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2007.11.04

レンヌからパリへ

 11月3日、今日は移動日である。

 アパート式ホテルの退去はいろいろ気をつかう。冷蔵庫のなかをカラにするため、つい大食となる。掃除、食器洗いといろいろである。ゴミもまとめておけば、スタッフが捨ててくるのは貸部屋とは違う、ありがたいところである。

 地下鉄までガラガラを転がす。TGVの駅で乗り換え。後発の地下鉄だけに、かえってバリアフリーは徹底しており、ガラガラをもって階段を上り下りすることはなかった。この地下鉄はVAL(自動軽量車両)と呼ばれている形式である。2両編成で、運転手はいない完全自動の地下鉄である。便は多く、安全で(脱線しないということではなく犯罪のこと)、便利である。出発前、ボルドーからの留学生に、レンヌでは地下鉄だが、君のところはトラムだねえ、といったら、川を渡るのと地下水位のことがあるんですよ、と負け惜しみであった。スピード、正確さは絶対VALが優れている。

 車中の暇つぶしは読書と相場が決まっている。Jean-Yves Veillard, Les Champs Libres--Naissance d'un projet culturel, Edition Apogée, 2006をぱらぱらとめくった。ヴェイヤールは建築史関係の文献を書いている人で、最近では『レンヌの遺産事典』という、建築、都市、無形文化、風俗一般、芸術などをまとめた文献を編集している。レンヌの建築史を勉強するためには必読の書を書いている人である。

 それでどういう本かというと、レンヌ市の一種の文化センター(図書館、博物館、科学博物館)であるシャン・リーブルのプロジェクトが1980年代に持ち上がって最近建物が完成したが、博物館学芸員としてこのプロジェクトに中心的に関わったヴェイヤールが綴った日記であり顛末記である。

 公式の議事録や建築文書よりも、関係者間の意見交換や、秘話などが書かれていて、おもしろい。基本的には1970年代に、レンヌ市では一体であった美術館と博物館が分離するのをきっかけとして、文化センターを建設するのだが、それが都市計画、新しい交通システムなどと関連づけられながら、人口の三分の一が大学生という文教都市においてまさに死活的であるはずの文化センターが、さまざまな交渉の末できたプロセスを内部から紹介してくれる。

 都市計画的におもしろいのが敷地の選択である。南西部の司法地区、北部のオシュ広場西(ホテルに近い場所)、そして旧練兵場で、駅に近い敷地、という三候補があって、最終的に最後の今の場所になった。都市計画としてはここは再開発の目玉であり、広い広場の周囲を、この文化センター、シネマセンター、職業斡旋所などが取り囲む、若者の活気あふれる街となるであろうことが、工事中の今であったも予想される。

 学芸員でありながらヴェイヤールは、ローラースケートなどをする若者が、やってきてくれる文化センターはどうあるべきか、それにはどの敷地が最適化などと思案する様子が、まさに学芸員でありながらすでに都市的思考となっていることがこの国らしい。この日誌ではさらに、交通システム、コンペでポルツァンパルク案が選ばれたこと、ビルバオのグッゲンハイム美術館というトラウマをなんとか払拭したこと、地方の独自性とは予算ではなく精神の問題だなどという指摘、などが書かれている。

 個人的には、この新しい都市施設がヴィレーヌ川の南の低地地区に建設されたことに注目したい。あとで投稿しようと思うが1720年の大火後の都市計画によって近代のレンヌが始まった。そのときに都市計画の大枠を決めた建築家ロブランは、川の北にある丘の上の都市と、南にある低地地区の対比(上は高級、下は庶民的)をなんとか薄めようとして、低地地区に公共施設を建設することを提案した。しかし彼の計画は、あまりに強引で経費がかかりすぎると判断された。そして彼は更迭された。

 しかしそれでも後任の建築家は、より現実的な方法を選びながら、大枠ではロブランの計画を継続した。

 そして20世紀末かた21世紀初頭にかけて建設されているシャン・リーブルはまさにこのロブラン案の継続と解釈できるのである。もっともそれはロブラン案が本質的に優れていたというよりも、都市のあるべき展開の方向性については、さまざまな議論がかさねられても、自然にある方向に決まっていゆく、というようなことであろう。ただ大火以来3世紀近くになるレンヌ市の近代都市計画の歴史が、ひとつの上位の意志により導かれているかのように見える(実際はそのときどきの判断なのだが)ことが印象的である。

 さて2020年まであと13年しかないが、そのときレンヌ市は大火300年を記念してなにかやるのであろうか。

 ・・・とはいっても2時間半の移動では最後まで読み通せない。続きは時間があればあとで。

 定刻どおりパリ=モンパルナスに到着。宿はサン=ジェルマン=デ=プレという街にある。喩えていうなら、オペラ座界隈は銀座でしょうな。すくなくとも18世紀から銀行家、投資家がいて、証券取引所やフランス銀行もあって、それだから駅、百貨店、劇場ができた。ここサン=ジェルマン=デ=プレはさしずめ原宿であろう。サルトルがコーヒーを飲んでいた実存主義の街であり、今日ではまさにパリ的であることを楽しみに外国人がくる街である。実際、教会も、劇場も、百貨店も、美術館もとくにないのである。しかしぼく含め、パリであることに意義を感じる外国人がやってくる。建築の専門書店がかたまっている、建築の聖地、巡礼地でもある。

 とくに宿のある界隈は、レストラン、バー、サッカー・パブ、アイリッシュ・パブ、ベトナム・レストラン、はたまたアメリカ風のオイスター・バーまであるという、にぎやかな場所である。部屋でブログしていても、ざわめきがいつも聞こえる。寝れないのではないか、と不安にもなる。でも大昔、留学していたときも、都心の貸し部屋で、こんな感じだった。17世紀にできた古い建物に下宿して、17世紀の建築を勉強しておりました。そうすると異国の過去と一体化できる幸福感に満たされるのでした。・・・昔を思い出すねえ。

 部屋そのものは超コンパクトな「ストゥディオ」である。狭い。シャワーも、通常のフィットネスのブースに比べても半分の面積しかないぞ。洗面も最小サイズ。おお!トイレの上は、電気式の温水タンクが露出しているぞ。ぼくが泊まっているあいだはおっこちないでね。狭いのに、冷蔵庫、洗濯機、食器洗い機、電子レンジ、ステレオ、壁掛けテレビ、Wifi、そろっている。おもしろいのはソファベッドで、その展開の仕方は、超からくり的である。ベッドはぎりぎり収まっている。それはいいが、どうやって運んだのかね。とはいっても天井が高いので快適である。床より壁のほうが広いぞ。

 日本のマンション広告で、よく新世代マンションなどとある。しかし設備など、どんどん更新できるし、どうにでもなるものである。つい最近まで、台所の場所を変えるなどということを提案した学生にたいし、そんなことできるわけないなどと叱りつける教師がいたが、困ったことである。建築はけっこうどうにでもなるし、人間はけっこうどこにも住めるものである。

 さてもうこちらでも日がかわった。でも窓の外からはレストランのざわめきとロックが聞こえてくる。きっと朝までこうなのであろう。土曜の夜だからなおさら。電車のなかのほうが居眠りできるように、これも子守歌なのでしょう。世界のなかに自分のニッチがあることを幸せと思うことにしよう。

 

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