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2007.11.16

「フランス建築」とは、「日本建築」とは

 パリ、11月16日。依然としてストは続いている。驚きはしない。留学していたころに1カ月以上のストを経験しているからである。とはいえこの時間を利用して、今回の旅行でした本来の研究とはべつにして、雑感のまとめぐらいはしてみよう。日本にもどればすぐ自分を初期化して仕事を継続しなければならない。

【1】「フランス建築」なるものは、もちろん実体ではなく概念である。概念である以上、それが創作された経緯に立ち戻らねばならない。

 まずシャイオ宮の建築・遺産都市では以前からあった中世建築ギャラリーに、近現代ギャラリーが加わった。これはヴィオレ=ル=デュクの建築博物館に、戦後できたIFA(フランス建築協会)の近現代コレクションが追加されたものである。

 結論からいうとこれは「フランス建築」のひとつの定義である。

 中世建築ギャラリーはヴィオレ=ル=デュクの理念でできている。彼はゴシックを構造的合理主義として再解釈し、普遍的な建築モデルとして格上げした。彼の合理主義はひからびた計算至上主義ではなく、創意や夢想をも可能にするものであって、喩えていえば、むしろ今日の構造設計家のような発想をもっていたといえるであろう。だからヴィオレ=ル=デュクの真骨頂は、ゴシック・スタイルの住宅ではなく、大ホールのための立体トラスであろう。

 追加された近現代ギャラリーは、ロンドンの水晶宮の展示から始まり、コルのユニテ・ダビタシオン、ヌーヴェルのアラブ世界観、コースハースのボルドーの住宅などがラインアップされている。そこにあるのはテクノロジー至上主義ではないが、新しい技術、それによって喚起される建築家の創意、というものへの注目である。

 これにたいし、17世紀の古典主義、18世紀の新古典主義、19世紀の折衷主義は排除されている。もちろんエコール=デ=ボザールなり、オルセ美術館なり、それぞれ別の場所にあるし、なにより現物がそのままの場所にしっかり残っている。都市そのものがミュージアムならばすでに殿堂入りしている。

 しかしそれでも、すくなくとも結果論として、それらはフランス固有のものではない、のである。それらはむしろヨーロッパ的、あるいはローマ帝国的であるかもしれない。

 この「フランス的」という系譜論で、中世と近現代はしっかり繋がっている、というのが僕の実感である。たとえばヴィオレ=ル=デュクは、スケルトンと皮膜という二元論でゴシック構造を解釈した。すなわちリブは骨格であり、それによって皮膜としてのボールトが支えられる。同様な構図が、コルのユニテ・ダビタシオンの原寸大模型によって示される。構造であるRCのフレームと、インフィルである間仕切り壁や設備や仕上げが、はっきり区別されて模型化されている。コルは、ヴィオレ=ル=デュクの合理主義を後継しているのだ、という説明が可能なように、演出されいる。

 シャイオ宮が「ひとつの定義」であると書いたのは、別の定義もあるからだ。

 ペルーズ・ド・モンクロという偉い建築史学者がいて、まさに『フランス建築』という文献を書いている。そのなかで彼は、16世紀のフィリベール・ド・ロルムにはじまるルネサンス、古典主義の系譜を中心にすえる。この系譜もイタリア・ルネサンスの形態を表面的に模倣したのではない。近代の数学や幾何学の知識をそれまでの職人技術に適用することで、中世の石造技術をバージョンナップし、表現性と技術性を兼ね備えたフランス建築が誕生した、ということが主な主張である。たとえば中央に柱のない大螺旋階段であるとか、この系譜では可能になる。この技術は18世紀のロンドレにおいて頂点に達し、セーヌ川をほとんど1スパンでまたぐような石造アーチ橋も可能となった。

 このように古典主義の系譜のなかにも、構造技術としっかり結びついた実質的な側面もある。古代建築のパスティッシュではないのである。それをもって「フランス建築」の本質と考える、シャイオ宮とは違う見解の学者もいたわけである。

 しかしそれでもシャイオ宮はこの路線をあえて見ない。これはヨーロッパ文化の根底にある、ゴシック/古典主義の葛藤の構図そのままである。

 ゴシック派はそれほど意識していないかもしれないが、ヴィオレ=ル=デュクの思想は、プロスペール・メリメを経由して、ユゴー、シャトーブリアンにまで遡及する。彼らは国民精神を象徴する芸術としてゴシック建築を解釈しなおした。つまり過去の遺産を解釈しなおして、あらたな受容のしかたを考案したのであった。

 この中世建築=国民建築という出自(この出自は、中世にあるのではなく、まさにこの概念が生じた近代初頭にある)がある以上、古典主義は別の位置づけを余儀なくされるのである。

【2】それでは「遺産」とはなにか?

 こちらで遺産論の文献を読むと、1970年代以降の文化財概念の広がりのみならず、それこそアウグスティヌスや古文書学にまで遡及する、ヨーロッパ文化全体の組み替えのような印象を受ける。その全体を把握することは今後の課題である。

 しかしヨーロッパの動向を把握しようとするときに重要なのは、その重層性ということであろう。つまりヨーロッパ統合といっても、一元化されて差異が消去されて普遍化するのではない。各国は各国のままである。ヨーロッパ統合と地方分権化は同時並行であったことは重要である。つまり今日、市町村>市町村共同体>県>地域圏>国>ヨーロッパという6層構造でものごとは動いている。これは17世紀のオランダ人が考案したシステムだそうだが、このヒエラルキーのなかで政策展開は、それが可能ななるだけ下の、現場に近い階層でなされる。住民票は各市町村で受け入れるが、ゴミ処理は市町村共同体であろう、文化財は地域圏だろう、国防は国とヨーロッパであろう、といった感じである。だから階層がたくさなるほど、政策展開の次元がいろいろ選択できるわけである。

 同様に遺産法典のなかでは、歴史的建造物、考古学、アーカイブ、著作権などの従来法が、整理されている。つまりいろいろなカテゴリーの壁が撤去されて一元化されて遺産と称されているのではない。より普遍的な概念が、それらのより上位に、設定されている。だからメタ概念なのである。このヒエラルキー構造を頭にいれないと、ものごとはわからない。そして階層が深くなると、それぞれの立場の専門家があらたに必要とされ、ひとつのプロジェクトにおいてそれぞれの階層の専門家のあいだでの調停が必要となる。ゆえにガバナンスなのである。

 ゆえに歴史的建造物は歴史的建造物であるままである。全体のなかでの位置づけが変わってくるだけである。

 そして歴史的建造物という概念の内部も、なにも博愛主義的に普遍化されるのではなさそうだ。ゴシック/古典主義の葛藤はそのまま残されている。いや葛藤こそをまさに遺産としてそのまま残すことが活性化をもたらすという大人の知恵が背後にあるのではないか。

 こうした構図は、考えてみると、封建時代の土地所有制度そのままではないか。かの時代はいわゆる重層的土地所有といわれ、下級所有者のうえに上級所有者がいて、上にいくと領主、そして最終的には国王が国土の所有者であった。だからヨーロッパは慣れ親しんだ構図に戻るということであろう。永遠の中世などといわれるゆえんである。

【3】日本は「永遠の現在」なのか?

 外国にいると、むしろナショナリストになるらしい。

 最近小耳にはさんだことだが、イギリスの建築雑誌の編集者が、日本の建築批評はそっくに死んでしまって、どうなるのだね、などといっているらしい。そのとおりであろう。建築家たちがクリエイティヴな創作を展開しているかたわらで、言葉と概念によるアピールはどうみても弱い。

 ではいつが建築批評の充実した時代であったか。私見によれば、浜口隆一、神代雄一郎、伊藤ていじ、らであろう。つまり彼らは、日本建築を西洋的な概念で解釈することで、普遍的近代と個別的日本を調停しつつ、概念を交換しそして広げていった。反面、ある意味では日本売りでもあった。しかし彼らが「日本建築」という概念を構築した。

 しかし日本の建築批評がすくなくとも戦後は展開がない。死んでしまったと外国人はいう。理由のひとつは、日本売りがなぜか有効性を失っているか、日本/近代、日本/西洋という構図がすでに批判的なものとは成り立たないのである。

 この「日本建築」という概念は1930年代40年代にほぼ完成しており、そののちは再利用の時代であったにすぎない。戦後は、そういうことであったのであろう。結果的には。

 「フランス建築」も「日本建築」も同じことである。中世においてフランス建築という概念はなかったのであるが、中世が遠い過去になった時点で、反省的な意識のもとで、再解釈がなされ、そこではじめて「フランス建築」なるものが前景化された。おなじ構図で「日本建築」は、日本が西洋的な枠組みの国となってはじめて、意識の対象となるのである。

 時間論の専門家もいっていたが、過去は端的に存在する実体ではなく、過去とは不在そのものである。だからこそ過去は構築されるものである。あるいは自由の根源は、現在ではなく過去にある、ともいう。過去があって現在があるという因果論的な理解がないとなひまらないのであるが、この過去をどう組み立てるか、それによって今=自己がきまってくる。

 日本の建築批評が不毛なのは、このような意味での「過去」をうまく設定できていないからであろう。あるいは歴史叙述としては、戦後はまだ対象化するような「過去」になっていない、ということである。つまり「永遠の現在」なのである。だから過去を構築することもできない。過去がないのだから。

 歴史家の責任は大きい。近代建築の歴史は、稲垣栄三、村松貞二郎、藤森輝信、八束はじめなどが書いているが、すべて戦争で終わっている。戦後は書けないのである。

 ここで解決法を提案することもできない。しかし最低限、グローバル化だからすべて一元化されるなどと思いこまないで、その下にそのまま残されている世界の階層的構造に注意を払うことであろう。

 ヨーロッパが中世に回帰するなら、日本は永遠の現在であろう。「遺産」は歴史研究にとっては悪影響しかないであろう。遺産は、歴史研究とおなじ階層に所属するのではない。遺産はその上位でいばっていればよろしい。しかし今日、ものごとを重層的に考えることは意識されず、一元化して遺産=歴史と短絡的に考える傾向が生まれつつある。そうなれば歴史研究に必要である批判的、批評的な精神が弱くなるであろう。それは永遠の現在という構図をますます固定化するであろう。

 

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