大浦天主堂とパリ外国宣教会
ボンマルシェ百貨店の裏にパリ外国宣教会があって、宿から歩いてもいけることから、今日はその書店にいってきた。
この宣教会の施設全体のつくりもおもしろい。チャペルがあって、その地下はクリプト(地下礼拝堂)になっていて、そこから階段をすこし下りると書店の地下売り場であり、その上が売り場とカウンターである。地下礼拝堂はミュージアムを兼ねている。展示の目玉は殉教絵画である。おもにベトナムで殉教した宣教師が描かれているが、これはベトナムからみれば処刑であって、リアリティを求める絵画ではないが、凄惨である。
これが地下礼拝堂にあるのは理にかなっている。そして殉教が海外布教のモチベーションを高めたこともよく知られている。だから長崎に26聖人殉教のためにまず大浦天主堂が建設されたことは、きわめて自然な心情のなせるわざである。
書店は、殉教そのものにかんする文献のほかは、むしろアジア・スタディの専門店といった感じであった。これから布教に旅立つ宣教師が、訪問国の言語や文化などを学習する、そのための書店であるかのようである。
宣教会にはアーカイブもあり、またそれに基づいて宣教会自身が研究報告書をだしている。その『研究・資料 etudes et documents』第7巻は日本布教の初期にかんするものであった。
大浦天主堂建設については、日本ではベルナール・プチジャン(1829-1884)を中心人物として描かれているが、この文献ではむしろルイ・フュレ(1816-1900)が創設者である。
フュレは、宣教師となるまえ、1840年代、パリのコレージュ・スタニスラスで物理などを勉強していた。琉球滞在ののち、フュレとプチジャンは1862年10月22日に横浜に到着。フュレは事情でプチジャンを横浜に残して、1863年初頭、オランダ船で長崎に上陸した。
フュレは長崎にカトリック教会堂を建てるために、パリのサン=ロラン教会堂をモデルにしたという。彼はプランをすでに描いていた。そののちおくれてプチジャンが長崎に到着する。
左がパリのサン=ロラン教会堂。右はパリ外国宣教会アーカイブ所蔵(no.569)の長崎教会堂ファサード。大小の塔のリズムが似ている。ただ右はゴシックとはいえない。さらに現天主堂は改築のあとのものである。
1864年、日本布教では上司であったジラールがやってきて、フュレとプチジャンに会った。ジラールは、フュレ案が小規模すぎると判断して、長崎市により広い敷地を許可してもらうことを考えた。彼らは敷地をいろいろ検討した。その結果、選ばれた土地は、かの有名なグラバーの広大な敷地のなかであった。
広い敷地が得られて教会堂もより大規模にされたが、フュレ案の骨子はそのまま保たれたという。
ところでグラバーはスコットランド出身のプロテスタントであった。その彼がカトリック教会に土地を提供するのだから、いろいろあったのだろうが、基本的には長崎にすでにあったプロテスタント社会は、あらたにできつつあるカトリック社会にたいしてそんなに意地悪はしなかったという。
いずれにせよ大浦天主堂のスタイルを決めたのがフュレとすると、彼は1840年代のパリで勉強をしたのであれば、いわゆるゴシック・リバイバルの影響を受けていたと考えるが自然である。その彼がサン=ロラン教会というゴシックの教会堂をモデルにしたことは時代的には、ごく自然なことであった。
パリ=コミューンの悲劇を乗り越えるためにサクレ=クールが、南西フランスのロマネスク=ビザンチン様式で建設されてことに象徴的に示されるように、19世紀後期はむしろロマネスク様式の教会堂が一般的である。
長崎の教会堂はゴシック系の教会堂が20世紀になっても建設されていった。同時代、フランスやその植民地では、むしろロマネスク様式であった。長崎は同時代の世界の動向とはまったく無関係であった。そこには、説明できる理由がなければならない。フュレの選択が、そのまま固定化されたというのがひとつの説明である。
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