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2007.12.20

救急車について

 霊柩車について書いた建築史家がいた。なるほどそれは意匠が華やか展開される対象である。生の世界から、あの世への移行、つまりトランジショナルな状況というのはデザインが展開される格好の舞台であるのは事実だ。

 それにたいして救急車は合理性だけである。あるいはそのサービスをめぐって社会的な批判などがされたりする。デザイン的に工夫がないのは、道路輸送車両法で規定されているからである。白だけである。青、赤などの帯がはいる場合がほとんどだが、消防本部ごとにちがう。ともあれ合理性に支配され、画一的であるのは、救急車というものがあくまでこちらの世界に属するのだ、という社会的合意があるからである。そのなかで帰らぬこととなる人がいたとしても。

 救急車はかなりスタンダード化されていて、商用ワンボックスカーをベースとした2B(ツーベッド)タイプと、マイクロバスをベースにした3Bがあるが、日本ではほとんど2Bである。

 地方自治体ごとに、その消防本部が次年度にどのタイプをなん台必要かなどの内容を決定し、議会が年度計画を決定する。決定されれば、消防本部は登録された販売業者に入札公示する。競争入札である。落札した販売業者は自動車メーカーに発注する。公共事業に似た発注方式であるが、談合などの不祥事はほとんど発生していないという。

 救急車は医療サービスにおける不可欠の一部なので、都市計画などの分野で、病院の広域配置計画などにからめて、研究している人がいる。ただそれでなん人もの研究者を養えるほどではないようだ。

 救急車は今は民生用であるが、もともとは軍事用であった。19世紀初頭のナポレオン戦争で負傷兵の搬送に使われたのが最初だとされている。近代戦はロジスティクス=兵站が根本なのだが、それが動脈とすれば、負傷兵搬送は静脈であろう。都市物流をロジスティクスと称する場合もあって、都市を運営するのも戦時体制的というわけか。テロにより都市内が戦場と化すのが21世紀であれば、救急車の役割は伝統どおりというブラックな話も成立するのである。

 これほど大切な救急車であるが、ギーディオンの『機械化の文化史』のなかでもほとんど触れられていない。どなたかいい文献を教えて下さい。

 それはともかくぼくは救急車とけっこう親しい。学生のころ過呼吸症候群というものに2度ほど陥って、そのたびに救急車で搬送された。ただ当時はこの症候群についての情報が一般的でなく、一度は酸素マスクをつけらてしまい、症状はますますひどくなった。つまり血液中の酸素濃度が高すぎることで毛細血管が収縮し、血行不良となり、手足がしびれ、意識が遠のいてゆく患者に、さらに酸素を吸引させるのである!この時点でぼくは『海辺のカフカ』のナカタさんになってしまったと思われる。 

 最近では神経が圧迫される疾患で、2度ほどお世話になった。自分でもわかるが、自立できない身体というのは、スーツケース3個以上のたいへん重い荷物である。眠った子供でも重いのだから、固まったおじさんは超重いぞ。それを搬送するのにさまざまな道具があるというのも初めて知った。横たわって固まってしまった身体を、その姿勢のままで、すくい上げるように運ぶ担架とか。建築をやっているから、エレベータがそれをちゃんと勘定にいれているのは知っていたが。ともかくもそこが救急医療行為のための道具がコンパクトにかつ調密にセットされた医療カプセルであるとどうじに、患者の身体性をも反映しているこを実感として知ったのである。

 人間の身体性によって決まってしまう基本数値というのはよくある。エレベータのない階段だけの建物高さは、20メートルていどが限度である。それ以上の高さになると人間は引きこもってしまうそうだ。そういえばパリで7階エレベータなしのアパルトマンに8カ月生活したことがあったが、9カ月目があったなら引っ越したであろう。

 話は変わるが、ナントやボルドーの、フランス大西洋側のひとびとが、かつて奴隷貿易をやっていて、国家としては謝罪したので歴史的過去のなったにもかかわらず、そのことにいまでも良心の呵責を感じ、トラウマとなっている。奴隷船のプランに、奴隷たちがどこまで高密に運べるかということを示した有名な図面の、オリジナルと思われるものをボルドーの博物館で見た。人間の専有面積をミニマムに計算し、機械的に総床面積にあてはめた、なるほど非人間的なものだ。しかし悪魔的に前提を変えてみるとすれば、作図者が横臥を人間的扱いと考えていて、それでこれだけ収用できるスタディとしたら?人間を数値化するということは合理主義としては必要なことだが、当の分析者の責任があとあとごまかしようなく証拠を残してしまうという例かもしれないと思った。

 つまり奴隷ひとりの床面積と、ぼくのを運んだ担架の面積はさほど変わらない。これは『夜と霧』のなかの逸話であったが、被収容者が横たわっている寝室は、その写真だけを見た者には地獄であるが、被収用経験のある人からすると、強制労働を免れた天国である、といったことである。

 重さに戻って、宅急便の荷物の荷重は20Kgまでで、スーツケースていどである。これは運ぶ人間が腰痛にならないですむ上限ということであろう。

 身動きできない身体になると、荷重60Kg+α(人によっては100Kg超)となるわけで、それは通常のシステムを超えた、特注のものが必要となる。そのための救急車だといってしまえばそれだけだが、昨今では必要もないのに呼ぶ事例が全体の40%超にもなるということも聞いたことがある。お互いのために濫用に注意いたしましょう。

 ただ救急車に搬入されたときのあの安心感。自分の身体を医療に引き渡したというまな板の上の鯉感覚。あれが濫用のもとなのでしょうか。少なくとも人びとには好評である、ということでしょうか。

 

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コメント

まな板の上の鯉状態。
僕は救急車で運ばれた経験がないので分かりませんが、
身体を医療機関に引き渡すという意味ではたしかに、
救急車は安心感を引き出すものであるかもしれません。
しかし、先生に何度もその安心感を味わってもらうわけには
いきませんので、お体には十分に気をつけてください。

投稿: mako | 2007.12.24 11:25

突然に書き込み失礼いたします。
衛生思想 建築 と検索したところ、こちらにきました。

20世紀初頭のモダニズムの白と衛生思想についての関連資料を現在さがしております。もし、よろしければ参考になる書籍などをご紹介いただけませんでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。

投稿: oishi | 2008.01.17 19:15

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