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2007.11.08

【書評】J.-P.コフ+A.バラトン『ヴェルサイユ庭園の本当の歴史』PLON, 2007

Jean-Pierre Coffe, Alain Baraton, La veritable histoire des jardins de Versailles, Plon, 2007がふと目にとまったので、購入してぱらぱらめくってきる。バラトンはベルサイユ造園家であり、コフは庭園愛好家である。

 なぜ目にとまったかというと、1999年12月26日の嵐のことを書いているからである。早朝フランスを襲った嵐は猛威をふるった。たまたま在研でパリ在住であったのでよく覚えている。20世紀初頭の建物にいて、風で建物が揺れた。小一時間もすると静かになったので外に出ると、木造の小屋組(RCでなければ石造の壁に木造の小屋組である)が、風に飛ばされそのまま平行移動して、道路の上にいくつか転がっている。とても非現実的な光景であった。

 庭園も被害は甚大であった。地盤がそれほどよくなく、根がしっかりと大地をとらえていなかったので、まさに根こそぎになった。数はよく覚えていないが、数十万本のスケールであったのではないか。

 この1999年の嵐でヴェルサイユの庭園では4万本が犠牲となった。バラトンは、苗床で育っている樹木にも税金がかかるのが、こうした災害のあとで公園を修復することにブレーキをかけていると批判し、ドイツではそうではないと別の例を示しつつ、共和国は緑に興味がないのだという。

 ルイ13世時代の狩猟屋敷、フーケの庭園と彼の逮捕、ルイ14世による大発展、革命、19世紀、そして現在までと、創設から現在までがひとつのパースペクティブのなかで語られる。そのなかで苗床、家禽場、庭園、造園家の系譜、オレンジ栽培場、水利と噴水、情感、大小トリアノン、氷室、マリ=アントワネット・・・が語られる。

 しかし災害の歴史についての章が最後を飾っている。1697年7月7日の嵐でも、樹木は根こそぎにされた。1701年2月2日にも嵐が被害をもたらした。1709年1月と2月の大寒波は、マイナス20~25°Cにもなり、セーヌ川は氷結し、パリだけでも24000人の犠牲者をだした。1730-31年の寒波により、植えられたばかりの植物はすべて無駄になり、木々の枝は氷の重さで折れた。同年の夏は乾燥で、大量のまぐさを馬のために地方からヴェルサイユへ運送しなければならなかった。1740年1月5日も大寒波。1754年、1760年の寒波でも多数の樹木が死んだ。1776年の嵐で多くの純木が被害をうめた様は、ユベール・ロベールが絵画《1774-1775年の冬》として記録を残している。1871年の嵐でも樹木はなぎ倒されたが、コミューンは、それらが貧しい人びとの暖房用の薪になることを許容した。その後も厳しい気候条件はあったが、最近では1985年の寒波。そして1990年の嵐では、1800本が倒れた。

 そして1999年のそれでは1万8000本が倒れた。修復のため、木立を並べるなどの必要から、4万本が植えられた。被害調査から、樹木は孤立していたほうが風には強いこと、いわゆる植樹されたものより自然に成長したもののほうが強いことなどが判明したが、木々が植わっている条件はさまざまであり、一般法則は見つけられないようである。

 フランス式庭園は樹木を一直線に植えるのであるが、いまではレーザー光線を使って線をそろえるのだそうな。枝振りもこれでそろえるという。

 造園家は、いわゆるエコロジストとは視線が違うようだ。熱波で2万人が死ぬことも、200年前に寒波で同じほどの数の犠牲者が出ることと、さほど違わないようだ。

 おそらく筆者がいちばん思い入れがあるのが「ヴェルサイユの造園家たち」と題された章である。いちいち個人名は書かないが:

・造園家といってもきわめて細かく専門分化していた。野菜栽培、実をなす樹木を刈ること、苗床、装飾(植え込み、道・・・)、花壇、など。反対に、造園一般をスーパーバイスする今日の造園家はいなかった。

・これら造園家は、事実上の世襲制であり、いくつかの家が縁組みで結びついていた。

・アンドレ・ル・ノートルは特別で、「王室庭園の設計家」という意味の正式の役職を得ていた。つまり造園事業の監理をする。また彼は、建築と数学の言葉で庭をデザインするということで知られていた。建築家とのコネクションもあった。また蔵書は少なかったが、ほとんどが建築書であったという。だからバラトンは「ル・ノートルは造園家か?」と自問している。

・18世紀後半ジラルダンは、建築の原理により庭園を設計しているとしてル・ノートルを批判する。ジラルダンは絵として庭園をつくるべしという持論であった。これは庭園の悲劇というべきだろうか。建築として、絵として、詩として設計されるのが庭園である。庭園としての庭園の例は、あるのだろうか。基本的に、庭園は別のなにかの写しであり、ミクロコスモスである。庭園は自律しないのか?

 造園家列伝はひそやかにほかの章で継続されている。トリアノンの章でもそうだ。1858年、造園家ジャック・ビノはマロニエを植える。1875年、シャルパンティエはすべての樹木にラベルを貼る。フランスでは初めての試みであり、今日、世界中で一般化している。

 バラロンはそうした系譜の最後に自分を位置づけているのは当然だが、あえてそれに言及はしていない。

 フランスでのランドスケープ教育の中心はヴェルサイユ・ランドスケープ大学にあり、日本人学生はここに留学する。この大学の前身は、王宮の造園室でありヴェルサイユの造園家たちであったととらえることができる。

 造園家の系譜は家系でもあり、なかなか濃いのである。

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