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2007.12.03

パラレルワールド

 ある科学者がいて、まだ若い助手であったとしよう。かれは教授から実験をいいつけられていた。その中身はここではどうでもいいので、あたかも19世紀的に薬品AとBを試験管の中で混ぜて化学反応させ、物質Cと水を若干の熱を発生させるたぐいのものであったとしよう。この実験は気温と湿度に依存するので、その記録も大切だ・・・。しかし結婚から数年して倦怠期を迎えていため、昨晩夫婦喧嘩してしまったのだが、その記憶がとつぜん沸騰してしまい、試験管の振り方をまちがえたばかりか、試験管を落として割ってしまった・・・・。

 さてここで薬品の身になって、AとBからCと水ができるのは必然的プロセスである。しかし試験管を振る助手は、薬品たちにとってどうでもいい。ただマニュアルどおりにやってくれればいい。しかし今度は助手の身になってみると、いちど失敗して、教授の嫌味をがまんして実験をやり直すことが直近のすべきことだ・・・。

 さてこのようにひとつの「実験」ストーリーでも、必然のプロセスは、薬品の系と、助手の系に分かれる。そのクロスするところが試験管を落として割ってしまうという事件である。

 あたりまえのことだが世界は複数の系の網の目である。

 パラレルワールドが文芸のしっかりしたジャンルであることくらいは知っている。いわゆるタイムマシン問題、つまり過去に旅して過去を変えてしまうと現在の自分が消えてなくなってしまうかもしれない、というアポリアは、違う世界の過去にいったことにすればいいらしい。などということである。

 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は正真正銘のパラレルワールドものとはすこし違うかもしれない。しかし世界をいくつかの必然性のプロセスにわけ、それらは個々別のものとして展開しながら、突如交わってしまう。それが現実にはありえないことながら、それに読みいってしまうのは、ぼくたちが世界の本質的な成り立ちをうすうすわかっているからである。つまり必然性の系がたくさんあって、それらが交差して偶然を生みだし、それがふたたび必然性の系のなかにとりこまれる。

 仕事をやめ、女房に逃げられ、井戸にこもってしまうのは究極の引きこもりである。しかしその洞窟の奥に違う世界が展開され、それが現実の世界と不思議な、しかししっかりと結びついた関係をもつということで、小説は進んでゆく。

 小説のなかで主人公は、首吊り屋敷の井戸にはいり、その壁をすりぬけてあるホテルのある部屋で、逃げた女房かもしれない女性と会う・・・。パラレルワールドへ旅立つのである。

 パラレルワールドとの関係のとりかたはこうした超常現象だけではない。それはメタストーリーの展開としても実現される。間宮中尉が井戸に投げ込まれたり、べつの日本軍中尉が捕虜をバットで撲殺する死刑執行を命じられたり、皮むきボリスとのつきあいがあったりすることは、主人公が井戸にはいったり、バットとナイフの決闘をしたり、義理の兄との葛藤、といったことで繰り返される。

 ごていねいに「想像をしないこと」を命じる登場人物が、陰画として登場する。強制収容所で生き延びるには想像する、という行為をしないことだ。しかし想像するということは、パラレルワールドを構想することであり、それが人間というものであある。

 ここで唐突に思い出すのだが、1990年代以降の現代建築のテーマであった「主体の消去」である。主体の消去といっても、べつに建築家が優柔不断になるとか、なにも決定しないということを意味しているのではない。決定のプロセスに不断に他者が到来するということである。しかしこの場合、その「他者」が別の主体であったら、結局のところ主体が入れ替わっただけになってしまう。

 だから不断に到来するのは主体になろうとする他者ではなく、他の必然性の系であり、他のストーリーである。だからストーリーの網の目としての建築、それが主体の消去ということであろう。

 建築史は歴史叙述としては脇役的存在にすぎないのであろう。しかし通常の、つまり大文字の歴史叙述は、時代精神なるものを主人公として想定し、それが展開する物語として構想される。つまり一本の数直線のように構想されるクロニクルである。典型的な、超越的な歴史は、クロニクルに立ち戻るのである。しかしむしろ建築史は、とりもなおさず建築を扱うからには、そんな一本の数直線として表象されるわけにもいかないのではないか。

 それは時間を逆転させてもいいし、建築家の側からみたり、施主の側からみたり、それらを混在させてもいいかもしれない。理念の自己展開と、建築家の恣意が、整合しないで併置されてもいいかもしれない。あるいは違う時代、違う場所がいっしょに論じられてもいいかもしれない。結局のところパラレルワールドが、かならずしも違う時代の違う場所であることもなく、あるひとつのストーリーであるかのごとくであったものが、複数のストーリーであったもいいのであろう。そうした論じ方が、建築を語ることを豊かにしてゆくのではないかと空想する。

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コメント

ストーリーの網の目としての建築、主体の消去。
ぼくは最近そのような建築のあり方にひどく関心を持っています。
建築は単語ではなく、1つの文脈そのものであるような気がしています。
本文とは違う次元の話かもしれませんが・・・

投稿: mako | 2007.12.04 17:58

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