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2007.12.14

欠落について、あるいは村上春樹『東京奇譚集』を読んで

 ・・・部屋の奥はどうなっているかわからなかった。行き止まりになっているのか、延々とつづいて外に出るのかも、わからなかった。カーブして長々と続いているので、部屋と呼ぶにもすこし抵抗がある。廊下にも思える。キリコの絵をまっさきに連想した。

 現場にいって見たのではない。写真をとおして見た、というより写真家による解釈そのものを見たのかもしれない。マッキントッシュの黒い椅子は、背後のカーブする白い壁をなんとか固定しようとしているようだ。小津安二郎ばりのローアングル。キリコの絵が建物の背後にひそむものを示唆しているように、この写真は奥になにかが隠されているのを語っているようだ。未来ではなさそうだ。むしろ過去。あるいは不安。

 しかしなにかが示されていない、隠されている、というのは書き方の問題だろう。受け止める奥の壁がないということは、欠如、欠落のひとつの表現なのである。つまりテーマとしての欠落(そのもの)。

 などいう叙述をたいして文才もないぼくが試みる。伊東豊雄の《中野本町の家》を思い出しながらである。

 空港バス、ロビー、機中と移動しながら村上春樹の『東京奇譚集』を読む。

 これらは欠落の物語りである。

 自分がホモセクシュアルであることに気がつき男性性の一部を欠落した男と、乳ガン検査に不安をいだく女、手術によって乳房を除去した男の姉、という欠如のシンメトリー。おたがいになにかを欠いていると分かりあえたとき、姉と弟は10年ぶりに和解する。

 サーフィンをしているときに鮫に襲われて片足を(そして命を)失った少年、息子を失ったその母親、その喪失によってそもそも母親としての愛情が不足していたことに起因する心の欠損。彼女は欠落を追い求めるように、働き、旅する。

 夫が失踪してしまった夫人、記憶と体重を失った当の夫。しかし彼らがそれらを回復したときに興信所の人間がみせる、冷ややかな祝賀と同情。

 『日々移動する腎臓のかたちをした石』は、小説家の書く物語のなかの小道具であったが、それがつきあっている女との関係のなかで、つまりメタストーリーのなかまで入り込んでしまう。この石はなにかの情念の実体化なのだが、それは移動し、戻り、消える。そうしたなかで男はその女が「本当に意味を持つ」女であったこととし、そして「彼は身体のどこかでキリエの欠落を感じ続けることだろう」。欠落こそが愛であり意味であるかのように。

 『品川猿』に名前を奪われた女は、自分の名前をときどき思い出せなくなった。猿は捕まり、盗みを白状した。女は自分の名札と名前を回復し、その欠落を埋めもどした。しかしそのとき母親や姉からは愛してもらえなかったことをはじめて自覚する。知ってはいた事実と正面から向かい合うようになる。名前の欠落は、べつのそれ、愛情の欠落となって現前する。しかし女にとってそれは辛いがむしろ良いことであった。

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 この短編集のなかで「欠落」は、対称構造、入れ子構造、階層構造、置換構造、などさまざまな構造化された姿で描かれる。欠落こそが吸引力をもつとか、欠落こそが人間を人間たらしめるとか、世界を活性化させるゼロ記号だとかいった、ヒューマナイズした説明はどうでもいい。むしろ欠落そのものが主人公であって、その展開がさまざまであることが淡々と描かれている。

 ゆえに生身の人間がいだく欠落感が伝わってくる。ぼくの共感は、描かれた人物たちの心の傷や、痛みや、悲しみなどによってもたらされるのではない。欠落という関係性のうえに人間たちが立ってしまうそのプロットのありようである。そしてこのプロットは、じつは作家の技巧性に、つまり物語の産出方法論に依存するものであろう。劇中劇、メタストーリーといったからくりこそが人間性を描きうるということである。

 だいたいそんな印象をいだきはじめたところで、はたと気づいた。学生のころ伊東豊雄の《中野本町の家》の写真を見てうけた衝撃は、それが原因であったのだ。ぼくはいわゆる内向の世代論との共振を想像していたし、戦後社会の夢や理想の喪失といった大きな物語との平行も考えたことがあった。しかし《中野本町の家》が示している欠落、あるいは欠落感は、あるべきなにかの欠落ではなく、まさに欠落そのものであった。

 やがて出版された書物のなかで、その施主の背景などを知ることとなった。しかし上記の欠落は、そうした背景の表出と考えてはいけない類のものである。それらの相関を考えることは彼らにたいへん失礼なことでもあり、ぼくの本意ではない。つまりこの住宅に示された欠落は、だれにでも共有できる欠落であって、その意味で「そのもの」なのである。

 ・・・などということを琵琶湖上空あたりで考えていた。このあとすこしまどろみ、気がつくと主翼のスポイラーが立っていた。もうすぐ着陸である。

 

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コメント

「東京奇譚集」よんで頂いて有難うございます。
表紙の猿の絵も気にってもらえると嬉しいです。
(´・ω・`)ノENOKI

投稿: 榎俊幸 | 2007.12.14 21:37

欠落による、ある種の生成。
それはなんなのでしょうか。
マイナスの手法、あるいはプラスでありうるマイナス。
空間を欠落させる。
なにかいろいろ考えが浮かんできそうですが、
まだまだ知識がたりないようです。
なにかのヒントになりそうな・・・

投稿: mako | 2007.12.15 18:02

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