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2007.11.04

ブルターニュ高等法院のこと

 リージョンの時代である21世紀を、地域の独自性、文化のアイデンティティという文脈で考えるとき、レンヌにある旧ブルターニュ高等法院を語らないわけにはいかない。建築史とは抽象的理念の継承の歴史であるだけでなく、まさにひとつの建物が歴史の諸段階を生き抜いてゆく歴史でもある。

 この建物は、高等法院としてほぼ150年間生き、そして裁判所として220年間生き延び、そして120年前からは文化財としても生きている。しかしなんとか現役である。

 17世紀初頭にイタリア・ルネサンスの建築として建てられたこの高等法院は、地方ということを考えれば例外的にして特権的であり、その先進性と重要性は過小評価させているのではないか、というのがヴェルナール・ザンビエンの指摘である。

 そもそもブルターニュはケルト系のアルモニア人が住んでいた。ローマ帝国末期にイギリスからブルトン人が大量に移住してきて、9世紀に王国を建設、やがてそれは公国となった。だからもともと独立した公国であった。1532年、フランス王国に併合。しかしそれでも「外国と見なしうる地方」となった。1790年には5つの県に分割されると、ブルターニュは行政主体ではなくなる。しかしブルターニュには独自性の主張が強かった。1970年代にはブルトン語を初等教育で教える運動があった。1980年代初頭に、地方分権法により、ひとつの地方圏(リージョン)となり、ひとつの行政単位として復活した。

 こうした、地域の自立性という文脈のなかで、ブルターニュ高等法院はきわめて重要であり、象徴的である。

 高等法院(Parlement)とは英語の「議会」とはまったく違う存在である。基本的には裁判所である。しかしやはりアングロ=サクソン的な三権分立のシステムとは無縁な時期であって、この裁判所は、立法権、行政権も所持していたようである。

 この高等法院は、王の行政命令を登録する手続きをしたので、合法的に、かつ代償を覚悟で王の命令に背くことができた。またブルトン人をブルターニュの法で裁くことは、まさに主権の問題であった。このような文脈から、この高等法院は公国の自立性の象徴としてたちあらわれてくる。

 フランス王国に併合される以前、「高等法院」という名の機関はなかった。しかし15世紀後半にはフランソワ2世がヴァンヴで主権を保持するそのような機関を設立していた。しかしフランス統合により、短期間、パリの高等法院が最終審であった。1553年、ブルターニュ高等法院が設立され、その本部は、レンヌとナント交互であった。1561年、最終的に高等法院はレンヌを所在とすることが定められた。1581年、高等法院の建物を建設することが決まった。

 1618年起工だが、竣工までには37年かかった。まず地元建築家ゴルティエが長い時間をかけて原案を作成した。しかし関係者はそれに満足しなかったようで、マリー・ド・メディシスのためにパリでルクサンブール宮(フィレンツェのパラッツォ・ピチィを踏襲したもので、フィレンツェつながりである)を建設したサロモン・ド・ブロスを招聘した。フラワンソワ・ロワイエの研究によれば、ド・ブロスは、原案を若干修正した程度であるが、ともかくもイタリア的建築の原理をよく理解してそれをはじめてフランスの地方にもたらしたのであった。セルリオのグラン・フェラール、パラディオのパラッツオなどがモデルであった。

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 この、地元建築家がすこし計画を立て、それから宮廷から派遣されたエリート建築家が修正をほどこし、作者としていれかわるという構図は、17~18世紀には頻発する。

 1階は重厚な基壇、2階はドリス式カップルド・ピラスターという、ブラマンテ的な構成である。正面中央には外部階段があり、セルリオからの影響が示唆されるゆえんであるが、この階段は2階レベルのテラスにつながっていた。一階と二階のコントラストは、監獄と裁判所の複合建築であったことにもよる。いすれにせよレンヌの古い町並みを睥睨する近代的な公共建築ができたのであった。

 裁判所としての位置づけは曖昧であらねばならなかったようだ。すなわちフランス王国である以上、最終審はパリ高等法院であるが、しかしブルターニュ高等法院こそがそうだという主張がつねにあった。

 併合の帰結として17世紀以来、レンヌ市壁の撤去がはじまった。しかし法的な自立性のためには高等法院と三部会は団結が堅かった。つねに王権からの独自性を主張しようとした。たとえば塩税免除という特権をなくそうとしたとき、反対した。1675年には印紙税への反対運動をおこした。このように高等法院はブルターニュ自律の象徴、どころか実体であった。

 さまざまな人の裁判にかかわった。ブルトン語といってもひとつではなかった。南部ブルターニュの人びとは、通訳が必要であり、ほとんど外国人あつかいであった。

 行政機能をも果たす高等法院の構成員は、地域の貴族であり名望家であって、彼らの権威にふさわしい威風堂々としたデザインであった。

 1720年の大火をうけて、改修がなされた。まずロブラン=ガブリエルのグリッド計画はこの建物を起点として設定されていることは明らかだ。まず建物前に広場をつくった。また正面に至る道も一直線に形成された。今日、南部からまっすぐこの建物の中央部がみえる。

 またガブリエルは広場周囲の建築を整備するとともに、高等法院建物については、屋外階段とテラスを撤去し、階段を中庭の一部に建設した。これはコワズボクス制作のルイ14世像を広場中央に設置するためで、その高さに匹敵する屋外階段やテラスは不敬とみなされたためでもあるらしい。しかし都市空間の文脈からみると、街路からの引きを十分にとるためでもあることは容易に理解できる。しかしなにより、この建物が周囲にくらべて圧倒的に特権的であることはなくなった。

 1735年、法学部がナントからレンヌに移転した。高等法院のある都市がふさわしいのはいうまでもない。しかしこの移転した法学部がコアとなって、19世紀、レンヌ大学の大成長が始まる。人口の三分の一が学生であり、大学でなりたっているような現状を思うとき、この高等法印院の存在は決定的であった。

 フランス革命。1789年、ここで貴族とブルジョワが流血の対立事件を引き起こす。若きシャトーブリアン(ロマン派の文人、政治家、その『キリスト教精髄』は文化財保存理念の出発点となる)はそれを目撃する。1792年「ラ・マルセイエーズ」が最初に歌われる。王像は撤去され、自由の樹が植えられる(現在はサーカス小屋がある!)。

 革命で高等法院が廃止されると、この建物は高等裁判所などになった。まだまだ権威を保っていたとはいえ、都市との関係はうすくなる。

 シャルル・ミラルデCharles Millardetは正面を鉄柵で囲った。1839年から1890年までこの鉄柵は存在した。1839年、店舗が追い出された。1855年、法学部も移転した。1882年にはアーカイブも転出した。しかし1858年にはナポレオン3世が訪問し、大宴会をやったらしい(その時のための特別のインテリアが残っている。蜂に喩えられた彼の装飾などである)。都市との関係はますます薄くなった。

 そのかわり文化財となる。1884年、歴史的建造物に指定される。19世紀末、ジャン=マリ・ラロワは、現状の機能に適合させるというそれまでの方針を撤回し、過去の再構築という修復にのりだす。1972年、市長アンリ・フレヴィルは、18世紀の優れた評定長であったロビアンに捧げられた博物館をそこに設置するプロジェクトを提案した。

 1994年に火災発生。おもに木造小屋組が被害にあった。前述のザンビアンはこの小屋組についてくわしく書いている。「森」と呼ばれるほど大量の木材が使われた、立派な小屋組であったが、石造部分だけが注目され、ほとんど研究されなかった。皮肉なことに、火災によってその小屋組が露わにされ、被害は受けたものの、再評価がなされた。

 幸い、インテリアを含め、美術装飾のたぐいはなんとか消失を免れた。いまでは裁判所機能と、文化施設機能を両立させている。

 ・・・・のであった。さて散歩でもしようか。

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コメント

はじめまして

昨年はじめまでplace du Parlementに住んでいました。たまたまこのBlogを拝見し、レンヌでお会いできればよかったのにと思いました。

私が滞在していた歳月の中で、徐々に修復が終わり、もとの姿に近づいていったこと、感慨深いものでした。これからじっくり拝見させていただきます。よろしくお願いいたします。

投稿: 市絛 三紗 | 2008.01.16 11:17

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