいた時期もあるなど、職人的建築家でもある。小空間、素材、光、すべてが身体的に把握されている。彼がヴェネツィアという濃厚なテキストのなかで体験した、都市空間、建築空間、絵画、彫刻、などが身体にしみこみ、そしてかれのスケッチのなかで蘇生する。

そういう意味では中世のゴシック都市を理想化したラスキンの『ヴェネツィアの石』のもうひとつの解釈であり具現化であるとするのは飛躍だろうか。

ヴェローナのカステルヴェッキオ博物館。既存の800年代に建設された城に、ナポレオン時代の増築がなされた。城郭であり、作りは簡素で、おおざっぱである。そこにスカルパは介入し、小さなスケールの要素を混在させた。空間は分節化され、マテリアルにより意味は重層的に追加され、光による細やかな演出がなされる。それはヴェローナにあるおおざっぱな前身建物のなかで、ヴェネツィア的な空間を展開して、まったく別のものにしてしまうか、あるいは空間を入れ子の二重構造にしてしまうことであった。写真は、自慢ではないが(といいつつ自慢しているが)、25年前の拙写である。

空中に浮遊する騎馬像はむしろ背後の石とレンガの壁を際立たせているように思える。光は、明/暗ではなく、暗/明/暗のコントラストをもたらし、そのことによって空間を分節する。

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ヴェネツィア建築大学の門。新しい門に場所を譲った古い門は、前庭のなかに水平に置かれ、それが枠となって池とされる。ぼくが訪れたときはたまたま水がなかったが。それは基本的にはひとつのエディクラである。そのエディクラ、それを構成するモールディングのなかを、スカルパは彼自身の繰型によって埋め尽くす。彼特有のギザギザ断面のものだ。これにより壁体を軽やかにし、リズムをつける。ミケランジェロが独特のスタイルにより奇妙なエディクアを創作しながら、しかしローマ的な古典主義の枠のなかに収まっていたように感じられるのとは異なり、スカルパの繰型は、しいていえば彼が吸収しようとしたモダンなのであろう。それをライトの影響といえば平板である。そうではなくスカルパがその身体性においてとらえようとしたなにかである。

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それにしてもスカルパは日本を旅行中、1976年、仙台で客死したのだ。

病気があって、事故に見せかけた自殺であったという憶測もある。磯崎新は旅先における死ということで彼を松尾芭蕉に喩えたりもした。ハウエルズ教授はスカルパの客死をしらないはずはない。日本での講演をスカルパでしめるということは、そういう意味でも、とても象徴的なことなのだ。

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2008.03.28

東方旅行(042)1988年1月10日(日)ルクソール

今日は日曜日である。前稿では金曜日と書いたから辻褄があわない。要訂正。

それはともかく20年前の日曜日、ルクソールは快晴であった。いっぽうぼくは疲労困憊していた。じんましんがでて、お腹の調子も悪かった。ナイルは静かに流れ、おおくの観光客を運んでいた。ほとんどが外国人である観光客も、エジプト人たちのように、それぞれの仕事をするのであった。

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ルクソール神殿。起源は中王国時代。ハトシェプストとトトメス3世のころには礼拝堂があった。花崗岩でできていた。パピルス柱で飾られていた。

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ラムセス2世は大中庭を、その北側に建設した。それによって前身礼拝堂はなかば埋もれてしまった。

アメンヘテプ3世はさらに増築し、現在あるような建物とした。

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ナイル川東側にあり、スフィンクス参道にそって北側からアプローチする。北側にあるカルナック神殿から、アモン神がその参道づたいにやってくる。この神にとってそこは南のハーレムであった。この南の神殿では、アモン神は生殖の神であった。「誕生の間」なるものがあって、ファラオが神によって誕生するということが、この間に表現されていた。至聖所の周囲はエロティックなレリーフで満たされていた。

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開花式の円柱がならぶ通路。柱の高さは15mにもなる。ただここは左右に一列あるのみ。そこをぬけると正方形の中庭。パピルス柱に取り囲まれている。中庭の南側にあるのが入口の広間、ここは一種の多柱室である。それから「供物の場」とさらに「聖船の間」。これは回廊で取り囲まれており、入れ子状になった建物内の独立した小さな建物である。さらにいちばん奥の「至聖所」のは三主神がならぶ。

敗因。今回の旅行はガイドブックの限界。ホテル、旅行関係のみで、文化欄が貧弱であった。フレッチャーも観光には役立たない。ひとつひとつの部屋がなんなのか、書いていない。日本にもどってブルーガイドを大量購入するか。

エジプト人は日本人には人なつっこく話しかけてくる。

博物館は、展示は貧弱であったが、場所はよかった。

レストランLimpyはよかった。シェフはフレンドリーで礼儀正しい。

夜9時30分発のカイロ行き列車。2等。4.50£なり。安眠は最初から期待してないけれど。

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2008.03.27

贈ることば/70年代か80年代か?

卒業式があった。

総合大学の卒業式は今日たいへんなことになっており、1日がかりである。総長挨拶のある午前の部のあと、学生たちは自分の学部まで移動し、昼食を挟んで、自分の学科の先生から卒業証書を手渡しでもらう。

ぼくの昔の感覚だと、先生に手渡しでもらったってありがたくはないぞ、ごまかすな、だけれども。今の人たちは違うのでしょうね。こら、教育サービス、ちゃんとやれ、もっと盛り上げて、なんて思ってるのだろうか。

手渡しは終わりではない。さらに学部の祝賀会というものがある。これは教職員の手作り祝賀会である。さらにその夜には、こんどは学生たちがホストとなる謝恩会がある。なので学科長であるぼくは1日に4回、挨拶をすることとなったのである。

一日がかりの卒業式が、社会的プレッシャーなのか、制度的プレッシャーなのか、学生的プレッシャーなのか、今後解明すべき対象になりそうである。

ともあれこの長い退屈な一日のなかで、ぼくの意識はずっと眠っていた。目覚めていたのはごく短期間であった。謝恩会で、学生たちが制作したDVDを拝見していたあいだであった。

それは彼らの4年間、修士修了者なら6年間の学生生活をつづったもので、BGMも耳障りよく、テンポもよく、全体のセンチメンタルなトーンもよく理解でき、飽きないで楽しめるものであった。

はたと気がついた。そこには学生しか登場していないのだ。教師の映像はまったくなかった。そう、学生生活には教員はいらないのである。そう。そうだった。ぼく自身の学生生活を思い出しても、教師などはまったく無関係の存在である。教師との関係は、それから独立した無関係の別の課題であった。

学生生活とは、同世代人との関係、そしてそのなかでもとりわけ自分自身との関係の問題であって、これこそが本質である。学生生活とはなにか?(気恥ずかしいことばだが)青春とはなにか?そしてそれらからの卒業とはなにか?とはようするに、こういうことだ。それは自分自身との関係に折り合いをつけることだ。それまでは自分自身をももてあましていたのだ。それをなんとか折り合わせるのである。そうだったのだ。

卒業式の1日のなかで唯一ぼくの脳が働いていたそのDVD数分間のなかで、つぎに考えたのが年代論ということであった。

2008年3月に卒業するということは1985年生まれ、同年に修了するということは1983年生まれということである。個人的誤差はあるにしても。昭和生まれの学生が減少しいなくなるという予定されたコースが目の前に迫ってきたということだが、彼らが背負っているはずの80年代的なものとはなんだったかということである。

ここでフラッシュバック。

音楽でいうと、まず1978年《サタディナイトフィーバー》からのディスコブーム。カルチャークラブなどの新たなるアイドル路線。そして80年代末はユーロビート。

今につながっているのが、1981年、アメリカでビデオ・クリップ方式が始まったこと。音楽と映像の組み合わせ。この方式でマイケル・ジャクソンの《スリラー》、マドンナの《ライク・ア・ヴァージン》がセールスされる。ぼくも含め当時の学生たちは、テレビを付けっぱなしにして、一日中ビデオクリップを見ていたっけ。1曲がそのままミニストーリー、ミニ映画であった。ちなみに今回の学生DVDもまさにこの方式である。

建築でいうと、結構充実。1981年、チーム象の《名護市庁舎》。1982年のマイケル・グレイブス《ポートランド・ビル》。1983年の磯崎新《つくばセンタービル》。1984年のフィリップ・ジョンソン《AT&Tビル》と伊東豊雄《シルバーハット》。1985年は槇文彦《スパイラル》。1986年のノーマン・フォスター《香港上海銀行》とリチャード・ロジャース《ロイズ・オブ・ロンドン》。1987年の原広司《ヤマト・インターナショナル》とジャン・ヌーベル《アラブ世界研究所》。1988年はスプレッケルセンの《グラン・アルシュ》。1989年はIMペイ《ルーブル博物館ガラスピラミッド》とベルナール・チュミ《ラ・ヴィレット公園》などである。

ようするにポストモダン、ハイテク、地域主義などがキーワードとなる10年間であった。日本は護送船団方式がほころび模索している。《つくば》はラディカル折衷主義なのであり、それは日本的構図の批判的ななぞりなのだが、この批判的距離が、時代がたつと、理解されにくいのだが。アメリカはかつての夢、20年代の摩天楼のそれを繰り返している。イギリスもまたよくよくみればイギリスらしさの繰り返しではないか。その意味ではハイテクは、ブルータリズムを生んだイギリスにふさわしい。フランスにいたっては革命理念を復活させなければとりたててエネルギーもわいてこない、といった感じ。社会党の大統領が、その政治的理念をかたちにすべきとき、200年前に回帰するしかなかったのだ。新古典主義的造形はよござんしょ。しかし今までの200年のプロセスのなかで、なにもなかったわけではないでしょうに。

そう考えて振り返ってみれば80年代の建築って、不器用で無自覚的だけど、ナルシシズムの建築ではなかったか?

そして80年代論をまとめるとどうなるか。60年代は政治とメッセージの時代。70年代は私生活と雰囲気の時代。80年代は商業とセールスの時代。今現在は空虚なので、そのバキュームがなにかを引き寄せる、しかも自分自身のなにかを吸引するというナルシシズムの構図が見える。

《スパイラル》などは槇文彦の『見え隠れする都市』の理屈をそのままひとつの建築にしたようなものだ。ひとつの物語を語るパッケージとしての建物。それは《スリラー》がひとつの恐怖おとぎ話と組み合わさって聞かれたことを思い出させる。同様に、グランプロジェも革命をわざと未完であった革命を完成させるなどといった、ストーリーを演出したパッケージ、ビデオ・クリップであったとしたら?

でもいっぽうで80年代はまだ冷戦構造であった。そう考えるととても古い時代である。なにしろ日本ではまだ「ソヴィエト連邦」とよばないといけなかった。不思議な言論統制があったのだ。なにしろヨーロッパでは、公式にはソ連でも、ロシア、ロシア人を必要におうじて使い分けていた。「今我が国の防衛体制がこのような状況で、ロシアの戦車がやってきたらどうなる!」ということが国営テレビの夜8時のニュースでやっていた。ようするに日本の奇妙な建前主義と、ヨーロッパの本質・本音主義の相違があった。今の学生は「ソ連」をどう理解しているのだろうか。

ともあれ80年代を理解するにはその10年だけを見つめていてもだめなのであって、すくなくとも過去2世紀の枠組みをつくって、そのなかでこの10年がどう位置づくかの検討であろう。とはいえまあ今後の検討課題ですね。

・・・ぐらいのことは意識が目覚めていればDVDが上映されていた2~3分間でも思い出せるものだ。でもすぐ○○先生、ご挨拶を、ということで。

「DVDとてもよくできていました。見てて飽きなかったし、とても心地よく、感激しました。

でも見ながら思ったのですが、きみたちナルシストだよね。でもそれはいいことです。自分を愛せるなら他人も愛せるはずだから。

ぼくにとって印象的だったのは、そこには学生の姿しか映っていなかったことです。でもそれは、きみたちの自分自身への視線しかない、ということではない。きみたちが同世代人の友人を見つめる視線、それが溢れている、ということです。若さとは孤独で生きることではない。いつも他者に自分の若さを投影しつつ、他者のなかに自分を映しながら生きる、そういうことです。

しかしこの他者との切ないまでの一体感はやがて失われるものです。やがて失われるからこそ一生大切になる、大切にすべきものなのです。

DVDの映像の写し方や、BGMや、センチメンタルなトーンは70年代のテイストだよね。ぼく自身、70年代は中学生から修士課程まですごした激動の10年だったので、つよく感じました。1970年に三島由紀夫が自決します。そこからはじまる10年でした。ぼく自身にことはともかく、過去を、もつことはとても大切なことです。人に自慢するほどのことではありませんが、ぼく自身にはこの10年間がとても大切でした。

中島義道という哲学者がいます。カントの専門家で、時間論を書いています。彼は、人間は自由であり、自由であることの根拠は過去にある、といいます。未来はまだ来ていないから存在しない。現在はこの一瞬だから人間があれこれするには十分な長さではない。過去はすでになされてしまって取り返すことができないように思える。しかし中島先生の師・大森荘蔵も指摘しているように、過去は存在しない。過去は想起するごとに、あらたに再構築されるものです。そしてその過去を出発点として、今にいたるまでの自分をそのたびごとに再構築します。だからそれはあらかじめ決まっていることではない。過去、そして過去から今までを再構築できる、そこに人間が自由であることの根拠があります。

過去をもつことはとても大切なことです。きみたちの4年間、6年間はやがて過去になります。しかし君たちはこれからの長い人生のなかで、この数年間を思いだし、そして思い出すごとに再構築し、そのことによって今の自分をも再構築する、この学生時代はやがてますます重要になって、自由に自分自身を再編集するために不可欠な過去というジャンピングボードになるはずです。

最後にきみたちに贈ることばがあります(*といっても武田鉄矢ではなく柴田翔を連想していただきたい!)。これは先ほどの70年代にまだ10代であったぼくが聞いていた流行歌の一節からの引用にすぎません。だいぶ軽薄ですが、すこしばかりの真実もあるかもしれません。そんな重いものも背負っていないのでいえるようなことです。

きみたちは、きみたちの今の生き方を、ずっと忘れないでください。きみたちが、きみたち自身でありつづけるために。

卒業おめでとう。」

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2008.03.23

「世界の終り」を生きること

ぼくたちは生き、そして死ぬ。そうだろうか?ひとつの生のなかに、生と死がある。ぼくたちは生(せい)を生(い)き、そして死を生きるのだ。そして逆説的に、死を生きることこそ、本当の生なのだ。

死者たちのため、その子孫として、生きるのではない。死者たちの生を再発見する。そしてそれを生きるのだ。

ウェルギリウス『農耕詩』第2歌では、葡萄とワインの神様バックスへの頌歌であるとともに、葡萄やオリーブの栽培法、塩分を含んでいたり養分の濃いなどさまざまな性質の土地の耕し方、などを書いている。農耕詩の全体が、田園のなかで農業に専念する農民たちが知るべきノウハウを書いた技術書のような体裁でかかれている。しかしもちろんこれは単なるマニュアルではない。

その背後にウェルギリウスの理念がある。それは田園生活の理想化ということなのだが、田園が理想化されるのは、現実の都市生活が矛盾にみちたものと感じられてかただ。しかしこれはよくある都市/田園のシンクロニックな対比ではない。そこには古代ローマが共和制から帝制に移りゆくその時代の変化をあらわしている。だから都市/農村のコントラストは、共和制/帝政でもあり、過去/現在でもある。農地没収という事件がカギだと解説には書いてある。この固有の事件は、しかし普遍的な構図をもたらす。過去の牧歌的な幸福な田園生活はすでに失われた。その通底するトーンがぼくたちを『農耕詩』読解に引き込んでゆく。

しかしこれは農夫たちへの頌歌でもある。「おお、自己のよきものを知るならば、あまりにも幸運な農夫らよ!争いの武器から遠く離れて、彼らのために、最も正しい大地はみずから、地中からたやすく日々の糧を注ぎ与える」(小川正廣訳・第2歌458-460行)。

彼らは争いからは遠い。この争いとは、ローマが遠征し、征服し、属州を増やしていったことであり、政治抗争であり、内乱であり、王国や国家のなかの紛糾であり、すこしでも富める者になろうとする競争であった。しかし農夫たちは、帝国の支配拡大にも、それによる王国の滅亡にも、貧富の格差にも心を動かされない。

「彼はただ、枝になる果実を、田園の土地がみずから進んで快く生みだしてくれる実りを摘み取り、冷酷な法律も、狂騒の中央広場も、国民の公文書館も目にすることはない」(同499-502行)。そしてこのような生活をかつてローマ人は営んでいた。そしてそれが今は失われた。「人はまだ、戦闘喇叭が鳴り響くのも、硬い鉄床の上で、剣が打ち鍛えられる音も聞いたことはなかった」(同539-540行)。戦いの時代はまだであった。

戦いとは他国との戦いであると同時に、空間を征服する戦いであり、フロンティアを消滅させる戦いであった。「しかしわれわれは、広大な平野の走路を走り尽くした。今やもう、汗煙る馬どもの首を馬具から解き放つときだ」(同541-542)。馬と馬具とは、移動の手段であり、ここでは空間の征服を象徴している。現代に置き換えれば、自動車、ジェット飛行機、インターネット、ケータイを意味している。それを置いてみよう、という。不可能だとわかっていても。

ウェルギリウスは生きようとする。「かつて古のサビニ人」や「レムスとその兄弟」たちや「黄金のサトゥルヌス」のように、田園での牧歌的生活を。しかしそれらはローマの七つの丘が城壁で囲まれたのちとなっては、回復不可能なことなのだ。農民たちは土地を没収されてしまったのだ。

・・・・「世界の終り」とは人類の完全なる滅亡ではない。もし最後のひとりまで死んでしまえば、世界の終わりを書き記す人も、その事実を確認する人もいなくなってしまう。死ぬのはいつも他者である。

村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、またしても息をのむようなパラレルワールドが描かれる。現実の世界に生きている主人公と、その主人公が脳の内部につくりだしたヴァーチャルな世界が、交互に描かれ、物語は展開する。さらに「世界の終り」のなかでは、主人公そのものが、主人公/その影、というかたちで二重化され、対話が始まる。

ひとりの人間を分節化し、構造化するのはある意味で神話の世界である。そう、内面は統一されてなくともいい。現代人がひとつの神話であるように描かれている。しかしそのなかで小説家は、とても率直な独白をそっと挿入する。それはひとりの人間の語りとするととても素朴なのだが、しかしこのフィクション、神話のなかに置くと、大きな意味をもつように感じられる、そんな書き方である。

「私の人生の輝きの九十三パーセントが前半の三十五年間で使い果たされてしまっていたとしても、それでもかまわない。私はその七パーセントを大事に抱えたままこの世界のなりたち方をどこまでも眺めていきたいのだ。(村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』文庫版・後半p.331)

「世界の終わり」のなかで、主人公は自分の影とも別れをつげる。影をなくしてしまうとは、じつは自分の本質とも別れを告げることだ。それに別れをつげて彼は「世界の終わり」のなかで生き続けようとする。なぜなら「ここは僕自身の世界なんだ。僕は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」(同p.345)。人はどんなに自分をねじ曲げて生きようとも、そのねじまがりそのものを生きなければ誠実でなくなってしまう。

生(せい)のなかで「世界の終り」がどのように生(い)きられるか。ウェルギリウスが、本来のローマ人からの決別を哀愁を込めて書き綴ったように、村上は本来の自分、本来の生ときっぱりと別れること、そのことが主人公の「公正さ」(同p.334)なのだという。

「世界の終り」とは、見知らぬどこかではない。それは生きなければならない。生きられなければならない。それを生きるということは、どんな事態なのだろう。「僕はテーブルに両肘をつき、手のひらで顔を覆った。・・・・僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰に知られることもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった」(村上春樹『国境の南、太陽の西』文庫版(下)p.299)。雨の一粒一粒は無名で、知られることなく、海面を叩き、そして海に溶けてしまう。一滴は、一滴の貢献しかせず、飲み込まれる。しかしそれはウェルギリウス描く農夫が、曲がったスキで大地を耕す、その際限ないような繰り返しではないか。

「世界の終り」とは、べつに空想の物語や、奇想天外なSFや、サブカルでもなく、現実としてぼくたちの目の前にごろんところがっているものだ。もちろんどこでも見えるというものでもないが。たとえば古代、中世、近世といった歴史の各層が残した痕跡が見えるところ。遺跡でなくとも生きられた都市のなかにもそれは目撃できるであろう。

カルタゴの古代遺跡や、クラック・デ・シュバリエの中世十字軍遺跡、いや奈良や京都でもよい。それらを建設した人びと、そこで生きた人びとはもういない。だから現存するとはいえ、遺跡は、消失、不在、空白、喪失などを指し示すために存在している。いや遺跡そのものがそんなことを考えているのではない。ぼくたち観察者がそこに不在というものを感じるのだ。「世界の終わり」とはそういう類の不在の象徴なのだ。

遺跡は目の前にころがっている。だからそれは現在に所属している。しかしそれを過去のものとしてみるにはイマジネーションが必要である。世界はすでに終わっており、その終わりのあとで、自分はここに登場した、というやるせないほどの不在感、欠如感である。

ヴィオレ=ル=デュクという19世紀の古建築修復家の保存手法はしばしば間違っているといって批判されてきた。南仏のカルカソンヌでは、瓦ではなく北ヨーロッパ的なスレートというふさわしからざる材料で修復したことで非難された。

ヴィオレ=ル=デュクはゴシック教会の構造を、ひとつひとつの石材に分解し、それら相互に作用する力の流れを解析し、ひとつの構造体がどのような力学システムからなるかを考察した。リブは支持体であり、皮膜は被支持体である。機能主義的にそう分析した。そしてこれが過度に事実主義的、機能主義的、合理主義的であるとして批判された。

しかしこれは批判者こそが過度に機能主義的であったにすぎない。

いっぽうでヴィオレ=ル=デュクの「様式」概念もまた批判された。ひとつの原理からなるさまざまな要素をむすびつける統一性だ、という理念が批判された。折衷主義者である、と批判された。ふつうは彼はフランス合理主義の伝統を汲む、理性の人と位置づけられていたから、その彼を折衷主義者とよぶのはとても意図した揶揄なのだ。

しかし彼は事実主義者ではなかった。彼は修復は、過去の復元ではなく、理想的様式の完成であった。13世紀の職人や建築家ならこうするであろうとう想像でもあった。しかしそれは中世人たちが未完成のままのこした過去を、完成させようという、死を生きることでもあった。だから後世の改造を改めて当初のオリジナルな姿にもどすことに満足せず、オリジナルそのものが理想の70%だとすると、それを100%にすることが修復と考えた。

村上春樹流に、のこりの7%をだいじに抱えて生きようとした、ともいえるだろうか。

なぜヴィオレ=ル=デュクは「様式」を理想化し、事実とは異なることでもあえてそうしようとしたのか。

それは彼が「建築」を信じていたからである。

子供向けの説明のように書いてみよう。建築の神様がいたんだ。神様は、中世の建築家たちに自分にとっての理想的な館を建設させようとした。ゴシックとは、構造的にうまくできていて、窓も大きく光がたくさんはいって、天井もすごく高くて、地上にいながら天国が想像できるようなものだった。でも神様は、人間たちなんだ、と考えた。人間だから、完全なことをさせてしまってはいけない。だからよくできたゴシック建築だけど、そうだな、93%くらいのできで、いちど終わらせてしまおう。中世の世界は、とりあえずこれで終わりにしてみよう。そう考えたんだ。「世界の終り」さ。

神様は700年してから(神様にとっては一瞬のようなものだが)、残りの7%が残念になった。だって神様の頭のなかには100%ができあがっていたから。だから神様はヴィオレ=ル=デュクを遣わして、ゴシック建築を完全なものにしようとした。この建築家=修復家は残りの7%のことをほぼ理解していた。しかし彼はやはり人間だったので、不完全だった。どこが不完全だったかというと、他の人間たちに分かってもらうすべを知らなかった。だから評価もされたけど、さんざん誤解されたのさ・・・・・

ヴィオレ=ル=デュクは、固有のゴシックということを超えて、建築そのものことを考えていた。それはゴシックの拡大でもあり、建築の再構築でもあった。

だから彼は近代建築運動におおきな影響を与えた。彼が合理主義者であったからではない。建築概念を根本的に考え直したからであった。だからフランスだけでなく、イギリス、ベルギー、アメリカ、ドイツの近代建築運動におおきな影響を与えた。

この事実は日本人にとってとても大切だ。日本人は、伝統と現代とは違う、保存と開発は両立しない、歴史家と現代建築家は対話できない、そんな子供のようなことを考えている。しかしフランスにおける歴史的街区保存を可能ならしめたマルロー法のアンドレ・マルローは、歴史と現代をいかに接続するかということを考えていた。おなじように、ヴィオレ=ル=デュクは、中世ゴシック建築を徹底的に理念化することで、近代建築の礎を築いた。つまりまず19世紀に建築保存があって、そののちに近代建築運動が起こった。そしてまさに保存から生まれた理論が、近代建築の骨格となった。この歴史的ダイナミズムが日本にはまったく伝わってこないのである。そして近代を批判するために保存を考えるという、日本の常識=世界の非常識、が続いている。

ヴィオレ=ル=デュクが「建築の神様」からのご神託を聞いたかもしれない。ぼくなりに言い換えれば、彼は死んでしまった中世人の残りの生を、可能性としての生を生きようとしたのだ。だからそれは死を生きようとしたことでもある。それは死者のデスマスクを忠実に再現することではない。死を生きるとは、ある意味ではとても創造的なことなのだ。

それはここの個別の建築を超えた上位概念としての「建築」があるということを、信じようとすることだ。

ヴィオレ=ル=デュク自身の言葉を借りるとすれば、それは「様式」であり「統一体」である。ゴシックは、フライング・バットレス、リブ・ヴォールト、尖頭アーチの三点セットというのではない。それらが有機的に一体となった統一体なのだ。

この統一性の概念は、彼のようにたくさんの教会堂建築をサーベイしないとわからない、特権的な視点にようにも思える。だからここで喩え話をしよう。ひとりの人間を描くときに、○○国人で、××語を話し、宗教は△△で、性別、身長、体重はこれこれで、性格、嗜好、職業は・・・といくら属性を列挙してもその人間の本質には到達できない。それはひとつの人格として、統一体として、面前で見なければわからない。建築もまた、指標や属性の羅列では、つまりデータベースからただちに再構築できるものではない。それは統一体なのだ。

その「統一」は機械論的に判断できるものではない。いくつかの指標を満足すればOKというものではない。すべての統一体は、有機物的であり、生まれ、死んでゆく。

ヴィクトール・ユゴーは「あれがこれを殺す」といった。パリのノートルダム大聖堂を指し示しながら。しかし殺した、死んでしまった、では終わらない。ましてや文献が石に書かれた言葉を殺した、などという半端なものではない。古代ローマにおける農地没収のように、教会堂はカトリック教会組織から没収された。そこで世界はいちど終わっているのだ。文明は「世界の終り」を生きる。死を生きるのだから。

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2008.03.21

ウェルギリウス『牧歌』について

ウェルギリウス(Publius Vergilius Maro, B.C.70-B.C.19)はローマの詩人で、『牧歌』、『農耕詩』、『アエネイス』を書いて牧歌文学の原型となった。ランドスケープ史や庭園史のなかではかならず言及される作家である。

その邦訳が2004年に京大学術出版会の西洋古典叢書として出ていたことを知ったので、通販でとりよせて読んでみた。以前他の邦訳に目をとおしたことはあったが、途中で飽きてしまった。

今回あらためて気がついたのは、『牧歌』は十歌構成であるということだ。ちなみにウィトルウィウスの『建築書』も十書構成である。ふたつの古典にはなにか共通点があるのではないか、と気がついてがぜん興味がわいてきた。ようするに建築にからめないとはじまらない習性は直らないのである。懺悔。

まず、ウェルギリウスの『牧歌』は十歌が円環構造をなしている。第一歌の冒頭で、ウェルギリウスのことであるティテュルスが、森のなかの木陰で葦笛により森の歌を奏でるところから始まる。そして第十歌は、やはり森が舞台である。森のなかで愛する女性への思いを歌にして奏でるのであった。しかし森の木陰にいつづけることを体によくないと、家に戻ろうとするところで、終わる。その間さまざまな逸話が展開されるが、それらは森のなかで繰り広げられる豊かな回想と空想であるように思われる。

つぎに、ある危機意識が『牧歌』の根底にはある。京大出版会版の解説にあるように、帝制ローマの政策によって、ウェルギリウスはマントヴァ近郊の農地を没収されたことを背景として、「私たちは祖国を逃げ出すのだ」・・・という衝撃的な一句からはじまり、不敬な軍人すなわちアントニウスとオクタウィアヌスが戦勝の褒美として退役軍人に没収した農地を与えたことを暗に揶揄するように、不幸な市民について触れる。

『牧歌』のおおきな部分を占めているのが、ふたりの登場人物による歌や音楽の競い合いである。つまり田園は音楽と結びついている。田園は、大きな楽器でもある。

第四歌は特殊であり、クマエの予言どおり新しい時代、アポロの時代が始まることが語られている。この第四歌は、悲惨な現状を乗り越えるための勇気を与えるためにあるように感じられる。この新しい時代には、商品交換はなくなり、すべての大地からあらゆる物が生み出される。つまり都会の商品経済に従属しない、田園の自給自足の生活が示唆されている。

『牧歌』における歌や音楽の競い合いということに戻る。それはダプニスへの頌歌でもある。ヘルメスとニンフの息子で、牧人の理想とされる美男子であり、歌と音楽とにひときわすぐれていた。だからこの『牧歌』そのものがダプニス頌といえるのだが。

しかしこのダプニスは非業な若死にをした。彼についての歌は、挽歌でもあり、過去に想いをはせる歌でもある。つまり第四歌だけが未来を歌い、そのこととの対比において、挽歌が詠われるのである。

第八歌はクライマックスである。ダモンが歌う。牧神パーンの故郷アルカディアにある山脈であるマエナスルでは、松と牧人とパーンがいつも音楽を奏でていることを歌う。「始めよ、わが笛よ、私と一緒にマエナスルの歌を」。アルペシボエウスは死んだダプニスを蘇生させるためのまじないの歌を繰り返す。「町から家へと連れもどせ、私のまじないよ。ダプニスを連れもどせ」。田園のなかに歌と音楽をもたらしていた彼を回復せよというのである。それは田園そのものの回復を叫んでいる。

ダプニスを連れもどせ。

『牧歌』はある意味で喪失の歌であり、つよい批評精神にもとづいている。

同様なのがウィトルウィウス(Marcus Vitruvius Pollio, B.C.80/70-B.C.25)の『建築書』である(それを『建築十書』と呼ぶのは、古典を翻訳したフランスやイギリスの事情であった)。生没年からわかるようにウェルギリウスとウィトルウィウスはほぼ同時代人である。彼らが古典となった経緯も似ているのではないか。

『建築書』も円環構造をなしている。第一書では建築家が備えるべき資質が列挙された後、まず都市の城壁について触れられる。第二書では都市計画のような話題となり、以降、神殿と建築オーダー、バシリカなどの公共建築、建材・石材、日時計、揚水機、建設機械と展開し、最後は敵の攻撃から市壁とそれによる防御を巧妙にしくんだ建築家が賞賛される。彼は市民の自由を守ったことが、手短に言及される。つまり建築家たるものの解説を除けば、これは市壁にはじまり市壁におわる物語りであり、その中間にあるものは都市、建築、機械という段階をおった、その内部の叙述である。これは建築というディシプリンを機械的に分類したものではない。建築家が生身でかかわる緒断面のいきいきとした、まさに物語りなのである。そして彼が守るのは都市の市民の自由なのである。

音楽の重要性もやはり強調されている。劇場の音響効果のみならず、都市という小宇宙は天空の音楽に応答している。ルネサンスの新プラトン主義で復活したテーマである。

危機意識も同様である。オナイアンズやリクワートは、アウグストゥスがレンガのローマを大理石のローマに変えたあいだに、建築は奢侈に流れ、そののモラルは低下したが、その危機的状況のなかでモラルを強調したのが、ウィトルウィウスであるというように位置づけている。ウィトルウィウスの書はひからびた建築技術の百科全書的体系化ではなく、まさに現実が体系を失い、崩れ、流動化しているからこそ、それに歯止めをかけようとしたのであった。危機意識のもとづく体系化なのであった。

このように比較するとウェルギリウスとウィトルウィウスは、同時代人であるのみならず、その価値観や叙述の仕方においてよく似ているといえる。前者は田園を描き、後者は都市を描いた。そういう対比はあるが、似た精神をもっていたのではないか。それはローマが共和制から帝政に移行する時代のきしみであったといえよう。

21世紀初頭、そんなきしみはないのであろうか。

ダプニスを連れもどせ。

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2008.03.17

建築家シンケルと景観

シンケル(Karl Friedrich Schinkel, 1781-1841)はプロイセンの建築家で、ドイツ建築史のなかの最大の巨星といっていいでしょう。ロマン主義の流れのなかで、古典主義を継承しながらも、ゴシック建築を再評価し、さらにランドスケープのなかで建築を群としてとらえ設計するという新しい展開に成功した建築家でした。

1794年にベルリンにうつり、そこで1798年に建築家ジリーとの運命的な出会いがあり、その弟子となった。下図はGilly, 《フレデリク大王のための記念碑》、ベルリン、1797。これは建築プロジェクト図ですが、雲の描き方などは風景画のつよい支配下にあることがわかります。新古典主義は、ときにはロマン主義的古典主義といわれるゆえんですが、つまり建築家はその内面、自分が訴えようとする偉容、偉大さ、超越性を、景観に託して表現しようとしているのです。

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1803年にイタリア旅行に出発する。とくにミラノ大聖堂が気に入った。シチリアには1803-04年に滞在した。

とはいえ古代建築はすでに学習済みのものであって師ジリーにも、古代建築はすでに知っているので、古代建築を見学してもたいした効果はないと書いている。しかし、建築が自然のセッティングのなかで、ピクチャレスクな群としての造形を展開している様は驚きであった、と書いている。下左は古代ギリシアの景観を、下右は古代都市を描いたもの、下右は宿からローマ市、とくにサン・ピエトロ聖堂を描いたもの。

Photo 1805 Schinkel_view_in_rome_stpeters_1803

さらに「ゴシック建築は、スタイルは別物としても、ギリシア建築とは共通点だらけである」とも書いている。つまりランドスケープにしかるべき場所を占める建築、中世のゴシック建築、という彼の生涯を決定づける指向がすでにはっきりと意識されている。

1806年から舞台デザインの活動をはじめる。当時はディオラマ、パノラマと呼ばれていたものであった。とくに1815年にはモーツァルトの《魔笛》のためのデザインをしたのは有名。(下左は夜の女王の場面。下右はランス大聖堂の眺め。)

Schinkel_magic_flute_1815 Schinkel_rheims_cath_1818

シンケルは当初からプロイセン王室の御用達建築家であった。国民にも人気のあったルイーゼ王妃(1776-1810)は、彼に宮殿のインテリアを依頼したばかりか、公共事業局の局長に指名した。

王妃は不幸にも1810年に若くして亡くなる。その霊廟のためのデザインも、彼は提案した。彼がゲンツとともに設計した厳格なドリス式神殿にものはシャルロッテンホフに建設された。さらにゴシック様式の幻想的なものも設計した(下図)。同1810年、ベルリン・アカデミーの展覧会で展示された。

Schinkel

ところで前稿との関連で興味深いのは、この展覧会にはC.D.フリードリヒも絵画2葉を展示していたことである(cf. Watkin, 1987, p.87)。フリードリヒもシンケルもロマン主義運動のおおきなうねりのなかにあった。とはいえシンケルは巨匠画家の真似をしていたのではなかった。画家はゴシック建築の廃墟を描くことをこのんだが、建築家はそうではなかった。

下の4葉は左からそれぞれ芸術家の妻、木々に隠れたゴシック教会堂、 川辺の城、朝、を描いたものです。対象の正確な描写というより、観察者の内面を投影したその画風は、フリードリヒと同様、あきらかにロマン派のものです。しかしフリードリヒと若干異なるのは、肖像はこちらを向き(背中を向けられては肖像画にならないのですが)、木々はやさしい。しかし川辺の城では、光源が木の幹で隠されており、神=超越の存在がそれだけ強調されています。また最後の《朝》でも同様に光は扱われています。超越ゆえにそれに到達できない。しかしその超越と一対一のはっきりした関係が保たれている。

Schinkel_artists_wife_1810 Schinkel_gothic_church_behind_trees 1820 1813

シンケルはゴシックリバイバルの建築家であった。さらにそれはナショナリズム的な理念にもとづく復興であった。なぜならゴシックは「国民精神の発露」であり「人間を神や超越的な世界に結びつけていた顕著で目に見える記号」であった。そしてゴシックは「古代よりも優れた原理を備えている」のであった(cf. Watkin, 1987, p.90)。

シンケルの大聖堂は、都市生活の頂点であって、高台の上にそびえていなければならなかった。ゴシックは高邁な理念の表現であり、とくにプロイセンの文化的・政治的な立場の表明であった。

下左は、現実には市中にあるミラノ大聖堂を、海のみえる丘の上に置いた、舞台装置。様式はゴシックだが、ランドスケープとの関係は古代的といえます。下中は大聖堂の風景を描いたもの。いわゆる逆光で、隠れた光源から光はむこうから(つまり超越から)やってきます。塔は透かし彫りのように、半透明です。古典主義建築は、光を反射し、はっきりした輪郭を示します。しかし中世建築は、光を吸収し、光と一体化します。あたかも人間が神の教えと一体化するように。下右では、川辺の中世都市が描かれている。兵士たちが、大聖堂を目指している。その大聖堂は塔が一基未完成であり、旗がはためいている。これはプロシア、ドイツが近代国家としてこれから建設する途中にあり(フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ!』)、その完成のための国民的な情熱を注がねばならないことが主張されている。虹は、完成への希望の表現です。

Schinkel_theater_set_cathedrale_on_ 1814 Schinkel_medieval_city_on_a_river_1

1815年からベルリンの都市計画の担当者となる。新衛兵所、劇場、古代博物館などを建設した。ここでは古典主義を展開した。このプロシアの首都は、その厳格で清廉な性格を表さねばならなかった。下3葉はアルテス・ミュゼウム(古代博物館)です。景観との関連で、ギリシアのストア建築を再現したものが、描かれています。とくに下右は、列柱廊の階段から、都市景観を眺めたものです。19世紀のベルリンは、古代ギリシア都市の景観をまとうように設計されたのです。

1832 Schinkel_altes_museum_river Schinkel_altes_museum_colonnade

1820年から王室の依頼により、ポツダム郊外のシャルロッテンホフ宮殿の整備を進める。ここで彼は、ロマン主義的なゴシックでもなく、国家的偉容を体現すべきベルリンの厳格な古典主義でもなく、若い頃にイタリア旅行で驚嘆をもって眺めた、自然のなかで群としての建築がのびやかに展開してゆく様を、再現したのであった。

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さらに晩年のプロジェクトでは、ランドスケープの意識がさらに強くなっています。下左図はオリアンダ城計画です。これはギリシア風です。下右は、ライン川沿いにある城の景観で、これはドイツ風というか中世風。しかしどちらも、ランドスケープのなかに展開してゆく建築が強調されています。

Photo_3 Schinkel_stolzenpels_rhine

シンケルが亡くなったときプロイセン国王はその葬儀を国葬扱いにし、毎年シンケル祭を開催しようとしたそうです。ベルリン中心部の公共建築を建設し、王宮を整備した彼は、まさに国家的建築家であった。しかし業績ゆえではなく、彼がドイツ的建築の心情そのものを形成したからであろうと思われます。

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2008.03.16

風景画家フリードリヒについて

ドイツの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich, 1774-1840)についてです。この稿も平戸プロジェクトの一環でして、ランドスケープ解釈の一助とするためです。絵画史を専門とするものではありません。

ロマン主義の風景画家である。略歴。13歳のとき、自分を助けようとした弟が溺死してしまう。これが一生のトラウマとなった。コペンハーゲン美術アカデミーに入学するが、ドレスデンに引っ越す。ベルリンの美術アカデミー、ドレスデンの美術アカデミーの会員であった。

クロード、プッサンらが理想的風景画を描いた古典主義画家であったとしたら、フリードリヒはロマン主義という範疇にはいります。

古典派は、ウェルギリウスなどの古代文学から題材を得て、風景を描きます。そこには人間の運命、悲しみ、偉大さ、徳、死、などが描かれますが、いちどテキストに描写されたものを絵画としております。ゆえに型にはまった感じがするし、既存のテキストにそって人物の立ち振る舞いが決められるという点では、演劇的にもなります。プッサンの絵もときには舞台の書き割り的に見えます。

いいかえるとあらかじめ立派なテキストがあって、個々の人間はそれをなぞるだけなので、どうも人間には自我や内面が薄いような気がします。もちろん人間だから心はあるのですが、芸術の創造にとってとくにそれらは必要とされないのです。

ロマン派は近代人の心性を反映しています。

ここで「近代」とは今から200年ほどまえに幕あけた新しい時代をさします。啓蒙主義、科学の発展、フランス革命などの大きな変化によって、王権やキリスト教社会は瓦解し、それに連動した伝統的諸価値は崩壊します。

ロマン派とは、この変化を「新しいものを獲得した」と考えるのではなく、ぎゃくに「なにかを(古き良きものを)喪失した」とする考え方、感じ方をさします。

近代人は矛盾しています。いっぽうで進歩や発展をあくまで追求しながら、他方では本来の自分は、心は、失われただの傷ついたなどと考え、喪失感にさいなまれ、そして失ったものを回復しようとします。

歴史的建造物の保存、今日の用語でいえば文化遺産の概念は、200年ほど前に、このロマン派的心性とともに誕生しました。「歴史的建造物」「遺産」そのものの歴史があるのですが、これらは政策、制度として自動的に動くようになっています。ですのでその文化的、哲学的なからくりは忘れられているといえます。

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それはともかく、アイネム『風景画家フリードリヒ』(高科書店、1991)を要約しつつ、ぼくなりにコメントさせていただきます。上左は《雪の中の巨人塚(ドルメン)》、上右は《リーゼンゲビルゲ山の朝》、山頂に十字架が見えます。荒涼たる自然です。古代的な親和的なランドスケープとはまったく違います。

ロマン主義ということですが、アイネムは、18世紀の啓蒙主義、文化の世俗化という危機を乗り越えて、ドイツ人は「自我」を「創造的な性の統一体として発見」したのであった、と指摘している。フリードリヒの風景画は、まさに彼の内面をそのまま描写しているのであり、風景はたんなる料理の素材にすぎないような感じがします。

主観性。風景はもはや客観的に与えられた単なる物質的なものではなく、主観的な体験の神秘的な反映となります。風景はたんなる観察の対象ではなく、感情の対象です。自然は、神が意味をあたえたり、それ自体に象徴的な意味をもつのみならず、人間の感情がそこに描かれたもの、になってきます。風景は、こうしてあらたに「人物芸術の代わりに宗教的表現の担い手」になります。フリードリヒは「芸術のたた一つの真実の源泉はわれわれの心である」(p.46)と主張します。

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上左の《山上の十字架 テッチェン祭壇画》ですが、ここにはキリストの苦痛は描かれていなく、観察者の心情を投影することが求められています。上右《森の中の猟兵》も、奥にひそむ不安を想像せよといわんばかりです。

宗教性。フリードリヒの風景画はすべて宗教画といえる。しかし伝統的な意味での宗教画ではない。伝統的な信仰は、共同体的であり、宗教画のアレゴリーや書き方は決まりがあった。しかし彼の信仰は、孤独なものであった。その絵画は、自然との孤独な対話(p.133)いがいのなにものでもなかった。トラウマ故に人間嫌いとなったが、反面、自然との親密な交流がなされた。

廃墟。教会の廃墟が描かれる。彼の描く廃墟は「無常」ではなく「明確な過去の象徴」である。つまり古い信仰をそのまま再確立しようというのではなかった。現存するゴシック聖堂が廃墟に変形して描かれた。

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ランドスケープの普遍性。特定のランドスケープを忠実に再現しようとはしなかった(p.123)。たとえばエルデナ修道院、近くにあったが、山の世界のなかに移している。上は左から《エルデナの廃墟》《雪の中の修道院の墓地》 《樫の森の修道院》です。同じ廃墟モチーフをいろんな風景のなかに描いています。風景は、目の前に展開する固有の具体的なものではなく、あらかじめ心のなかに描かれた、超越的、先験的、観念的、一般的なものなのです

人物は風景の「点景」ではなく「意味の担い手」である(p.97)。彼が描く人間は、特性をもった個々の人間ではなく、一般に人間的なものの代表であり、さらには被造物一般の代表である。ということは人間はかんぜんに自然の一部であり、その特別な立場を失っているのであり、木、岩、道具がその代理であってもよい。これはまさに「自我の中に世界への鍵を見出すというロマン派一般の謎」(p.100)なのである。シェリングの「世界霊魂」というものに近いという。

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上の左右は《海の月の出》《人生の諸段階》。これらでは人物も舟も、風景のなかでは等価であるような印象さえ受けます。

アイネムによれば、フリードリヒの絵画は彼のキリスト教的経験に根ざしている。被造物どうしの親密性、孤独であることの苦悩、おなじ内面を有しているという期待、自然との一体性、望郷の念、など。

垂直性。垂直的エレメントが支配的である。水平的エレメントは従属的。これなどは北欧/南欧、ゲルマン/ラテンという典型的な対比となっています。

エレメントの孤独。個々のものを独立させる。個々のものは独立的であり、画面全体の構築性とはつねに対立関係にあった。このエレメントはときには木であり、人間であり、岩であったりする。

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上はそれぞれ《日の出に立つ女性》《霧の海を眺めるさすらい人》《窓辺の婦人》です。これらからわかるように、まず遠近法が否定されています。それまでの風景画では遠景、中景、近景というレイヤーを考え、さらにはそれらが連続的につながるように、プッサンなら蛇行する小道を描いた。しかしフリードリヒは「非常な近さ」と「遙かな遠さ」という対比を描いた。これはルネサンス以来の遠近法を否定するものであった

さらに人物はつねに後ろ向きで描かれている。この人物は、無限や超越にむかってあこがれながら、しかし自分の肉体という有限性に囚われている

「理想の風景」の稿で、風景画とはようするに奥行き、距離、を描くことではないか、と書きました。古典主義的な芸術のなかでは、距離としっても、船出するアエネイス、アテネから墓地に運ばれる有徳のフォキオン、といったように、いくら遠くても到達できる距離であったのです。しかしロマン主義の描く距離とは、超越的なものです。つまり絶対的に到達できない類のものです。しかし近代人にとって、距離とは、絶対に到達できないからこそ意味をもつようです。無限を発見した18世紀啓蒙主義の帰結でしょうか。しかしよく考えてみれば、超越的な、絶対に到達不可能な距離、というのは現代人がイマジネーションをいだけないものとなっているようです。

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2008.03.15

「理想の風景」について

ケネス・クラーク『風景画論』読書レジメのつづきである。建築設計演習のための素人のノートなので、絵画のプロはパスしてください。

クラークは本書3章で「幻想の風景」について述べている。舞台は16世紀、宗教改革などで価値観が揺らいだ時代である。のちの表現主義につながる北方的な感性がうまれ、火、火災、などが好んで描かれたこと。マニエリスムが誕生し、人体がデフォルメされて描かれ、ビザンチン風の奇石などが描かれた。・・・ことなどが書かれている。これはのちに触れることにします。「平戸プロジェクト」には直接関係しないからです。

 第4章が「理想の風景」である。もともと風景は、英雄や神話の背景であり脇役にすぎなかった。しかしそれがひとつの理想とされることで、主役となった。

 これは常識的なことだが、そこでは古代文学が風景画家のインスピレーション源とされた。

オウィディウス『変身譚』。ギリシアやローマの神話において人物が植物、動物、鉱物などに変身してゆく物語。ナルキッソスが自己愛によってスイセンになる。ナルキッソスを愛するエコーは木霊になる。イカロスは蝋の翼で空をとぶが墜落する。ダプネーは、アポロンに追いかけられて、木に変身する。など。(下はプッサンの《エコーとナルシス》)

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ウェルギリウス『アエネイス』。アエネアスはトロイア滅亡ののち、カルタゴ女王との悲恋があったが、イタリアに到着し、ローマ建国の礎となる。その流転におけるさまざまな景観(下はクロード《デロス島のアイネイアスのいる風景》)。『牧歌』は田園を賞賛する「アルカディア」概念をもたらして、ヨーロッパにおける理想的田園概念の出発点となった。『農耕歌』には農民の生活、農作法、牧畜や養蜂やブドウ栽培の仕方などが書かれている。

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とうぜんのことながら、これら古代文学はたびたび読み返されることで、風景画のみならず、文学(ダンテ『神曲』など)、パラディオのヴィラ建設、イギリス貴族のカントリー・ライフ、造園運動、ピクチャレスク美学の成立、をもたらしたのであった。

はからずもクロード描くカルタゴは「港市」ですので、平戸プロジェクトの参考になるかもしれません。

こうした古代的インスピレーションを復活させたのがジョルジョーネとティツィアーノの《田園の合奏》や、ベリーニの《寓意》、ジョルジョーネの《テンペスタ》、ティツィアーノの《聖愛と俗愛》などだが、これら前書きはそれだけで独立させて論じるべき対象でもあり、ここでは割愛します。

クラークの本題はもちろんクロードとプッサンである。

クロード・ロランはフランスのロレーヌ地方出身なので「ロラン」と呼ばれるのだが、その生涯のほとんどをローマで画家として過ごした。

彼はローマにおいて野外での写生を行い、それをアトリエにもちかえり、ひとつのタブローとして再構成した。つまり細部は忠実な描写でありながら、全体は構想されたランドスケープなのであった。

その構成法は、同時代の劇作家ラシーヌの「三一致の法則」に匹敵するという。つまり時の単一、場の単一、筋の単一であり、1日のうちにひとつの場所で、ひとつの行為だけが完結するべきである。これがフランス古典演劇での重要な規則となった。ラシーヌの手法として「アレクサンドラン誌行」も言及されている。

クロードは近景、中景、遠景を描き分ける。近景は、画面の一方の書割と、それがもたらす暗い影である。中景は、いくつかの樹木であることが多い。遠景は、古代風の建築であり、光に満ちあふれる。(下左《アポロン神殿》、下右《アイネイアスの出発のあるカルタゴの眺め》

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ところで風景画とは距離を描く絵画であると思う。ジャンルでいえば、静物画や人物画には距離はほとんどない。もちろん絵として描く、あるいはそもそも対象として見るためには、あるていどの距離は不可欠である。しかしその距離は描くべき目的ではない。しかし風景画においては、アレゴリーの組み合わせであることは静物画と同じであるが、距離をどう描くかが課題となる。遠近法はそのための技術だが、必要条件でしかないと思われる。つまり距離を客観的にではなく、主観的に描かねばならない。つまり距離感なのである。

理想的風景の絵画では、距離感がみごとに描かれている。この距離は、自分がかつていた遠方でもあり、これから到達できる彼方でもあり、到達できなくとも心情的に親和的でありうる遠方である。これにたいしロマン派絵画は、まさに到達できない彼岸が、まさにその不可能性がテーマであるがごとく、描かれる。

クリードにおいて古代風の建物が描かれるのは、これが古代であるか、その遺跡が残っているかという、古代のサインである。しかし建物が不可欠なのではない。「クロードにおいてもっともウェルギリウス的なものはといえば、光にみちた静謐な空のもと、やさしく小川が流れ、羊の群れが草を食む、あの黄金時代的感覚」なのだと指摘されている。

*注:個人的には、風景画と舞台デザインとの関連はないのであろうか、と考えている。16世紀の建築家セルリオは劇の種類にあわせて背景を決めた。悲劇=古典主義、喜劇=中世、風刺劇=田園、である。スタイルの合致である。

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ニコラ・プッサンもまた17世紀のフランス人画家であり、生涯の大部分をローマで過ごした。

クラークによれば、プッサンは印象派の先駆者でもあるが、その絵画構成はきわめて幾何学的である。水平線と垂直線を、ときには黄金分割にしたがって、配置する。古代建築は、古代であることを示すとともに、自然のなかには少ない垂直要素を付加するために有効であった。ゆえに直線、正面性が強くなる。それを中和するかのように、補助として、斜行する小道を対角線要素としてつかっている。

ぼくの観察では、プッサンの絵は舞台装置的である。近景の両側には、暗い樹木が描かれている。近景に人物が配置され、主題となるストーリーが展開される。中継は、小道、川、湖などであり、近景と遠景をつないでいる。遠景は、登場人物以上にじつは主役かもしれない。そこには古代建築、神殿、などが描かれる。建物でない場合は、神域のような山が描かれることが多い。

《ヘビのいる風景》(下)は、オウィディウス『変身譚』第3巻を描いたものとされている。フェニキアの王子カドモスはポイオーティアに到着し、従者をマールス泉に水を汲みになったが、マールスの竜が従者を絞め殺してしまった。プッサンはこの竜をヘビに書き換えたのであった。この絵では、ヘビと絞め殺された男が横たわっており、それを目撃した男が驚愕し、さらにそれを見た画面中央の女がおののくという、恐怖の連鎖が描かれている。それは連鎖であるがゆえに、ある時間の幅があり、恐怖が画面手前から奥にむかって展開している途中が描かれている。もちろん遠景までは恐怖は到達していない。

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この絵についてはルイ・マランが『崇高なるプッサン』のなかで多層的な解釈を示しているが、それに触れるのは次の機会といたしましょう」。

《フォキオンの葬送》(下左)はプルタルコスの『フォキオン伝』による。アテネの有徳の政治家フォキオンが誤った民衆の裁判により、ちょうどソクラテスのように、死罪となった。市内での埋葬を禁じられた遺体は、アテネから郊外に運ばれる。その光景を描いたものである。プッサン自身もストア派哲学に傾倒し、徳性を強調する絵画を描こうとしたのであった。絵としては、遠景はその遺骸が出発した場所であって、たんなる背景ではない。

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《フォキオンの遺骨を拾う》(上右)はその続きと見ることができます。近景中央ではフォキオンの士の遺骨が拾われている。遠景中央は、厳格なたたずまいをみせる神殿です。両者を、湾曲する小道がつないでいる。しかし画面全体に緊張感と厳格さをもたらしているのが、中央の神殿であり、それを中心とする強い正面性です。さらにいえばこの神殿は、非業の死をとげた有徳の士の擬人化であろうとさえ考えることができます。

そのほか私見によれば、プッサンの絵画では近景における人物と、遠景における建物が、なんらかの性格上の意味上の対応関係を持っていると推察される。しかし確信をもって主張できるものはないので、やめておきます。

理想的風景=古代の風景、であるのですが、古代の風景といってもタイムマシンで遡ったりギリシアやローマで彷彿するものではなく、古代の神話、英雄、建築、生活(=田園的生活そのもの)をふたたび蘇らせようとするものであった。神話や物語の背景として、風景が描かれる場合でも、背景の風景や建物は、人物のなんらかの特性を反映したものであった。そういう意味ではセルリオが舞台デザインを悲劇=古代都市、喜劇=中世ゴシック都市、風刺劇=田園風景と使い分けたことを思い出させます。

さらには現代の景観思想も、基本的には理想的風景の一派にすぎないようにも思われます。

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2008.03.10

「事実の風景」について

ひきつづきケネス・クラーク『風景画論』の読書ノートです。今回は第二章「事実の風景」について。

キーワードは「光」「雲」「空間」である。しかし「空間」は透視図法との関連も示唆されながら、近景/遠景といったもののことにすぎないように思える。オランダ絵画の話しのなかでわかるように、クラークは「光」(と「影」)によって演出される「空」「雲」について語りたいのである。19世紀イギリスへの序曲とするためである。

だとすると「事実」は、空と雲について述べたかったクラークが、自然主義と事実主義という迂回をしたということだったのではないかと思いたくもなります。しかし「事実」とはなにか、はそれなりにいい設問です。クラークの論を紹介しつつ、ぼくなりに再解釈してまとめてみよう。

(1)小画面/大画面(p.55):目の前に広がる風景を描く風景画は小画面である。構成を工夫しさまざまなものを書き込んだ大画面の風景画は、たいがいアトリエで制作されたものである。ゆえにそれは現地/アトリエの対比である。現地では事実がそのまま見える。しかしアトリエでは、事実は再構成されるか、ねつ造される。

(2)理想/事実:歴史画も宗教画も、面前でおこったことの忠実な記録ではない。聖母マリアの慈愛あるれる表情を描いても、それは事実ではなく理想を描いているのである。それは事実でないからこそ重要視される。いっぽう事実そのものを描くのは、下等なこととされる。ゆえに風景画は蔑視されることもあった。これはイタリア・ルネサンス/北方ルネサンスの対比でもある

(3)理想主義/自然主義:前項の言い換えかもしれないが、クラークは自然主義にたびたび言及している。

(4)風景とはそもそも「事実」なのか?とぼくなりにかんがえると、歴史的には明らかで、風景とはまず目の前にはない、理想化された、空想されたものであった。だから風景=非現実、が歴史的出発点であった。近代になって人間は自然を征服してしまったところで、風景は現実のものとなった。のではないか?自然は芸術を模倣する、といわれるゆえんである。

(5)背景としての風景/単独としての風景:クラークは区別していないが、宗教画などの背景として描かれる風景と、まさに主人公として描かれる風景とは異なると思われる。私見では、風景とは遠景でしか描きようがない。では風景としての風景画は、近景がない、あるいは工夫して近景が空白、不在、虚無として描かれることになる。ぼくはそう考えるのが好きなのである。

ということでクラークは「事実の風景画」=「17世紀オランダ風景画」をこの章で説明しようとしている。そこにいたる前書きは30ページにもわたる。ペヴスナーもそうであるが、イギリス風の語りは個人的には嫌いである。語りに完全に身を委ねるとそれなりに心地よいが、批判的な距離を保とうとするととたんにイライラする。

いちおう読書レジメ風にだらだらと書いてみよう。

フーベルト・ファン・エイク《トリノ時祈書》(p.55)はきわめて小型の風景画であって、最初の近代風景画と呼べる。彼は「事物をみたす光の感覚を色彩でもっていかに見事に描出したか」を示す例であった。

ヤン・ファン・エイク《宰相ニコラ・ロランの聖母子》(下左)(p.60)には「前景から後景へと滑るように進んでいける感覚」が見られる。風景画とは「遠景」の発明であった。さらに《聖女バルバラ》(下中)には、異なる建物の習作が、組み合わされている。これは現実の風景を伝えようとする「地誌学的」なものではない。《ゲントの祭壇画》も(下右)。

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上左の《聖母子》であるが、近景は聖母子などテーマが描かれている。3連アーチ窓が、近景と遠景をしきるスクリーン。遠景はそれ単独で存在しうる風景画となっている。橋の欄干に向かって、こちらには背中を向けて、川か遠くかを眺める人物は、まったくの日常と解釈させていただきたいものだ。聖と世俗=日常がレイヤーをなして共存していると解釈したいのである。

「事実の風景画」が成り立つための条件 として「新しい空間感覚」が必要とされる。この感覚は、ヤン・ファン・エイクなどフランドル絵画にとってはあくまで経験的、まさに感覚的であった。これを科学的に理論化したのがフィレンツェの芸術家たちである。クラークは、ルカ・パチョーリ、アルベルティ(カメラ・オブスクラ)、ブルネレスキ(教会堂をつかった実験)らに言及しているがここでは割愛する。彼が強調するのは、ブルネレスキの方法論では「空」が描ききれなかったように、フィレンツェ的な「明確に科学的な透視図法は、自然主義的芸術のための基盤とはならない」ということである。

だからファン・エイクの「事実の風景」をさらに発展させたのは、フィレンツェではなく、ヴェネツィアであり、とりわけジョヴァンニ・ベリーニにおいてである。《聖フランチェスコ》(下左)ではその「遍満たる光」のもと、膨大な自然物が描写されながら、細部描写は統一的である。天からふりそそぐ陽光は、地上のすべてにあふれるのであり、「神はすべてのものに住み、すべては神のうちに在る」のである。さらに《牧場の聖母》(下右)では、肌寒い日のつかのまの微光が描かれている。

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しかしベリーニの風景画は発展しなかった。ローマのルネサンスでは、あくまで人間中心主義的な芸術観が支配的であって、風景はテーマとされなかった。ミケランジェロにとっては、フランドル人が発明した風景画は、芸術の名に値しない些末事であるばかりか、シンメトリーや比例を満たさない、有害なものでさえあった。

そうした偏見のなかでも傑出した画家として、クラークは、ヒエロニムス・ボス《マギの礼拝》(下左)、ヨアヒム・パティニール《ステュクス川を渡るカロン》(下中)、ブリューゲル《イカロスの墜落のある風景》(下右)らを挙げている。彼らはローマ的な理想主義とはまったくことなる自然主義的な画家たちである。とはいえ面前のランドスケープの写真的描写ということではない。さまざまな営みを展開する人間たちを、その無数の細部を、きわめて綿密に描ききる彼らは、17世紀オランダ風景画の前史なのであった。

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上の3葉は、左から右にいくほど、画題となったテーマの扱いがしだいに軽くなってゆく。

カロンはギリシア神話の登場得人物であり、死者の魂を冥府に運ぶのであるが、この絵ではそれは口実にすぎない。画家はむしろ空想的な風景を描きたいのである。

イカロス墜落の光景など、画中のだれも注目していない。付随的テーマが本来のテーマを凌駕してゆく一例だが、ぼくはこういうのもけっこう好きである。

クラークはやっと本題の「17世紀オランダ風景画」に言及する。その背景として3点。(1)社会学的には、ブルジョワ芸術、市民階級的芸術であって、彼らは理想主義的というより現実主義的であった。(2)自由な科学的精神がオランダでは残っていた。曰く「自然観察の時代」「レンズの時代」。(3)芸術がいわば通俗芸術化していた。

しかしクラークは「目に見えるままを表現することを好むネーデルラント人の古来からの性癖」(p.91)とあるように、民族的性格という視点はぬぐいがたくあったようだ。だから彼は、時間軸に沿って、ひとつの絵画形式がすこしずつ発展しているように記述しながら、根底では、オランダらしさのことを考えているのである。

オランダ風景画の例としては、レンブラント《風車》、ライスダール《アルンヘム近くの渡し舟》1561、フェルメール《デルフト遠望》1660-1661、らが挙げられている。クラークの関心の対象は、ブルネレスキが失敗した「空」であり、その空につねに微妙な表現をあたえつづける「光」であった。ここでコンスタブルの「光と影は決して静止せぬものと心得よ」が引用されている。オランダ風景画の核心であるとともに、クラークにとってオランダ絵画とイギリス風景画をつなぐ絆であった。フェルメールの《デルフト風景》では、空と雲を描こうとしたのにたいし、地上の建物たちは、それぞれ違う姿をもちながら、等価なものとして扱われている。光、影、空などが目的であって、地上のものは絵を描くための口実のようなものとなっている。

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18世紀は風景画にとっていい時期ではなかった。絵画は科学ではなくトリックになり、カナレットなど例外のほかは、自然主義的絵画はきわめて困難となった。しかしながら、英国のロイヤル・アカデミーにおいて絵画教授フューリスが風景画の劣等性を述べているとき、コンスタブルはアカデミーの生徒であった、などとクラークは物語を演出するのであった。

以上です。

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2008.03.09

「象徴としての風景」について

 これはケネス・クラーク『風景画論』の第一章のレジメのようなものである。建築設計演習のための副読本、という位置づけだから、物足りなさそうと思われる人はパスしてください。だいぶ前の岩崎美術出版のものとちくま学芸文庫のものがある。どとらも目を通しましたが、今回は後者を参考にしての要旨です。

 まず古代ギリシアでは、芸術家の関心はもっぱら人間にあったので、風景は対象とされなかった。ヘレニズム時代も、風景はたんに装飾として描かれるだけであった。

 このように古代芸術では風景への関心はあまりなかった。しかし風景を描くその手法、とくにビザンチンの手法、光や空間を描く方法、は影響を与えた。

 中世人は自然を象徴のシステムとして読んでいた、というのがこの章の要旨である。

(1)象徴/感覚 

 中世において特徴的なこと。「象徴」が「感覚」よりも圧倒的に重要であった。

 中世絵画は「象徴」的なものである。万物のかたちをシンボルとしてとらえ、あらゆるものはキリスト教の教えのなにがしかを反映していた。シンボルは、その自然物のありのままの姿とはまったく無関係であった。記号学におけるシニフィアンとシニフィエのようなものである。観念こそ神にふさわしいものであった。

Photo 《カンタベリー詩編挿絵》

 中世人は世界を象徴化して理解していた。花、木、は美しいのみならず、神がなんらかの意志を表明しているものであった。

 それに比較して「感覚」は卑しいものであった。人間の感覚を喜ばせるようなものは、それだけで罪深いものであった。庭園には薔薇の花が視覚や嗅覚に快楽をあたえ、歌や物語が聴覚を満足させる。

 一般的に、農夫や漁民にとって自然は観賞の対象ではなく、生活の糧、生命の危険、などより直截な利害にかかわっていた。

(2)庭園/荒野

 12世紀になって「庭園」が「再発見」された。もちろん聖書にも庭園は描かれているからヨーロッパ人が知らなかったのではない。しかし東方文化に触れることで、ふたたびそれを意識することとなった。

 まず「パラダイス」はペルシャ語に由来する。「壁で閉ざされた囲い」を意味する。十字軍活動によりイスラム文化圏の文化が移入されたのであった。

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(左:ケルン派《パラダイスの庭》、右:《一角獣と貴婦人》)

 『薔薇物語』やダンテ『神曲』やスペンサーの『神仙女王』などの中世文学はそれを反映している。あるいはパリのクリュニー博物館所蔵の《貴婦人と一角獣》。これらは〈閉ざされし庭(ホルトゥス・コンクルスス)〉として描かれるのであった。

 庭園と対概念となるのが荒野であり岩山である。庭園は愛らしく、安全である。しかしそこから出れば、自然は、錯乱し、広大で、危険で、畏怖すべきものである。

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(左:《荒野に赴く聖ヨハネ》、右:フィレンツェ派派《隠修士の生活》)

 かくしてゴシック絵画では、荒涼たる奇妙なかっこうをした岩山が、人間に敵対的な自然として描かれる。フィレンツェ派による《隠修士の生活》やジョヴァンニ・ディ・パオロの《荒野に赴く聖ヨハネ》などが典型例である。人間にやさしい庭園とは対極的に、荒野や岩山は人間に敵対的で試練を与えるのである。

 クラークはチェンイーノ・チェンニーニを引用している。孫引きしてみよう。「山を描くためによい方便を得ようと願い、これを自然のものの如くに見せかけようと願うならば、ごつごつした、磨きのかからぬ大きな石をいくつか用意せよ。そそて理性が汝に好しと許す通りに明暗を用いつつ、ありのままにこれを描写せよ」。これはプッサン、ゲインズバラ、ドガらの方法の先取りでもあるそうだ。

 つまり自然の描写とはいいながら、観念的なのである。実際の自然を観察するまえに、あらかじめ定型=自然もどき、を制作しておくのである。

 ゴシック絵画に描かれた山岳がこのように想像上のものであるのは、当時はまだ登山の習慣がなかったからである。生業との関係は注意しなければならない。狩猟は貴族のスポーツであり、登山は近代人の娯楽であり、彼らがそれを楽しんだから絵画として描かれる。農民は海や畑や田園の風景には関心をもたない。それらは美しいと鑑賞するにはあまりに生活に密着している。田園はそれ単独で再発見されたのではない。農民と田園は1セットとなって、領主や、近代人=都会人によって、「再発見」されたのである。これはヨーロッパでも日本でも同じである。

(3)中世的な風景概念からの離脱

 典型例がランブール兄弟による《ベリー公のための豪華時祈書》(15世紀初頭)である。中世的な象徴的伝統が影をひそめ、ネーデルラントに特徴的な、事物をありのままに見ようとする姿勢があらわれている、という。

Photo_6 (ランブール兄弟《時祈書》

 さらにクラークは1420年ころに、人間精神は変化し、「光」と「空間」についての初期科学的なとらえ方がはじまったとして、後段における説話展開を示唆している。

(4)まとめ

 現在では建物と景観が「なじむ」ことのみ評価されている。しかしもともと自然は人間と敵対的であった。荒野と岩山はまた、神のシンボルによって満たされていない、その意味で反宗教的、反人間的な空間であった。

 現在の景観思想、風景思想を生み出した根源にあるのが、人間が自然を支配したという歴史的事実である。風景観はその支配が進展するプロセスのなかで変化してゆく。

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