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2008年2月の9件の記事

2008.02.27

平戸とラ・ロシェル

 口上から。「平戸プロジェクト」という新カテゴリーをつくりました。

 これは大学でおこなう建築設計の演習のための、背景の説明です。ピックアップすべき背景としては、網野善彦の中世都市論、港湾都市の世界史論、海からの日本史論、港市(こうし)概念、教会建築(とくにゴシック建築)、景観論、とくにロマン派芸術における景観のとらえ方、おなじくロマン派建築におけるランドスケープと建築の一体化という発想、17世紀の世界史的状況、などなどたくさんある。これらの多岐にわたる文脈を、授業でいちいち説明してゆくのはたいへんである。多くの視点を学生がいつでも参照できるように、あらかじめ用意しておかねばならない。そのため、ブログなので断片的で順序だってはいないが、学生と教員が共有すべきカードとして複数枚あらかじめつくっておこうというものである。

 あくまで建築設計教育の補助教材である。建築史、都市史、絵画史、政治史、経済史、国際関係史、宗教史にふれるが、書いているぼくも多くの分野では素人であり、参考文献を読みっぱなしの抜き書きであり、未整理な読書レジメのようなものである。むしろ専門家からのアドバイスも欲しい。そこでブログというオープンな形態をとったしだいである。

 今回はまず平戸は特殊なようで、17世紀の世界史的状況の典型であったというようなお話です。フランスの大西洋側の港湾都市ラ・ロシェルとの類似性である。

 まず事件としては、平戸では1640年前後にオランダ商館取り壊しとその出島移転が決められるが、ほぼ同時期、ラ・ロシェルでは1628年に国王軍は市に侵攻して壊滅させ、王権に従順な都市に去勢化してしまう。その背後に、海外貿易、宗教など、相違点はたくさんあるとはいえ、おなじ問題群を抱えていた。

 ラ・ロシェルLa Rochelleは大西洋を望む港湾都市であり、安野眞幸のいう「港市」であった。深沢克己『近世フランスの港町』(山川出版社2002)にその17世紀の状況がよく書かれている。

海港と文明―近世フランスの港町 (歴史のフロンティア) 海港と文明―近世フランスの港町 (歴史のフロンティア)

著者:深沢 克己
販売元:山川出版社
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 12世紀にこの都市はアキテーヌ公領に併合される。しかし一種の自由港となる。国王代官、総監はいなかった。市政体による自治がなされた。市長と24名の参事会員たちがいた。

 イングランド国王ヘンリ二世は1199年に、ラ・ロシェルを自治体として認知する。自治体、すなわち封建領主、教会領主から解放された。13世紀より城壁が建設された。イギリス、フランドルとの外交関係が樹立された。ワインと塩が輸出され、布が輸入された。銀行や商人が、ブルターニュ、スペイン、イギリス、フラマンから集まってきた。15世紀より、カナダ、アンティユ諸島と交易し、奴隷貿易も始まった。

 プロテスタントの都市であった。宗教戦争のさなか、1565年、司祭たちは海に投げ捨てられた。

 深沢克己によれば、ここはプロテスタントの都市であり「国家のなかの国家」であった。1568年、市長たちはカトリックを排除した。権力はプロテスタントが握った。新教徒の安全地帯であり1572年のサン=バルテルミ残虐事件ののちは新教徒たちの避難場所であった。フランス国王軍をとおざけ、イギリスやネーデルラント北部7州と独自の外交関係を維持した。ほとんど「独立都市共和国」であった。

 しかし1620年より、ルイ13世とリシュリユは攻囲戦を展開する。兵糧攻めのすえ2万人が餓死した。1628年、ラ・ロシェルは降伏する。市政体、特権は廃止された。

 宗教的にはカトリックがプロテスタントを、体制的には内陸性国家が海洋性都市を、経済的には農本主義が通商主義を、政治的には絶対主義が都市国家を制圧したのであった。

 ここでラ・ロシェルの観光写真である。撮影は2000年。

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 上は、要塞のような港湾都市の面影はわずかである。いまではリゾート用のヨットハーバーというところか。

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 市門は要塞のように頑丈である。 

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 裁判所。王政時代の古典主義。中世自由都市の自由なスタイルではなく、大国家フランスが強要する厳格な古典主義である。

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 プロテスタント都市ラ・ロシェルが国王に屈服してから、このサン=ルイ大聖堂が建設された。ルイ16世時代のファサードはいわゆる「イエズス会式」であるが、あくまでファサード様式であって、この教会がイエズス会というわけではない。フランス・カトリック教会であることを主張する様式である。十字軍で功績のあった聖ルイ王を祀っているところがあれである。この教会堂の裏には地方長官(国王が直接派遣する官吏)邸があった。

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 広場の地下駐車場。遺構の一部をそのまま露出し、光庭としている。

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 中世以来の市庁舎。15世紀末からの建設。ゴシック様式。ここにいた市長が、カトリックを追い出し、国王と戦った。この市庁舎のすぐ裏に、プロテスタント教会、プロテスタント博物館がある。

 地方長官+大聖堂という国王が支配する空間、市庁舎とプロテスタント教会というかつての都市国家的なものが支配する空間は、今でも都市のなかにそれぞれの場所を占めているのである。

 さて平戸については萩原博文『平戸オランダ商館』(長崎新聞新書2003)である。ラ・ロシェルと比較するためには最適の文献である。具体的、簡潔にして的確である。学生のみなさんにはプロジェクト着手まえの一読をお勧めします。

平戸オランダ商館 日蘭・今も続く小さな交流の物語 (長崎新聞新書) 平戸オランダ商館 日蘭・今も続く小さな交流の物語 (長崎新聞新書)

著者:萩原 博文
販売元:長崎新聞社
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 オランダの東インド会社は1602年に設立された。ところで1598年にロッテルダムを出港した5隻のうちリーフデ号は、紆余曲折のすえに、1600年大分県に到着した。乗組員20数名のなかにはかの三浦按針ことウイリアム・アダムスがいた。80年代に人気のあったテレビドラマ『将軍』は彼の波瀾万丈の日本滞在記である。とうぜん今の学生たちはしらないであろう。自慢ではないが、ぼくはロンドンのB&Bで見ていたぞ。ともあれ按針は家康に気に入られ、彼の外交使節となり、旗本という身分まで与えられて活躍するのであった。

 このリーフデ号の日本到着を知った東インド会社は、日本との通用をすることとし、船団を派遣した。1609年、船団は平戸に到着した。ところで松浦鎭信(1614年没)は、ポルトガル以外の貿易対象をもとめていた。家康もまたカトリックの国スペイン・ポルトガルではなくプロテスタントのオランダにたいして好意的であった。オランダ人たちはこのような好条件のもと、平戸に商館を建設することとした。1611年より平戸にオランダ商館が建設された。

 ところで平戸藩主・松浦隆信はオランダと強い協力関係の構築を目指した。1624年、タイオワン(台湾島南部)事件もあったが、日本とオランダの貿易は黄金期を迎える。とくに平戸藩はその日本側の窓口であって、萩原博文は「平戸藩とオランダ商館は運命共同体」であったと書いている。

 隆信は、1635年にはマカオ侵攻をクーケバックルと話し合い、1636年はマニラ遠征計画を練っていた。1637年、島原の乱では、オランダ船は乱の鎮圧に貢献した。これらは東アジア貿易圏の支配を、平戸とオランダが共同で目指そうというものであった。

 平戸の商館関連施設は充実していった。1636年、オランダ商館は石造大火倉庫を。台湾サッカム製のレンガがつかわれた。1630年代末は倉庫や商館増築など建設ラッシュであった。しかしそれがあまりに豪華な建物であったので、幕府は1639年、すべての建物の取り壊しを命じた。そして1641年には長崎出島への移転が命じられた。平戸では20年ほど前から商館関連施設の発掘調査がなされており、また、オランダ商館建築の復元プロジェクトも練られている。

 ラ・ロシェルと平戸との比較。

 地理的類似性。どちらも島であった。ラ・ロシェルは大陸の一部とはいえ、大西洋に面し、さらに沼地に取り囲まれておりほとんど大陸から切り離された島であった。平戸もまた、東シナ海を望み、半島、大陸、東南アジアなどを望む、島であった。

 内陸性国家と海洋性都市国家の矛盾。ラ・ロシェルはオランダのように海外貿易で冨を蓄積し、政治的にも自律し、ほとんど独立国にようになりつつあった。フランス王国はこれが許せなかった。これは平戸と幕府の関係でもあったのではないか。たんに宗教や海外貿易独占の話しではないであろう。幕府は幕府で、統一したはずの端部が、独自に海外とネットワークを構築することで、自律した強大な勢力になることをもっとも恐れたのではないか。

 交易主義と農本主義の矛盾。ラ・ロシェルは交易で自律と冨を獲得しようとしたが、フランスはコルベールの重商主義とはいいながら18世紀になると重農主義で経済を立て直そうとするなど農本主義ともいえる方向を選んでいた。これは幕府による日本統一のシステムとほぼ同様といえよう。網野善彦はこの農本主義的なものがつくられた視点であることを強調している。

 宗教的な問題もあったこと。ラ・ロシェルは、プロテスタント都市が、カトリック国家によって侵攻され支配されたという結末であった。とはいえフランスは教皇の支配力から自由であろうとする国家であって、ヨーロッパ内での覇権争いにおいてもスペイン(ハプスブルグ家)とは敵対関係にあった。平戸では、まずカトリック=ポルトガル・スペインを追放するために、プロテスタントが利用され、つぎにプロテスタントも結局は出島に幽閉される。などと考えるとブルボン王朝と幕府は、同じ宗教を共有しているのではないが、独自路線の選び方はなんとなく似ているではないか。

 フランスは内陸型大国家をめざし、海洋性都市国家を破壊しようとした。そのためグローバルな情勢のなかではつねに遅れてしまい、イギリスとの植民地争奪戦争では連戦連敗であった。大陸内部のグローバルな状況を支配しつづけた。幕府は、島国日本の天下統一を維持するために、島国でありながらどこか内陸的大国家のような路線をとったと表現できないか。鎖国とは、そういう矛盾に満ちた選択であったように思える。日本には大陸はなかったからである。

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2008.02.26

フランスの裁判所(4)レンヌの上座裁判所

 こういうマニアックなことにはまってしまうのは危険なのだが。2カ月のブランクのおかげで自由な発想がふつふつ、というハイな状態はまだである。とりあえず調べごとということで・・・。

 フランスの地方の公共建築はいかなる運命であったかという命題である。それが古典主義が展開される舞台であった。結論としては控えめでけなげ。現在では歴史的建造物に指定されているものが、そうだという理由は・・・。

 GN先生のご説明によれば、上座裁判所(Présidial)は1551年に創設された。些細なことかもしれないが、『小学館ロベール仏和大辞典』によれば1552年設立である。すでにのべたように、これらは主要なバイイ裁判所(初審)にもうけられた控訴審(ゆえに上座)のための裁判所であった。

 上座裁判所の構成員である。まずセネシャル部長評定官(Sénéchal-président)。評定官(conseiller)が7名。王の弁護士。書記官。彼らは司法を管理し、訴訟にかんするあらゆることを知っていることになっていた。彼らの判決は最終判決であった。とはいえ最重要の訴訟ではなかった。

 ブルターニュには4カ所に上座裁判所が設置された。レンヌ、ナント、ヴァンヴ、カンペールである。初審であるセネシャル裁判所から最終の高等法院までにあげられる訴訟の数を中間段階でなるだけ減そうというものであった。

 まずどの建物に入居するかは、当時としては迅速に検討された。1556年10月30日、高等法院は「レンヌ市の上座裁判所の訴訟遂行にとってどこが適切かを調べる任をうけた、法廷の評定官ふたりのによるレポートにもとづいて、裁判所の法廷は、別の定めがおりるまでは市の共通の建物maison communeにおかれるであろう」と決めた。

 要するに市庁舎(に相当する建物)のなかに間借りしようというのであった。しかし市庁舎は手狭であった。なのでレアール通り、現在のラリエ=デュ=バティ小路にあった監獄に隣接する建物のなかにはいった。この建物は1720年の大火で焼失した。ということはここに150年ほどいたわけだ。

 大火後の仮住まい。モンバロ邸(あるいはブリサック邸)に上座裁判所はあった。これはファンヌリFannerie通りにあった。すなわち現在の市庁舎通りとブリラク通りがなす北西コーナー部分。ここには40年ほどの仮住まいであった。

 結局、ガブリエルが建設した新しい「市庁舎+時計塔+上座裁判所」の複合建築にはいったのが1762年。しかし革命でこの上座裁判所の制度そのものがなくなってしまう。ここには30年もいなかった。

 ただ面白いのは、1556年、上座裁判所は市と建物を共有するということがすでに決められていたことだ。その決まりに従うことは困難であった。まず市庁舎そのものがまともに完成されなかった。さらには大火でそれどころではなくなってしまう。結局、復興事業のひとつとしてガブリエルが建設することで、市庁舎と上座裁判所は同じ屋根のしたにはいることができた。待つこと、ほぼ200年である。いちど決まったことは変えないという、ことである。持続力が強かった、保守的であった、権威主義的であったということでもある。ただひとつの意志がつよく継続される社会であったといえる。

 200年待たされ、30年間それ本来の使い方をすることで空間と機能を一致させたと思ったら、そののち200年は機能が変わってしまう。

 にもかかわらず建築が建築として存在するのは、フレキシビリティということで未来を予測するのでもなく、文化財という名目で過去を引きずるのでもなく、「永遠」をどこかで信じているからなのだろう。

 17世紀ととくに18世紀の古典主義の建築をみていると、その本来の役割を果たしていたのはごく短い期間であった。第二の人生がはるかに長い。ぎゃくにいえば汎用性がある建築であったということ。19世紀におけるゴシック建築の熱狂的な再評価に比べれば、それほど評価もされずむしろ冷遇されているが、けなげにがんばっている。古典主義の実像はそんなところだろうか。ヴェルサイユ宮やルーヴル宮は別にして。

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2008.02.23

東方旅行(041)1988年1月9日(金)テーベにて(2)王家の谷

 今日もルクソールからテーベにかよう。レンタサイクルを利用、「王家の墓」見学である。犬にもおぼえられてしまい、吠えながら追跡される。

 篠原一男がいっていた、窓のまったくない、黒の空間を思い出す。プラン的にはかなりにている。しかし違うのは、ファラオの墓には柱があるということだ。外部のまったくないこうした自律的な空間にとっては、柱があり、それが背後のわずかな空間を隠し、そのことによって経時的な体験をうながすということが、顕著な特質となっている。

 セティ1世の墓。修復中で入れず。このファラオは紀元前13世紀に統治した。セティとはセト神に捧げられた、という意味。

 セト神は砂漠と異邦の神。力、戦争、嵐、偉大さなどを象徴している。下エジプトの支配者であった。オシリス神の重要性が増してくると、この兄オシリスを殺害する悪役をになうようになる。セトはホルスに復習され殺される。これは上下エジプトの統一を神話としたものである。第19王朝になるとセトは復権し、「セト神によるファラオ」としてのセティ1世が即位する。

 ラムセス9世(BC1156-1136)。第20王朝の8番目のファラオ。王家の谷が盗掘の嵐にあったので、安全対策などを講じた。彼の建設事業はよくのこっている。ヘリオポリスの太陽神殿の建物群。またカルナックのアメン神殿の第7パイロンもこのファラオによる。

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 ラムセス9世のミイラは1881年、デル=エル=バハリえ発見された。しかしその墓は古代にすでに知られていた。壁画にはローマやギリシアのものが残っている。「スポイト状」トンネル形式の墓で、すでに伝統的なものであった。彼の自分の墓を、偉大なるラムセス2世の対面においた。

 ラムセス3世(統治1186 to 1155 BC)。平面図と断面図は、奥に奥にすすんでゆく地下空間を示している。しかしぼくのパースからわかるように、食い違い、階段、などをつかって、奥行きそのものを分節化している。

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  トトメス3世(BC1504-1450)の墓。ファラオの生没年はフレッチャーに準拠しているが、これは情報源によって異なる。トトメス2世と側室イシスの子として生まれるが、ハトシェプストが女王となったので、その没後やっと王になった。この墓は1898年発掘された。トトメスとは「トート神の造ったもの」という意味である。ハトシェプストの陰に隠れていた時期に高度な軍事能力を身につけ、エジプトの領土を広げた。

 これも奥に奥にではあるが、ひとつの軸線上に並べるのではなく、ランダムな角度で異なる部屋が連結されている。前室のは柱が2本ある。右のものが軸線の回転をもたらしている。

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 ぼくの手書き平面図はかなり精度が高い。とくにコンベックスで計ったわけではない。建築修行の成果であった。

 セティ2世(在位BC1203-1197)の墓。19王朝第5代ファラオ。

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 Amenophis2世。軸線が90度、回転している。この運動をもたらしたのが、2柱の間の、右の柱であることは明らかだ。

Amenophis_iii

 以上です。 

 長い東方旅行のなかでも、今日は一枚も写真をとらなかった数少ない日。移動日だから撮影しなかった日はいくつかあるが、たくさん遺構を拝見しても撮影しなかったのは今日だけではなかっただろうか。

 それにしても赤外線測量器はおろか、ローテクな定規も巻尺もつかわず、ちゃんと平面も断面もとらえている。たいしたものだ。20年もたつと別人ですな。

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2008.02.18

フランスの裁判所(3)エクサン=プロヴァンス/上座裁判所ほか

 1999-2000年に短期フランス滞在をしました。すでにご紹介したナント、ヴァンス、そしてここエクサン=プロヴァンスで裁判所が新築されていたことが印象的であった。のちに知ったが、ボルドーでもロジャースのものが建設されていた。司法制度の全般的改革の結果であることは想像はつくが、くわしいことを調べようと思っているうちに雑用に追い回される境遇となった。

 このエクサン=プロヴァンス裁判所がある場所は、もともとプロヴァンスの総監邸、高等法院などの建物があった。これらは18世紀末に取り壊された。

 ルドゥが新しい建築を設計し、基礎まで建設されたが、革命によって頓挫した。このプロジェクトは彼の『建築』に収録されている。ふたつの正方形をずらして組み合わせ、都市的な文脈にあわせたもの。裁判所は巨大なポーティコからなる。監獄は、鈍重なトスカナ式オーダーのポーティコ、開口の少ない壁面、からなる。投獄される罪人が脱出の可能性のなさに落胆する、建物の機能をはっきり表明した「語る建築」の例とされている。この裁判所/監獄の組み合わせは珍しくなく、レンヌでもそうであった。

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 建築家パンショPenchaudは、1825年から1832年、ルドゥのプランに従って建設された基礎のうえに、法廷と監獄を建設した。光が降り注ぐ中央ホールが印象的であったという。裁判所のほうは、ルドゥの新古典主義からはほど遠く、平板な古代ローマ様式かあるいはルネサンス様式であろうか。強引なこじつけをすると、南フランスは成文法地帯ということになっており、土地柄もありローマ法の伝統が強い。だから建築もまたローマ風にしなければならない道理はありませんが。監獄はイタリアのパラッツォ建築のプロポーションを変化させたもののように見える。

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 監獄はやがて1998年に改築され、破棄院(Palais Monclarと名づけられた)となった。もともと監獄であったので、外部にたいしては閉鎖的であった。したがって採光は中庭からであり、中庭に面するルーバーが印象的である。これなどは今風にいえば建築遺産の再利用などということになるかもしれませんが、そうではありません。中世以来ずっと司法関係の施設であることを考えると、これは文化財でも遺産でもなんでもなく、裁判所が姿形を変化させながら、ちからづよく生き続けているのである。

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 ところで話題かわって上座裁判所(Présidial)について説明してみよう。フランス版ウィキペディアによれば・・・。

 まず1551年、アンリ2世が王令により上座裁判所(Présidial、プレジディアル)を設立した。フランスの三審制がここに始まったといえるのではないか。下級審としてバイイヤージュ、セネショセがあり、控訴審としてこの上座裁判所が、さらに最上位に高等法院(パルルマン)がある。

 1551年の王令により、60の上座裁判所が設立されたが、そのうちの32はパリ高等法院から分かれたものであった。ルイ14世時代に国王側からの改革としてこの上座裁判所制度を廃止しようという動きがあったことがわかっている。1764年には全国に100の上座裁判所があった。民事、刑事どとらも扱った。

 1790年、旧制度のひとつであったので、廃止された。

 ・・・というわけでほとんどわからない。どんな社会階層の利害を代表していたかもわからない。滝沢正先生のご著書にもまったく解説なし。中規模問題をあつかう高等法院というようなものなのであろうか。もちろん王権と戦う主体などではなっかたのであろう。

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2008.02.17

東方旅行(040)1988年1月8日(金)テーベにて(1)

 1988年1月8日はルクソールを拠点にしてテーベ見学。駅のすぐ前のAmonホテルは一泊4£。レンタル自転車は一日2.5£。連絡船でナイル川を渡ったような。

 テーベのランドスケープははっきりしている。地図をみると、植物が育つボーダーが、破線で書いている。だいたいのラインであろうと思っていた。現地にいくと、まさに地図のとおり、植物が生育できる地帯と、不毛の土地は、まさに一線で隔てられている。グレーな中間地帯はない。生か死か。豊饒か不毛か。厳格な二者択一である。下の地図にはその生育ゾーンを緑で示した。そこではサトウキビが育てられていた。そして豊饒/不毛のボーダー上には、葬祭神殿がならんでいた。王家の谷などの、純粋な埋葬空間は不毛の土地の奥深くある。やがて葬祭神殿から墓が分離し、谷にこもってゆくのもわかるランドスケープである。

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(1)メムノンの巨像。これはアメンホテップ3世の葬祭神殿の入り口を示すもの。フツー。

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(2)メディネト・ハブにあるラムセス3世の葬祭神殿。BC1197-116。オシリス柱、開花型の柱頭。天井の彩色。セティ1世、ラムセス2世(ラムセウム)とともに南北に並んでいる(上に地図では赤のグリグリでマークしてある)。神殿を中心とする巨大複合施設であって、倉庫、宮殿、神官と労働者の居住区などからなっていた。多くの捕虜も収容されていた。テーベの広大なネクロポリスを管理する中枢のような機能を果たしていた。神殿としては、多柱室、聖舟室、アモン神至聖所がある。最後の部屋の左右には、ムート神、コンス神の祭室があった。

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(3)デル・エル=メディーナの集落。トトメス1世(BC1505-1493)が建設した職人の町であった。最盛期には人口400人。一戸の敷地は間口5メートル、奥行き15メートル。平屋。墓は、彩色がよく残っている。プトレマイオス朝時代の神殿。入り口は石造。そのほかの部分は土造。とくにおもしろくない。住戸は、断面が特徴的で、中央に柱のある居間は、ほかの部屋より天井が高く、高窓から通風と採光ができた。

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(4)ラムセウム。ファラオのなかでもとくに著名なラムセス2世の葬祭神殿。かなり破損している。しかし4体のオシリス柱が印象的である。居住部分は、土造のヴォールト天井であった。斜めに積んでいる。

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(5)デル=エル・バハリ

 ハトシェプスト女王葬祭殿。BC1490-1466年。右側の神殿の、下の部分のみ入れる。上の中庭には入れなかった。女性の頭をかたどった柱頭。ドリス式のようなコラム。修復状態はよくない。20年前、神殿は修復中であった。女王の父トトメス1世は、墓と葬祭神殿をべつべつに建設することを考え、建築家イネニに墓の採掘を担当させ、まったく秘密裏に墓を掘らせたとされる。ファラオたちは同じ谷につぎつぎと自分の墓を掘った。そこはそののち「王家の谷」と呼ばれるようになった。女王は、葬祭神殿を建築家センムートSenmut(女王の家庭教師であった)とトゥティThutiyに建設させ、墓はアプセネブに掘らせた。神殿は上下3層のテラスからなり、墓も複数の部屋からなる。さまざまな神が祭られているが、中心となるのはアメン=ラーである。・・・墓の機能を分離したこの葬祭神殿は、それまでのものとまったく異なるデザインとなっている。背景の山と一体となっているが、この山こそがその背後にある王家の谷を隠しているのだから、山や谷といった地形全体を神聖なものとして指し示しているかのようである。

 メントゥホテップ神殿は保存状態よくない。違う色の石をつかっており、まったくそぐわない。失望。

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(6)セティ1世(BC1291-1278)の神殿。どの文面をあたってもあまり詳しく紹介されていない。じっさい保存状態は悪い。しかし簡素でミニマリスム的である。

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フランスの裁判所(2)

 なぜ裁判所か?自分たちの法で、自分たちを裁くというのが地域の権利であり、自律性である。これは地方分権の基盤である。それが歴史的な底流をなしているのがヨーロッパであり、都市や建築を考えるための不可欠の背景である。

 つまり市庁舎、市長公邸、地方議会なども大切だが、司法機関というのも地域が自律していることの象徴にもなりえる。だから重要な建物として注目されるのである。

 15世紀から18世紀までのフランスの裁判所施設に関心をもっていたのだが、遅まきながら滝沢正『フランス法』(三省堂、1997)で体系的に勉強してみる。著者は法学の専門家である。

 素人にとって困るのは、西洋史学者と法学者とでは書き方が違うということであろう。そもそも用語(訳語)が違う。たとえばふつうは高等法院(Parlement)とするのだが、この法学者は「最高法院」と訳す。上訴は不可能、つまりその上位にはもはや上級裁判所はない、のだから。同様に西洋史では「三部会」とするものを、法学ではあえて「全国身分会議」とする。またあたりまえの話し、法学者にとって裁判所は主役であり、歴史学者にとっては登場人物のひとつにすぎない。しかし概念の正確な定義を与えてくれるのはやはり法学者であり、あたりまえのこと、素人にとっては心強い。

 西洋史が強調せず、法学が重要視するのは「法源」という概念である。古代末にはローマ法とゲルマン法の二元論であった。これは属人主義である。しかしこの二元論はやがて克服されて、属地主義にもとづく慣習法のいう方式で統一された。しかし慣習法は地方ごとにことなっており、きわめて多様であった。多様な慣習法は北フランスと南フランスでおおきくふたつのグループにわけられる。北はまさに「慣習法地方」と呼ばれ、南は「成文法地方」である。一般的に北はゲルマン法がよく保存され、南はローマ法に支配されている割合が大きい。しかしいずれにせよ慣習法が地方ごとにまったくことなる状況であった。

 17世紀と18世紀のいわゆる「絶対主義」時代にあっても法源は慣習法であった。この多様な慣習法を統一する動きがこの時期には顕著であった。それ以外に制定法、判例法があった。

 中世の領主裁判権、教会裁判権はもはやなく国王裁判権にほぼ統一されていた。ただ国王がみずからその司法権を行使するのではなく、機関が行っていた。これを委任裁判(justice déléguée)制度というのだそうだ。

 国王裁判権はいわゆる三審制でなされる。まず至高法院(cour souveraine)がいちばん上である。これらはふつう高等法院(parlement)と呼ばれる。しかし滝沢先生はあえて「最高法院」と呼ぶのである。しかしぼくとしては高等法院でいこうかな。さらに中間にあるのが上座裁判所(présidial)。さらにその下級には代官裁判所(baillage, sénéchaussée)がある。後者は西洋史ではそれぞれバイヤージュ、セネショセなどとする。国王の代官だから、国王代官裁判所とする訳もある。ただ西洋史学者がカタカナでそのまま標記するのは、どうもたんにカッコにくくっただけのようにも思える。

 西洋史ではこの高等法院がよく出てくる。ここでは滝沢先生のご説明をまとめてみよう。

 まず高等法院は、地方ごとにある。パリ高等法院のみであった時代は短い。それ以上、上訴できない最終院が、パリだけではくギエンヌ、ブルターニュなどにあるということは、地域の最終裁で決まったことが、他の裁判所で破棄されたり覆ることはないということ。これが自律の意味である。

 貴族階級がその政治的な主張し、国王の権力に対抗するための温床が、この高等法院であった。売官制であり、国王も罷免できなかった。いわゆる法服貴族(noblesse d'épée)が力をもったのはここであった。貴族階級=高等法院は、ルイ15世時代から顕著に王権に対抗した。ルイ16世時代にさらに顕著になった。チュルゴー、ネッケル、カロンヌらの財政改革はその反対のために頓挫した。

 それでは高等法院はいかなる権力をもって、国王にたてついたのか。

(1)法規的判決(arrêt de règlement)の権限。すなわちある事件に関する事柄について立法する権限。

(2)法令登録(enreigistrement)権。王令は、高等法院の登録簿に記載されてはじめてその高等法院の管轄区域内で効力をもつ。つまり高等法院は消極的ながら、王令への拒否権をもつ。

(3)諫言(remontrance)権。国王の立法や行政について注文をつける権利。これを「建言」と訳す向きもあり、素人は混乱しますね。

 では国王はいかなる手段をもって高等法院を支配しようとしたか。

(1)親臨法廷(lit de justice)。

(2)国王顧問会議(Conseil du roi):ここに訴訟関係顧問会議なるものがあって、王令に違反した判決の破毀事件などをとりあつかう。こうして国王の管轄権を回復する。

(3)地方長官(intendant)。各地方総監区に派遣する。これは後の、内務省が派遣する知事のようなものか?

 このように国王と高等法院は競い合っていた。当時の都市プロジェクト、建築プロジェクトの背後にもこうした力関係はつねに反映されている。

 さて裁判所が裁判所であるための根拠、法源は、慣習法であることはすでに述べた。ヴォルテールは「宿場ごとに馬を換えるように慣習法が変わる」と皮肉ったそうである。煩雑であっただろうが地域の独自性の反映でもあった。16世紀にはフランス内のほとんどすべての慣習法の編纂が終わっていたようである。その体系は階層構造をなしている。局地慣習法(coutume locale)、普通慣習法(coutume générale)、大慣習法(grande coutume)。大慣習法のなかでパリのものは1510年と1580年、ブルターニュのものは1539年と1580年に編纂されている。

 ブルターニュ公国は845年に成立し1532年にフランス王国に併合されたが、1980年代にふたたびひとつの地域圏として政治的まとまりをもった。しかしフランス王国の一部であった時代も、独自の慣習法と高等法院をもって自律しようとしていた(ただし王権に反抗してお仕置きをくらったこともあったが)。

 

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2008.02.16

フランスの裁判所

 たぶん2000年であったと思うがナントの裁判所を見学した。ジャン・ヌーヴェルの作としては、それほど評価されていないようだが、なかなかのものであった。まだ開館しておらず、また開館していても観光客など入れないのだが、そういうわけで外だけみた。もともと製鉄関係の施設があったという場所らしく、スチールをふんだんに使った、黒ずくめの、新古典主義である。しかし正面の庇は、柱も細く軽やかで、広々といている。これは見るための建築ではなく、つまりルドゥ的な「語る建築」ではなく、そこから都市を見るためのフレームとして機能する枠組みとなっている。

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 さて以下はフランスにおける裁判所の歴史である。建築の背景にすぎないので、ご興味なければ無視してください。

 高等法院(Parlement)とは、旧制度時代は最高裁判所である。政治的・行政的役割をはたしていた。最高裁判所として、前判決を不服とする控訴を受けいれる控訴院であり、最高裁判所として前判決を破棄する破棄院であった。それらは第三身分の民事と刑事にかかわるものであった。そのほかに貴族同士の起訴を調停する役割もあった。

 そもそも中世初期、王はクリア・レギス(Curia Regis)を主宰し、王国のあらゆることを取り扱った。王権の展開とともに3機能に分割され、コンセイユ・デュ・ロワ(Conseil du Roi:政治)と、会計院(Chambre des comptes:経済)と、高等法院(Parlement、パルルマン:司法)となった。13世紀に発足したパリ高等法院は、15世紀まで王国の全領土に権威を及ぼした。

 1250年頃。パリ高等法院成立。

 1319年、聖職者は高等法院のメンバーにはなれないこととなった。

 1345年、オルドナンス(王令)によって組織形態が最終的に決められた。

 1422年より地方にも設立、18世紀までに13の高等法院が各地域に設立された。1462年、ボルドー高等法院。1477年、ディジョン高等法院。1553年、ブルターニュ高等法院(レンヌ、ナント)。これらの設立にはそれぞれ経緯があって、地域の事情を反映している。各論にはおってふれる。

 教会との関係。前述のように1319年法は聖職者を追い出した。こうして高等法院は、王国がフランス教会を教皇から守るための機関となった。宗教改革と反宗教改革のあいだ、高等法院はトリエント公会議の教義がフランスにもたらされることに抵抗した。

 王との関係。高等法院は王命を登録し、あるいはそれにたいして建言する権限があった。ゆえに高等法院は、君主制をコントロールできる権利をもつようになる。フロンドの乱はその象徴的な事件であった。パリ高等法院は王国における財政管理権を要求する。世襲制であったので、また英国議会を模範として、2院制とし、ひとつは選挙制にすることを要求した。

 1673年、ルイ14世は王令が登録される前に高等法院がそれにコメントすることを禁じた。高等法院は抑圧化にあった。1715年に王が没すると、高等法院は摂政フィリップ・ドルレアンと交渉した。建言をする権利をふたたび持つため、ルイ14世の遺言を破棄することを要求した。

1750年より高等法院は、課税のまえの平等といった、王権による改革を阻止する。ルイ15世は高等法院の数を減した。1771年、高等法院は政治的機能を取り上げられた。しかし1774年、ルイ16世は高等法院を招集してしまったので、その高等法院の反対にであうようになった。1780年代の高等法院の活動は革命への序曲となった。しかし革命のよってその活動は停止した。1790年より国選の裁判官制度となる。

 

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2008.02.13

東方旅行(039)1988年1月7日(木)アスワンからルクソールへ

 冬休みが長すぎたせいで、とうとう東方旅行の日付を追い抜いてしまいました。ほんとうに時は疲れを知らない子供(古いね!)のようです。さて久しぶりに旅行アルバムの虫干しをしなければ。

 とりあえず20年前にタイムトリップ。1月7日はなにか特別な日だっけ?Remember the time・・・. 一日としては長旅であった。ホテルのおやじに相談して、スペシャル・タクシーを呼んでもらった。アスワンからルクソールという長征である。240キロメートルの行程。60£也。途中でコム・オンボ、エドフ、エスナに止まって、それぞれ50分(正確な数字は忘れた)待機してもらい、ぼくは神殿を見学する、という契約である。約束の時間にはきっちりタクシーに戻るのだが、運ちゃんはせかすせかす。

 古い宗教建築には共通していえるのだが、本来の姿と、遺構とはまったく違う。もともと宗教建築はまったくバーチャル・リアリティの建築であり、色鮮やかな彫刻、レリーフ、壁画、などによって彼岸の世界をもたらす。しかし時がたってこれらの装飾が色あせると、構造体が露出する。それは構造、空間の骨格をはっきり示す、別の価値観をもたらす。それは建築的な価値観ともいえる。しかしそれは本来のものではない。エジプトでもそうなのだが、圧倒的な物質の力のまえに古代人とは別の幻想を見てしまうのである。

 コム・オンボにはセベク(Sebek:頭がワニになった男神、プトレマイオス朝時代にギリシア神話のヘリオスと同一視される)とハロエリス(Haroeris:ハヤブサ頭の男神でホルスの地域名)の神殿。紀元前145年~後14年。二神のために、入口、至聖所が左右に並ぶ。中央にアプローチがないのでなにかうっとうしい。珍しい形式である。しかも周歩廊も二重である。

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 エドフにはホルス神殿(紀元前237年~57年)。至聖所をとりかこむブロックを、さらに周歩廊がとりかこむ。儀式行列がなされるためである。棕櫚などの形をしたさまざまな様式の柱頭が華やか。厳格で死と彼岸を連想させる建築でありながら豪華である。

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 エスナの神殿は遺構といっても、ほとんど残っていないぞ。・・・とはいってもここだけ見ればすごい遺跡だろうが、今日三つ目となるとね。見過ぎに注意しましょう。

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 そしてルクソールに到着。さよなら、運転手のお兄さん!駅にいってルクソールからカイロまでの切符を予約する。4.5£也。ホテルの部屋も確保。Hotek El Asalem。一泊3£。でもひどい部屋。ほこりだらけで、クモの巣も。さすがに夜になって部屋を変えてもらった。今度は5£。トリプルを独り占めである。ここも汚い部屋だが、ともかくも息ができる。でも明日はまた部屋を変えよう。少し高くとも心安らかになれる部屋に。

 今日は盛りだくさんである。宿を確保して荷物をあずけると、残り時間でカルナック見学である。いわずとしれたアメン・ラー神殿とコンス神殿。段階をおって建設されながら、構成原理が一貫しており、統一性をしっかり保った複合的な神殿である。そうした場合では、壁で囲まれた部屋がたくさんならんでも大建築という雰囲気はしない。ここで偉大さを示しているのは、ひたすら柱、柱、柱・・・である。多柱室。歴史上いくつかの印象的な多柱室が建設された。アメン・ラー神殿(1530-323BC)のものは、柱が膨らみ、空間を圧倒している顕著な例である。アメンは太陽神、もともとここテーベ地方の豊饒神。アブシンベルにもアメンは祭られているが、ここが本拠である。

  多柱室は中心軸の上が高くなって、ハイサイド・ライトとなっている。これは教会堂の身廊のようなので、クリアストーリーなどとも呼ばれる。おそらく、暗い室内に光がさまざまなニュアンスをもって導かれる印象的な光景があったはずである。

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 これにたいしてコンス神殿(コンスは月神)は、小規模で、バランスがよい。でも光がはるか上から降りてくるといった感激はないだろうね。

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・・・でも今日は見すぎだね。いや満腹。朝昼晩(それにおやつまで)ステーキいただいてどうするのかね?

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2008.02.03

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