東方旅行(049)1988年1月17日(日)アンマン
アンマン。帝国、大国のパワーゲーム、難民、といった問題を抱えた・・・というより、そういた課題そのものがこの都市を築く力となった。RCのマッチ箱を単調に並べていったような景観がそれでもそれなりに美しく迫力をもって感じられるのは、そんな背景がにじみ出ているからだろうか。それはともかく。
朝、降雪。寒い。
内務省にて。イエルサレムにゆく許可証を申請。3日後に交付。
Jett Buss Officeにてペトラ行きのチケット購入。往復6JD。
アンマン考古学博物館。死海写本がある。
城砦。ローマ劇場と都市が見える。都市は谷間に形成されていて、平坦な場所はない。建物の敷地はつねに傾斜している。すばらしい眺め。
ローマ劇場。アントニウス=ピウス帝が2世紀に建設したもの。傾斜は強い。傍らに古代k競技場のような広場があった。
民族誌博物館。劇場の隣にあった。ヨルダン、ペトラ、ジェラシュ関連の文献や地図を購入。
両替。60$=20,220JDなり。
アンマンについては予備知識ゼロであった。なので後付学習で補おう。9000年前には定住がみられ、古エジプトの支配をうけていた。アンモン人たちがすむラバ、ラバトという名前で聖書にも登場する。ローマ帝国下ではキリスト教の司教座が設置された。ビザンチン時代を経て、イスラム教時代。しかしこの時代にはさびれた。
1887年、ロシア帝国において弾圧されていたチェルケス人が亡命してきた。1900年、オスマン帝国が鉄道敷設、その主要駅としてアンマンが選ばれ、繁栄がはじまった。1921年、イギリス支配下、政府がここに置かれる。1946年、トランスヨルダン王国が独立、アンマンはその首都となった。イスラエル独立により、多くのパレスチナ難民が押し寄せてきた。
ようするに移民でできた、新しい、きわめて人工的な都市である。
モスクは見なかった。しかし調べたところ、20世紀に建設された大規模なものがあるという。様式はオスマン朝のもの。当然というべきか。
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