サント=クロチルド教会(パリ)と様式論争
昨日は体調がいまひとつだったので、散歩と日用品買い物にとどめた。
そこで前から再訪しようとおもっていたサント=クロチルド教会にいった。宿から歩いて10分そこそこ、いい散歩である。
この教会にはまえまえから注目していた。19世紀初頭に形成された新街区における教会建築というまちづくり的視点、世俗国家のなかでの建設という宗教的視点、またパリにおける最初のゴシックリバイバルという建築史的視点が交差されうる、おもしろい例であったからだ。
まず1827年、パリ市議会はこの町には、適切な教会堂がないことから、その新築を決める。この地区には教区教会としてサン=トマ・ダカン教会しかなく、信者は多かったからであった。土地はもともとあったカルメル会女子修道院とベルシャス会女子修道院が提供されることとなった。
これは1802年に成立したコンコルダ(ナポレオンと教皇の和解体制)体制の結果である。公認宗教制度であり、また同時に、教会財産は国家財産であり、聖職者も国が任命する。だから国家がフランス国内の教会を完全管理するということである。反面、だからこそ、国は教会堂建設に公金を使うのであった。
だから新しいサント=クロチルド教会のために、修道院の土地(=国の土地)を使い、市が教会堂建設を決める、ということが起こる。教会組織が決めたのではないのである。
さらにその建築様式については、ネオ=ゴシック(ゴシック=リバイバル)にするかネオ=クラシカル(新古典主義)にするかで一悶着があった。
しかし重要なのはいかにも19世紀的な様式論争であったということではない。2様式で対立したのが、いずれも世俗の、公共的組織であったということである。
ネオ=ゴシックを支持したのは、当時セーヌ県知事でありそもそもこの教会建設を提案したランビュトと、市議会である。なぜ知事かというと、当時、パリには市長職はなかったからである。オスマンも知事であった。フランスの首都であるパリが首長公選となって自律的な自治体になることは許されなかった。知事は内務省が選ぶのであり、ランビュトはむしろ国家の意思を反映していると考えるべきである。
ネオ=クラシカルを支持したのは市民建築評議会はであった。評議会は革命によりできたものである。詳しいことは調べていないが、共和国の理念にもとづいて、公共建築を市民の立場からチェックするためのものである。制度としてどの様式を支持すべきという決まりはないが、革命=共和制の理念=新古典主義(古代ローマの共和主義)という流れはあった。
この論争においても肝心の聖職者たちはどこにいたのかわからない。
問題が紛糾したのは、19世紀の文化政策制度にも原因がある。
プロスペール・メリメは歴史的建造物検査長官であった。彼は、「歴史的建造物委員会」でとりくまれる修復工事が、かならず前述の「市民建築総評議会」に提出されるようにしてしまった。
歴史的建造物委員会は全員ではなかったが、ゴシックに賛成であった。評議会はリバイバルに反対し、古典主義の支持者たちであった。
この対立が原因で、古い教会の修復など、いちいち意見が対立し、たいへんなことになっていた。
ゴシック擁護者のひとりが、1844年から『考古学年報』を刊行していたディドロンであった。中世の、音楽、ステンドグラス、建築などの価値を力説した。ゴシックは国民的芸術だと力説した。建築家ラシュは13世紀の様式を最良とした。またヴィオレ=ル=デュクもまたゴシック建築理論をこのころには構築していた。
そうした後押しがあったので、1845年市議会は、様式はゴシックだと決議した。市議会が議決できめるというのは最終手段であるとしか考えられない。委員会、評議会では決められないのであった。
同時に市議会は、守護聖人を聖クロチルドと聖ヴァレールだとして決議した。これもかなり政治的判断であろう。聖クロチルドは、フランク王といしてカトリックに改宗した最初の王であるクローヴィスの妻である。下の写真は、左=聖クロチルド、右=クローヴィス。(聖ヴァレールはもともと地区にあった小礼拝堂の聖人であった)。すなわちフランス国家の起源、キリスト教国家の起源にかかわるような守護聖人の選択は、すぐ近くに下院議事堂があることなどの関連が考えられ、ランビュト知事の意気込みであろうか。
ケルン出身のフランソワ=クリスチャン・ガウが設計し、その弟子テオドール・バリュが仕上げた。ブルゴーニュの石材、小屋組は鉄である。鉄構造をつかったパリで初めての教会建築となった。
1857年に奉献。今年はなんと献堂150周年である。
この町中の教会堂ひとつのなかに、フランス近代の本質がかいま見えることが理解されるであろう。乱暴なスケッチをしてみよう。
(1)革命は、教会組織を解体し、美術、建築、土地など、教会財産であったものをすべて国家財産とした。(美術とは略奪であるという文化帝国主義は国内的にもそうなのである)
(2)国家はいちど過去から切断された。それは失われたキリスト教社会を回想し、取り戻そうとする「ロマン主義」を生んだ。シャトーブリアン、ユゴーである。
(3)国家の文化政策として、このロマン主義的な雰囲気を基調として、中世芸術を一種の国民芸術とし、その保護と修復をする機関ができる。つまりフランスでは、記念碑、文化財、遺産はまず中世芸術のことであった。そののち一般化された。
(4)一時期、新古典主義=革命的=共和主義的、ネオ・ゴシック=中世的=国民的というような構図が生まれた。この構図は、市民建築評議会と歴史的建築委員会という制度的対立にも反映された。
(5)もちろん様式の対立が、そのまま政治的立場の違いと整合するわけではない。しかしそれぞれの様式が支持されるその出自を確認することは大切だ。
蛇足だが、シャイオ宮では、古建築ギャラリーはほとんどゴシック建築、近現代建築ギャラリーはテクノロジーと新工夫の建築、となると、これはかなりヴィオレ=ル=デュクの理念に忠実なのである。つまりそこには古典古代、古典主義、折衷主義がみごとに排除されている。さらにいえば「ボザール」が排除されている。
これはまさに「フランス建築」のひとつの定義である。
別の定義があることはド・モンクロの『フランス建築』を読めばわかることではあるが。ともかくもシャイオ宮は、国内的にも国外的にも、きわめて党派的ではっきりしたメッセージをおくっているのである。
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