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2007.12.06

公開講座「空間のことば」をしました

 水曜の夜は公開講座をした。テーマは「空間」。4回シリーズものでぼくはその最後、「空間のことば」を担当した。ほぼ同じメンバーでやっており、3年目である。建築を市民有志にたいして説明するのであるが、よくもわるくもこちらは専門家である。ことばのえらびかたには注意が必要である。

 きのうのメニューはこうであった。5構成。

 (1)ミースの均質空間。レイクショア・アパートメントとファンスワース邸を例にとって、高層住宅と週末住宅が同じ構想であるなどと説明する。均質空間のアナロジーとして、大都市に於ける「群衆のなかの孤独」「ダス・マン」「透明な自分」などをとりあげる。また均質空間はニュートンの絶対空間であり、座標軸がどこまでものびてゆく感覚、などとこれまた比喩的表現を弄する。

 (2)集中式空間。これは15~16世紀のミラノとローマを舞台に、フィラレーテ、ダヴィンチ、ブラマンテが集中式空間を推敲した有名な歴史の一頁をとりあげた。集中式であることの比喩的表現として、均質空間的なものがあるとして、それを認識する人間はその身体によってどうしても特権的な一点=中心を設定してしまう。だから時間軸とは逆だが、理論的には均質性と中心性は相互補完的なのである、と屁理屈を弄する。

 (3)日本の20世紀における空間概念の違い。岸田日出刀の『過去の構成』、堀口捨己の茶室研究、丹下健三が戦前戦後に展開した一連の軸線建築、浜口隆一の「建築意志」視点による空間=日本的なもの、という理念などを説明した。つまり西洋をいちど咀嚼した近代日本人が、その意味で西洋化した視点から日本の伝統を再解釈する、それが空間=日本的なものという視点の確立である。しかしこれは均質空間、集中式空間の連続上だと力ずくの結論を披露する。

 (4)バロックの空間。ベルニーニのサン・カルロ・アレ・クワトロ・フォンターネ教会はご存じのとおり楕円ドームのかかった典型的なバロック建築である。しかしエイブラムス叢書に掲載された有名なスケッチにあるように、その平面は円、楕円、正三角形、長方形といった幾何学的な補助線からなる。現実の柱や壁やそれらによってもたらされた結果である。この結果をもたらした純粋幾何学は、アプリの背後のOSのように不可視でありヴァーチャルである。これを平明に言い直せば、「部屋」と「空間」は違う。アーキテクトは部屋をつくるまえに空間を設計しているし、空間は現実の部屋を超越しているともいえる。

 (5)空間から「間」へ。西洋的な空間概念を学習した日本人は、つぎに日本固有の「間」の概念を再発見する。それは構法的、間取り的な意味をもった「間」でもあるが、時間の間と空間の間は同じでるように、日本においては空間と時間は未分化であった。さらにヒモロギにみられるように、キュービックな軽量仮設工作物で指示されたちいさな空間は、それそのものではなく、そこに憑依する霊的なものによって意味をもつ。ここにヒモロギを部屋に例えると、部屋は霊的なものによって拡大し、ほかの場所に関連づけられる。

 このように幾何学的なもの、即物的なものを超えようとする人間的な指向性が、空間という概念を生むのである。だから空間は部屋を超える、という結論。

 話がややこしくなるのでいわなかったが、カーンの「ルーム」は意図的に超越性を禁じ手として別の超越をたてようとするもの、ドイツ語の「ラウム」はあある意味で、部屋と空間を同一視するゲルマン的視点、といった位置づけがなされようか。

 (1)~(5)の内容はすべて既製品であるが、時間軸を無視して順番を変えて、西洋と日本のパラレルストーリーとして述べてみた。まあ大成功ではないが、ちゃんとお話にはなっていた。

 会場からの質問は超本質論であった。

 建築を学ぶ、知る、考えるためにはやはり、どこか本質的なものに依拠しなければならないのではないですか?それはなんでしょうか?

 これにたいしては10分以上かけてあれやこれや説明した。ぼくも学生のころは建築道などいうものがあって道は極まると思っていたのですがね・・・・でも、そうではなかった。構法ひとつ、建材ひとつとっても無数の選択肢があり、かつ日進月歩であり、今日の仕様は来年には旧式です。シックハウス、アスベストだって降ってわいたごとく(あくまでごとく)問題化される。だから道を極めるといいうより、つぎつぎとフレキシブルに対応してゆくことが大切・・・・。

 きょうぼくが説明した均質空間も、じつは現実なんですよ。たとえば不動産の証券化によって、ある建物のある量の床面積を株式として保有したとします。でもこの床面積はかくかくしかじかの部屋のことではない。どこでもありうる一定面積です。それが可能なのは、床そして空間が均質だからです。ミースが美学的に考えたことが、経済的に実現しています。WTC、東京の超高層、福岡で建設されつつある超高層、いずれにもあてはまります。グローバル化はこの均質化を強力に促進しています。

 これからの学生にとって建築をやることの意義はなんですか?

 超難問!大学の浮沈にかかわるようなことをぼくに聞かないで、という反射的発言をやっと飲み込む。

 建築をやっていくということは社会との関係を自分なりに構築するということんですよ。今ニートなりひきこもりが問題になっていますが、これらは社会との関係を構築することに意義を見いだせない若者たちです。しかし建築の平面を考え、構造をえらび、建材をえらび、施主や工務店や行政となんども打ち合わせをするのは、即物的なものづくりをこえて社会との関係を構築しているのです。建築産業そのものはダウンサイジングしているのに建築設計を志す若者はむしろ増えているということは、彼らがそのことをちゃんと理解しているのだろうと希望をもっています。

 また下流指向論が指摘しているように、若者は資本主義的な等価交換の考え方で自分の労働を売ろうとしている。ですので苦労に見合う喜びがすぐ得られないと、あるいはわずかに不足すると、すぐ拒否してしまう。しかし本来労働モチベーションとは、社会の発見のため、共同体の幸福のため、あるいはむかしなら国家建設のためといった超越的なものへの貢献というエトスが必要です。

 もし労働と賃金の交換を、商品を貨幣で等価交換することと同じであれば、付加価値が生まれず、付加価値を搾取して未来に投資することもなくなってしまい、資本制は内部から壊れるかもしれません。労働の喜びというのは、それが(ときには不在でるかもしれない)他者とつながっている、ということを感じることにあるのではないでしょうか。

 歴史的そして社会的に決まっていることですが、建築設計は営利ではないのです。ですので付加価値により社会に貢献するという理想主義がシステム的に生き残っています。建築家をこころざす多くの若者は、そのことを自覚はしていなくとも、うすうすしっているのではないでしょうか。

 なぜ建築なのか、といった本質論を一般市民の方からされると、じつはたいへん困ってしまいます。ある意味でキャリアが終わってから総括として出すべき回答のようなものだからです。それを考えるために建築をやっているようなものですから。だから質問を正面から受け止めざるをえないし、逃げてはいけないのですが、正直に自分の答えの限界をも指摘する誠実さもいると思われます。

 でもまあ結論としては、建築について取り組むにあたってにおける、すがるべき本質はなにか、という超剛速球的な質問に対しては、こう答えなおそうかな。ぼくもそれを求めて建築を始めたのですが、それを考えるためにはいったん回答を保留して、迂回に迂回を重ねて、時間をかけて考えるべき難問なので、さまざまに迂回することを自分の仕事にしたのです。でも中途半端な回答を安易に出してしまうとそこで仕事が終わってしまうので、問いかけることそのものを続けているのです。といったところが本音でしょうか。・・・・回答になっていませんね。

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コメント

すべてが淘汰され、かぎりなく状況がパラレルに進行する(ように見える)今の社会のなかで、建築の可能性とはなんなのか?
こんなことを聞かれると、まごまごしてしまいます。
豊かな空間をつくることによって、豊かな生活を生み出すといえば聞こえはいいでしょうが、実情で建築はそのように語られることはほぼないと思います。
建築するにあたって、施主にとってまず大事なのは、値段、その後のメンテナンス、などなど空間論とはほど遠い部分です。とりあえず、うまく建ってくれれば一安心といったところでしょう。
そう考えると、建築の価値とは資本とは切り離して考えれない。そういった現状が20世紀を通じて確立されてきたことなのでしょう。
しかし、ぼくはそれを悲観的にみてはいないです。
建築と資本という、1つの形が堅固なものであればあるほど付加価値の意味も大きなものになる気がします。
人というのはおもしろいもので、1つのことが確立してしまうと飽きてしまい、違うものを求めるものです。
消費的な建築が確立した今、ある種生産的な建築が求められているのではないかと考えています。
社会が豊かになった今、消費一辺倒だったものが、生産性を求めるようになったのではないでしょうか。
これは団塊世代とニート世代の風潮ではないかと思います。
消費することを目的にした団塊世代に対して、ニート世代は生産性を求めている。だから、すんなり会社に入ることを嫌い、自分のやりたいことを模索する。それが見つからない者がニートという浪人生活に足を踏み入れる。そんな気がします。
建築の話からは、脱線しましたが、少なくとも僕は建築の力を信じたいのです。

投稿: mako | 2007.12.06 15:15

例えばファッションならば、誰もがある程度の知識と情報獲得手段を持っていて、素材や色・かたち・メンテナンス方法・金額などによって選択が可能です。あるいはコーディネイトや、重ね着をしたりアクセサリーを加えたりすることによって変化を楽しむこともできます。自分でリフォームしたり、手作りしたりする人も少なくありません。
食べ物については言うまでもありません。では、建築(住宅)はどうでしょう?
衣・食・住という人間にとって欠くことのできないものの一つなのに、人々に与えられている情報・選択肢はあまりに少なくないでしょうか?確かに選択肢は数限りなく存在します。けれども人々に選択権が与えられているのは、それらのごく一部でしかありません。
人々がガーデニングやクリスマスの電飾に意欲を燃やすのは建築(住宅)自体に手をかけることの代替行為だと言うとうがち過ぎでしょうか?
大学キャンパスで、学生たちがその辺の通路や階段でコンビニの弁当などを食べているのを見かけます。「おいしく食事をするために気持ちのいい場所を選ぶ」というとことさえ放棄している若者がいるのが現状です。
建築をつくるのは建築家だけではないと思います。どんな建築であれ、そこに住む人々や建築を利用する人々によって育てられるものでなくてはならないはずです。そのために必要な知識や情報・選択肢をできるだけ多くの人々に与えることができなければ建築の力は発揮できないのではないでしょうか?
建築に携っている人々が語る「建築」と一般市民が考える「建築」とは果たして同じ言葉だろうかという疑問から出発することも必要だと思います。
公開講座「空間のことば」もそのような試みのひとつだと解釈しましたが、いかがでしょうか?

投稿: 暴投ピッチャー | 2007.12.10 16:12

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シックハウス症候群の直接的な要因は、住まいの建築資材や住まいに持ち込んだ家具、日用品などから出るホルムアルデヒドやトルエン、キシレン等のVOC(揮発性有機化合物)を体内に吸収することだと言われています。シックハウスに住み体内にホルムアルデヒドなどの揮発性有機化合物を吸収してしまう家の換気不足や建てた住宅の建材の多用などが間接的に関係していると言えます。シックハウス症候群は、まだ解明されていない部分が多くまだ研究中ですが、やはりホルムアルデヒドやトルエン、キシレン等の多くの化学...... [続きを読む]

受信: 2007.12.10 22:56

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