« レンヌと「市の建築家」(続き) | トップページ | レンヌからパリへ »

2007.11.01

リージョナリズムと建築のアイデンティティ

 レンヌの図書館にいる。ポルツァンパルク設計の洒落た現代建築である。階ごとにテーマが決められており、ここ6階はなんと「文化遺産」の階である。最上階なので、レンヌの景観を楽しみながら、文献に囲まれて、いい雰囲気で投稿してみよう。PC用のコンセントもLANコンセントもある。文献検索から執筆まで、なんでもできる。これで、景色を見に来るだけの関係ないうるさい人びとがいなかったらなあ、コーヒーがいつでも飲めたらなあ・・・・。ちなみに下の写真は昼過ぎで誰もいなかった。今は学生でいっぱいである。

 Img_6041

 レンヌの書店や図書館を徘徊して感じるのは、地方文化の独自性にかんする意識が極めて高いことであろう。フランスではおおむね第三共和制の時代、すなわち1870年ころから第一次世界大戦のころまで、建築においてもリージョナリズムというものがあった。それを地域主義と訳してしまうと、20世紀後半のそれと混同されそうだが、基本的には区別されるべきとしても、おなじ部分も見えてきそうである。

 ここブルターニュにおける19世紀末の地域主義とは、おもに戸建て住宅でブルターニュの風土を反映したものが多かったことを指す。以前の投稿でイアサント・ペランという地元建築家を紹介したが、花崗岩、複雑な形態の屋根など、100年前にできた地方様式のクリシェである。またサン=マロなど沿海部ではリゾートタウンが多く建設されたが、その別荘にも地域を反映した造形が使われた。石造で勾配屋根のロマンチックな形態が見られる。

これはイギリスのドメスティック・リバイバルや、スケッチェスクといった動きと同じ類もものである。パリの郊外でも、地方色豊かな、別荘風の戸建て住宅が建設された。スイスの山小屋風の「シャレ」が建設されたのであった。

 このポルツァンパルクの建物も、地域に産出する石材をつかっており、典型的なリージョナリズムである。しかも景観をながめて文化遺産の勉強をすれば、ますますリージョナルな気持ちになろうというものである。

 というわけで今、レンヌ市の図書館にいてアンドレ・ミュサ『ブルターニュ;建築とアイデンティティ』1994などをぱらぱらめくっている。ミュサはブルターニュの地方建築を研究した大家であり、没後しばらくして、その弟子がまとめたアンソロジーである。

 ミュサはまず「記念碑」概念の再考から始める。ヴィオレ=ル=デュクがゴシック建築を合理的に定義づけ、それが13世紀のイル=ド=フランスの様式を理想化したのだが、それはパリの様式が普遍的ゴシックの基盤であり、それがヨーロッパに国際化した、という構図で歴史を構築したのであった。ミュサは、「記念碑」と「ネーション」は相互依存的に構築されたと考える。記念碑はナショナルなものであり、ナショナルは記念碑を共有することで成立する。しかしそれにたいしアンリ・フォションは、その時代の建築はあまりに多様であり、フランス的ゴシックというようなものに総括できるのではなく、さまざまな「派=スクール」があっただけだ、と反論していた。

 ミュサは主張する。ひとつの普遍的基準を決め、それがナショナルなものだというのが19世紀的な記念碑の概念であり、その概念がもたらす排除と蔑視の構図を批判しなければならない。しかし同時に、その普遍的基準がもらたす、ロマンティックで空想的なもの、「民衆芸術」という概念をも批判しなければならない。

 実際、フランスでは「民衆芸術」なる概念は、1830-60年ごろろに形成された。近代的な美術史が確立され、規範が成立するのに即応して、ピクチャレスクでロマンティックな「民衆的なもの」が反動的に再発見された。日本は「民芸」という言葉で、ほぼ同じことを繰り返した。

 別の文献MONUMの『リージョナリズム:建築とアイデンティティ』によれば、ヨーロッパにおいて祖国というナショナリズム概念が生まれるのは、やはり日本と同様の構造においてであった。日本美術、フランス美術というアカデミックな概念が成立して、美意識を共有する共同体としてのネーションが生まれる。しかしその共同体はブルジョワなど支配階級のものである。

 社会の周縁に位置する、しかし上昇することでネーションに参加する人びとは、むしろ故郷を経由して、ネーションの一員となる。つまりいかに首都に出て立身出世をしようが、地方文化、兎追しかの山、へのロマンティックな憧憬、それがネーションへの入口である。第三共和制の時代のリージョナリズム建築はこうした意識で作られたのであった。

 ということは19世紀的なリージョナリズムは、かならずしもリージョンの固有性、独立性、自立性を目指したものではなかった。ナシュナルな美意識からは第二義的に下位に位置づけられながら、しかし逆説的なことに、にもかかわらずそこに故郷を再発見し、心情的に一体化することで、ネーションに参加するのであった。

 リージョナリズムとナショナリズムの関係はこのように倒錯している。日本であれ、フランスであれ、ドイツであれ「故郷」がネーションへの入口であったが、ナショナルなものは上位に、リージョナルなものは下位に位置づけられ、相互に補完していた。

 ミュサが「アイデンティティ」というとき、それはこうした通常のリージョナリズムとは区別するためである。つまりかつてリージョナリズムは、ナショナリズムを補完することでそれをむしろ強化する下位概念であった。

 彼は「アイデンティティ」の定義を与えていないように思える。つまりアイデンティティの実践はこれまでなかった。しかしあったのはリージョナリズムの視点と実践であった。リージョナルなものをもとめて19世紀のツーリズムは成立し、またリージョナルな表現をするために、多くの建築が建設されてきた。地域文化の「アイデンティティ」を確立するためには、そのリージョナリズムの長い歴史をまず払拭しなければならないのである。

|

« レンヌと「市の建築家」(続き) | トップページ | レンヌからパリへ »

Rennes」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/424713/8702535

この記事へのトラックバック一覧です: リージョナリズムと建築のアイデンティティ:

« レンヌと「市の建築家」(続き) | トップページ | レンヌからパリへ »