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2008.02.27

平戸とラ・ロシェル

 口上から。「平戸プロジェクト」という新カテゴリーをつくりました。

 これは大学でおこなう建築設計の演習のための、背景の説明です。ピックアップすべき背景としては、網野善彦の中世都市論、港湾都市の世界史論、海からの日本史論、港市(こうし)概念、教会建築(とくにゴシック建築)、景観論、とくにロマン派芸術における景観のとらえ方、おなじくロマン派建築におけるランドスケープと建築の一体化という発想、17世紀の世界史的状況、などなどたくさんある。これらの多岐にわたる文脈を、授業でいちいち説明してゆくのはたいへんである。多くの視点を学生がいつでも参照できるように、あらかじめ用意しておかねばならない。そのため、ブログなので断片的で順序だってはいないが、学生と教員が共有すべきカードとして複数枚あらかじめつくっておこうというものである。

 あくまで建築設計教育の補助教材である。建築史、都市史、絵画史、政治史、経済史、国際関係史、宗教史にふれるが、書いているぼくも多くの分野では素人であり、参考文献を読みっぱなしの抜き書きであり、未整理な読書レジメのようなものである。むしろ専門家からのアドバイスも欲しい。そこでブログというオープンな形態をとったしだいである。

 今回はまず平戸は特殊なようで、17世紀の世界史的状況の典型であったというようなお話です。フランスの大西洋側の港湾都市ラ・ロシェルとの類似性である。

 まず事件としては、平戸では1640年前後にオランダ商館取り壊しとその出島移転が決められるが、ほぼ同時期、ラ・ロシェルでは1628年に国王軍は市に侵攻して壊滅させ、王権に従順な都市に去勢化してしまう。その背後に、海外貿易、宗教など、相違点はたくさんあるとはいえ、おなじ問題群を抱えていた。

 ラ・ロシェルLa Rochelleは大西洋を望む港湾都市であり、安野眞幸のいう「港市」であった。深沢克己『近世フランスの港町』(山川出版社2002)にその17世紀の状況がよく書かれている。

海港と文明―近世フランスの港町 (歴史のフロンティア) 海港と文明―近世フランスの港町 (歴史のフロンティア)

著者:深沢 克己
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 12世紀にこの都市はアキテーヌ公領に併合される。しかし一種の自由港となる。国王代官、総監はいなかった。市政体による自治がなされた。市長と24名の参事会員たちがいた。

 イングランド国王ヘンリ二世は1199年に、ラ・ロシェルを自治体として認知する。自治体、すなわち封建領主、教会領主から解放された。13世紀より城壁が建設された。イギリス、フランドルとの外交関係が樹立された。ワインと塩が輸出され、布が輸入された。銀行や商人が、ブルターニュ、スペイン、イギリス、フラマンから集まってきた。15世紀より、カナダ、アンティユ諸島と交易し、奴隷貿易も始まった。

 プロテスタントの都市であった。宗教戦争のさなか、1565年、司祭たちは海に投げ捨てられた。

 深沢克己によれば、ここはプロテスタントの都市であり「国家のなかの国家」であった。1568年、市長たちはカトリックを排除した。権力はプロテスタントが握った。新教徒の安全地帯であり1572年のサン=バルテルミ残虐事件ののちは新教徒たちの避難場所であった。フランス国王軍をとおざけ、イギリスやネーデルラント北部7州と独自の外交関係を維持した。ほとんど「独立都市共和国」であった。

 しかし1620年より、ルイ13世とリシュリユは攻囲戦を展開する。兵糧攻めのすえ2万人が餓死した。1628年、ラ・ロシェルは降伏する。市政体、特権は廃止された。

 宗教的にはカトリックがプロテスタントを、体制的には内陸性国家が海洋性都市を、経済的には農本主義が通商主義を、政治的には絶対主義が都市国家を制圧したのであった。

 ここでラ・ロシェルの観光写真である。撮影は2000年。

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 上は、要塞のような港湾都市の面影はわずかである。いまではリゾート用のヨットハーバーというところか。

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 市門は要塞のように頑丈である。 

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 裁判所。王政時代の古典主義。中世自由都市の自由なスタイルではなく、大国家フランスが強要する厳格な古典主義である。

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 プロテスタント都市ラ・ロシェルが国王に屈服してから、このサン=ルイ大聖堂が建設された。ルイ16世時代のファサードはいわゆる「イエズス会式」であるが、あくまでファサード様式であって、この教会がイエズス会というわけではない。フランス・カトリック教会であることを主張する様式である。十字軍で功績のあった聖ルイ王を祀っているところがあれである。この教会堂の裏には地方長官(国王が直接派遣する官吏)邸があった。

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 広場の地下駐車場。遺構の一部をそのまま露出し、光庭としている。

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 中世以来の市庁舎。15世紀末からの建設。ゴシック様式。ここにいた市長が、カトリックを追い出し、国王と戦った。この市庁舎のすぐ裏に、プロテスタント教会、プロテスタント博物館がある。

 地方長官+大聖堂という国王が支配する空間、市庁舎とプロテスタント教会というかつての都市国家的なものが支配する空間は、今でも都市のなかにそれぞれの場所を占めているのである。

 さて平戸については萩原博文『平戸オランダ商館』(長崎新聞新書2003)である。ラ・ロシェルと比較するためには最適の文献である。具体的、簡潔にして的確である。学生のみなさんにはプロジェクト着手まえの一読をお勧めします。

平戸オランダ商館 日蘭・今も続く小さな交流の物語 (長崎新聞新書) 平戸オランダ商館 日蘭・今も続く小さな交流の物語 (長崎新聞新書)

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 オランダの東インド会社は1602年に設立された。ところで1598年にロッテルダムを出港した5隻のうちリーフデ号は、紆余曲折のすえに、1600年大分県に到着した。乗組員20数名のなかにはかの三浦按針ことウイリアム・アダムスがいた。80年代に人気のあったテレビドラマ『将軍』は彼の波瀾万丈の日本滞在記である。とうぜん今の学生たちはしらないであろう。自慢ではないが、ぼくはロンドンのB&Bで見ていたぞ。ともあれ按針は家康に気に入られ、彼の外交使節となり、旗本という身分まで与えられて活躍するのであった。

 このリーフデ号の日本到着を知った東インド会社は、日本との通用をすることとし、船団を派遣した。1609年、船団は平戸に到着した。ところで松浦鎭信(1614年没)は、ポルトガル以外の貿易対象をもとめていた。家康もまたカトリックの国スペイン・ポルトガルではなくプロテスタントのオランダにたいして好意的であった。オランダ人たちはこのような好条件のもと、平戸に商館を建設することとした。1611年より平戸にオランダ商館が建設された。

 ところで平戸藩主・松浦隆信はオランダと強い協力関係の構築を目指した。1624年、タイオワン(台湾島南部)事件もあったが、日本とオランダの貿易は黄金期を迎える。とくに平戸藩はその日本側の窓口であって、萩原博文は「平戸藩とオランダ商館は運命共同体」であったと書いている。

 隆信は、1635年にはマカオ侵攻をクーケバックルと話し合い、1636年はマニラ遠征計画を練っていた。1637年、島原の乱では、オランダ船は乱の鎮圧に貢献した。これらは東アジア貿易圏の支配を、平戸とオランダが共同で目指そうというものであった。

 平戸の商館関連施設は充実していった。1636年、オランダ商館は石造大火倉庫を。台湾サッカム製のレンガがつかわれた。1630年代末は倉庫や商館増築など建設ラッシュであった。しかしそれがあまりに豪華な建物であったので、幕府は1639年、すべての建物の取り壊しを命じた。そして1641年には長崎出島への移転が命じられた。平戸では20年ほど前から商館関連施設の発掘調査がなされており、また、オランダ商館建築の復元プロジェクトも練られている。

 ラ・ロシェルと平戸との比較。

 地理的類似性。どちらも島であった。ラ・ロシェルは大陸の一部とはいえ、大西洋に面し、さらに沼地に取り囲まれておりほとんど大陸から切り離された島であった。平戸もまた、東シナ海を望み、半島、大陸、東南アジアなどを望む、島であった。

 内陸性国家と海洋性都市国家の矛盾。ラ・ロシェルはオランダのように海外貿易で冨を蓄積し、政治的にも自律し、ほとんど独立国にようになりつつあった。フランス王国はこれが許せなかった。これは平戸と幕府の関係でもあったのではないか。たんに宗教や海外貿易独占の話しではないであろう。幕府は幕府で、統一したはずの端部が、独自に海外とネットワークを構築することで、自律した強大な勢力になることをもっとも恐れたのではないか。

 交易主義と農本主義の矛盾。ラ・ロシェルは交易で自律と冨を獲得しようとしたが、フランスはコルベールの重商主義とはいいながら18世紀になると重農主義で経済を立て直そうとするなど農本主義ともいえる方向を選んでいた。これは幕府による日本統一のシステムとほぼ同様といえよう。網野善彦はこの農本主義的なものがつくられた視点であることを強調している。

 宗教的な問題もあったこと。ラ・ロシェルは、プロテスタント都市が、カトリック国家によって侵攻され支配されたという結末であった。とはいえフランスは教皇の支配力から自由であろうとする国家であって、ヨーロッパ内での覇権争いにおいてもスペイン(ハプスブルグ家)とは敵対関係にあった。平戸では、まずカトリック=ポルトガル・スペインを追放するために、プロテスタントが利用され、つぎにプロテスタントも結局は出島に幽閉される。などと考えるとブルボン王朝と幕府は、同じ宗教を共有しているのではないが、独自路線の選び方はなんとなく似ているではないか。

 フランスは内陸型大国家をめざし、海洋性都市国家を破壊しようとした。そのためグローバルな情勢のなかではつねに遅れてしまい、イギリスとの植民地争奪戦争では連戦連敗であった。大陸内部のグローバルな状況を支配しつづけた。幕府は、島国日本の天下統一を維持するために、島国でありながらどこか内陸的大国家のような路線をとったと表現できないか。鎖国とは、そういう矛盾に満ちた選択であったように思える。日本には大陸はなかったからである。

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