建築家サロモン・ド・ブロス(Salomon de Brosse, ca.1571-1626)がレンヌにきたことについて
建築家サロモン・ド・ブロス(Salomon de Brosse, ca.1571-1626)はレンヌには2週間しかいなかった。
1618年8月8日から22日である。この短期間に、都市レンヌのデザインは決定された。
高等法院の部長評定官ジャン・ド・ブールヌフJean de Bourgneufは、国王ルイ13世に請願して王の建築家を派遣してもらった。1611年には高等法院は建物建設を決めていたが、レンヌ市の建築監督官であるジェルマン・ゴティエGermain Gaultierの案は、とくに優れたものではなく、不満であった。それで高等法院はパリから建築家を呼ぼうと考えたらしい。1618年7月26日、ド・ブロスはレンヌ行きを命じられる。
ド・ブロスはエリート建築家であった。叔父は、建築書を出版して影響力の大きかった建築家ジャック・アンドルエ・デュ・セルソ。ド・ブロスはまたアンリ4世、マリ・ド・メディシスから建築家として登用された。後者のためにはルクサンブール宮(1615-20、現上院)を建設した。さらにクロミエ城、ブレアンクール城、1616年以降はパリ市庁舎裏のサン=ジェルヴェ教会ファサード(建築オーダーが3層積層したルネサンス様式のもの)、パリ裁判所の火災後の修復、などを当時手がけていた。パリで多忙であったので、ド・ブロスはレンヌには生きたくなかったが、逆にパリの仕事のためにはジェルマン・ゴティエを呼んだりしている。
ド・ブロスはともかくも1618年8月8日にレンヌ到着。14日にエスキス提出。16日には最終プロジェクト案を提出。猛スピードのゴティエ原案修正である。しかし彼が修正したのは、中庭、ギャラリー、ファサードであった。一言でいえば、当時のイタリア風にした。とくに地上階は、開口部は少なく、ルスティカ仕上げで、フィレンツェのパラッツォ・ピッティ、自身のルクサンブール宮をモデルとしていた。2階はドリス式オーダーで飾られている。地上階は地元の花崗岩、2階は白い石灰質の仕上げ、それはブルターニュとパリの対比でもあり、地方が首都に支配されていることの赤裸々な表現でもあった。
さらに2階テラス、そしてアプローチとしての正面外部階段が印象的である。高等法院評定官たちは、ここから都市を見下ろし睥睨するのである。
さらにローマ風手摺子と、巨大なスレート屋根は、ルネサンス的普遍性とブルターニュ的固有性の両立であった。
この絵は1690年、レンヌに高等法院が戻ってきたことを描いたもの。前回の投稿で指摘したように、1675年、印紙税にブルターニュ高等法院は反対した。王は、国家の収入にかかわる(ということはヴェルサイユ宮殿の建設に関わる?)この件について激怒し、ブルターニュ高等法院の開催地をヴァンヴに移した。そして王の許しが得られるのに15年かかった。
画面左はルイ14世とその家臣たち。右は正義、美徳、公平、ブルターニュを象徴するエンブレムたち。国家はすべて男性で、地方(地域圏)はすべて女性で象徴されている。露骨なジェンダー的表現である。
背景の高等法院建物には、中央に外部階段が見られる。18世紀、これをガブリエルは撤去した。
さて17世紀にもどって、高等法院メンバーが、パリから王の建築家を呼ぶということはなにを意味したであろうか。国王/高等法院の関係はなかなか難しかったのであり、たんなる服従のポーズではないであろう。ひとつはブルターニュのひとびと、レンヌの市民たちにたいする優越の意識であり、他方では国王の文化レベルに近づこうとする上昇の意識であろう。地方支配階級の自意識といえる。それがこの地方に、パリを経由してフィレンツェのルネサンス文化を導入しようとした、モチベーションとなったのであった。
cf. Szambien, 200, p.78; Veillard, 2004, pp.85-88, etc
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