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2008.02.17

フランスの裁判所(2)

 なぜ裁判所か?自分たちの法で、自分たちを裁くというのが地域の権利であり、自律性である。これは地方分権の基盤である。それが歴史的な底流をなしているのがヨーロッパであり、都市や建築を考えるための不可欠の背景である。

 つまり市庁舎、市長公邸、地方議会なども大切だが、司法機関というのも地域が自律していることの象徴にもなりえる。だから重要な建物として注目されるのである。

 15世紀から18世紀までのフランスの裁判所施設に関心をもっていたのだが、遅まきながら滝沢正『フランス法』(三省堂、1997)で体系的に勉強してみる。著者は法学の専門家である。

 素人にとって困るのは、西洋史学者と法学者とでは書き方が違うということであろう。そもそも用語(訳語)が違う。たとえばふつうは高等法院(Parlement)とするのだが、この法学者は「最高法院」と訳す。上訴は不可能、つまりその上位にはもはや上級裁判所はない、のだから。同様に西洋史では「三部会」とするものを、法学ではあえて「全国身分会議」とする。またあたりまえの話し、法学者にとって裁判所は主役であり、歴史学者にとっては登場人物のひとつにすぎない。しかし概念の正確な定義を与えてくれるのはやはり法学者であり、あたりまえのこと、素人にとっては心強い。

 西洋史が強調せず、法学が重要視するのは「法源」という概念である。古代末にはローマ法とゲルマン法の二元論であった。これは属人主義である。しかしこの二元論はやがて克服されて、属地主義にもとづく慣習法のいう方式で統一された。しかし慣習法は地方ごとにことなっており、きわめて多様であった。多様な慣習法は北フランスと南フランスでおおきくふたつのグループにわけられる。北はまさに「慣習法地方」と呼ばれ、南は「成文法地方」である。一般的に北はゲルマン法がよく保存され、南はローマ法に支配されている割合が大きい。しかしいずれにせよ慣習法が地方ごとにまったくことなる状況であった。

 17世紀と18世紀のいわゆる「絶対主義」時代にあっても法源は慣習法であった。この多様な慣習法を統一する動きがこの時期には顕著であった。それ以外に制定法、判例法があった。

 中世の領主裁判権、教会裁判権はもはやなく国王裁判権にほぼ統一されていた。ただ国王がみずからその司法権を行使するのではなく、機関が行っていた。これを委任裁判(justice déléguée)制度というのだそうだ。

 国王裁判権はいわゆる三審制でなされる。まず至高法院(cour souveraine)がいちばん上である。これらはふつう高等法院(parlement)と呼ばれる。しかし滝沢先生はあえて「最高法院」と呼ぶのである。しかしぼくとしては高等法院でいこうかな。さらに中間にあるのが上座裁判所(présidial)。さらにその下級には代官裁判所(baillage, sénéchaussée)がある。後者は西洋史ではそれぞれバイヤージュ、セネショセなどとする。国王の代官だから、国王代官裁判所とする訳もある。ただ西洋史学者がカタカナでそのまま標記するのは、どうもたんにカッコにくくっただけのようにも思える。

 西洋史ではこの高等法院がよく出てくる。ここでは滝沢先生のご説明をまとめてみよう。

 まず高等法院は、地方ごとにある。パリ高等法院のみであった時代は短い。それ以上、上訴できない最終院が、パリだけではくギエンヌ、ブルターニュなどにあるということは、地域の最終裁で決まったことが、他の裁判所で破棄されたり覆ることはないということ。これが自律の意味である。

 貴族階級がその政治的な主張し、国王の権力に対抗するための温床が、この高等法院であった。売官制であり、国王も罷免できなかった。いわゆる法服貴族(noblesse d'épée)が力をもったのはここであった。貴族階級=高等法院は、ルイ15世時代から顕著に王権に対抗した。ルイ16世時代にさらに顕著になった。チュルゴー、ネッケル、カロンヌらの財政改革はその反対のために頓挫した。

 それでは高等法院はいかなる権力をもって、国王にたてついたのか。

(1)法規的判決(arrêt de règlement)の権限。すなわちある事件に関する事柄について立法する権限。

(2)法令登録(enreigistrement)権。王令は、高等法院の登録簿に記載されてはじめてその高等法院の管轄区域内で効力をもつ。つまり高等法院は消極的ながら、王令への拒否権をもつ。

(3)諫言(remontrance)権。国王の立法や行政について注文をつける権利。これを「建言」と訳す向きもあり、素人は混乱しますね。

 では国王はいかなる手段をもって高等法院を支配しようとしたか。

(1)親臨法廷(lit de justice)。

(2)国王顧問会議(Conseil du roi):ここに訴訟関係顧問会議なるものがあって、王令に違反した判決の破毀事件などをとりあつかう。こうして国王の管轄権を回復する。

(3)地方長官(intendant)。各地方総監区に派遣する。これは後の、内務省が派遣する知事のようなものか?

 このように国王と高等法院は競い合っていた。当時の都市プロジェクト、建築プロジェクトの背後にもこうした力関係はつねに反映されている。

 さて裁判所が裁判所であるための根拠、法源は、慣習法であることはすでに述べた。ヴォルテールは「宿場ごとに馬を換えるように慣習法が変わる」と皮肉ったそうである。煩雑であっただろうが地域の独自性の反映でもあった。16世紀にはフランス内のほとんどすべての慣習法の編纂が終わっていたようである。その体系は階層構造をなしている。局地慣習法(coutume locale)、普通慣習法(coutume générale)、大慣習法(grande coutume)。大慣習法のなかでパリのものは1510年と1580年、ブルターニュのものは1539年と1580年に編纂されている。

 ブルターニュ公国は845年に成立し1532年にフランス王国に併合されたが、1980年代にふたたびひとつの地域圏として政治的まとまりをもった。しかしフランス王国の一部であった時代も、独自の慣習法と高等法院をもって自律しようとしていた(ただし王権に反抗してお仕置きをくらったこともあったが)。

 

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