« 欠落について、あるいは村上春樹『東京奇譚集』を読んで | トップページ | 救急車について »

2007.12.16

構造主義についての個人的で稚拙な回顧など

 あくまでノスタルジーとして書くのだけれど『アカデミーと建築オーダー』のあとがきで、これは1960年代の構造主義的な発想を建築史でやってみたのだよ、というようなことを書いた。われながらあきれるばかりに時代の子であったが、なにしろ思想についてのぼくの理解そのものもあきれるほど幼稚ではあった。そして今もやはりそんな程度であることに三度(みたび)あきれるのであるが。

 でも構造主義は終わったのではなく、ある意味で幼稚化しつつ、無自覚的に、普遍化しているともいえる。卒論の季節なので、学生の仕事を見る機会が多いのだが、その図式主義にそれは顕著にあらわれている。建築は空間であり図式なのだからこうした構造主義の残滓はほんとうに顕著である。目下の学生たちが取り組んでいることだから具体的にはいえないが、ある部屋のある/なし、集合住宅の中庭タイポロジーの時系列的な変化、歴史家と批評家の関係など、ほんとうはその示差的な規準が、結局のところ深層でなにに対応しているかをいわないと意味はないのだが、学生は分類した時点でほぼ満足してしまう。

 でもまあ分類は人間の基本的な悟性能力のひとつなのであって、それができるところまで育てたということは、教育者の役目をはたしたということであり、それはそれでよいのだが。

 レヴィ=ストロースが親族の基本構造についての分析でいろいろ述べている。さまざまな地域や時代の親族は、表層的には多様だとはいえ、その基本構図はきわめて単純で普遍的である。しかし親族は固定的ではない。なぜなら人間は誕生し死ぬのだから、そのうえで親族を継続させるために、女を交換し(近親相姦はタブーだから)、贈与というシステムを考案した。

 こうした構造主義の正しい理解というものをぼくも書物で学んだ。親族をあくまで継続させるために、ダイナミックにいろいろ交換だの贈与などくたびれることをしつづけなければならない、ということである。だから構造とは、こうしたダイナミズム、変化(進歩、循環、往復などさまざま)しつづけることの構造である。物理的なフリーズ状態ではないのである。

 建築は凍れる音楽などといわれ、フリーズの象徴とされる傾向がある。しかしそれがダイナミックなものである、すくなくとも揺らぐものである、と発想を逆転させることにこそ構造主義の貢献があったと思いたい。

 たとえばピラミッドやカテドラルなど立派な歴史的建造物は、人民の財力と労力を搾取して建設されるものだが、その制度や搾取は困ったものにせよ、これは最終的に個人所有には収まらないものだ。最終的には神に捧げられるにせよ、こんどは神が人びとに与え給うのである。強制労働とは強制贈与であるなどとすれば、モニュメントもけっこうレヴィ=ストロース的に説明できそうである。そこには交換があり、循環があり、ダイナミックである。それらの巨大建造物は、経済的な合理性や採算性を超えているからこそ意味がある。それらは贈与なのである。

 これなどは遺産理論の背景に隠れている理念なのであろう。いかにもフランス的だ。構造人類学の権威を生んだフランスで、文化財理念が展開するのは当然であろう。つまり贈与せよ、贈与せよ、贈与せよ、とささやき続けるのである。すると文化帝国主義における略奪の行為は、略奪品を価値あるものとして大切にするのだから、やはり強制的贈与とすべきか(これは素人の暴論ですね)。

 起源の問題はどうか。親族の起源はとどのつまりアダムとイヴである。でもこれを宗教的説話として信じるということと、ほんとうに自分自身の問題としてそれを信じることとは、すくなくとも近代人にとって、違う。

 構造主義の教えは、その起源はわからなくてよくて、親族を存続させるメカニズムがあり、それが構造なのであるが、この「親族」と「構造」はニワトリとタマゴであって、前後してではなく同時に現れたのであろう、ということだ。つまり起源はないのである。

 だから18世紀的な建築起源論は、起源があるはずだという前提から導かれた観念論であって、その前提をとらなければ、立ち現れない。だからぼくたちは、前提に対応した観念論というかたちで、敬意を払いつつ、カッコにくくるのである。この発想から、なにかをリプリゼントする建築などという課題にたいしては、仕事ほしさに参加はするかもしれないが、心理的には距離があるような気がする。カミュを歴史のなにおいて批判したサルトルを、未開の思考と同様と揶揄したレヴィ=ストロースは、歴史という神にかわる超越を否定したのであったが、この蒸気抜きでかなりの人びとの気持ちが楽になったはずである。

 さてポストモダンの時代には、建築はひたすら差異を表すものとされた。さらにつぎには複雑系の理論を体現するものとされた。タイプ、起源、表象といったものは固定的なものとしてだれもかえりみない。しかし様々な意匠がある種の平衡状態をもたらしている。これはNYのMoMA的なキュレーターシステムによる操作の結果ではもやはないであろう。

 現代は建築家たちがたいへんインテリジェントになってお利口さんになっていて、このポスト構造主義を自覚しあるいは無意識に展開しているようでもある。ぼく自身は及びもつかないようなお利口さんの建築家たちが大勢いて、彼らは世界を安定させるために、なにかを展開したり循環させたり反復させたりしつづけているのではないだろうか。

 ぼくは最近思うのだが、こうした状況を描くには、批評や構造分析ではダメなのではないか。ついでにいえば常套的な歴史叙述も。ワイズマンというアメリカ人が書いた20世紀アメリカ建築の本も批判精神がありつつ客観的で、学ぶことは多いのだが、分類がいきとどいた歴史である。よく書けているだけに、そのことの限界もある。しかし局所における力の流れをうまいパースペクティブで描いたコースハースの『デリリアス・ニューヨーク』や、比較できるかどうか知らないが伊藤ていじの『重源』などのほうが、世界が存続していけるそのからくりをよく説明しているような気がする。

|

« 欠落について、あるいは村上春樹『東京奇譚集』を読んで | トップページ | 救急車について »

建築論」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/424713/9424961

この記事へのトラックバック一覧です: 構造主義についての個人的で稚拙な回顧など:

« 欠落について、あるいは村上春樹『東京奇譚集』を読んで | トップページ | 救急車について »