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2007.11.06

シャトーブリアン、パリ外国宣教会、長崎の教会という三者の意外な関係

 散歩しながらの偶然の発見であった。ボンマルシェなる百貨店の近隣のバック通りをふらふらあるいていると、シャトーブリアンが住んでいた住宅を発見した。この種の「発見」はその人間に依存した言い方である。パリ市の文化財看板で見つけただけのことで、まあ、これを発見というのは大仰なのだが。

 しかしこの建物が、以前このブログでとりあげた「パリ外国宣教会」が建てた建物だと知ると、このリンクはちょっとした発見ではないだろうか。しかもこの並びにいまでもこの宗教団体が活発に活動しているのである。

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 シャトーブリアン(1768-1848)はロマン主義の父とよばれ、作家にして政治家であった。とくに建築の文脈では1802年の『キリスト教精髄』が重要である。この書のなかで彼は、キリスト教こそが文学と芸術をはぐくむ基盤だとして、とくにゴシック芸術と中世芸術を高く評価し、廃墟のもつロマンティックな価値を認めた。彼は、反近代的あるいは反啓蒙主義的であって、実際、啓蒙主義者たちを嫌悪し、フランス革命にも反対であった。

 彼の『精髄』は、19世紀におけるフランス・カトリシズムの復興に貢献したとされる。

 しかし彼はたんなる反動ではない。革命によって、教会財産が国に没収された。教会関係の今日でいえば文化財は、それを支えていた社会的基盤から切り反されたのである。その価値を認めさせるには新たなロジックが必要である。

 彼は、文化や芸術を高めるのは、古代文明でもなく世俗文化でもないとした。つまり伝統的な、古典古代文化の意義を認めないことであり、宗教から切り離された科学を信じないことである。つまり中世の再評価である。

 つまり教会堂建築であれ、修道院建築であれ、その組織そのものが解散させられ、土地も建物も国がいちど没収した。そうした宗教芸術を、その宗教性ゆえに認めさせるというのは、自明であったことを、再度意図的に別の言葉で説明してゆくことである。ぼく自身はこのような再評価は、宗教芸術がその宗教性により評価されるべきことを、まったく世俗的な方法論でなしとげる、というまさに近代的な営為であると思う。

 いわゆる「保存」概念の成立について、フランスの文献と、日本のそれとではかなり書き方が違う。フランスでの一般的な説明は、まずフランス革命直後にロマン主義の萌芽があり、そこには中世芸術の再評価が含まれるのであり、それを文学的文化財保存などの表現する書き方もある。

 なにはともあれ、フランスにおけるごく一般的な書き方として、通説として、この『精髄』とヴィクトール・ユゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』が、ロマン主義の形成ということをとおして、記念碑、歴史的建造物、文化財ということの意味を打ち立てたのであった。

 すなわち教会芸術は、いちど教会組織から切り離されて、所有者がいなくなった。管理維持する主体がいなくなった。だから国民一般の財産と読み替えて、国民の精神を養ってきた芸術である、とする。だから国家がそれを記念碑、文化財と認定し、保存する。これが文化財の「保存」の根本的な意味である。それは所有者が変わったことを契機とする。だから「遺産」という表現が正統性をもつのである。

 フランスの文化財政策においていまだに国家の力が強いのは、国家がそうした文化財、文化遺産を宮廷、貴族、教会から没収したことによる責任の所在が、歴史的にはきわめてはっきりしているからだ。

 さらにはシャトーブリアンは、中世を再評価した点で、文化財と保存の思想的先駆者である。フランスの古建築保存は、まず、なにより中世建築のそれであるからである。

 文化財だの遺産だのを考える場合、どうしても法制度のなかにその根拠を求める傾向があって、よろしくない。法制度は、哲学と思想をいだく人びとによって確立されるのであって、そうした哲学に遡及しなければならないのである。

 ・・・それはともかくシャトーブリアンはバック通り120番地のこの建物(上の写真)で晩年をすごした。

 これは「パリ外国宣教会」が、18世紀に、土地経営として館を貴族階級に貸すために建てた邸宅である。建築家はクロード=ニコラ・ルパ=デュビュイソン、彫刻はデュパンとトロ。ルスティカ積みの対になったポーチが印象的な、新古典主義の建物である。ルドゥほどの厳格さはないが、端正である。革命で没収され、19世紀初頭に転売された。彼はここで『墓の彼方からの回想』にとりくんだ。

 カトリックに帰依し、宗教が芸術を高める力について力説したシャトーブリアンが、宣教会が建てた邸宅に住んでいたというのが、偶然ではあろうが、辻褄があう話である。もちろん彼がそこを借りたときには、没収され転売されたあとであろう。しかしこの「パリ外国宣教会」は、いちど没収された地所を第三者を経由して買い戻したのであり、現在もバック通り128番にあるし、この邸宅も買い戻されて、カトリックのご縁で、彼が店子になったのかもしれない。

 そしてこの「パリ外国宣教会」こそが、長崎の教会堂を建てた宣教師を送り出した本拠なのであった。

 ちなみにこの宣教会は現在でもかなりの地所を所有しているようで、道路に面してはその書店、土産物店、宣教活動事務所などがあり、中庭に面しては礼拝堂、図書館などがある、かなり大規模な組織であり、財政的にも順調であるように見受けられた。そのうちのぞいてみようかな。

 シャトーブリアンと長崎の教会堂の、不思議な因縁である。

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