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2007年11月の29件の記事

2007.11.30

洞窟について、あるいは『ねじまき鳥クロニクル』

 前の投稿ではアブー・シンベルの神殿における積石造/石窟造の対概念について言及した。すこし補足したい。

 ルクソールについてもあとで触れるが、その石を積み上げた神殿もまた、中庭、多柱室、至聖所という部屋の並びがみられる。これはエジプトの神殿建築では普遍的なものである。しかし至聖所の空間はそれ以上に、他の宗教建築でも類例がみられるという意味で、より普遍的である。つまり明らかにそれは洞窟として建設されている。現実には石を積みあげたものであるにもかかわらず、「洞窟として」建造されている。

 もちろん中庭、多柱室、至聖所という形式は地上に構築される建築の形式である。石窟神殿はその形式を、岸壁に彫り込んだものである。しかし地上の建築の形式が、そもそも石窟に由来しているとしたら?そこに建築の循環論法が成立しているのではないか。

 もちろん実証主義的歴史観にたって客観的にどちらが原型であるという指摘もできよう。専門家でないぼくにはその指摘はできないにしても。しかし最初の神殿建築が、積石造であるにせよ石窟造であるにせよ、もし最初の建築家がそのモデルとして異なるものを選んでいたら?そこまで踏み込めば、「原型」は不可知である。

 そうした原型遡及理論はそれほど興味をいだかせない。古代において建築がすでに成熟し、建築家がそれなりの理論をもって建造した時代になにがおこっていたか。それは積石造と石窟造とがおたがいにメタファーとして意味を付与しあう相互関係である。

 このことが建築の本質ではないか。ある建築は、異なる建築のメタファーでありえるということは、そしてそれらが相互関係にあるということは、建築を規定する初源的なあるいは基定的なものはない、ということだ。だとしたらロジエの原始的な小屋も、ル・コルビュジエのドミノも認識論的な誤りである。そうではなく建築が成立する構図があるとすれば、それは多元的なウロボロスの蛇なのである。

 そうしたなかで、そうはいっても個人としてなにか出発点から始めるしかないとしたら、どういうアプローチが可能であるか。

 ぼくがアブー・シンベルを見学したのが1988年。とりたてて運命の符合などをとやかくいうつもりはないが、その4年後に村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』を出している。

 この小説のなかではなんども井戸が描写されている。最初は旧日本軍兵士が外蒙古兵とロシア兵に井戸になげこまれ九死に一生を得たエピソードとして。二回目はその体験談を聞いた主人公が、思索のために近所の井戸に降りていって、あるトラブルから脱出するのに苦労する話。第三は、プールで泳いでいて突然、井戸のなかにいて啓示を得るという幻想を体験する話として。

 その幻想として逆転する井戸が体験されている。つまり井戸の底に落ちた主人公は、世界の底にいることになる。しかしあるとき「じっと開口部を見上げていると、いつのまにか頭の中で上下の位置が逆転して、まるで高い煙突のてっぺんからまっすぐ底を見下ろしているみたいな感じがした」(第2部予言する鳥編、文庫本版353頁)のである。

 それは神聖なるものの発生であろう。いやそればかりか神聖なるものを根拠にして空間を反転させているともいえる。エジプト神殿は洞窟として設計されている。そしていちばん奥に神が設置される。するとそこで逆転がおこる。世界のいちばんの奥は、いちばんの頂上なのである。まれに太陽光が洞窟の奥まで射し込むとき、末端まで光が届くという現実は反転し、神が太陽を呼んだという構図が発生するのである。

 プラトンによる洞窟に比喩によれば、その奥はイドラの世界であり、仮象が支配する世界である。この比喩は光の直行という仮説上になりたつ。しかし光が逆行することもありとしたら?

 おそらく、客観的には存在意義が薄いと判断されるかもしれない生身の弱い人間が、世界のなかで存在意義をみいだすとすれば、なにかを反転させなければならない。

 

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東方旅行(038)1988年1月6日(水)アスワン周辺

 1988年1月6日(水)はアスワンを拠点にショートトリップを2往復である。20年前の旅行紀は、自分で書いたものなのに、生き生きとした経験は浮上しない。やはり感動が薄かったのであろうか。

 なにはともあれまず、アスワン発アブー・シンベル見学のツアーである。15L。ほかに6人のツーリストがいた。もちろん知らない人びとであった。沙漠のなかを乗り合いタクシーでひたはしる。蜃気楼はじつに劇的である。タクシーで沙漠のなかを進むが、タクシーを中心として半径300メートル以遠はすべて蜃気楼による海である。走っても走っても半径300メートルの砂の島にいる。運転手を信頼しているから気がおかしくならないだけである。

 アブー・シンベルそのものはまあまあ、という評価をさせていただきました。まあまあ、です。ナイルは南から北に流れ、太陽は東から昇り西に沈む。この自然の直交座標がエジプトのランドスケープと宗教を支配している。この神殿は、ナイル川の湾曲点に位置し、川にむかう崖にあった。日の出の方角を向いており、入口上部には太陽神ラー・ハラクテの像がある。

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 砂岩の岸壁からほりだしたもので、内部はテーベの神殿の平面に対応している。というか積石造であれ石窟造であれ平面形式は普遍的である。広間(=中庭)、正方形の多柱室、広間、至聖所、という順に、奥へ奥へと進んでゆく。至聖所にはテーベのアモン・ラー、へリオポリスのラー・ハラクテ、メンフィスのプタハ、そしてこの神殿の建設者ラムセス2世のそれぞれの座像がある。

 アスワン・ハイダムの建設で水没しそうになったのを、ユネスコが救済し、それが今日の世界文化遺産という制度となっていることはあまりにも有名である。その移築の話をするのも冗長というものだ。

 ここで思索を巡らすとしたら、こうだ。建築には積石/石窟というカテゴリーがある。後者はさほど多くないが、ペトラやアジャンターなど感動的な遺跡がある。この対概念でこの移築を解釈することは面白い。石窟神殿だが、それは積石建築の写しである。石を積んでつくったのではなく、穴を穿ったのである。しかし移築のために、クレーンでつり上げられるよう最大20トンのピースに裁断され、高い位置の敷地に積み上げられる。すると積石造となって再生された。・・・・といったいきさつはもちろん知っていたので、現地にゆくと、洞窟にはいってゆくスリリングな感覚はまったくなかった。悪知恵もこまったものだ。それでもここは、朝日が神殿内に差し込むのを体験しようと、1年のある日をめざして観光客はやってくる。

 つぎにアスワン発フィラエ。これはタクシーを呼んだ。島にゆくのに舟、これはけっこう値がはった。しかしベリー・グッドという評価をさせていただいた。ここにはプトレマイオス朝時代とローマ時代の神殿がある。

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 エジプトの聖地となったのは比較的遅いようだ。前4世紀ごろである。通説によると、フィラエはエジプトとヌビアの境界地帯にあるので、ここに聖地を建設することは、プトレマイオス朝やローマ帝国にとって政治的にも宗教的にも(ということはとりわけ戦略的に)重要であったようだ。 エレファンティン島には古い宗教があったが、フィラエはそれにかわってイシスとオシリスへの信仰が見られた。この島の洞窟にはオシリスの聖遺物が納められており、この洞窟が毎年の洪水をもたらす源であり、つまりエジプトの豊かさの根源なのであった。またイシスと子ホルスも、ヌビアでも崇拝されたいたという。このイシス神殿がこの島の主役である。長いアプローチ柱廊が印象的だ。

 この神殿はキリスト教の時代となっても信仰のよりどころとなっていたという。最初のダムができるまでランドスケープと一体となった聖地であったという。

 エレファンティン島には紀元前1408年建立の神殿がある。しかし現実にはなにもない。ヌビア人の村落があった。神殿の遺跡のすぐとなりには、ワラまじりの日干しレンガでできた住居の遺跡がある。石と日干しレンガ。神と人の差、階級の差、ほとんど文明の差である。

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 しかしこのように濃い一日をすごしながら、なにゆえ無感動なのであろうか。 

 宿泊はRosewanホテル。

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2007.11.28

ブログデザインを変更しました

 ご覧のようにブログデザインを変更しました。とはいえ3段組にしたとか、バナー写真を変えただけですが。写真はローマのサン・ピエトロ。ベルニーニが設計した列柱廊と広場です。かれこれ20年ちかくまえの撮影です。中央のオベリスク下にご注目。仮設の小屋など、クリスマス飾りです。変えた訳がご理解いただけましたか。

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2007.11.25

『海辺のカフカ』を建築論として

【1】ふたつの物語り

 ぼくは小説をほとんど読まない。しかし書評は読むことがある。村上春樹の小説が、違うふたつの物語の同時並行や、わずかな交差でできている、という紹介にはつねづね興味をもっていた。ひとつの物語は必然の連鎖としてしか描けない。しかしふたつ以上の物語は、不意な出会いと事件をもたらすのであり、それは「必然」と対概念となるべき「偶然」であるように思えた。たしかカッシーラーだったと思うが(大昔の読書なので記憶があやしい)偶然と必然は、見るものの位置に依存する見え方にすぎない、というようなことを書いてたらしい、というようなことをぼんやり思い出した。必然と偶然は違う。しかし相互補完的でもある。

 『海辺のカフカ』は、おもに主人公の田村カフカの家出逃避行と、ナカタさんの殺人逃避行とのあいだを往復するように進行する。それが交差するのは現実においては、ナカタさんがカフカを捨てた母親サエキさんと会ってかみ合わない会話をすることだけだ。しかし象徴的には「入り口の石」を開閉して、別の物語にいるカフカの彼岸への浸入とそこからの帰還を助けるのである。それはほとんど偶然なのだが、それが必然のように書かれている、そのことで現実の世界のありようが描かれている。

【2】パラレル・ジャパン

 ふたつの物語の同時進行という書き方は、きわめて建築的だと思う。ぼくは建築を専門としているから、自分の考え方や癖はそもそも建築的にすぎないといつも短絡する。

 とても手前味噌なことで恐縮なのだが、2年前、三宅理一さんから呼ばれて日本現代建築の海外巡回展を企画することに参加した。じつは10年前にも馬場さんに呼ばれて参加したので二度目ではある。今回は、そのコンセプトをつくるために、1995年から2005年までの日本建築をああだこうだと議論しているうちに、失われた10年というよね、じゃあ現実の日本のほかに、そのかたわらに可能性としての日本があったんだ、ということで「パラレル・ジャパン」というコンセプトができた。現実に作品を選んだりペアのプレゼを考えたりしていると、パラレルはいわゆるパラレル・ワールドではなく単なる比較になったりもした。しかしパラレルとは現実の傍らにある、可能性、失敗、挫折、成立しなかった夢やプロジェクト、を語りうるものになったと思っている。

【3】オイディプス神話

 『海辺のカフカ』はオイディプス神話の形をかりている。15歳の少年こと田村カフカは、家出したなかでナカタさんによって父を殺してもらい、松山で実母であろうサエキさんと交わり、やはり実姉であろうさくらと夢のなかで交わる。登場人物たちは教養あふれる人びとであり、もちろんこの神話をしっている。物語はあたかもそれを意図的になぞるように進行する。

【4】「父を刺し、母を犯せ」

 オイディプス神話をつかって建築批評を書いたのが40年以上まえの磯崎新であった。当時のいわゆる住宅作家たちが、幸せな家庭像や家族像を描きながら、いわゆる小市民的な発想に陥っていたのをみて、彼はフラストレーションを感じていたのだ。その批評は「父を刺し、母を犯せ」で終わっていた。1960年代は、オイディプスの父殺しの時代であったのだ。

 ぼくは新建築誌の片隅に書かれたこのエッセイの結語をよく憶えていた。だから1990年代に磯崎論を書くなかでこの神話をこんどは磯崎さん自身に適用してみた。つまり磯崎さんにとって父=建築、母=日本でしょう、ということを書いた。彼はぼくの指摘を何回も引用しているので、図星かどうかはしらないが、かなり気にしていたようだ。自分でも気がつかなかったものを引き出した、とも書いていた。ぼくにとっては最大級の誉めことばであった。

 しかし神話は構造をもっている。この構造はさまざまな状況に当てはめることができ、普遍的であるとともに、本来はまったく無関係でもかまわない状況や、事態をさも関係があるがごとく再構築してしまう。つまり磯崎さんがオイディプス神話によって住宅作家を批判した。それと同型で、こんどは、ぼくが同じ神話で磯崎さんを批判する。すると因果は巡って、こんどはぼく自身のオイディプス・コンプレクスもどきが浮上する。ぼくはそんな批評を書いてしまったことで、イソザキ・コンプレクスに呪われてしまったのではないか。実際ぼくは、数年のあいだ批評を書くことにまったく興味を失っていたし、そればかりか、他人が書く批評もまったく面白くなくなっていた。

【5】幽霊、生き霊、亡霊

 しかし田村カフカはたんに父を刺し、母を犯すことで、成長した、というオイディプス神話の基本構造に還元することそのものは、この小説の意味ではない。意味をもつのが、カフカがコミュニケーションをとる媒体が、夢、幽霊、亡霊、生き霊、パラレルワールドである、ということだ。カフカは、実母であるかもしれない50歳のサエキさんを愛するまえに、15歳にもどって自分の恋人の肖像に会いに来るサエキさんの生き霊を愛し、さらに生き霊であるサエキさんがまだ愛しつづける恋人である別の少年に嫉妬する。目の前の現実の女性を愛するために、いまでは不在である35年前の少女を愛するのである。

 森のなかでの旧日本軍兵士やふたたび15歳の佐伯さんとの交流もそうであろう。この部分は、冥界めぐり、黄泉の国への旅立ち、という普遍的構造をもっている。イギリス人ならスタウアヘッドの庭園を思い出すであろう。しかしこれはオカルト話でも象徴主義の物語でもない。それはカフカのイマジネーションであろう。しかし想像が可能になるためには、今はいないはずの兵士や佐伯さんという不在者が必要であった。

 カフカは、まったく知らない場所で、ナカタさんとホシノさんが「入り口の石」をこじ開けたので冥界に入るころができ、そしてそこから生還したところでホシノサンがそれを閉めてくれた。偶然と必然のおりなす綾である。カフカにとって、ナカタさんやホシノさんは知りもしない絶対的な不在者なのである。あるいは不在そのものである。

 これらはイマジネーションの問題であり、コミュニケーションの問題である。相対的に未熟な少年が、こうした能力を獲得して成長する。それはいかにして可能か。それは不在との対話によってである。幼児の霊的能力はあまりに直裁的である。いちど現実のみを見るように教育される。しかしいったん現実主義者になって、そこから再度、霊的なものとの対話をする術をまなぶ。こうした物語の設定のためには主人公は15歳でなければならなかった。そして霊的なものとはなにか。それを抽象化していえば不在である。

【6】神を媒介として、建築を媒介として

 対話は目前のなまなましい対話者のみと交わされるのではない。それは想像上の聞き手をともなう。想像上の対話者とは、こうやってブログを書いているネットの向こう側にいる「あなた」であるとともに、過去の死んでしまった人びとでもあろうし、未来の人びとでもあろう。こうした対話者の抽象度をあげていけば、大衆だの、世論だの、世代だの、時代、人類、そして言語、理性などを上昇し、最終的には神ということになろう。

 そして建築家ならこの神のかわりに建築を置くのである。それはメタ建築である。

【7】対話

 ことばの性格上、モノローグというのはまさに言葉だけで、実際にはあり得ない形式である。言葉は聞き手や読み手をもとめる。現実にそんな人間がいなければ、夢でも、幽霊でも、死者でもねつ造するのである。『海辺のカフカ』では、カフカは「カラスと呼ばれる少年」と対話しているが、じつはカフカとはチェコ語でカラスのことなのである(ついでにここで磯崎さんが、都市破壊KKの経営者をして自分はシンでありアラタであると語らしていることを思い出してもいい)。

 村上春樹が作中人物をとおして、責任は夢のなかから生じるといったり、想像力のない連中はだめだといったりしている。以上からわかるであろう。想像力とは、不在について語ること、不在と語り合うこと、不在をとおして語ること、不在と親和的な関係をもつこと、そんなことができるということなのだ。

【8】不在の場所として

 ぼくの『海辺のカフカ』感想文は最終的には建築論なのである。ぼくの書くものはすべてそうである。1990年代のアート理論で、ドイツ由来だと曖昧に理解しているが「モニュメントから痕跡へ」というコンセプトがあった。しっかりと実在しているドーム、オベリスク、などはモニュメントである。しかし剥がされたペイヴ、かつてあった建物の輪郭を示したたんなるライン、は痕跡である。心のなかの痕跡はトラウマと呼ばれる。

 しかし実在する建築も、痕跡なのだ。ハギア=ソフィアを訪れてユスティニアヌス帝の玉座の場所を知るとしよう。アーヘン宮廷礼拝堂のシャルルマーニュでもいいかもしれない。立派な建物でも、すでに痕跡なのだ。そして痕跡がしめすのは不在ということである。建築は不在の場所を指し示すことにある。その意味で、建築はイマジネーションをもって理解されるべき典型的なものなのだ。

 かつて長谷川堯が豊多摩監獄について美しい文章を書いていた。囚人たちは自分たちを閉じこめる監獄を建設するのだ。わたしたちが自分たちを閉じこめる都市を建設するように。いやその逆だったかもしれない。わたしたちは都市を建設し、そのなかに自分たちを幽閉するのだ。あたかも囚人たちが、自分たちに科せられた罰の一部として、監獄を建設し、そしてそのなかで身体を拘束されるように。

 ぼくならそれをすこし言い換えよう。いや長谷川が言及しなかったのは、拘束、閉じこめられること、の事後である。

 建築とは、不在の場所を不可避的につくってゆくことである。建物が建てられるのは人間に適応しようとしてである。しかし建設は、固定でもある。人は変わり、いなくなる。人はやがて不在になるために存在する。存在し、その痕跡をのこすことで、こんどは不在=無となる。建設はふたたびなされても、それも固定である。その固定の場所は不可避的に不在の場所である。不在であるからせめてイマジネーションで埋めようとする。機能と空間が充足しあうのは一時にすぎない。空間は繰り返しカラになる。最終的にはやはりカラになる。しかしこのカラは埋めることができる。ぼくたちの生活は、移動し、部屋に入り、住むことで、なにかをすることで、そのたびに不在の場所を埋めている。シジフォスの神話である。

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2007.11.24

身体性から建築にアプローチすると・・・

  建築とはその全貌はぜったいにわからないものである。人間もまた、意識の奥に無意識があって本人さえ自分を理解していないように・・・。とは大げさにしても、モノとして目の前に建っている建築もまた自明ではない。

 少しまえの投稿でも話したが、西洋の教会堂などで、壁が垂直ではないとか、平面がすこしカーブしているとか、そんな端的なことが暴露されたのは、19世紀末に建築写真がとられるようになってからだ。それまでは壁も柱も床もすこしずつ曲がっていることはうすうす気づきながら、観念論者たちはそべてを理想化して、正規化して、正確な3次元造形物と解釈していた。それが彼らにとっての真実であった。真実とは事実ありのままではないのである。

 ここでは、壁はまっずぐ垂直であるはずだとするのは「精神」であり、実際は曲がっているけどね、とするのは「身体」であるとできよう。建築には根深い心身二元論である。

 次の喩えで、藤森照信先生の建築である。その建築は身体性にあふれているように見える。さまざまな次元の手作業の痕跡をこれでもかと残している。茶室の躙り口をまねた、身体をかかめて入らせる入り口をつくる、・・・。

 藤森先生はじつにさまざまな次元で身体性の人である。思い出話からいうと、亡くなった村松先生の代講でまだD学生であった彼が、辰野金吾を語った光景を今でも思い出す。辰野はなにかコンプレックスがあって、それを得意の相撲で埋め合わせようとした。そんな話をするときの彼の喜色満面がやけに印象的であった。

 そして彼自身も、内外の建築見学において建築と相撲をとって勝った負けたをきそうのであった。しかしぼくの解釈では、この建築と相撲をとるというのは、たんなる比喩ではなく、たとえばヴェルフリンの初期の建築理論において「建物と観察者の身体の共鳴」というようなことが中心になっていることを考えれば、すこぶる奥が深いのである。つまり建築の解釈は、言葉や理論ですることと、身体のレベルですること、に分かれている。

 そこに建築の身体性を考える手がかりがある。

 ぼくの考えでは、建築の身体性とは、慣れ親しんだスケールや、材質感や、手作業の痕跡といったことではない。前述の、茶室の躙り口のことではない。不思議の国のアリスのような、身体が巨大化したり縮小したりするマジックでもない。子供と大人はもちろん身体感覚が違うであろうが、そのことではない。

 藤森先生の建築思想のなかに、有史以来の建築様式のさらに以前にあるもの、という考え方がカギである。つまり既知のスタイルとは、言語化できるということである。言語化できるということは理解した、理解できる、ということである。ヴァナキュラーが意味をもつのは、たんに知られていないということではなく、言語化以前である、ということだ。

 路上建築学やさまざまな建築観察によって、建築の知識を蓄積することはされたであろう。しかしぼくが想像するのは、理解と同時に、理解できないものをたくさんため込んでいるのであろう、ということである。言語化できまいなにか、が蓄積されている。もちろん言語化できないものが、時差をおいて言語化されてもいいのであるが。

 ここが建築見学の醍醐味である。理解ということが、非理解との対比によってなりたっている。そのことがある意味性とほかの意味性との関係を成り立たせる。見学とは、理解を蓄積するとともに、それと同量かそれ以上の非理解をため込んでいくことでなければ、意味がない。

 あらたに竣工した建築を見て「デジャヴュ=既知感」を感じることがある。これは、いま見ているものなのに、すでに見たような気がするが、その過去性をうまく説明できない、という現象である。ぼくはそれが時間性の問題とは思えない。つまり観察者が、未来から現在を過去形で見ている、というような解釈はしない。そうではなく、新築物件が、自分のなかに非理解として蓄積されたなにかに共鳴した(似ていた、正反対であった、意味のつながりがあった・・・)ということなのである。

 言語化されるというのは文字になりデータになり、メディアが存続していれば永遠の存在になる。しかし非理解のものは、過去のある時期というものに登録されて、そのまま固まってしまう。「既知感」とはこの、過去にとどまっている非理解を発掘することなのであろう。

 個人的なことでいえば、最近やっと専門のフランス建築などを現地に出張して勉強できるような状況になったのだが、たとえば18世紀の古典主義といったものでさえ、ひとつの完成品の背後におおくの予備プロジェクトがあり、それぞれがパラディオ、ヴィニョーラ、アカデミーのどれかに準拠しているはずであるが明確でもなく、ましてや完成品は妥協の産物である。結局、建築はゆらぎとしてしか存在しない。建築はこうでもありえたし、ああでもありえた。ルールが厳しいはずの古典主義でさえそうなのである。

 そうしたものの解釈は、部分的な理解を積み上げるしかない。そして重要なのは、その積み上げ方そのものに、ある論理が求められるのだが、その論理は分析者が内面化させるものであって、知らず知らずのうちに「建築」を構築しているのである。それはヨーロッパ人が、曲がった壁をあくまで完全にフラットだと信じ込んでいたような構図と、ほぼ同じであろう。 

 ここでふたたびいえば「精神」とは理解であり、言語化である。「身体」とは非理解であり、非言語化である。じつはどちらもすぐれて「脳」の作業である。そして情報化社会、データベース化文明でしぶとく生き残るのは、こうした生産的な意味での非理解、言語化以前のもの、情報化以前のもの、を蓄えることだ。それが身体性である。そうした場合、身体とは、それらを貯蔵する倉庫であり場所である。

 さてぼくのような、建築を教える教師は、昨今のせちがらい状況のなかで、パッケージ化された知識を効率よく学生に教えることを求められる。そういう作業にも従事しつつ、もちろん心のなかではアッカンベーをしている。教えられることの、さらにそのむこうに理解できないものの存在があること、それを示唆することが教師という職業の醍醐味である。

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東方旅行(037)1988年1月5日(火)カイロからアスワンへ

 1988年1月5日は火曜日であった。移動日でもあった。

 アスワン行きの列車はなかなか清潔であった。2等自由席はみんな紳士的に席を譲り合っていた。ぼくは予約をとっていたので、本当によかった。

 沿線の民家は、藁と土でできた素朴なものであった。たまにRCの軸組にレンガを充填したものが見られた。豊かである。

 ・・・などと反語的表現はやめよう。率直にいえば、どういうわけか異国にありて安心していられた。旅慣れたせでもあるが、やはりエジプト人の気質であろう。これはもちろん偏見であるのだが、栄光の過去がある民族は、態度も立派である、と感じた。道を尋ねても、必要なことを指摘してすぐこちらを解放してくれる。

 アスワンには4時15分着。宿はRosewan Hotelであった。このホテルではツアーを提供している。たとえばアスワン→コム・オンボ→エドフ→エスナ→ルクソールで60£である。

 ・・・エジプトというのはぼくにとって鬼門であって、どうしても関心のボルテージがあがらないのである。ルネサンス以来の古代人の英知というイメージ、たとえばヘルメス・トリスメギストゥス、新プラトン主義におけるヘルメス哲学の重要性、新古典主義における崇高の体現、影の建築、埋没する建築、死の建築としてヨーロッパの対局として位置づけられたこと、モーツァルトの魔笛にもフリーメイソンの着想があること、パリにもエジプト風モニュメントがたくさんあること・・・・などと、西洋建築を研究対象として選んだ者としては避けて通れないものなのだが、古代エジプト建築をまえにしてなかなか体温が上昇しない。

 ピラミッドと迷宮という対比があるように、エジプト建築は、建築のいっぽうの極である。極であるいじょう、それには達しないほうがよい漸近線なのであろうか。いずれにせよそれになじめないことこそが自己分析の出発点であろう。というわけで苦行がこれから続くのである。

 

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2007.11.20

自著『建築キーワード』のこと

 はしたない自慢話ですが。

 学生からいわれたのでネットをのぞいてみた。なんと土居義岳監著『建築キーワード』(住まい学体系99)住まいの図書館出版局、1999、にプレミアムがついていた。定価\3990のところ、中古で\9799~\10500である。

http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/479522143X/ref=sr_1_olp_1?ie=UTF8&s=gateway&qid=1195527502&sr=8-1

 IT関係に圧倒されている建築分野、建築のなかでも実用ではなく思想や理論に関係があるさらにマイナーな領域、この変化の激しい時代に8年前、しかも前世紀、という不利な条件でなかなかの評価である。

 発行部数が万単位の藤森照信先生とはちがって、ぼくの本はマイノリティに熱い支持はうけるが、部数は稼げない。だから単価で評価されるというのは、もうそれしかないのである。

 このキーワード集は『言葉と建築』の発想の展開でもあったが、種明かしをすると、ぼくの留学体験である。ヨーロッパの国立図書館で昔の建築書をあさっていると、17世紀のころから建築辞典というものがある。しかも18世紀、19世紀と展開してゆくと、それは広辞苑の版ごとに語数が増えるといったものではなく、根本的に知の体系が違ってくる。

 そういう意味で、現在の建築がいかように言葉の群れから成立しているかというのを、理論的というより、確率分布的あるいは量子力学的に描いてみよう、と考えたのであった。そしていつの日か、ちがうバージョンの言語体系を描かなければならない、と。

 ぼくはこの発想を1980年代からいだいていて、90年代にまとめたのであった。フォーティがおなじ発想で、しかし御本家のヨーロッパ人だからより包括的に、似たタイトルの文献を出したのは『言葉と建築』のだいぶ後であった。フォーティからの翻訳も労作ではあるが、一言。言葉は生き物であり、それによって建築は成り立っているとしたら、大切なのはやはり批判精神である。スタティックな体系ではなく、言葉を躍動させるのは、構造ではなく力、力とは批判精神である。翻訳者たちはフォーティへの敬意はあっても、批判精神はあるのだろうか。

 ただぼくもすこし発想がかわってきた。言葉の体系はあるにしても、ひとつではないし、単層的に考えることもない。複数並列、ヒエラルキー構造、トランプのカード、いろいろな形態が形態が考えられる。言葉を使う脳も、ギアチェンジできるであろう。これはグローバル化が英語単独に収束するわけでもない、ということにも対応しているだろう。

 言葉のツールも大変化したが、その帰結はまだ不明である。IT化、ネット化(WEB2.0)など。いわゆる梅田望夫の「ロングテール」理論(『ウェブ進化論』ちくま新書、2006)などはまさにマイナーな建築史や建築批評にとってありがたい理論だと思ったものだ。しかしぼくのような後発マイナー人間にとっては、いきなり未来にいくというより、過去の再整理の作業がたくさんあるぞ、という感じである。

 つまり言葉=コミュニケーションの本質なのだが、語りかける相手は、目の前の対話者だけとは限らない、ということだ。1対1の会話においてさえ、第三者への伝わり方に配慮して言葉を選ぶものだ。つまり不在者、あるいは他者一般をつねに考えざるをえない。このことは文献であろうが、ブログであろうが、基本は同じである。そしてこうした不在者とは、社会学者の言葉を借りれば第三者の審級ということかもしれないし、それがさらに抽象度を上げれば神である、ともいえる。さらに情報公開の時代になれば、私たちが残す言葉はすべてだれかに伝わってしまう。ブログはその訓練としてよく機能する。

 つまりコミュニケーションとは、本質的に、人間を超えて、神との対話なのであろう。

 私たちはほかの人間と対話するとき、いつも神を媒介としているのである(このことはある思想家が指摘していたはずだが、だれかは忘れた)。それが人間と動物の違いなのであろう。

 さて『建築キーワード』にもどって反省と懺悔。

(1)多くの執筆者と個人的面談のないままの監修作業であった。しかし1対1で、メールのやりとりで、修正などをお願いした。ネット時代でなければ不可能な作業であって、数十人相手に、やりとりしたメール数は1000をはるかに超えた。この手法もまったく過渡期的なものではあるとはいえ、ウィキペディアへの過渡期であって、作業は1998年ということを考えればなかなかのものだったのではないか。過渡期的というのは、ウィキペディアはかなり編集主体をなくしているが、建築キーワードには主体がはっきりしていた。

(2)商魂は必要である。プレミアムはうれしいが、絶版なのである。頑張りすぎて売れるほど出版社が損をする文献となってしまった。それにもかかわらず出版していただいた住まいの図書館出版局に感謝します。

(3)感謝の念を忘れてはいけない。出版社もそうだが、編集者・江田修司さんのご恩も忘れがたい。1982年に建築技術社の『建築キーワード50』の執筆に参加したときからのおつきあいで、住まい学体系100冊の最後を飾る3冊のうちの一冊を担当させて頂いた。ありがとうございます。土居も最近は殊勝になりまして、こんどは人さまの可能性を伸ばすことにも貢献したいと思うようになった、今日このごろです。

(4)8年たって評価が高いということの意味。まず優れた文献であったこと(自慢してごめんんさい)。選ばれた言葉の体系がいまだに有効であるということ。つまり、時代がまだ動いていない、ということ。しかし50年たったらまさに世紀の変わり目を鮮やかにえがく文献になれば、いちばんうれしいんですが。ぼく自身、50年前、60年前の文献のほうが気になります。

 

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2007.11.19

スフローさんのこと

 木曜日(11月16日)に行きそこねたパンテオンに、金曜日にいった。この建物はフランスにおける新古典主義の傑作とされる。

 しかしなにより、設計者スフローがここに祀られているのである。

 今さら書くことではないが、ルイ15世快癒感謝のたために旧サント=ジュヌヴィエーヴ教会をスフローが再建したものである。フランス革命のときに教会堂であることが禁止され、フランス革命の英雄を祀る神殿となり、それから歴史上の偉人を祀る神殿となって、今日に至っている。その間、政体によってキリスト教会に戻されたり、非宗教の神殿にされたり、政教条約と政教分離のあいだの揺れをそのまま体現している。

 壁画はその揺れをもっとも能弁に語っている。シャバンヌなどの第三共和制のものが大きな壁を占めている。そのサンボリズム的雰囲気が、新古典主義的な空間のなかで、むしろ違和感がないのが、ああそうか、と思わせた。非宗教の宗教なのである。

 というわけでパンテオンはフランス偉人の霊廟である。地下のカタコンブに埋葬されている。ルソーのフリー=メイソン的墓標から、ユゴー、アンドレ・マルロなどをとくに拝見した。歴史的記念物のことを最近書いたからでもある。

  王たちはサン=ドニに祀られている。無名兵士は凱旋門。偉人はこのパンテオン。そのほかペール=ラシェーズ、モンマルトルの墓地には著名人が祀られる。墓地の歴史を調べたことがあるが、中世からは王や貴族のみが墓碑をもち、一時期は日本の両墓制に近いやり方もされた。しかしそれ以外は、死ねば無名の生命に戻るのである。それが一般人の死というものである。死者になっても名前が存続するのは、近代家族イデオロギーの成立からである。家族が成立するためには、家系が連続しなければならず、そのためには死んで無名に戻られたら困るのである。

 だから革命時に革命家や偉人がパンテオンに祀られるというのは、王制の真似のようなところもある。革命は宗教を否定したというが、実際は、宗教というよりキリスト教を否定したのであり、実際、べつのかたちの宗教性を求めている。それが偉人崇拝であり、またフリー=メイソン云々が言及されるゆえんである。

 ところでフランス建築史のなかでどの建築家がいちばん偉くて幸せだったか。緒論あるであろう。理論を構築し、長期の影響力を行使しているということではヴイオレ=ル=デュクとル・コルビュジエであろう。しかしひょっとしたら1000年はもつかもしれない記念碑を建設したという点では、ペロー、ガルニエ、その他、そしてこのスフローであろう。

 建築関係者のなかでもスフローがまさにこの地下墓地に埋葬されていることを知っているお方は少ないのではないか。建築家でありながあら、フランス偉人の霊廟に祀られる!それはもはや世俗的成功とはいえない、たいへんなことである。

 それほどスフローが評価されたということなのか、パンテオンを設計した建築家だからというのか、じつは調べていない。王の快癒を神に感謝する教会堂の設計者だから、政治的立場を考えれば、じつは奇妙なことでもある。

 だから建築家にとっては、ル・コルビュジエ財団のようなものは例外として、シャイオ宮に模型や資料が残るのがもっとも名誉あることである。しかしそれさえ及ばないのが、パンテオンに祀られたスフローである。

 つまり建築家にとっての究極的な選択。情報(アーカイブなど)を残すか?、実体(正真正銘のモニュメント)を残すか?・・・そして近代建築の不幸。ル・コルビュジエでさえ、実体が情報に服従しているように見えてしまう。

 ・・・などと考えをめぐらしながら、複雑な思いで、ぼくはスフローさんの墓標のまえで立ちすくんでいたのであった。

 さて金曜の夜と土曜の朝は帰国の準備であった。日課のプール・リハビリはもちろん欠かさないが、冷蔵庫内の残飯処理、最後の炊事、シーツの洗濯、掃除、ゴミ捨て、大家と挨拶、すべてやるので感傷どころではない。

 パリに行くよりも、脱出がよっぽどむつかしい。前回は、タクシーがみつからず、絶望的な気持ちになった。すると宿の下にあるレストランの女将が気をつかってくれて、従業員の車で送ってくれた。あとでわかったことだが、タクシー運転手のストライキであったらしい。そんなにあることではない。

 今回も、予約したシャトル・タクシーは15分すぎても来なかったので、ぼくはさもありなんとして平然とタクシー乗り場にゆき、すぐ見つけることができた。運転手はアラブ系のお兄さん。衛星テレビの映りはすばらしく、最初はDVDと思ってしまった。普通はこうじゃないよ、カスタマイズしたんだぞ、と自慢げであった。

 世間話ははずんだ。「日本で建築教えてるのか。教師と建築家とは違うのか。建築家ってえ、現場で偉そうにちょっと指示して、それでがっぽり金稼ぎやがって、なんでえあれ(べつに江戸っ子ではなかったが建設現場でガテンしていたのかな)」「いやアシスタントは給料安くて生活たいへんなんだよ」「そうかい」「建築家にもクラスがあるんだよ」「クラスというかカテゴリーだな」「そうカテゴリー」。スフローさんは現場ではどうだったのだろうか。・・・そのほか仕事、身の上、パリジャンの週末(金曜日に出発、別荘などで2泊し、日曜の夜に戻ってくる)、ぼくのブルターニュ自動車旅行、日仏スイスの高速道路の比較、空港のセキュリティ(いたずらを含めテロもどきはけっこう多いらしく、不審物を小爆破させることがあるらしい)などで、空港まで退屈しなかった。

 ・・・というわけで帰国できた。いまから出勤である。

 

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2007.11.16

「フランス建築」とは、「日本建築」とは

 パリ、11月16日。依然としてストは続いている。驚きはしない。留学していたころに1カ月以上のストを経験しているからである。とはいえこの時間を利用して、今回の旅行でした本来の研究とはべつにして、雑感のまとめぐらいはしてみよう。日本にもどればすぐ自分を初期化して仕事を継続しなければならない。

【1】「フランス建築」なるものは、もちろん実体ではなく概念である。概念である以上、それが創作された経緯に立ち戻らねばならない。

 まずシャイオ宮の建築・遺産都市では以前からあった中世建築ギャラリーに、近現代ギャラリーが加わった。これはヴィオレ=ル=デュクの建築博物館に、戦後できたIFA(フランス建築協会)の近現代コレクションが追加されたものである。

 結論からいうとこれは「フランス建築」のひとつの定義である。

 中世建築ギャラリーはヴィオレ=ル=デュクの理念でできている。彼はゴシックを構造的合理主義として再解釈し、普遍的な建築モデルとして格上げした。彼の合理主義はひからびた計算至上主義ではなく、創意や夢想をも可能にするものであって、喩えていえば、むしろ今日の構造設計家のような発想をもっていたといえるであろう。だからヴィオレ=ル=デュクの真骨頂は、ゴシック・スタイルの住宅ではなく、大ホールのための立体トラスであろう。

 追加された近現代ギャラリーは、ロンドンの水晶宮の展示から始まり、コルのユニテ・ダビタシオン、ヌーヴェルのアラブ世界観、コースハースのボルドーの住宅などがラインアップされている。そこにあるのはテクノロジー至上主義ではないが、新しい技術、それによって喚起される建築家の創意、というものへの注目である。

 これにたいし、17世紀の古典主義、18世紀の新古典主義、19世紀の折衷主義は排除されている。もちろんエコール=デ=ボザールなり、オルセ美術館なり、それぞれ別の場所にあるし、なにより現物がそのままの場所にしっかり残っている。都市そのものがミュージアムならばすでに殿堂入りしている。

 しかしそれでも、すくなくとも結果論として、それらはフランス固有のものではない、のである。それらはむしろヨーロッパ的、あるいはローマ帝国的であるかもしれない。

 この「フランス的」という系譜論で、中世と近現代はしっかり繋がっている、というのが僕の実感である。たとえばヴィオレ=ル=デュクは、スケルトンと皮膜という二元論でゴシック構造を解釈した。すなわちリブは骨格であり、それによって皮膜としてのボールトが支えられる。同様な構図が、コルのユニテ・ダビタシオンの原寸大模型によって示される。構造であるRCのフレームと、インフィルである間仕切り壁や設備や仕上げが、はっきり区別されて模型化されている。コルは、ヴィオレ=ル=デュクの合理主義を後継しているのだ、という説明が可能なように、演出されいる。

 シャイオ宮が「ひとつの定義」であると書いたのは、別の定義もあるからだ。

 ペルーズ・ド・モンクロという偉い建築史学者がいて、まさに『フランス建築』という文献を書いている。そのなかで彼は、16世紀のフィリベール・ド・ロルムにはじまるルネサンス、古典主義の系譜を中心にすえる。この系譜もイタリア・ルネサンスの形態を表面的に模倣したのではない。近代の数学や幾何学の知識をそれまでの職人技術に適用することで、中世の石造技術をバージョンナップし、表現性と技術性を兼ね備えたフランス建築が誕生した、ということが主な主張である。たとえば中央に柱のない大螺旋階段であるとか、この系譜では可能になる。この技術は18世紀のロンドレにおいて頂点に達し、セーヌ川をほとんど1スパンでまたぐような石造アーチ橋も可能となった。

 このように古典主義の系譜のなかにも、構造技術としっかり結びついた実質的な側面もある。古代建築のパスティッシュではないのである。それをもって「フランス建築」の本質と考える、シャイオ宮とは違う見解の学者もいたわけである。

 しかしそれでもシャイオ宮はこの路線をあえて見ない。これはヨーロッパ文化の根底にある、ゴシック/古典主義の葛藤の構図そのままである。

 ゴシック派はそれほど意識していないかもしれないが、ヴィオレ=ル=デュクの思想は、プロスペール・メリメを経由して、ユゴー、シャトーブリアンにまで遡及する。彼らは国民精神を象徴する芸術としてゴシック建築を解釈しなおした。つまり過去の遺産を解釈しなおして、あらたな受容のしかたを考案したのであった。

 この中世建築=国民建築という出自(この出自は、中世にあるのではなく、まさにこの概念が生じた近代初頭にある)がある以上、古典主義は別の位置づけを余儀なくされるのである。

【2】それでは「遺産」とはなにか?

 こちらで遺産論の文献を読むと、1970年代以降の文化財概念の広がりのみならず、それこそアウグスティヌスや古文書学にまで遡及する、ヨーロッパ文化全体の組み替えのような印象を受ける。その全体を把握することは今後の課題である。

 しかしヨーロッパの動向を把握しようとするときに重要なのは、その重層性ということであろう。つまりヨーロッパ統合といっても、一元化されて差異が消去されて普遍化するのではない。各国は各国のままである。ヨーロッパ統合と地方分権化は同時並行であったことは重要である。つまり今日、市町村>市町村共同体>県>地域圏>国>ヨーロッパという6層構造でものごとは動いている。これは17世紀のオランダ人が考案したシステムだそうだが、このヒエラルキーのなかで政策展開は、それが可能ななるだけ下の、現場に近い階層でなされる。住民票は各市町村で受け入れるが、ゴミ処理は市町村共同体であろう、文化財は地域圏だろう、国防は国とヨーロッパであろう、といった感じである。だから階層がたくさなるほど、政策展開の次元がいろいろ選択できるわけである。

 同様に遺産法典のなかでは、歴史的建造物、考古学、アーカイブ、著作権などの従来法が、整理されている。つまりいろいろなカテゴリーの壁が撤去されて一元化されて遺産と称されているのではない。より普遍的な概念が、それらのより上位に、設定されている。だからメタ概念なのである。このヒエラルキー構造を頭にいれないと、ものごとはわからない。そして階層が深くなると、それぞれの立場の専門家があらたに必要とされ、ひとつのプロジェクトにおいてそれぞれの階層の専門家のあいだでの調停が必要となる。ゆえにガバナンスなのである。

 ゆえに歴史的建造物は歴史的建造物であるままである。全体のなかでの位置づけが変わってくるだけである。

 そして歴史的建造物という概念の内部も、なにも博愛主義的に普遍化されるのではなさそうだ。ゴシック/古典主義の葛藤はそのまま残されている。いや葛藤こそをまさに遺産としてそのまま残すことが活性化をもたらすという大人の知恵が背後にあるのではないか。

 こうした構図は、考えてみると、封建時代の土地所有制度そのままではないか。かの時代はいわゆる重層的土地所有といわれ、下級所有者のうえに上級所有者がいて、上にいくと領主、そして最終的には国王が国土の所有者であった。だからヨーロッパは慣れ親しんだ構図に戻るということであろう。永遠の中世などといわれるゆえんである。

【3】日本は「永遠の現在」なのか?

 外国にいると、むしろナショナリストになるらしい。

 最近小耳にはさんだことだが、イギリスの建築雑誌の編集者が、日本の建築批評はそっくに死んでしまって、どうなるのだね、などといっているらしい。そのとおりであろう。建築家たちがクリエイティヴな創作を展開しているかたわらで、言葉と概念によるアピールはどうみても弱い。

 ではいつが建築批評の充実した時代であったか。私見によれば、浜口隆一、神代雄一郎、伊藤ていじ、らであろう。つまり彼らは、日本建築を西洋的な概念で解釈することで、普遍的近代と個別的日本を調停しつつ、概念を交換しそして広げていった。反面、ある意味では日本売りでもあった。しかし彼らが「日本建築」という概念を構築した。

 しかし日本の建築批評がすくなくとも戦後は展開がない。死んでしまったと外国人はいう。理由のひとつは、日本売りがなぜか有効性を失っているか、日本/近代、日本/西洋という構図がすでに批判的なものとは成り立たないのである。

 この「日本建築」という概念は1930年代40年代にほぼ完成しており、そののちは再利用の時代であったにすぎない。戦後は、そういうことであったのであろう。結果的には。

 「フランス建築」も「日本建築」も同じことである。中世においてフランス建築という概念はなかったのであるが、中世が遠い過去になった時点で、反省的な意識のもとで、再解釈がなされ、そこではじめて「フランス建築」なるものが前景化された。おなじ構図で「日本建築」は、日本が西洋的な枠組みの国となってはじめて、意識の対象となるのである。

 時間論の専門家もいっていたが、過去は端的に存在する実体ではなく、過去とは不在そのものである。だからこそ過去は構築されるものである。あるいは自由の根源は、現在ではなく過去にある、ともいう。過去があって現在があるという因果論的な理解がないとなひまらないのであるが、この過去をどう組み立てるか、それによって今=自己がきまってくる。

 日本の建築批評が不毛なのは、このような意味での「過去」をうまく設定できていないからであろう。あるいは歴史叙述としては、戦後はまだ対象化するような「過去」になっていない、ということである。つまり「永遠の現在」なのである。だから過去を構築することもできない。過去がないのだから。

 歴史家の責任は大きい。近代建築の歴史は、稲垣栄三、村松貞二郎、藤森輝信、八束はじめなどが書いているが、すべて戦争で終わっている。戦後は書けないのである。

 ここで解決法を提案することもできない。しかし最低限、グローバル化だからすべて一元化されるなどと思いこまないで、その下にそのまま残されている世界の階層的構造に注意を払うことであろう。

 ヨーロッパが中世に回帰するなら、日本は永遠の現在であろう。「遺産」は歴史研究にとっては悪影響しかないであろう。遺産は、歴史研究とおなじ階層に所属するのではない。遺産はその上位でいばっていればよろしい。しかし今日、ものごとを重層的に考えることは意識されず、一元化して遺産=歴史と短絡的に考える傾向が生まれつつある。そうなれば歴史研究に必要である批判的、批評的な精神が弱くなるであろう。それは永遠の現在という構図をますます固定化するであろう。

 

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パリでパラディオに出会う

 ストは終わらない(現地11月15日)。土曜日の空港への移動さえ心配だ。公共交通がまだ動かない万が一の場合を考えて、タクシーを予約する。ネット+カードで簡単にできる。便利になったものである。

 今日も今日とて、水泳、買い物、書籍の日本への郵送、炊事、洗濯、掃除をすませ、収集した資料に目などをとおす。仕事もしているのである。しかしどうも集中できない。パンテオンの空間によって精神を浄化してもらおうと、散歩にでかける。オデオン座のとなりにある書店から数冊日本に送ってもらう。

 ところがパンテオンは、ストのあおりをうけて早めに閉館だという。ぼくは間に合わなかった。さらに気がついたことに、拝観料をとるようになっていた。1200円ていどである。まあそのくらいの価値がある建築だが、映画一本とくらべると割高感は否めない。もっともあれだけの建築だから、メンテを考えればよいことかもしれない。拝観料の使い道など情報は透明なのだろうか?

 パンテオンの正面に、5区の区役所がある。そこでパラディオの展覧会をやっているらしく、次善策と考えて拝見する。とはいっても、弟子スカモッツィが編纂したパラディオの作品集を展示しただけだ。ようするに本をばらして各頁を並べただけ。もっとも区役所レベルのことと考えると上出来であろう。

 やはりスカモッツィの責任であろうが、図面になにかが欠けている。寸法に気をつかったそこそこ正確な再現というのみであって、まるでパラディオの「念」が伝わってこない。それよりずっと前のセルリオやドロルムの建築書は、図面の精度はまったくいい加減だが、その不正確な図版をとおして理念が伝わってきたものであるが。

 それはそれとして、あらためてパラディオがヴィラを神殿として建設したということなのである。このことの重要性はすでにアッカーマンが指摘している。パラディオはあえてそうしたのである。ウィトルウィウスのデコルム理論によれば、いや近代の建築タイポロジー理論にてらしても、神殿の様式を住宅につかうことはおかしい。

 パラディオは住宅でありながら、古代の建築オーダーをつかったポーティコをつくり、神殿のように設計する。古代神殿の形態をまねて住宅を建てるのではなく、そもそも古代において、神殿こそが住宅をまねたのだ、と主張する。つまり彼は、論理を転倒させるのである。

 しかし実際は、神殿のように住宅を建設していることにはかわりない。神殿もどきである証拠に、内部はヴェロネーゼによるフレスコ画が描かれ、そこに描かれたバッカス(ワインの神様はブドウ栽培の守護神となる)、ヘルメスらは住まう家族の肖像画と混交している。住人は神話的世界と一体化し、そのことで自然を支配する。自然を人間化するのではない。人間が神格化され、そのことによって自然と一体化するのである。第二の転倒である。

 ヴィツェンツァ郊外のロトンダであれ、マゼールのバルバロ荘であれ、農業経営の拠点であり、ランドスケープ的にも自然と一体化している。しかしこの一体化はきわめて抽象的な次元のものだ。前者は丘のピークにあって東西南北を指示し、後者は丘の中腹にあって、丘の中腹の水源をシンボライズし、平地と丘のエッジを指示している。

 いすれにせよパラディオは、通常の住宅設計の外部で、構想していた。

 現代の日本における住宅設計を考えてみよう。私見によれば、近代において先輩たちが蓄積した遺産を食っている状況ではないかと思う。才能ある建築家は多い。瀟洒であり、趣味がよく、写真写りもよい。しかしこれらは住宅を模倣する住宅である。そこには外部がない。外部がないから意味の転倒も起こりようがない。外部がない、ということは閉塞状況ということだ。しかし幸か不幸か、日本がこれから膨大な個人貯蓄をゆっくり食いつぶしつつ、なんとかやっていけるように、この閉塞は長引き、しかもけっこう温室で居心地がいいのである。

 ・・・それにしてもスカモッツィは凡庸であるぞよ。彼は結局、パラディオの内部にとどまっていたのだろう。こんな迫力のない図面をかいてしまって。師匠の偉大さが周知となったのはバーリントン卿のおかげでしょ。といいながらパラディオが偉大なのは、イギリス人、アメリカ人、フランス人、日本人にとってであって、肝心のイタリア人にとってはどうかわからないが。いまやパラディオは外貨獲得装置である。

 というわけでスト下、やけに自転車の多い市内をフラヌールする。駐輪公害までもうちょっとですな。エチエンヌ・ダオの最新CDなどを買う。夕刻のブルバール・サン・ジェルマンはなぜか年末の日本のような雰囲気。ストなどある問題が共有されると、この街はなぜかいつもとは違う雰囲気につつまれる。仕事話が終わらないサラリーマン。杖つく老人。重装備のポリス。無邪気な小学生。はしゃぐ外国人。物乞い。それぞれの人生、それぞれの仕事、それぞれの休息、それぞれの幸せ、それぞれの悲しみ・・・。帰宅。午前中に仕込んだポトフが・・・おいしい!

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2007.11.15

フランスの有力建築家たちがモニトゥール誌への掲載を拒否しているそうな

 今日もストである。動けない。ネットサーフして、おもしろい記事はないかと探す。すると下記が目にとまった。

 WEB版ル・モンド紙(パリ時間15日12時半)によると、フランスの有力建築家たちとこれまた有力な建築専門書籍の出版社であるル・モニトゥールとが対立している。

 同社がやっている建築賞に「銀定規賞」というのがあって、これは「建築におけるゴンクール賞」であるとされているが、10月22日に決まった2007年の銀定規賞は、無名の建築家の控えめな作品に与えられた。ル・モニトゥール・グループは選出の理由を「建築的なスタンドプレーをやめて、基礎的なことに立ち戻ろうとしている」と説明している。

 ちなみに写真はその銀定規であるが、□○△である。なるほど建築の基本形態である。

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 建築家たちはこれに抗議文をだした。彼らは、建築的創造というものをスタンドプレーと日常的建築との対立に解消しようとするものであり、建築家たちが展開してきた込み入った思索を否定するもの、批判する。

 彼らは対抗措置としてル・モニトゥール誌が出版する年報(AMC)の2007年版に、自分たちの建築の写真を掲載することを拒否している。また自分たちで出資して固有の年報を2008年1月に出版するのだ、と力んでいる。名乗りをあげた建築家のなかには、 Frédéric Borel, Jérôme Brunet, Jacques Ferrier, Manuelle Gautrand, Rudy Ricciotti, Marc Mimram, Nicolas Michelin, Ibos et Vitart など著名人がおり、対抗年報がでれば本家のものの内容が薄くなるのは避けられない。

 ル・モニトゥール誌の建築部門長でありジュリイのメンバーであるFrédéric Lenne氏は、ジュリイの選択を説明するよう求められているだけで、この賞が問題視されているのではないと、強気である。ル・モンド誌によれば、建築業界の「不透明さ」が問題なのであって、論争は避けられない、とのことである。

 ・・・ぼく自身は建築賞の選定などにはかかわったことはないが、雑誌の特集などで、建築家の作品を選定することはある。だからまったくの人ごとではない。このように建築家有志が抗議するということは、私企業の出す賞でありながら、すでに公共的存在となっており、ゆえに透明性と説明責任が求められる、ということを、抗議者自身が認めているということである。ただぼくの作品を写真掲載させませんよ、というのは、強気ですね。なにか宮廷闘争的な雰囲気がします。

 よく考えてみると、日本にも企業、企業広報誌、学会、自治体、マスメディア、国などが建築賞を出していている。誰が賞をだしているか、ということはあまり考えていない。賞は、脱利益還元的、脱イデオロギーを指向するという暗黙の了解があるからだろう。また賞はいろいろあるので、選出に不満があってもいちいち抗議はしないものだ。これがコンペなら違うのであるが。

 選ぶ側の問題もいろいろあって、本当に選出理由など練っているのだろうか。ぼくはある有名新聞社に3年連続でひそかに打診され、××××氏の作品はどんな点が評価されるんですかね、などと聞かれい、ろいろ答えてきた。基本的にぼくは建築家擁護の立場であることも言っておこう。しかしこんなヒアリングもいっそのこと透明化すればどうだろう。

 日本における問題は、表現や思想をめぐって建築家たちが連携するような契機も機構もないということであろう。それぞれの設計活動は活発でありながら、思想はまったく個別に表明する、おたがいに干渉しない、というスマートな棲み分けが発達している。

 フランスのこの例は、賞を与える側が、なんらかの釈明をしなければならないことを意味する。賞を出す主体が、はっきり立ち現れる、ということだ。日本でもときどきこんなことをすれば、人様を選ぶ立場も、すこしは襟を正そうというものであろう。フランスも日本も、まだまだ不透明であるようだが、フランスのほうが論争好きということか。

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【講義草稿】古建築の保存(004)指定と登録について

  ストはまだ続いているようなので、もう一稿。このシリーズはこれで終わり。

 通常、建築関係の教科書などで保存の歴史は、指定制度の歴史として説明される。日本的の定義では、指定されたものが文化財なのでから、指定の歴史が文化財のそれである。ところが一般的にヨーロッパでは、とくにフランスでは指定制度の前史がしっかりしているので、そうはならない。まず思想があり、そのうえで制度が展開することが普通の理解なのだが。(以下では通常の訳語には従っていない)

 日本の学者が、外国の保存、環境、遺産関係の制度や法律などを紹介する文章はじつにわかりにくい。理由は3つあると思われる。

(1)法律の条文解釈にちかいものになっている。もちろん具体例を出していろいろ配慮はされているのであるが・・・。

(2)法体系をあまり明確に書いてくれない。わかりやすい例でいうと、歴史的記念物についての法律は遺産法典のなかにある。マレ地区を保存することに貢献したマルロー法は都市計画法典のなかにある。このほかに環境法典、景観法典がある。もちろん現場ではそれらが有効に使い分けられるのだが、日本人学者は自分のパースペクティブに再編集してしまうものだから、信頼できないまま読んでしまうことになる。

(3)現在の基準を遡及して書いてしまう。たとえば今は「遺産」概念が広まっているから、2世紀前もこの概念が含まれていたという遡及的な書き方をしてしまう。しかし今の遺産概念はすぐれて今のものである。200年前の歴史的記念物はかなり党派的なイデオロギーであった。しかし党派的であるがゆえに、この概念のまさに歴史的な価値(位置づけ)があるのである。つまりMHといっても200年(かそれ以上の)歴史があり、その歴史のなかに現在が位置づけられるという視野が必要であろう。

 MHといっても、19世紀は中世建築のみを意味したが、20世紀初頭に古典主義建築が、1960年代には近代建築も参加した・・・・、ということそのものが、ひとつの歴史となっている。講義においては、学生にまず全体のパースペクティブをあたえなければならない。平板な遺産普遍主義よりも、時代を区別したほうがいいであろう。時代が進展したから、よりあとの時代が対象となった、という解釈ではつまらない。

 さらにいえば将来、建築史を記述するのあたって、この作品が指定されたかどうかを云々するようなことになりかねない。歴史家は独自の価値判断ができなければならないから、そんなことは避けたいものであるが。

 さてMH指定略史である。 

 国が文化財を保護する手法は2種類ある。指定と登録である。指定とはまさに歴史的記念物(MH)として分類することである。登録とはもともとは「MH追加目録に登録する」ことであった。これらは1913年法で規定されていた。現在は遺産法典(Code pu patrimoine:MH,文化財、遺産にかんする諸法律(loi)の相互関係を決め、体系化したもの)によって決められている。

 1888年3月30日法。指定の基準と手続きがはじめて規定された。

 1906年4月21日法。自然景勝地site naturel(訳しにくい言葉である)を指定する原則が定められた。

  1913年12月31日法。MHの指定基準が定められた。同年、ルクサンブール、ヴェルサイユ、メゾン=ラフィット、ルーヴルが指定された。これらはいずれも王室関係の城館であり、様式は古典主義である。すなわち中世のゴシック建築ではない、革命で打倒の対象であった王室の文化が遺産として認められたことに意義がある。つまり指定基準の明確化の背景に、MHの範疇を広げようという意志があった。また、MHを中心として「500メートルの可視性の範囲」という概念を導入。建築だけでなくその近隣が与える印象を考慮にいれた。

 1920年代~30年代。指定対象の拡大。個人所有の遺産、この場合は所有権の剥奪として考えられた。たとえば1926年のアルケスナン製塩工場。16世紀から18世紀の、ルネサンス建築と古典主義建築も対象になった。たとえばサンロ=ジュヌヴィエーヴ教会、1920年。そういえばさっきみてきたサン=シュルピス教会も1915年ころであった。さらに19世紀の折衷主義建築。パリのオペラ座。古い軍事施設。「登録」の制度もこの時期に整備された。

 1930年5月21日法。1906年法にかわるもの。建築遺産と景観遺産の手続きを同様なものにした。また指定あるいは登録されたMHを含む区域が、自然景勝地のようなものとして指定されうる可能性を生み出した。これは人工物と自然の制度交換である。

 1943年2月25日法。1913年法の改訂。

 戦争と高度経済成長時代には建造物の破壊が進んだ。

 1962年のマルロー法で「保護区域 secteur sauvegardé」(保全地区、保護地区などさまざまに訳される)が制度化された。ただこの法は都市計画法典の一部をなすのであって、遺産法典ではない。

 1960年代以降、MHに20世紀建築も含まれるようになった。エッフェル塔。ロンシャンのノートル=ダム=デュ=オー教会。サヴォワ邸。ノートル=ダム=デュ=ランシー教会、サクレクール教会。鉄構造建築も。ラブルーストのサント=ジュヌヴィエーヴ図書館(1988年)。1980年代からは産業遺産。モニエ・チョコレート工場。など。

 現在、指定は14000物件、登録は30000物件。

 指定の窓口は地域県である。しかし指定する主体は国である。

 19世紀と20世紀の違い。19世紀は、MH=中世建築というイデオロギーが支配的であった。20世紀は、MHを脱イデオロギー化することがなされた。21世紀は汎遺産主義という状況になろう。それは超イデオロギー化なのか新イデオロギーの成立なのか。

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2007.11.14

【講義草稿】古建築の保存(003)修復家と博物館について

 フランスでは、国鉄もメトロもバスもストである。どこにもいけない。だからひたすら投稿するのである。保存の歴史のつづきである。

  古建築の保存には、専門的な建築家が必要とされる。ラシュとヴィオレ=ル=デュクは、保存という概念そのものを構築しただけでなく、それをとおして中世建築を解明し、さらには建築の原理そのものを再構築したパイオニアであった。ヴィオレ=ル=デュクは、教育と博物館により後継者育成を考えた。彼らの努力は、世紀の変わり目に、歴史的記念物(主任)建築家、という制度となって実った。

【1】ラシュ(J.-B.-A.Lassus, 1807-1857)の保存活動

 エコール・デ・ボザールで学ぶ。ラブルーストを支持してアトリエ開設を要求した学生のひとり。合理主義者。ローマ留学はせずにフランスで学習したと称した(古典主義者ではなく中世主義者という主張)。1833年、ドロルムによるチュイルリ宮の修復プロジェクトを発表。ゴシック建築に関心を示し、ディドロンの『考古学年報』誌でド・カンシーを批判。1835年のサロンにサント=シャペルの修復計画を発表してメダルを獲得、、37年のサロンにはサン=マルタン=デ=シャン教会の修復計画を送り、サン=セルヴァン教会の修復を任され。

 1838年、サン=ジェルマン=ロクスロワ教会(ルーヴル宮東面の正面にある)の修復を担当する。祭壇、鉄柵、椅子が中世のモデルにしたがって制作され、壁画、ステンドグラスも13世紀のやり方で聖人の伝記に従って描かれた。修復としてはまだまだ不十分ではあったが、装飾が中世様式を意識して修復された最初の例となった。

 1838~1849年。デュバンとともにサント=シャペルの修復。1845年、ヴィオレ=ル=デュクとともにノートル=ダムの修復。そのほかシャルトル、マン、ムラン、ディジョンで担当。またヴィラール・ド・オヌクールの画帳を出版。

2】ヴィオレ=ル=デュク(Viollet-le-Duc, 1814-1879) 

*くわしくは羽生先生のご研究を参考のこと。

 すばらしい環境で成長した。父は王室建築の担当で中世詩に関心があった。ドレクリューズの甥であった。父親、叔父のサロンでスタンダール、クリエ、サント=ブーヴ、メリメ、ヴィテなどを聞く。父親の系統は王党派で古典主義であり、フォンテーヌとペルシエと親交があった。ふたりの建築家はヴィオレ=ル=デュクの素描の才能をみとめ、エコール=デ=ボザール入学を勧めたが、ヴィオレ=ル=デュクは断った。自信満々の生意気な若者であったようだ。古典主義の教育を無用と考え、独学を志した。

 ドレクリューズの一派は自由主義でロマン主義であった。ヴィオレ=ル=デュクは彼について、フランス中を旅行し、中世建築をスケッチした。イラストで小金を稼げるくらいであったという。その才能ゆえに、またエコール=デ=ボザール入学を勧められたりした。

 伯父ドレクリューズと、ヴィテ、メリメが話しているのを聞いて、中世建築を愛するようになり、歴史的記念物に関心をいだくようになった。とはいえ古代建築を無視したのではなく、1836年にはイタリアを旅行した。

 イタリアから戻ると市民建築評議会の修習官となり、ヴィスコンティの指示で祭典装飾を担当した。1834年からは製図学校の装飾構成助教授であった。

 1840年、メリメは彼に、歴史的記念物委員会に提出するためのヴェズレ教会の現状報告書を準備させた。教会堂の保存の仕事が任された。メリメは出張に彼を随行させるようになった。サント=シャペル修復では、デュバンとラシュのもとで仕事をした。ラシュと共同でノートル=ダム修復のコンクールで一等をとり、ラシュが亡くなると、単独で修復担当となった。

 1848年、政府は宗教庁Direction générale des Cultesのなかに宗教芸術建物委員会commission des Arts et Edifices riligieuxを設置した。ヴィオレ=ル=デュクはその委員となり、やがて検査長官となった。つまり彼は司教区建築家の長となった。

【3】修復家の仕事

 1840年、ヴィオレ=ル=デュクがヴェズレを担当していたころ、修復とはもとの状態に復帰することであった。しかし修復は破壊よりも有害なことがあることも認識された。セザール・ダリも、ノートル=ダムを補強するのではなく、漠然とした理想のもとに、ないものを追加し、あるものを撤去するようなものだ、と指摘した。

 ヴィオレ=ル=デュク自身、1843年、祭壇、パイプオルガンの外装木箱、説教壇、彫刻を撤去し、ファサードをもとにもどし、未完成であったものを完成させた。

 ヴィオレ=ル=デュクの「修復するrestaurer」の定義。「建物を修復するとは、メンテすることでも、修理することでも、修繕することでもない。かつてなかった完全な状態に再建することである。」絶対的な法則にしたがうのではなく、フレキシブルであるべきと考えていた。彼が信じた原理とは「様式の統一性」であった。これはもともと古典主義の考え方であった。18世紀末「悪趣味」と戦うために、建築家は芸術の起源に遡ることを考え、ギリシアやローマの神殿のように建設しようとした。古典主義者たちは折衷主義者になってしまった。こんどは修復家たちがこの「様式の統一性」という原理に立ち戻ろうとした。

 考古学者たちは、啓蒙主義の伝統を引き継いでおり、各時代の正確な形態を分類し決定しようとした。それぞれの時代に固有の様式をみいだすために、様式の統一性、印象の統一性を重視した。それは科学的でもあり詩的でもあった。ノートル=ダムでもサン=ジェルマン=デ=プレにおいても、様式は重層的であるが、ヴィオレ=ル=デュクはそれらひとつひとつを尊重したというので、賞賛された。

 「修復家」の立場を離れると、ラシュもヴィオレ=ル=デュクも、ゴシック様式の機械的な模倣には反対で、いわゆるネオ=ゴシックは移行期であると考えていた。現代建築は、ゴシックの形態ではなく精神を学ばねばならない。

 「歴史的記念物委員会」では、1844年、ゴシック建築をエコール=デ=ボザールで教えなければならないという意見が出された。1846年、ヴィテは機械的模倣はよくないと答えてた。修復家であれ考古学者であれ同様な意見が支配的であった。しかし1860年代の一時期、ヴィオレ=ル=デュクはこの学校で中世芸術を教えた。学生は全員、古典主義を支持しており、彼の講義は学生のサボタージュでほとんど成立しなかった。

 ヴィオレ=ル=デュクにとってもゴシックは形態ではなく、構造であり論理であった。1854年の『建築辞典』にもみられるように、彼はゴシックから、当時の合理主義の原理を導こうとしたのであった。

 しかしこの合理主義は、プロセスだけでなく結果をも求めていた。つまりプロセスがよければ統一的なスタイルが生じるはずだ、という理念があった。したがって20世紀の合理主義者が、アルゴリズムを満足すれば結果として美しくなくともよいとまで考えたのとは違って、19世紀のヴィオレ=ル=デュクは合理主義の彼方に立派なスタイルをみたのであった。

【4】古建築博物館

 中世建築の研究がかなり進み、書籍も出版され、それにもとづいて新しい教会堂がどんどん建設された。教会関係者たちは、宗教芸術博物館をつくるよう、建築家に働きかけた。

 歴史的記念物委員会もまた当初から博物館の創設を考えていた。ヴィテやメリメもその旨のレポートを書いていた。委員会は1848年、アレクサンドル・ルノワールがプチ・ゾーギュスタン修道院に創設した博物館に言及しつつ、エコール=デ=ボザールの校舎になっていたこの建物に、中世建築のコレクションを納めることを考えていた。反対意見もあって1851年、ド・ラボルドは芸術はひとつであり、宗教芸術などという範疇はないと批判した。

 しかしその理念は、1879年にやっと実現された。ヴィオレ=ル=デュクの請願により、トロカデロの東翼部に場所が与えられた。経緯からすれば、この博物館は、一般大衆の啓蒙とともに専門家育成という願いがあったものと思われる。

 これは現在のシャイオ宮の中世建築コレクションである。この上階に2007年、近現代建築ギャラリーができたことは報告したとおり。一般向け/専門家向けという2方向を堅持していることもヴィオレ=ル=デュク理念の継承といえるのではないだろうか。 

 蛇足:ヴィオレ=ル=デュクは、合理的探求がスタイルの統一性に至るという建築観をいだいた。新しいシャイオ宮の新旧のコレクションはみごとにこの理念を反映していると考えられる。

【5】「歴史的記念物建築家」

 ラシュやヴィオレ=ル=デュクは事実上MH建築家であった。彼らは中世建築を研究し、成果を修復にやくだてた。しかし同時に彼らは例外的に優れた建築家=修復家であった。それを制度化し、国土に大量供給することが必要になった。19世紀末には歴史的記念物(MH)を専門とする建築家のポストが制度化された。

 1830年に創設された歴史的記念物委員会のリュドヴィク・ヴィテ、後任のプロスペール・メリメは、建築の専門家ではなかった。

 1840年、委員会は「とくに中世建築を研修した建築家たち」に重要な修復などを任そうと決めた。修復事務所で仕事をし、工事管理をしたものがそうした建築家であると認められた。MHを専門とする建築家、という概念がここでうまれた。

 1860年代、ヴィオレ=ル=デュクはエコール=デ=ボザールで中世建築を教え、その専門家を養成しようとしたが、失敗に終わった。1887年、アナトール・ド・ボドーはこの学校で中世建築の講義をはじめる。

 1893、「歴史的記念物主任建築家Architecte en chef des monuments historiques=ACMH」を選ぶ最初のコンクールがおこなわれる。

 1905年、政教分離法。宗教省が廃止された。大聖堂を担当していた司教座建築家architecte diocésain協会は、歴史的記念物の部局に所属するようになった。

 1907年の法律により「ACMH協会」が設立された。

 1946年、MHの管理維持はフランス建物建築家ABF(建築保存というより都市計画の立場、200人いる)の任務となる。

 現在ACMHは国家官吏でありつつ、同時に自身の事務所においては自由職業をなすことができる。ABFは行政側にいる建築家であり、ACMHは現場側にいる建築家とおおまかには考えることができる。

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【講義草稿】フランスにおける「遺産」概念

・・・基礎的なことに始終しますが。

【1】フランスそのものが遺産であると称している

 フランス都市計画法典では「フランス領土は国民共有の遺産であるLe territoire français est le patrimoine commun de la Nationと定められている。これは革命以降200年にわたる文化財・都市計画政策の歴史的成果であろう。

 フランスには文化財がいっぱい残っているから恵まれているねえ、の理解は第一歩としても、歴史的な解釈が必要である。革命の理念をとおしてみるとよくわかる。つまり王、貴族、教会が占拠していた領土とその上の不動産物件が、国に(つまり国民に)渡された。であるから「国民」共有なのである。共和国理念ともいえる。もうひとつは創造し、制作する人間の本性一般への尊重であろう(これはおいおい考えます)。 

 法制度以前に、哲学において遺産も都市計画も一体であるフランスのように、日本がなることはないであろう。国民共有とは公益のことであり、私権の制限も意味するのであるから。それにたいして日本は私権を尊重する国家であるから。

【2】法における「遺産」概念の登場

 遺産法典(Code du patrimoine)の法典(Code)とは、それぞれの法(loi)を体系化したものである。新しい法律の制定ではない。それらの関係を定めて、全体としてひとつの法体系をなすようにしたものである。

 シラク大統領の時代、2004年に、この法典は定められた。したがって文化遺産、建築遺産などと断らなくとも、たんに遺産といえるようになったのは、この法典ゆえである。ちなみに日本では単独で遺産を云々する法律はないから、日本で「遺産」単独で呼べるのはフランスをはじめヨーロッパの動向をふまえてのことである。

 法典は7書からなる。1913年の歴史的記念物法(2005年の政令による改正された)。1941年の考古学発掘法。1979年のアーカイヴ法。1992年の納本法。2001年の予防的考古学法。2002年のフランス博物館法。2006年の著作権法改正、情報関連法。

 法律の名称からわかるように、最初は古建築だけを考えていたが、そののち敷地、地域、文書、景観とその概念が広がってきた。最終的にはそれらを遺産という概念でまとめた。フランスでは1970年代に遺産概念が拡大し、建築だけでなく、自然、景観、あるいは方言そのもの、も遺産と考えられるようになった。

 したがって歴史的記念物の概念がなくなったのではない。それはより上位の遺産概念の下位に位置する、個別の概念のひとつとして位置づけられている。

 また都市計画法典では、「フランス国土は国民共通の遺産である」と定められている。

【3】ではあらためて「歴史的記念物Monument Historique」とはなにか?

 フランスでは歴史的記念物(以下にMH)に指定され登録されるということは、その歴史的価値あるいは建築的価値において顕著である建物を守るということを目的として、「公益に従属する」ことを意味する。

 ところで「公益に従属する(拘束される)」(この訳語は公式のものではない)とはなにか?

 「公益に従属されること」とはフランスでは、都市計画法典に規定される地域都市計画において規定される行政的拘束に従うことである。つまりMHに指定された時点で、公的なものとなり、都市計画に従う。

 この「公益」には4種類ある。

(1)遺産(歴史的記念物とサイト)の保護という拘束

(2)資源や施設の使用にかんする拘束

(3)国土防衛にかんする拘束

(4)公共衛生と公安にかんする拘束

 文化遺産であることは、国防的必要に匹敵する。公益に拘束されるということは、私権が制限されるということを意味する。また都市計画がすでに文化財の保護をあらかじめ内包している。(日本では、文部科学省が指定するものが文化財であるという定義である。したがって国交省が管轄する都市計画とはまったく関係がない。)

【4】フランスは自国の文化財制度をいかに普遍化したか?

 1830年代に内務省内に「歴史的記念物委員会」が発足し、1840年代に記念物目録が出版されはじめた。

 1841年に、危機に瀕した歴史的建造物を保護する法律ができる。

 20世紀初頭、保存は点的保存から面的保存に進化する。

 1921年、知的共同国際委員会(ユネスコの前身)においてアンリ・ベルグソンは文化遺産の概念を主張した。

 1945年、ユネスコ設立、本拠はパリ。最初は有形文化財が対象。

 1972年、世界遺産のリストを作成。

 1992年、日本流にいうと無形文化財のリストListe Memoire du mondeを作成。しだいに祭典など、無形のものも遺産として考えられるようになった。

・・・この項はやがて大幅改訂となるでしょうが、とりあえず投稿しましょう。

 歴史的記念物の概念はまず、中世建築の評価からはじまった。今日では遺産概念は党派に関係なくすべての文化遺産に適応される。しかし国民文化という概念を中心として19世紀が展開したからには、この原点をまず押さえておかねばならないであろう。

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2007.11.13

【講義草稿】古建築の保存(002)七月王政

 古建築の保存・修復活動は革命下において萌芽がみられるが、おもには7月王政にその制度的思想的な基盤ができた。

(1)初期の保存

 革命、帝政時代にもすでに記念碑保護の政策は始まっていた。内務大臣モタリヴェは1810年5月10日、知事にその件について通達していたが、知事たちの反応はにぶかった。しかし王政復古になると、いくつかの県議会は基金をつくり、記念碑を買収して修復することを決議した。県によっては、記念碑の学芸員あるいは監察官をおいた。「フランス古物協会 Société des Antiquaires de France」書記長ボタンは1819年5月30日、近年の破壊や移動をまぬがれた記念碑、残骸、痕跡を保存することがその協会の目的であると表明した。

 政府もまたいくつかの建物の修復を命じた。もっとも修復そのものは好成績ではなかった。サン=ジェルマン=デ=プレ教会の修復はひどかった。サン=ドニ教会は、ナポレオンふが一族の墓を歴代の王のそれの近くにおくために、修復を命じた。ドブレが担当した。しかし床レベルをあげて、フランス記念碑博物館が整理した墳墓をごちゃまぜにしてしまった。その結果1846年より再整備となった。

 アラヴォワンヌはサン=ドニ教会で仕事をしたのち、1817年、セ大聖堂を担当、石の柱を鉄のそれに替えた。1822年にルーアン大聖堂の尖塔が火災にあうと彼が呼ばれ、1826年以降、修復がなされた。しかしゴシック派とみなされた彼は、ド・カンシーは学士院入会を認めなかった。ユヴェは1825年、サン=ジャン=ル=ポーヴル教会の修復、イトルフはランス大聖堂の修復を担当したが、彼らは古典主義の建築家であって、ゴシック建築にあからさまな無理解を示し、修復は混乱した。

 シャルル・ロトランは、ユゴーの友人であったが、1829年にブザンソン大聖堂の担当となった。彼はブランジェサント=ブーヴを連れてステンドグラスを修復した。3人はブルゴーニュ、アルザス、ライン川沿いのゴシック建築を研究した。

 ロトランはヴィクトール・ユゴーに吹き込んだ結果、後者は記念碑破壊に抗議する文書を書いたとされている。ユゴー『ノートル・ダム・ド・パリ』(1831) のなかで、革命期などの蛮行によりゴシック建築がゆがめられていることを指摘し、ルネサンス建築を批難した。新しい記念碑を建設するために、古いものを保存しなければならないことを主張した。「国民に、国民建築への愛を呼び起こすことが本書の目的だ」としたが、国民的建築とはもちろんゴシック建築であった。

 おなじころパヴィアレクサンドル・デュマに、大聖堂の建築が国民の誇りであることを述べた。またモンタリヴェは『二世界誌』のなかにユゴーへの書簡を送り、フランスにおける記念碑破壊の蛮行について述べた。

 これにより世論は喚起され、どうような論調であった『マガザン・ピトレスク』誌(1833~)が熱心に購読された。チュルパン・ド・クリセは『さまざまな時代と様式の建築諸例』(1833)のなかでクリュニー館を紹介した。アレクサンドルの息子アルベール・ルノワールはこの中世の館をミュジアムとする案を出した。1935、サン=シュラン婦人はその旨の書を出した。1843年、博物館転用が決まった。1830年代以降、中世建築の文献は増えた。

(2)記念物の売却

 革命で没収された記念碑物件は、取り壊され、転売される状況はつづいた。モンタランベールは、すべての県において王政復古の15年間にも記念碑の消失はつづいたと嘆いた。ヴィクトール・ユゴーは「破壊者との戦いの時がきた・・・沈黙は許されない・・・私たちが敬愛する中世の記念碑、国民の古くからの栄光が書き込まれた中世の記念碑が危機に瀕している・・・」と述べた。

 監査旅行からもどったヴィテギヨに「市長、司祭、教会財産委員会、とりわけ市議会はまったく聞く耳をもたない。理性は彼らには通用しない。法が必要だ。そうしないと10年後にはフランスに記念碑はなくなってしまうであろう」と訴えた。

 パリでもシャブロルとランビュトの時代に、テンプル騎士団領の天守閣が取り壊された。

(3)「歴史的記念物委員会」

 7月王政時代に状況は好転し、政府は記念碑の保存を考えるようになった。1830年、内務省は「歴史的記念物」に予算措置を開始した。

 1730年10月28日、内務大臣フランソワ・ギゾ「歴史的記念物検査長官」職を創設した。彼は王に「フランス国土を覆う歴史的記念碑は、全ヨーロッパの賞賛と羨望の的であり、我が国も自分たちのこうした栄光には無関心ではいられない」と書き送った。ルイ=フィリップは、それを聞き入れヴェルサイユに「フランス歴史博物館」を創設した。

 「検査長官」の仕事は、記念碑の目録を作成することであった。ギゾは、リュドヴィク・ヴィテを指名した。ヴィテは、この仕事の重要性を痛感していたが、3年後にコンセイユ・デタに指名されると、辞任した。歴史的記念碑の部署は、通商・公共事業省に属していたが、それから内務相に属した。内務大臣ティエールは、1834年3月29日、ヴィテの後任としてプロスペール・メリメを検査長官に指名した。その任務は、建物を指定し、維持と保存のための予算を措置することであった。メリメは高名な作家であったが、デッサンもでき、考古学にも造詣が深かった。アルシス・ド・コモンを顧問にした。フランス中を視察旅行し、メモをとり、スケッチをし、知事や市長に面会した。彼は1840年に視察旅行に、ヴィオレ=ル=デュク(友人ドレクルーズの甥であった)を連れて行った。メリメは1853までこの地位にあった(そののち上院議員となった)。ユゴーと同様、古典主義を批難するということで、やや偏狭なところがあったようだ。

 1834年「芸術・記念碑歴史委員会」の創設がきまった。県の記念碑関係の教会にいい指示を与えることが目的であった。ユゴーは出ずっぱりであったようだ。

 1837年9月29日「歴史的記念物委員会 Commission des Monuments historiques」がモンタリヴェによって設立された。委員長はヴァトゥ Vatout。しかし彼はそののち公共事業省の市民建築局長になったので、1839年に委員会は再組織された。メンバーは8人。ヴィテ(副委員長)、メリメ(副委員長)、ルプレヴォ、モンテスキュ伯、テロール男爵、ルノルマン(考古学)、カリスティ(ギリシア=ローマ建築の修復専門家)、デュバン(建築家、アレクサンドル・ルノワールの古建築博物館をボザールに引き継ごうとしていた)。委員会の予算は12万フランであった。目録の作成などが任務であった。

 建築では縦割り行政の弊害から、委員会の活動は困難があった。内務省は、宗教行政を管轄したので、司教区、小司教区の教会などの建物を管轄した。公共事業省にある市民建築局は、サント=シャペルやサン=ドニの歴史的建築を管轄した。防衛省の管轄は、ジャコバン・ド・トゥールーズ、軍の倉庫などを管轄した。紛糾もあったが、司教区建築家は、歴史的建造物建築家のなかから選ばれたので、それが仲介者となることもあった。

 歴史的記念物委員会は、協会や出版により支援された。アルシス・ド・コモンは1824年に「フランス考古学協会」を設立し、年会を開催し、会誌『記念碑年報 Bullten Monumental』を刊行した(最近まで続いていた)。ディドロンの『考古学年報』とか『考古学誌』など、さまざまな協会や出版がこの委員会を支援した。

 この委員会と委員長メリメは、正しい学識を蓄積することで、王政復古時代のあやまった復元や修復の弊害をなくすことを目指した。それに貢献したのがデュバン、ラシュ、ヴィオレ=ル=デュクであった。

 1840年、委員会は最初の歴史的記念物の目録を刊行した。全部で1034件が指定された。ヴェズレの教会、サン=ドニの教会など5世紀から16世紀の中世建築のみであった。また公共建築(国、県、自治体の所有)のみが指定された。目録作成の作業は続き、その範囲は広げられ、バナキュラー建築も含まれた。また1851年には、委員会は、写真部会を創設した。

・・・制度はこのくらいにして、次回は人と活動にふれることにしよう。

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【講義草稿】古建築の保存(001)革命から王政復古まで

 新カテゴリー「講義草稿」です。タイトルどおり、講義のための草稿である。初心者対象なのできわめて初歩的、古典的なことからはじめる。とりあえず講義のパーツを順不同で書き始める。草稿だから教室ではさらに追記、編集、現代化し、図版などを追加して話す。

 古建築保存の歴史は200年を遡る。フランスにそくせば革命を契機としてであった。このとき建築史、文化財、文化遺産という概念の基礎が、包括的に誕生してきた。この誕生の契機を俯瞰的に眺めることで、今日、専門分化しているこれらの諸部門を統一的な視点から再考することが可能になるであろう。

【1】革命による記念碑(monument)の破壊。(V-103)

 革命により多くの記念碑が破壊された。破壊の背景はさまざまであり、歴史家はそれらを非難はする。しかし場合を分ける必要がある。17世紀、18世紀にも記念碑の取り壊しはあった。1791年にカンペール(ブルターニュ)大聖堂の内陣仕切りが内陣を解放するために取り壊された。

 過去を理解していなかったことは、理由のひとつ。1787年、王はラ・ミュエット、マドリッド、ヴァンセンヌ、ブロワ城館の取壊しあるいは売却を命令した。革命政府もランブイエを解体しようとした。

 18世紀の建築家もゴシック建築の構造を研究した。また庭園の四阿をデザインするための「トルバドール(吟遊詩人)」的工作物のモデルとして位置づけられた。しかし公衆は無関心であり、都市のなかに満ちているゴシック建築は「ゴート人による野蛮」と信じられた。これらを撤去して都市空間を規則正しくすることが啓蒙主義の時代の都市計画であった。市民たちも、革命という政治的な理由から記念碑を破壊することにに疑問は感じなかった。

 象徴的・政治的な理由による破壊。国民公会(Convention, 1793-95)は、1792年8月14日、封建制度の記念碑を取り壊すことを決めた。記念碑委員会が芸術作品の保存を監視するという配慮はあった。国民公会の1793年8月1日のデクレ(行政命令)は、サン=ドニ修道院などにあるすべての王室の墳墓を取り壊すことを決めたが、これは実施されなかった。また、リヨン市が反抗すると、同年10月12日、リヨン市を根こそぎにすることが決定され、クロワ=ルス市壁、ベルクールのファサード、旧市街の町並み、が取り壊された。1794年7月7日にやっと法令は撤去された。

 国有財産法(1789年11月など)に起因する破壊。1789年いらいカミーユ・デムランは「フランスの4万棟の宮殿、オテル、城館は勝利者にささげられら美味な餌食」として非難した。略奪、放火も頻発していた。1789年11月の国有財産法(1790年5月17日と10月18日に補足された)は、教会財産の没収を決めた。その他、法律によって教区、司教区、大司教区の数も制限された。これらの法律により、教会の不動産資産や教会堂は、市町村の所有となった。宗教団体そのものも解体された(1790,92年の法)。宗教団体の財産は国のものとなった。司教館、修道院、教会財産管理局、マルタ騎士団、コレージュの財産は売却されることとなった。

 国有財産biens nationauxは、教会財産(1790)、亡命貴族財産(1971)、王室財産(1792)の没収、国有化に即応して制度化された概念である。あるものは民衆に還元されたので、グロゴワール司教はこれを「ヴァンダリズム」と呼んだ。クリュニー修道院、ヴェズスレの司教館は石材の提供場となった。モンサンミシェルが監獄になったように、用途が変更されたものもあった。

 オバン=ルイ・ミラン Aubain-Louis Millanが1790年、バスティーユ取り壊しにふれて、立憲公会で「歴史的記念物」に言及したのが、この言葉の初出である。ゆえに「歴史的記念物」とは革命以前、アンシャン=レジームの代名詞であった。アレクサンドル・ルノワールはフランス記念物博物館に就任したのはこういう意味においてであった。

 教会財産を没収した地方自治体は、それらを宣誓聖職者に任せるか、メンテナンス費用を軽減するために倉庫、市場、公共建築、劇場などに転用した。たとえばパリのノートル=ダム=デ=ヴィクトワールは証券取引所となった。また15の教会は神殿にされた。サン=フィリップ=デュ=ルール教会はコンコルド神殿に、サン=テティエンヌ=デュ=モン教会は憐憫神殿、サン=トマス=ダカン教会は平和神殿、サン=シュルピス教会は勝利神殿にされた、など。

 国民議会(Assemblée Nationale)は国有財産の売却を規定した。1793年4月4日の法律により、旧王宮、修道院を各地分譲(小さい地所に分割して転売し住宅地などにすること)できるようになった。パリのモンソー公園の建物は取り壊された。ブロワ、フォンテーヌブロー、ヴェルサイユも破壊を免れた。

 記念碑破壊への反動。1793年10月29日に「コミューン・デ・ザール」が廃止されると、国民公会は記念碑破壊に敏感になった。ラカナルは記念碑を破壊する者を罰しようとした。ジョゼフ・シェニエは「封建制の象徴を消すという理由であれば」とする。グレゴワールは記念碑破壊についてレポートを書き、国民公会は破壊禁止の議決を繰り返した。

 しかし記念碑破壊の動きはなかなか止められなかった。1793年10月、クリュニー修道院が破壊された(今日、シャイオ宮のギャラリーには破壊された修道院の模型が展示されている)。地域社会の破壊行動にはなかなか歯止めがきかなかった。

 全面的破壊でなくとも、屋根の鉛、鉄材などが略奪されると、雨水がしみこんで、建物は急速にいたんでいった。管理維持は難しく、建材の売却は利益をもたらしたので、自治体は取り壊しを推進した。

 国民議会は、国有財産の売却が、記念碑を破壊するであろうことを予期しなかった。歴史的に見れば、記念碑の破壊者たちは、16世紀のプロテスタント、17・18世紀の参事会員、革命派、そしてオスマンは、ロマネスクとゴシックの遺産の価値を認められず、破壊していった。

【2】不動産・財政の危機

 国有財産の売却の結果、一時期、投機がきわめて活発になった。住宅街になったところは家賃が高くても入居者がいた。また劇場も多く建設された。投機家のなかにはオランダ人など外国人も多かった。民間オテル建築も建設された。しかし1792年8月の王権停止をきっかけに(8月10日事件)、投機熱は冷えた。買い手であるべき貴族は亡命をはじめたからであった。不動産価格は下がった。

 テルミドール以降、パリに地方から労働者が押し寄せ、軍事産業の労働者、公共サービスのための公務員が増えたので、住宅危機となり、家賃は高騰した。しかし有名なアッシナ紙幣の問題で、家賃は大混乱であった。家主は、小麦か金属で家賃を払うよう要求するようになった。それゆえ1796年には家賃を正貨で支払うよう法律ができた。家賃危機は1800年にやっと収束した。

【3】革命による新しい建築制度。

 1791年に廃止された旧制度。王室建築長官。主席建築家。建築アカデミー。ムニュ長官(祭事関係)。全権をもっていたこれら制度が廃止された。

 1791年4月27日の法律。「市民建築評議会 Conseil des Bâtiments civils 」の成立、9人の建築家がそれぞれ部署を担当した。国民公会は、美術は公教育委員会の手掌とし、建築は公共事業委員会のそれとした。

 1795年に「県」制度(1983年の地方分権法まで続く)が成立した。内務大臣ブネゼクは、美術、科学、建築をまとめてひとつの部署とした。建築関係は12月に再組織され、ロンドレ、シャルグラン、ブロンニャールからなる「建築評議会 Conseil des Bâtiments」となった(その詳細は省略)。これは革命前のアカデミーの諮問機関的な役割を踏襲するものであった。ただし評議会は建築家でないメンバーも含まれていた。

 ナポレオン時代。「市民建築評議会Conseil des Bâtiments civils」は建築行政の中心でありつづけた。

【4】古記念碑

 「プチ=ゾーギュスタン修道院」:1790年以降、教会や宮殿に所蔵されていた美術品などが移管された。この建物とコレクションは、現在のエコール・デ・ボサールの校舎となっている。

 「記念碑委員会 Commission des Monuments」:1790年設立。動産のみをあつかった。封建的遺物を消すことが考えられるとド・ヴァイィとペルシエがメンバーとなった。国民公会は1793年、不動産遺産を保護しようとしたが、効果ははなかった。

 「臨時美術委員会 Commission temporaire des Arts」:上記委員会にかえて国民公会は1793年に設立。建築家としてはデザルノ、ジルベール、ダヴィド・ルロワ、ユベール、ラノワ、ペルシエらがいた(これらはほとんど古典主義の建築家)。この委員会は古建築の保存を考えた。模型や図面によるドキュメンテーションが提案された。委員会の功績としては、シャンティィ、サン=ドニ門、サン=ドニ教会堂などが救われた。

 「フランス古物・記念碑ミュージアム Musée des Antiquités et Monulents français」アレクサンドル・ルノワールが運営していた。上記委員会のダヴィドは、ルノワールの友人であり、この博物館を支持していた。「博物館委員会」は、そのなかのとくに美的価値の高いものだけを選び、彼を記念碑キュレーターにしようとした。ルノワールはそれに抵抗した。1796年、総裁政府は彼のミュージアムを法的に承認した。ここでは彫刻しかなかったが、そのなかには建築の細部もあったので、建築家の関心を中世建築に向けることもできた。これにたいしド・カンシーは、フランスの美術品の海外転出に反対し、また教会や宮殿の一部であった美術品が本来の場所から離されることに反対した。ルノワールは、そうしないと破壊されると反論した。この重要な論争は、そののちヴィテとメリメのそれを先取りするものであり、のちにできる「歴史的記念碑委員会」の活動を規定するものであった。

【5】シャトーブリアン『キリスト教精髄』(1802)

 ロマン派の父と呼ばれるシャトーブリアンは、中世美術の価値を認識させたことに歴史的意味がある。日本におけるゴシック・リバイバルの紹介はピュージン、ラスキンといったイギリス経由である。すこしバランスを是正しなければならない。

 フランス人らしく彼は「美」を検討することからはじめる。「美は私たちの外部にあるのではない。自然の優美は、まさの人間の心の内部にあるのだ」。といっても18世紀の感覚論美学ではない。彼は美の根源は「宗教」にあると考える。美は形式的なものではなく、想起的なものである。建物は人びとにとって道徳的統一体であり、墳墓を見れば王のために涙をながす・・・。このような建築はゴシック建築でなければならなかった。美とは人間精神における宗教的感情である。さらにゴシックはガリアにおける森を想起させる(ゲーテに由来する原風景の考え方)。こうした効果をもたらす建築は、絵画的な原理からなりたつ(この店で絵画的原理で庭園をデザインしようとしたジラルダンに近い)。

 とはいえシャトーブリアンがフランス的伝統としてのゴシックを力説しなければならなかったのは、当時「ゴシック」概念はきわめて曖昧であったからである。あるときは、ゴシックとは今のロマネスクであり今のゴシックはアラベスクであった。あるときはゴシックとは中世建築すべてであった。当時の通説では、尖頭アーチは崩れたアーチでありその起源はアラブ建築だと考えた。こうした混乱した理解のなかから、カトリック的なものの表現としてのゴシック建築という理念をシャトーブリアンが広めていった。

 シャトーブリアンの主張は、記念物破壊というヴァンダリズムに対抗するためであった。ユゴーの同様であった。

【6】国民建築としてのゴシック建築

 シャトーブリアンの時代はまだロマン派ではなく前ロマン派とされている。彼らは記念碑は「精神に語りかける」ものとされた。古代神殿よりも、フランスに古くからある教会や城館がこのように語りかけると考えた。こうした観点から19世紀にはゴシックが再解釈された。こういう意味で中世建築はフランスの国民建築とされるようになった。

 

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2007.11.11

展覧会のハシゴ

土曜なので午前は仕事して、午後は美術館をはしごした。

■まずアルベール・カーン美術館(ブーロニュ=ビランクール)。

 アルベール・カーン(Albert Kahn, 1860-1840)は銀行家であり、投資(南アフリカの金・ダイヤモンド、中国鉄道、日本の台湾開発)で大もうけをした。

 そこで彼はさまざまな団体を創設して慈善事業に乗り出した(1898-1931)。学生が世界旅行をするための奨学金を出した。また世界各地の文化を記録しようと写真とフィルムの撮影をさせた。写真はステレオコピー4000点、カラーフィルム72000点。フィルムのそれは18万キロメートルで、100時間分あるという。かれはそれを「惑星アーカイヴ」であると考えていた。

 彼はグローバルな視野をもっていて、世界各地にはいろいろな文化があって、それを写真などで記録することで、相互の認識と理解が深まるという、素朴な理想主義をいだいていた。

 1909年には日本にもやってきた。フランスが組織した資本家グループの一員としてであった。渋沢元治(栄一の甥)にも会ったらしく、元治の写真を展示していた。(明治維新に資金提供した銀行家などと紹介されていて、これは困ったことである。)

 ブーロニュ=ビランクールに豪邸を構えた。エドモン・ド・ロートシルト(ロスチャイルド)の邸宅の隣であった。その庭を、イギリス風庭園、日本式庭園、フランス式庭園などたくさんのテーマ庭園により構成して、地球のミクロコスモスとしようとした。

 1928年の世界恐慌で破産した。セーヌ県はその資産を買い取った。それはさらに1964年にはオ=ド=セーヌ県にものとなった。現在の美術館と庭園はそれをもとに1986年に設立された。

 常設展のほか「マグレブの色:アルジェリア、モロッコ、チュニジア、1910-1931」をやっていた。これが目的でいった。

 1920年代のマグレブの写真は東方旅行のノスタルジー的興味があって楽しかったが、おもしろかったのは映画である。「惑星アーカイヴ」の一部を編集して作成されたものであった。

 フランスは、植民地政策にカーンの写真活動をかなり利用して、記録をとらせていたようだ。カーンもまた有力な銀行家であったから、政治的コネクションとして利用したことも考えられる。だからカーンは、諸民族の相互理解という理想があったが、実際の活動のなかでは、政治に利用されたというわけである。これがこの映画の主張であった。

 1931年の植民地万国博覧会の鮮明な映像があって、これだけで見てよかったと思わせるものがある。

 ほかの印象的な映像としては、モロッコの軍隊が7月14日の祭典でシャンゼリゼを行進したり、現在パリにあるモスクが建設されたいきさつなど、植民地の状況がいかなるものかがわかる。

 「惑星アーカイブ」のなかでは、さまざま人種のポートレート(動画と静画)を写したフィルムがあって、これを博覧会で上映しよういう計画があったそうだ。さすがにこれは差別的で民族の品種区別のようだということで、禁止された。

 また当時フランスが拠点としていたアルジェ、ラバトのフランス都市の光景があって、1920年代の都市の動画はまことにおもしろい。超近代都市なのである。フィルムはタブーにも踏み込んでおり、ラバト郊外に建設された売春街の映像もあった。この面でもフランス式がアフリカに広がったそうである。

 リヨン・アフリカ宣教会の怪しげな宣教師がアフリカ各地で宣教する様子も撮影されていた。この宣教会についてはよくわかっていない。子供を当時の世界基準以上働かせていたり、いろいろ国際機関から批判されていたそうだ。今フランスではあやしげないわゆる人権団体がチャドの子供たちをさらったかどうかで、大問題になっているが、なにかそんなことを思い出させる。

■それからシャイオ宮の海洋博物館。スエズ運河の工事現場を撮影した写真家エメ・デジレEmé Désiréの展覧会である。

 資料によれば150万人のエジプト人が動員され、コレラで12万5000人が亡くなったとある。さぞやたいへんな工事であったろう。

 しかし写真にうつされた光景は、まったくそれとは異なっていた。写真家はそもそも人間には興味がなかったのである。しかも当時の写真はかなり長時間露出であり、労働者が動けばすべて映像から消えてしまうのであった。労働者の施設も小規模な都市となるはずであるが、それほど大規模なものでもなかった。

 そればかりでなく、工事のほぼ完全な機械化が始まっておいた。石炭で動いていたという当時の工作機械はなかなかおもしろかった。写真家はそれに関心があったのである。パノラマ写真もあり、運河がもたらす風景の変化にも興味があったようだ。

 しかし世界戦略を変えた大土木工事も現場でみると、殺風景である。

 これになぜ興味をもったかというと、19世紀であったので多国籍民間企業がおこなった、からである。つまり20世紀なら公共事業であるはずだ。しかし民間企業であり、株式であったので、やがてイギリスが株を買い占めて乗っ取ってしまう。つまり今日のグローバスな状況などというものは、今がはじめてではないのである。

 機械化、株買い占めなど、きわめてドライな大土木工事であった。

 それはそうと、海洋博物館そのものはきわめて充実した常設展であり、ヴェルネの絵画、ガレー船、巨砲時代の戦艦、原潜などの模型・・・などの充実したワンダーランドであった。子供のころに見ておけば人生がかわったかもしれない。

■ルクサンブール美術館でジュゼッペ・アルチンボルドの展覧会である。

  6時台のいちばんすくであろう時間をねらったが、子供連れが押し寄せ、たいへんなことになっていた。

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 彼はまずミラノ大聖堂のステンドグラスの図案家としてキャリアを開始する。展覧会ではこのミラノ大聖堂の写真から始まって、同時代の文献、美術工芸品、文献、ドイツ語圏で伝統的なブンダーカマー的諸例など、彼の背景や同時代現象をたんねんに紹介するものであった。

 プラハに移ってからの活動はぼくがいまさら説明するようなことではないが、ポートレートを静物の組み合わせとして描く手法であるとか、ポートレートのテーマも四季とか四元素(水、風、火・・・など、土はなかったが)など、考えてみればかなりオーソドックスなものであった。シンボル、アレゴリーが重層的に描かれる芸術のなかで(彼にはアレゴリーに詳しい詩人が専属でアドバイスしていたらしい)、具象はその極端までいけば抽象に反転するのではないか、と思える。ここでは抽象と具象はコインの裏表であって、切り離せないものである。

■ハシゴが終わって。

アルチンボルドから帰宅する途中で「無印」パリ支店の前を通る。違う惑星である。今日は早起きして、泳いだし、仕事もしたし、展覧会も見た。夕食はポトフである。よく眠れるであろう。

 

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2007.11.10

屈折した遺産論

 フランスかぶれなので、かぶれついでに遺産概念を。

 ぼくは文化遺産のことを遺産ということは、かなり本質をついていると考えている。フランス建築史のひとつの方法論だが、死後財産目録をつかって資産のなかの家具や壁紙や建物そのものから、現存していない建築の平面やその生活ぶりを再現するのである。フランスの文化遺産の考え方も、まずは目録をつくって情報化することが基盤である。すると個人資産と社会(文化)資産も同じ発想で管理されていることが想像できる。

 文化遺産のことも、遺産相続の遺産のように考えてみるとおもしろい。

 なにはともあれ、日本にもどると、いまは年金問題である。これは老人問題である。つまり膨大な個人資産をもっている老人たちが、年金問題から自分たちの老後に懸念をいだいて、消費を渋っている。だから経済が活性化されないのである。

 彼らに遺産を残すことが求められているのではない。資産をできるだけ消費して、そのことで後の世代に幸福をわけてほしい、といっている。つまり資産をそのまま右から左に平行移動して遺産としてわたせ、ということではないのである。お金は回転しないと社会は活性化されない。

 ぼくは文化についての「遺産」への注目も、同じような構図があるのではないかと考えている。ヨーロッパという遺産先進地帯では、そのままの凍結的な保存ではなく、活用することで後の世代のための活性化となるようになっている。

 活用とは物理的な転用だけではない。文化として活用するということは、現物、それについての情報、から新しい世代が新しい価値観を創造し、その対象物についての新しい解釈を示すことである。そのことによって付加価値がつくことである。

 昨今の遺産ブームで懸念されるのは、とくに若い世代が、文化遺産の価値が条例や条約によって機械的に判断されると思いこみ、新しい解釈が可能であるという当たり前のことが忘れられつつあることである。条項の機械的適応なら、それは単純再生産か縮小再生産であって、将来への展開はないであろう。それは文化ですらなくなるであろう。

 手前みそだが、歴史観を批判的に構築してゆく、それを個人個人がやっていく、ということが遺産という幽霊に振り回されない道であろう。

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サント=クロチルド教会(パリ)と様式論争

 昨日は体調がいまひとつだったので、散歩と日用品買い物にとどめた。

 そこで前から再訪しようとおもっていたサント=クロチルド教会にいった。宿から歩いて10分そこそこ、いい散歩である。

 この教会にはまえまえから注目していた。19世紀初頭に形成された新街区における教会建築というまちづくり的視点、世俗国家のなかでの建設という宗教的視点、またパリにおける最初のゴシックリバイバルという建築史的視点が交差されうる、おもしろい例であったからだ。

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 まず1827年、パリ市議会はこの町には、適切な教会堂がないことから、その新築を決める。この地区には教区教会としてサン=トマ・ダカン教会しかなく、信者は多かったからであった。土地はもともとあったカルメル会女子修道院とベルシャス会女子修道院が提供されることとなった。

 これは1802年に成立したコンコルダ(ナポレオンと教皇の和解体制)体制の結果である。公認宗教制度であり、また同時に、教会財産は国家財産であり、聖職者も国が任命する。だから国家がフランス国内の教会を完全管理するということである。反面、だからこそ、国は教会堂建設に公金を使うのであった。

 だから新しいサント=クロチルド教会のために、修道院の土地(=国の土地)を使い、市が教会堂建設を決める、ということが起こる。教会組織が決めたのではないのである。

 さらにその建築様式については、ネオ=ゴシック(ゴシック=リバイバル)にするかネオ=クラシカル(新古典主義)にするかで一悶着があった。

 しかし重要なのはいかにも19世紀的な様式論争であったということではない。2様式で対立したのが、いずれも世俗の、公共的組織であったということである。

 ネオ=ゴシックを支持したのは、当時セーヌ県知事でありそもそもこの教会建設を提案したランビュトと、市議会である。なぜ知事かというと、当時、パリには市長職はなかったからである。オスマンも知事であった。フランスの首都であるパリが首長公選となって自律的な自治体になることは許されなかった。知事は内務省が選ぶのであり、ランビュトはむしろ国家の意思を反映していると考えるべきである。

 ネオ=クラシカルを支持したのは市民建築評議会はであった。評議会は革命によりできたものである。詳しいことは調べていないが、共和国の理念にもとづいて、公共建築を市民の立場からチェックするためのものである。制度としてどの様式を支持すべきという決まりはないが、革命=共和制の理念=新古典主義(古代ローマの共和主義)という流れはあった。

 この論争においても肝心の聖職者たちはどこにいたのかわからない。

 問題が紛糾したのは、19世紀の文化政策制度にも原因がある。

 プロスペール・メリメは歴史的建造物検査長官であった。彼は、「歴史的建造物委員会」でとりくまれる修復工事が、かならず前述の「市民建築総評議会」に提出されるようにしてしまった。

 歴史的建造物委員会は全員ではなかったが、ゴシックに賛成であった。評議会はリバイバルに反対し、古典主義の支持者たちであった。

 この対立が原因で、古い教会の修復など、いちいち意見が対立し、たいへんなことになっていた。

 ゴシック擁護者のひとりが、1844年から『考古学年報』を刊行していたディドロンであった。中世の、音楽、ステンドグラス、建築などの価値を力説した。ゴシックは国民的芸術だと力説した。建築家ラシュは13世紀の様式を最良とした。またヴィオレ=ル=デュクもまたゴシック建築理論をこのころには構築していた。

 そうした後押しがあったので、1845年市議会は、様式はゴシックだと決議した。市議会が議決できめるというのは最終手段であるとしか考えられない。委員会、評議会では決められないのであった。

 同時に市議会は、守護聖人を聖クロチルドと聖ヴァレールだとして決議した。これもかなり政治的判断であろう。聖クロチルドは、フランク王といしてカトリックに改宗した最初の王であるクローヴィスの妻である。下の写真は、左=聖クロチルド、右=クローヴィス。(聖ヴァレールはもともと地区にあった小礼拝堂の聖人であった)。すなわちフランス国家の起源、キリスト教国家の起源にかかわるような守護聖人の選択は、すぐ近くに下院議事堂があることなどの関連が考えられ、ランビュト知事の意気込みであろうか。

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 ケルン出身のフランソワ=クリスチャン・ガウが設計し、その弟子テオドール・バリュが仕上げた。ブルゴーニュの石材、小屋組は鉄である。鉄構造をつかったパリで初めての教会建築となった。

1857年に奉献。今年はなんと献堂150周年である。

 この町中の教会堂ひとつのなかに、フランス近代の本質がかいま見えることが理解されるであろう。乱暴なスケッチをしてみよう。

(1)革命は、教会組織を解体し、美術、建築、土地など、教会財産であったものをすべて国家財産とした。(美術とは略奪であるという文化帝国主義は国内的にもそうなのである)

(2)国家はいちど過去から切断された。それは失われたキリスト教社会を回想し、取り戻そうとする「ロマン主義」を生んだ。シャトーブリアン、ユゴーである。

(3)国家の文化政策として、このロマン主義的な雰囲気を基調として、中世芸術を一種の国民芸術とし、その保護と修復をする機関ができる。つまりフランスでは、記念碑、文化財、遺産はまず中世芸術のことであった。そののち一般化された。

(4)一時期、新古典主義=革命的=共和主義的、ネオ・ゴシック=中世的=国民的というような構図が生まれた。この構図は、市民建築評議会と歴史的建築委員会という制度的対立にも反映された。

(5)もちろん様式の対立が、そのまま政治的立場の違いと整合するわけではない。しかしそれぞれの様式が支持されるその出自を確認することは大切だ。

 蛇足だが、シャイオ宮では、古建築ギャラリーはほとんどゴシック建築、近現代建築ギャラリーはテクノロジーと新工夫の建築、となると、これはかなりヴィオレ=ル=デュクの理念に忠実なのである。つまりそこには古典古代、古典主義、折衷主義がみごとに排除されている。さらにいえば「ボザール」が排除されている。

 これはまさに「フランス建築」のひとつの定義である。

 別の定義があることはド・モンクロの『フランス建築』を読めばわかることではあるが。ともかくもシャイオ宮は、国内的にも国外的にも、きわめて党派的ではっきりしたメッセージをおくっているのである。

 

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2007.11.09

パリのシャイオ宮に新設された建築・遺産都市は新たな建築の神殿となるのだろうか?

 昨夜、シャイオ宮にいって展示をみてきた。一階の旧フランス記念碑博物館のコレクションはほぼそのままだが、その上階に近現代建築のコレクションが追加された。

 知らない人のために補足説明すると、一階は中世建築のコレクションである。とくに教会堂の正面入口(フランス語でポルタイユと呼ばれる)上部のタンパンの彫刻や、そのほかの建築の部分の原寸大レプリカが置かれている。展示室から展示室への境界が、このポルタイユであるので、教会の門をいくつもくぐりながらつぎつぎとコレクションを見てゆくことになる。

 もちろん鋳型で復元したものだけでなく、木造屋根組の模型などもおかれている。

 上階の近現代コレクションはあらたに追加されたものである。18世紀の証券取引所、19世紀のサント=ジュヌヴィエーブ図書館(ラブルーストの傑作)からはじまり、ヌーヴェルのアラブ世界会館、コースハースによるボルドーの住宅まである。

 最重要の扱いはル・コルビュジエによるマルセイユのユニテ・ダビタシオンの復元である。これは森ビルでの展覧会による復元とはまったく次元の違うものであった。つまりRCのフレームにユニットが挿入されていることを示すため、RC躯体そのものが復元されていた(とはいえ素材そのものは違う)。つまり今の言葉でいえば、スケルトン・インフィルというコンセプトそのものの模型化である。内装も、素材、色、洗面台などの細部まで、かなりオリジナルに忠実であった。そして吹き抜けの広い窓からは、この近現代コレクションの展示室そのものが俯瞰されるようになっていた。コルの窓から、近現代史を一望するのである。

 それらのなかでロンドンのクリスタル・パレスは外国勢のなかで大きな扱いをうけていた。完成状態の模型ではなく、工事途中のそれである。だから馬が建材を運搬していたり、現場でどのように部材を引き上げたりするか、ロープで仮固定している様子、などを示した現場模型なのである。これはかなり詳しい考証のいることで、さすがである。

 総じて、模型の見せかたにポリシーがあり、よりくわしく、はっきりしている。

 シャイオ宮のこの展示には思い出がある。それはなんと24年前である。1983年秋、留学してパリについてそうそう、日本建築史学会から依頼があった。このフランス記念碑博物館のコレクションの配置を確認してほしい、というのである。展示物をすべてノートして東京に報告した。建築史学誌ではそれをふまえて大岡實先生がシャイオ宮の紹介し、あわせて日本における古建築博物館を創設する提案と『日本古建築博物館建設の提案』を書かれた。具体的な展示方法まで提案されていた。シャイオ宮については飯田喜四郎先生がチェックされたようで、飯田先生からは、自身が留学していたころと配置はまったく同じで、感慨深い、というようなコメントをあとでいただいた記憶がある。

 『建築史学』創刊号、1983、pp.96-102を参照されたい。

 飯田先生と同様、ぼくも感慨深い。時代は変わった。

 大岡先生は、フランス歴代大統領が文化政策に個人寄付まですることを紹介している。フランスの文化政策の偉大さである。しかし今日では国家がすべてをカバーするのではなく、グローバル化政策を展開し、財政もまったく新しくなっている。

 展示についても、配置はひょっとしたらそのままだろうが、細部は違っているものもある。レプリカ技術が進み、現物にふれなくとも、写真をデジタル処理してかなり高精度な鋳造ができるので、この技術を応用した模型もある。ラベルにそういうことが書かれていた。

 ・・・しかし最大の変化は、近現代コレクションが追加されたことである。公式の文書などのなかで、このコレクションで800年のフランス建築が一望できることになっている。いわゆる古建築=伝統的建築と近現代建築をまさにひとつの概念で一望できるという視点は日本にはないものである。

 ただし16世紀から18世紀は扱いが小さい。このことも意味を明らかにするには精査が必要だが、即物的に解釈すればいわゆる古典主義はフランスにとって重要ではなかった、ということであろう。

 ではフランスにとってなにが重要であったか。中世と、近現代である。それらは彼らの意識では連続している。

(1)ゴシックを中心とする中世建築。

 中世建築についてはヴィオレ=ル=デュクの功績が大きいことは周知である。しかし中世を理想化する考え方はシャトーブリアン、ユゴーのころからの流れである(ぼくの印象としては、ゴシックは王党派の芸術であった)。だからヴィオレ=ル=デュクは最初からこの大枠のなかにいた。それで修復、研究、執筆、設計などをするのだが、彼を合理主義の系譜に位置づけたり、近代建築の先駆者として認知するのはことの一面にすぎないと思われる。彼は近代建築運動に大きな影響を与えるのだが、それは鉄の使用であったり、構造合理主義的な、あるいは機能主義的な側面をとおしてであったり、とされる。しかしこれらは彼の側面であるにすぎない。

 ぼくの解釈である。ゴシック・リバイバルにおけるゴシック解釈を俯瞰しているとわかることだが、ウォルポールにとってゴシックは古典古代にとはことなる奇怪なものであったり、ピュージンやラスキンにとっても古典古代、近代とはちがう徳のある時代がゴシックであった。彼らは固有のゴシックを考えた。しかしヴィオレ=ル=デュクは、ゴシック建築の合理性は普遍的にどの建築にも応用できると考えた。つまりゴシックは建築のための普遍的モデルとなった。この点を強調したい。

 フランス(建築)文化帝国主義のコアにゴシック建築があり、それが普遍的モデルとされ、さらにはそのコレクションがシャイヨ宮にあり、さらにそも目前にエッフェル塔がそびえている。結果なにが生じるかというともはや自明であろう。それはミュージアムの神殿化である。

 これも周知であるが、そもそもミュージアムは神殿である。18世紀に近代的なミュージアムの構想が練られたとき、それらは美の女神に捧げられる神殿として構想された。それからドイツ的な、分類をプラン化する機能主義的な時代がくるのだが。

(2)産業革命以降の近現代建築。

 古典主義と19世紀の折衷主義は冷遇されている。19世紀でも、クリスタルパレスや、鉄骨ボールトをつかったラブルーストの図書館は扱いが大きい。それからコル、ジャン・プルーヴェ、ポンピドゥ・センター、ヌーヴェルとつづけば、新機軸を打ち出してゆく豊かな創造性という面を強調したコレクションである。

 中世建築も、石造技術が飛躍的に進歩し、職人がさまざまな創意をこめて彫刻したじだいであった。そういう視点から見れば、中世と近現代はあっさりつながってしまうのである。

 別の視点からみると、中世と近現代の結合はとても唐突であるかもしれない。しかしその唐突さをならしてしまう、より上位の視点がある。建築の神格化である。

(3)美(建築)の神格化とは?

 通説にならって、19世紀の首都はパリであった。都市改造と大胆な建設技術の適用があった。パリのボザールが世界中の建築家を養成した。20世紀の首都は、メディアならロサンジェルス、建築ならニューヨークであった。後者MoMAのことであり、キュレーティングにより建築の動向が決められる時代となった(インターナショナルスタイル、建築家なしの建築、デコン、ポストモダン、ライトコンストラクション、すべてそうである)。21世紀は?シャイオ宮の新しいミュージアムは、パリがふたたび建築世界の首都になるという立候補宣言である。

 こうしたグローバル化のなかにおける世界戦略は、具体的にはそろばん勘定であって、いかにコレクションがあっても、その活用、運用ができないとミュージアムは成立しない。ボブールにこもってはやっていけないことはポンピドゥセンターの館長もいっていた。ルーブルも大衆化しただけでなく、中東の産油国や日本にも支店をもたなければならない。日本は居直って、コレクションなしの美術館をつくった。あうんの呼吸というべきである。

 グローバル化するなかで象徴的中心が必要である。新しいシャイオ宮のコレクションはかなり偏っていると思われるが、ともかくも800年の歴史を内包することで、その超越的、象徴的な中心であろうとしている。コレクションも必要だが、なにより場である。中心となりうる場を指示するという、場所の指定、その行為、が意味を持つのである。

 建築の神格化、神殿化という発想がある国でないと、グローバル化には対抗できないであろう。フランスは革命のときに宗教と芸術を入れ替えたと思える。芸術は、世俗社会の宗教である。フランス革命にはじまる、記念碑、文化財、遺産の歴史はそのことを念頭におかないと理解できない。大多数の日本の専門家は、制度論としてしか理解しようとしないので、よろしくない。建築がいかに神格化されているか、これは文明の問題として再考しなければならない。

  いい喩えではないかもしれないが、拝金主義者である。彼らは、他人を信用しないことになっているが、彼らこそがもっとも人間を信じているそうだ。つまり貨幣の価値を信じるということは、自分以外にも他人があるいは人間一般というものがあって、彼らが貨幣を信じている、だから自分もお金を信じている、という了解の上に成り立っているからである。だから貨幣を信じることは人間を信じることだ。他人もお金が大事、だから自分もお金が大事、である。このときお金は、ソフィストケートされた物々交換、等価交換ではなく、まるで神様のようなもの、いわゆる超越的なものになっている。個々の貨幣、紙幣、商品ではない、その背後のお金一般というものが、神様のようなものだそうだ(文化人類学的な発想をする経済学者によれば)。

 建築もまた、個々の建築という発想にとらわれていると、良い建築と悪い建築、指定される建築とそうでない建築に分類される。これでは抽象度、超越度、神様に近づいた程度、が弱い。

 自戒も込めていうと、日本人が書く建築史はすべて、近代化トラウマにもとづくルサンチマンの歴史である。そこからは超越的建築観は出てこない。

 ・・・さて24年前もシャイオ宮には子供たちが見学にきていた。骨折した手をギプスでおおっていた小学生が、引率の先生に「ここにいてもいいのよ!」などと乱暴にからかわれていた。周囲は中世の石造建築のレプリカだらけであったからだ。今日、さらに多くの子供たちが押し寄せ、建築模型見学でなぜこれほど高揚するのか不思議なくらい楽しげである。

 日本では浮世絵システムによって建築アーカイブは外国にもっていかれ、現物は取り壊され、近現代は伝統ではないと差別され、遺産は蓄積されず、とんでもないことになるであろう。日本はこれから衰退する(すでに衰退している?)。そのことを確認できた一日であった。

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2007.11.08

大浦天主堂とパリ外国宣教会

 ボンマルシェ百貨店の裏にパリ外国宣教会があって、宿から歩いてもいけることから、今日はその書店にいってきた。

 この宣教会の施設全体のつくりもおもしろい。チャペルがあって、その地下はクリプト(地下礼拝堂)になっていて、そこから階段をすこし下りると書店の地下売り場であり、その上が売り場とカウンターである。地下礼拝堂はミュージアムを兼ねている。展示の目玉は殉教絵画である。おもにベトナムで殉教した宣教師が描かれているが、これはベトナムからみれば処刑であって、リアリティを求める絵画ではないが、凄惨である。

 これが地下礼拝堂にあるのは理にかなっている。そして殉教が海外布教のモチベーションを高めたこともよく知られている。だから長崎に26聖人殉教のためにまず大浦天主堂が建設されたことは、きわめて自然な心情のなせるわざである。

 書店は、殉教そのものにかんする文献のほかは、むしろアジア・スタディの専門店といった感じであった。これから布教に旅立つ宣教師が、訪問国の言語や文化などを学習する、そのための書店であるかのようである。

 宣教会にはアーカイブもあり、またそれに基づいて宣教会自身が研究報告書をだしている。その『研究・資料 etudes et documents』第7巻は日本布教の初期にかんするものであった。

 大浦天主堂建設については、日本ではベルナール・プチジャン(1829-1884)を中心人物として描かれているが、この文献ではむしろルイ・フュレ(1816-1900)が創設者である。

 フュレは、宣教師となるまえ、1840年代、パリのコレージュ・スタニスラスで物理などを勉強していた。琉球滞在ののち、フュレとプチジャンは1862年10月22日に横浜に到着。フュレは事情でプチジャンを横浜に残して、1863年初頭、オランダ船で長崎に上陸した。

 フュレは長崎にカトリック教会堂を建てるために、パリのサン=ロラン教会堂をモデルにしたという。彼はプランをすでに描いていた。そののちおくれてプチジャンが長崎に到着する。

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 左がパリのサン=ロラン教会堂。右はパリ外国宣教会アーカイブ所蔵(no.569)の長崎教会堂ファサード。大小の塔のリズムが似ている。ただ右はゴシックとはいえない。さらに現天主堂は改築のあとのものである。

 1864年、日本布教では上司であったジラールがやってきて、フュレとプチジャンに会った。ジラールは、フュレ案が小規模すぎると判断して、長崎市により広い敷地を許可してもらうことを考えた。彼らは敷地をいろいろ検討した。その結果、選ばれた土地は、かの有名なグラバーの広大な敷地のなかであった。

 広い敷地が得られて教会堂もより大規模にされたが、フュレ案の骨子はそのまま保たれたという。

 ところでグラバーはスコットランド出身のプロテスタントであった。その彼がカトリック教会に土地を提供するのだから、いろいろあったのだろうが、基本的には長崎にすでにあったプロテスタント社会は、あらたにできつつあるカトリック社会にたいしてそんなに意地悪はしなかったという。

 いずれにせよ大浦天主堂のスタイルを決めたのがフュレとすると、彼は1840年代のパリで勉強をしたのであれば、いわゆるゴシック・リバイバルの影響を受けていたと考えるが自然である。その彼がサン=ロラン教会というゴシックの教会堂をモデルにしたことは時代的には、ごく自然なことであった。

 パリ=コミューンの悲劇を乗り越えるためにサクレ=クールが、南西フランスのロマネスク=ビザンチン様式で建設されてことに象徴的に示されるように、19世紀後期はむしろロマネスク様式の教会堂が一般的である。

 長崎の教会堂はゴシック系の教会堂が20世紀になっても建設されていった。同時代、フランスやその植民地では、むしろロマネスク様式であった。長崎は同時代の世界の動向とはまったく無関係であった。そこには、説明できる理由がなければならない。フュレの選択が、そのまま固定化されたというのがひとつの説明である。

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【書評】J.-P.コフ+A.バラトン『ヴェルサイユ庭園の本当の歴史』PLON, 2007

Jean-Pierre Coffe, Alain Baraton, La veritable histoire des jardins de Versailles, Plon, 2007がふと目にとまったので、購入してぱらぱらめくってきる。バラトンはベルサイユ造園家であり、コフは庭園愛好家である。

 なぜ目にとまったかというと、1999年12月26日の嵐のことを書いているからである。早朝フランスを襲った嵐は猛威をふるった。たまたま在研でパリ在住であったのでよく覚えている。20世紀初頭の建物にいて、風で建物が揺れた。小一時間もすると静かになったので外に出ると、木造の小屋組(RCでなければ石造の壁に木造の小屋組である)が、風に飛ばされそのまま平行移動して、道路の上にいくつか転がっている。とても非現実的な光景であった。

 庭園も被害は甚大であった。地盤がそれほどよくなく、根がしっかりと大地をとらえていなかったので、まさに根こそぎになった。数はよく覚えていないが、数十万本のスケールであったのではないか。

 この1999年の嵐でヴェルサイユの庭園では4万本が犠牲となった。バラトンは、苗床で育っている樹木にも税金がかかるのが、こうした災害のあとで公園を修復することにブレーキをかけていると批判し、ドイツではそうではないと別の例を示しつつ、共和国は緑に興味がないのだという。

 ルイ13世時代の狩猟屋敷、フーケの庭園と彼の逮捕、ルイ14世による大発展、革命、19世紀、そして現在までと、創設から現在までがひとつのパースペクティブのなかで語られる。そのなかで苗床、家禽場、庭園、造園家の系譜、オレンジ栽培場、水利と噴水、情感、大小トリアノン、氷室、マリ=アントワネット・・・が語られる。

 しかし災害の歴史についての章が最後を飾っている。1697年7月7日の嵐でも、樹木は根こそぎにされた。1701年2月2日にも嵐が被害をもたらした。1709年1月と2月の大寒波は、マイナス20~25°Cにもなり、セーヌ川は氷結し、パリだけでも24000人の犠牲者をだした。1730-31年の寒波により、植えられたばかりの植物はすべて無駄になり、木々の枝は氷の重さで折れた。同年の夏は乾燥で、大量のまぐさを馬のために地方からヴェルサイユへ運送しなければならなかった。1740年1月5日も大寒波。1754年、1760年の寒波でも多数の樹木が死んだ。1776年の嵐で多くの純木が被害をうめた様は、ユベール・ロベールが絵画《1774-1775年の冬》として記録を残している。1871年の嵐でも樹木はなぎ倒されたが、コミューンは、それらが貧しい人びとの暖房用の薪になることを許容した。その後も厳しい気候条件はあったが、最近では1985年の寒波。そして1990年の嵐では、1800本が倒れた。

 そして1999年のそれでは1万8000本が倒れた。修復のため、木立を並べるなどの必要から、4万本が植えられた。被害調査から、樹木は孤立していたほうが風には強いこと、いわゆる植樹されたものより自然に成長したもののほうが強いことなどが判明したが、木々が植わっている条件はさまざまであり、一般法則は見つけられないようである。

 フランス式庭園は樹木を一直線に植えるのであるが、いまではレーザー光線を使って線をそろえるのだそうな。枝振りもこれでそろえるという。

 造園家は、いわゆるエコロジストとは視線が違うようだ。熱波で2万人が死ぬことも、200年前に寒波で同じほどの数の犠牲者が出ることと、さほど違わないようだ。

 おそらく筆者がいちばん思い入れがあるのが「ヴェルサイユの造園家たち」と題された章である。いちいち個人名は書かないが:

・造園家といってもきわめて細かく専門分化していた。野菜栽培、実をなす樹木を刈ること、苗床、装飾(植え込み、道・・・)、花壇、など。反対に、造園一般をスーパーバイスする今日の造園家はいなかった。

・これら造園家は、事実上の世襲制であり、いくつかの家が縁組みで結びついていた。

・アンドレ・ル・ノートルは特別で、「王室庭園の設計家」という意味の正式の役職を得ていた。つまり造園事業の監理をする。また彼は、建築と数学の言葉で庭をデザインするということで知られていた。建築家とのコネクションもあった。また蔵書は少なかったが、ほとんどが建築書であったという。だからバラトンは「ル・ノートルは造園家か?」と自問している。

・18世紀後半ジラルダンは、建築の原理により庭園を設計しているとしてル・ノートルを批判する。ジラルダンは絵として庭園をつくるべしという持論であった。これは庭園の悲劇というべきだろうか。建築として、絵として、詩として設計されるのが庭園である。庭園としての庭園の例は、あるのだろうか。基本的に、庭園は別のなにかの写しであり、ミクロコスモスである。庭園は自律しないのか?

 造園家列伝はひそやかにほかの章で継続されている。トリアノンの章でもそうだ。1858年、造園家ジャック・ビノはマロニエを植える。1875年、シャルパンティエはすべての樹木にラベルを貼る。フランスでは初めての試みであり、今日、世界中で一般化している。

 バラロンはそうした系譜の最後に自分を位置づけているのは当然だが、あえてそれに言及はしていない。

 フランスでのランドスケープ教育の中心はヴェルサイユ・ランドスケープ大学にあり、日本人学生はここに留学する。この大学の前身は、王宮の造園室でありヴェルサイユの造園家たちであったととらえることができる。

 造園家の系譜は家系でもあり、なかなか濃いのである。

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2007.11.07

シャイヨ宮の建築・遺産都市でシンポジウム/建築の実測記録とは真実性をとらえられるものなのかどうか

 シャイヨ宮の建築・遺産都市でシンポジウムがあったのでのぞいてきた。「建築実測図面---終わりなき真実性の探究」である。11月5日と6日開催であった。図書館がよい、アーカイブがよいの傍らでのぞいたので、一部しか聞けなかったがそのさわりである。

 シャイヨ宮の新しい建築ミュージアムの開館を飾る企画であり、ヨーロッパ各国から研究者が集まった。なんとなく演出過剰ではあったが、ブラマンテの話や、グッドイアの物語はよかった。

 relevé en architevtureを、建築実測図面と訳すのはすこし強引だが、要するに設計図ではなく、実際に存在する建築を観察し計ることで描かれた図面である。

 まずは要約から:

(1)最近のレーザー測量装置、ITなどハイテクの発達により、現物にきわめて忠実な実測ができるようになり、建築史はまったく新しい時代にはいった。

(2)これまでの実測図面は、忠実性という点では、かなり劣る。

(3)しかしそれ以上に、これまでの実測図面、それを集めた建築図面集、は忠実ではないというより、理想的建築の姿を描くために、意図的に現実よりも美化され、理想化されてきたのである。実際は傾いた壁を完全に垂直だとする、実際は88°しかないのに90°だとする、実際は若干カーブしているのにまっすぐだとする、云々。

(4)高度な現実忠実性、しかしそれでも実測はある選択であり、現実のすべての情報を再現するのではないいじょう、理想化はさらに別の次元でなされるであろう。

(5)だから真実性の追求には終わりがない、のである。

 建築関係者にとっては常識だが、設計図と実際の建築はぜったい一致しない。今回のシンポジウムの前提は、それだけではなく、これまで建築史の研究が前提としてきたさまざまな実測図面もまた、実測者の主観と目論見により、かならずしも現実には一致しないし、そのことは最近のテクノロジーの発達でますます顕著になってきた、という点である。

 「まったく新しい時代の始まりですね」という意見さえあった。

 建築史の専門家としては喜ばしいかぎりだが、あらたに勉強もしなければならない。

 ローマ大学のサピエンツァ建築学部教授Tancredi Caruncho教授は、ブラマンテのサンタ・マリア・デラ・パーチェ教会について、工事資料、業者領収書、詳細な実測調査の結果、建設がひとつの設計図によって一気になされたのではなく、業者ごとに部分部分を発注して、段階的になされたことをつきとめた。イオニア式柱頭もひとつひとつ異なっており、それぞれ違う彫刻家が彫ったものであることが証明された。つまり一貫したプロジェクトとしての建設がルネサンスではじまったという通念が否定された。またヴィラ・ジュリアーナでは中心軸がわずかに曲がっているし、ファサードもすこし曲がっている。図面では、これが一直線、そして直角になっているが、これは先入観からくる理想化である。実際は曲がっているのはなぜかというと、アプローチの方向にあわせたかららしい。

 ローマ大学工学部教授Guiseppina Enrica Cinqueは、ヴィラ・アドリアーナの最近の復元作業の紹介であった。ピラネージの時代からその復元図面は多いし、文学的復元もおおいが、信頼性はまったくない。コンピュータ、レーザー、X線などさまざまな専門家の方法を結集して、この10年で格段に精度の高い復元図が可能となり、新発見もあった。このヴィラはけっこうビオ・クリマティクであり、床下暖房、床下冷房、風向きを考えた水盤に配置など、最新のエコ建築でもあったらしい。おもに様式の展開を根拠に再現する建築史家にたいし、テクノロジーの粋を集めて復元する彼女のプレゼンは、圧倒的な拍手で歓迎された。

 それにたいしパリ=ベルヴィル建築大学のJacques Fredetは、市井の建築を、「解剖学図面」で分析するのだが、ローマ派の圧倒的存在のまえに、わざと卑屈な感じでしゃべるのであった。写真、ITなどとんでもない、時間をかけて観察し、理解を展開させながらフィールドノートをつけるのだ、という主張である。しかし木造の大梁や小梁がいかに配置されているかをしめした平面図、ハーフティンバーの壁(パリの場合、プラスターなどで隠されていることが多い)の構造を示したスキャン立面図など、なかなか楽しめた。ひとつの都市建築(1階は店舗、2階以上は住居という典型的なもの)が、ここは16世紀、ここは18世紀、ここは19世紀なのだよ、と紹介しながら、でも市井の通常の(すばらしい=エクストルディネール、に対して、普通の=オルディナール=オーディナリ)建築なのだから、ハドリアヌスの別荘にはひけめを感じているのである。

 もっとも、近代建築運動が革命であったとするギーディオンには絶対反対のようで、工事明細書のレベルで建築がほんとうに変わるのは、パリでは第二次世界大戦のあとだ、という主張である。まあそうでしょうね。よくもわるくもパリは伝統的であった。

 マドリッド工科大学教授Javier Giron Sieraによれば、W.H.Goodyearは、建築写真の専門家であったが、1870年にピサのサンタンブロジオ教会の柱の傾きに注目し、フランスの中世建築などが、柱も、壁も、垂直方向に傾いており、これは視覚補正によるものという説を公表した。これは建築写真というメディアが投げかけた大問題であった。これはフランスの学会ではまったく受け入れられなかったが、彼と親交のあった、建築史家A.ショワジだけはこの理論を認めた。そればかりかショワジは1903年の『建築史』のなかで、ギリシア神殿を視覚補正の観点から分析したばかりでなく、これまで歴史的建造物の実測図面は、過度に規則的なものとして描かれており、実際は、壁はまっすぐでないし、身廊もなだらかなカーブを描いているし、柱も垂直からはころんでいることを認識すべきことを説いたのであった。

 視覚補正というようなことはルネサンスから理論としてはあったが、写真というテクノロジーにより新しい現実性を帯びたばかりか、「ほとんどの建築はじつは歪んでいるのだ」というあられもない事実を見せつけた。写真はまさにその役割を果たしたのだ。

 教訓:西洋建築史の図面は、実際以上に、規則正しいものとして(つまり線はまっすぐ、角度は90°)描かれている。実際は、まっすぐでも、直角でもない。これを過度の「理想化」「規則化」と呼ぶことにしよう。

 古代史・考古学の専門家Anne Moignet-Gaultierもまたギリシア建築の実測図面における過度の規則化を指摘しており、「明快さ」と「正確さ」は違うとした。つまり過去の実測図面はほとんどが、明快さのために、現実の姿からむしろ離れていったのであった。

 バンブルク大学の専門家Frank Bekerもまた、タケオメーターなどレーザー装置による実測の有効性をいいながら、手による実測の重要性も忘れない。

 リエージュの大学教員Serge Paemeは、写真のパースペクティブ、オプチック補正をして、斜めからとった写真を正対してとったように補正する技術を披露したが、それにとどまらず色、テクスチュアまで再現することで、石積みのモルタル目地の細部、壁画のタッチや筆の幅までの情報が伝わるような、ハイフィデリティの実測を展開する。

 ミュンヘン大学のAlexander von Kienlin教授も、虚空写真、各種レーザー計測器での実測を披露した。

 ・・・・・パラディオの建築四書や、ピラネージが描く古代ローマ復元図などがかなり空想がはいっている。また18世紀にギリシアにわたったヨーロッパ人も、ローマ大賞を獲得してローマなどに留学した建築家の実測図面も、多様な現実からの特定情報の選択でしかなく、現実そのままではない。

 しかしヨーロッパの建築書はそういうものとして見なければならない。建築書は、記録でもないし、設計図でもない。現実の建築とは異なっている。しかし現実の建築とは違っているだけではく、それを超越し、ある理想を描くことがそもそも目的なのである。だから書物こそが建築なのだ。たちえばルドゥのそれは典型的なものだ。

 現実を理想化するという意識の作用は終わりがないであろう。客観性、事実性を編集するには強い観念性が必要であり、それこそが建築史を建築史たらしめているものである。

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2007.11.06

シャトーブリアン、パリ外国宣教会、長崎の教会という三者の意外な関係

 散歩しながらの偶然の発見であった。ボンマルシェなる百貨店の近隣のバック通りをふらふらあるいていると、シャトーブリアンが住んでいた住宅を発見した。この種の「発見」はその人間に依存した言い方である。パリ市の文化財看板で見つけただけのことで、まあ、これを発見というのは大仰なのだが。

 しかしこの建物が、以前このブログでとりあげた「パリ外国宣教会」が建てた建物だと知ると、このリンクはちょっとした発見ではないだろうか。しかもこの並びにいまでもこの宗教団体が活発に活動しているのである。

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 シャトーブリアン(1768-1848)はロマン主義の父とよばれ、作家にして政治家であった。とくに建築の文脈では1802年の『キリスト教精髄』が重要である。この書のなかで彼は、キリスト教こそが文学と芸術をはぐくむ基盤だとして、とくにゴシック芸術と中世芸術を高く評価し、廃墟のもつロマンティックな価値を認めた。彼は、反近代的あるいは反啓蒙主義的であって、実際、啓蒙主義者たちを嫌悪し、フランス革命にも反対であった。

 彼の『精髄』は、19世紀におけるフランス・カトリシズムの復興に貢献したとされる。

 しかし彼はたんなる反動ではない。革命によって、教会財産が国に没収された。教会関係の今日でいえば文化財は、それを支えていた社会的基盤から切り反されたのである。その価値を認めさせるには新たなロジックが必要である。

 彼は、文化や芸術を高めるのは、古代文明でもなく世俗文化でもないとした。つまり伝統的な、古典古代文化の意義を認めないことであり、宗教から切り離された科学を信じないことである。つまり中世の再評価である。

 つまり教会堂建築であれ、修道院建築であれ、その組織そのものが解散させられ、土地も建物も国がいちど没収した。そうした宗教芸術を、その宗教性ゆえに認めさせるというのは、自明であったことを、再度意図的に別の言葉で説明してゆくことである。ぼく自身はこのような再評価は、宗教芸術がその宗教性により評価されるべきことを、まったく世俗的な方法論でなしとげる、というまさに近代的な営為であると思う。

 いわゆる「保存」概念の成立について、フランスの文献と、日本のそれとではかなり書き方が違う。フランスでの一般的な説明は、まずフランス革命直後にロマン主義の萌芽があり、そこには中世芸術の再評価が含まれるのであり、それを文学的文化財保存などの表現する書き方もある。

 なにはともあれ、フランスにおけるごく一般的な書き方として、通説として、この『精髄』とヴィクトール・ユゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』が、ロマン主義の形成ということをとおして、記念碑、歴史的建造物、文化財ということの意味を打ち立てたのであった。

 すなわち教会芸術は、いちど教会組織から切り離されて、所有者がいなくなった。管理維持する主体がいなくなった。だから国民一般の財産と読み替えて、国民の精神を養ってきた芸術である、とする。だから国家がそれを記念碑、文化財と認定し、保存する。これが文化財の「保存」の根本的な意味である。それは所有者が変わったことを契機とする。だから「遺産」という表現が正統性をもつのである。

 フランスの文化財政策においていまだに国家の力が強いのは、国家がそうした文化財、文化遺産を宮廷、貴族、教会から没収したことによる責任の所在が、歴史的にはきわめてはっきりしているからだ。

 さらにはシャトーブリアンは、中世を再評価した点で、文化財と保存の思想的先駆者である。フランスの古建築保存は、まず、なにより中世建築のそれであるからである。

 文化財だの遺産だのを考える場合、どうしても法制度のなかにその根拠を求める傾向があって、よろしくない。法制度は、哲学と思想をいだく人びとによって確立されるのであって、そうした哲学に遡及しなければならないのである。

 ・・・それはともかくシャトーブリアンはバック通り120番地のこの建物(上の写真)で晩年をすごした。

 これは「パリ外国宣教会」が、18世紀に、土地経営として館を貴族階級に貸すために建てた邸宅である。建築家はクロード=ニコラ・ルパ=デュビュイソン、彫刻はデュパンとトロ。ルスティカ積みの対になったポーチが印象的な、新古典主義の建物である。ルドゥほどの厳格さはないが、端正である。革命で没収され、19世紀初頭に転売された。彼はここで『墓の彼方からの回想』にとりくんだ。

 カトリックに帰依し、宗教が芸術を高める力について力説したシャトーブリアンが、宣教会が建てた邸宅に住んでいたというのが、偶然ではあろうが、辻褄があう話である。もちろん彼がそこを借りたときには、没収され転売されたあとであろう。しかしこの「パリ外国宣教会」は、いちど没収された地所を第三者を経由して買い戻したのであり、現在もバック通り128番にあるし、この邸宅も買い戻されて、カトリックのご縁で、彼が店子になったのかもしれない。

 そしてこの「パリ外国宣教会」こそが、長崎の教会堂を建てた宣教師を送り出した本拠なのであった。

 ちなみにこの宣教会は現在でもかなりの地所を所有しているようで、道路に面してはその書店、土産物店、宣教活動事務所などがあり、中庭に面しては礼拝堂、図書館などがある、かなり大規模な組織であり、財政的にも順調であるように見受けられた。そのうちのぞいてみようかな。

 シャトーブリアンと長崎の教会堂の、不思議な因縁である。

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2007.11.05

建築家サロモン・ド・ブロス(Salomon de Brosse, ca.1571-1626)がレンヌにきたことについて

 建築家サロモン・ド・ブロス(Salomon de Brosse, ca.1571-1626)はレンヌには2週間しかいなかった。

 1618年8月8日から22日である。この短期間に、都市レンヌのデザインは決定された。

 高等法院の部長評定官ジャン・ド・ブールヌフJean de Bourgneufは、国王ルイ13世に請願して王の建築家を派遣してもらった。1611年には高等法院は建物建設を決めていたが、レンヌ市の建築監督官であるジェルマン・ゴティエGermain Gaultierの案は、とくに優れたものではなく、不満であった。それで高等法院はパリから建築家を呼ぼうと考えたらしい。1618年7月26日、ド・ブロスはレンヌ行きを命じられる。

 ド・ブロスはエリート建築家であった。叔父は、建築書を出版して影響力の大きかった建築家ジャック・アンドルエ・デュ・セルソ。ド・ブロスはまたアンリ4世、マリ・ド・メディシスから建築家として登用された。後者のためにはルクサンブール宮(1615-20、現上院)を建設した。さらにクロミエ城、ブレアンクール城、1616年以降はパリ市庁舎裏のサン=ジェルヴェ教会ファサード(建築オーダーが3層積層したルネサンス様式のもの)、パリ裁判所の火災後の修復、などを当時手がけていた。パリで多忙であったので、ド・ブロスはレンヌには生きたくなかったが、逆にパリの仕事のためにはジェルマン・ゴティエを呼んだりしている。

 ド・ブロスはともかくも1618年8月8日にレンヌ到着。14日にエスキス提出。16日には最終プロジェクト案を提出。猛スピードのゴティエ原案修正である。しかし彼が修正したのは、中庭、ギャラリー、ファサードであった。一言でいえば、当時のイタリア風にした。とくに地上階は、開口部は少なく、ルスティカ仕上げで、フィレンツェのパラッツォ・ピッティ、自身のルクサンブール宮をモデルとしていた。2階はドリス式オーダーで飾られている。地上階は地元の花崗岩、2階は白い石灰質の仕上げ、それはブルターニュとパリの対比でもあり、地方が首都に支配されていることの赤裸々な表現でもあった。

 さらに2階テラス、そしてアプローチとしての正面外部階段が印象的である。高等法院評定官たちは、ここから都市を見下ろし睥睨するのである。

 さらにローマ風手摺子と、巨大なスレート屋根は、ルネサンス的普遍性とブルターニュ的固有性の両立であった。

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この絵は1690年、レンヌに高等法院が戻ってきたことを描いたもの。前回の投稿で指摘したように、1675年、印紙税にブルターニュ高等法院は反対した。王は、国家の収入にかかわる(ということはヴェルサイユ宮殿の建設に関わる?)この件について激怒し、ブルターニュ高等法院の開催地をヴァンヴに移した。そして王の許しが得られるのに15年かかった。

 画面左はルイ14世とその家臣たち。右は正義、美徳、公平、ブルターニュを象徴するエンブレムたち。国家はすべて男性で、地方(地域圏)はすべて女性で象徴されている。露骨なジェンダー的表現である。

 背景の高等法院建物には、中央に外部階段が見られる。18世紀、これをガブリエルは撤去した。

 さて17世紀にもどって、高等法院メンバーが、パリから王の建築家を呼ぶということはなにを意味したであろうか。国王/高等法院の関係はなかなか難しかったのであり、たんなる服従のポーズではないであろう。ひとつはブルターニュのひとびと、レンヌの市民たちにたいする優越の意識であり、他方では国王の文化レベルに近づこうとする上昇の意識であろう。地方支配階級の自意識といえる。それがこの地方に、パリを経由してフィレンツェのルネサンス文化を導入しようとした、モチベーションとなったのであった。

cf. Szambien, 200, p.78; Veillard, 2004, pp.85-88, etc

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2007.11.04

ブルターニュ高等法院のこと

 リージョンの時代である21世紀を、地域の独自性、文化のアイデンティティという文脈で考えるとき、レンヌにある旧ブルターニュ高等法院を語らないわけにはいかない。建築史とは抽象的理念の継承の歴史であるだけでなく、まさにひとつの建物が歴史の諸段階を生き抜いてゆく歴史でもある。

 この建物は、高等法院としてほぼ150年間生き、そして裁判所として220年間生き延び、そして120年前からは文化財としても生きている。しかしなんとか現役である。

 17世紀初頭にイタリア・ルネサンスの建築として建てられたこの高等法院は、地方ということを考えれば例外的にして特権的であり、その先進性と重要性は過小評価させているのではないか、というのがヴェルナール・ザンビエンの指摘である。

 そもそもブルターニュはケルト系のアルモニア人が住んでいた。ローマ帝国末期にイギリスからブルトン人が大量に移住してきて、9世紀に王国を建設、やがてそれは公国となった。だからもともと独立した公国であった。1532年、フランス王国に併合。しかしそれでも「外国と見なしうる地方」となった。1790年には5つの県に分割されると、ブルターニュは行政主体ではなくなる。しかしブルターニュには独自性の主張が強かった。1970年代にはブルトン語を初等教育で教える運動があった。1980年代初頭に、地方分権法により、ひとつの地方圏(リージョン)となり、ひとつの行政単位として復活した。

 こうした、地域の自立性という文脈のなかで、ブルターニュ高等法院はきわめて重要であり、象徴的である。

 高等法院(Parlement)とは英語の「議会」とはまったく違う存在である。基本的には裁判所である。しかしやはりアングロ=サクソン的な三権分立のシステムとは無縁な時期であって、この裁判所は、立法権、行政権も所持していたようである。

 この高等法院は、王の行政命令を登録する手続きをしたので、合法的に、かつ代償を覚悟で王の命令に背くことができた。またブルトン人をブルターニュの法で裁くことは、まさに主権の問題であった。このような文脈から、この高等法院は公国の自立性の象徴としてたちあらわれてくる。

 フランス王国に併合される以前、「高等法院」という名の機関はなかった。しかし15世紀後半にはフランソワ2世がヴァンヴで主権を保持するそのような機関を設立していた。しかしフランス統合により、短期間、パリの高等法院が最終審であった。1553年、ブルターニュ高等法院が設立され、その本部は、レンヌとナント交互であった。1561年、最終的に高等法院はレンヌを所在とすることが定められた。1581年、高等法院の建物を建設することが決まった。

 1618年起工だが、竣工までには37年かかった。まず地元建築家ゴルティエが長い時間をかけて原案を作成した。しかし関係者はそれに満足しなかったようで、マリー・ド・メディシスのためにパリでルクサンブール宮(フィレンツェのパラッツォ・ピチィを踏襲したもので、フィレンツェつながりである)を建設したサロモン・ド・ブロスを招聘した。フラワンソワ・ロワイエの研究によれば、ド・ブロスは、原案を若干修正した程度であるが、ともかくもイタリア的建築の原理をよく理解してそれをはじめてフランスの地方にもたらしたのであった。セルリオのグラン・フェラール、パラディオのパラッツオなどがモデルであった。

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 この、地元建築家がすこし計画を立て、それから宮廷から派遣されたエリート建築家が修正をほどこし、作者としていれかわるという構図は、17~18世紀には頻発する。

 1階は重厚な基壇、2階はドリス式カップルド・ピラスターという、ブラマンテ的な構成である。正面中央には外部階段があり、セルリオからの影響が示唆されるゆえんであるが、この階段は2階レベルのテラスにつながっていた。一階と二階のコントラストは、監獄と裁判所の複合建築であったことにもよる。いすれにせよレンヌの古い町並みを睥睨する近代的な公共建築ができたのであった。

 裁判所としての位置づけは曖昧であらねばならなかったようだ。すなわちフランス王国である以上、最終審はパリ高等法院であるが、しかしブルターニュ高等法院こそがそうだという主張がつねにあった。

 併合の帰結として17世紀以来、レンヌ市壁の撤去がはじまった。しかし法的な自立性のためには高等法院と三部会は団結が堅かった。つねに王権からの独自性を主張しようとした。たとえば塩税免除という特権をなくそうとしたとき、反対した。1675年には印紙税への反対運動をおこした。このように高等法院はブルターニュ自律の象徴、どころか実体であった。

 さまざまな人の裁判にかかわった。ブルトン語といってもひとつではなかった。南部ブルターニュの人びとは、通訳が必要であり、ほとんど外国人あつかいであった。

 行政機能をも果たす高等法院の構成員は、地域の貴族であり名望家であって、彼らの権威にふさわしい威風堂々としたデザインであった。

 1720年の大火をうけて、改修がなされた。まずロブラン=ガブリエルのグリッド計画はこの建物を起点として設定されていることは明らかだ。まず建物前に広場をつくった。また正面に至る道も一直線に形成された。今日、南部からまっすぐこの建物の中央部がみえる。

 またガブリエルは広場周囲の建築を整備するとともに、高等法院建物については、屋外階段とテラスを撤去し、階段を中庭の一部に建設した。これはコワズボクス制作のルイ14世像を広場中央に設置するためで、その高さに匹敵する屋外階段やテラスは不敬とみなされたためでもあるらしい。しかし都市空間の文脈からみると、街路からの引きを十分にとるためでもあることは容易に理解できる。しかしなにより、この建物が周囲にくらべて圧倒的に特権的であることはなくなった。

 1735年、法学部がナントからレンヌに移転した。高等法院のある都市がふさわしいのはいうまでもない。しかしこの移転した法学部がコアとなって、19世紀、レンヌ大学の大成長が始まる。人口の三分の一が学生であり、大学でなりたっているような現状を思うとき、この高等法印院の存在は決定的であった。

 フランス革命。1789年、ここで貴族とブルジョワが流血の対立事件を引き起こす。若きシャトーブリアン(ロマン派の文人、政治家、その『キリスト教精髄』は文化財保存理念の出発点となる)はそれを目撃する。1792年「ラ・マルセイエーズ」が最初に歌われる。王像は撤去され、自由の樹が植えられる(現在はサーカス小屋がある!)。

 革命で高等法院が廃止されると、この建物は高等裁判所などになった。まだまだ権威を保っていたとはいえ、都市との関係はうすくなる。

 シャルル・ミラルデCharles Millardetは正面を鉄柵で囲った。1839年から1890年までこの鉄柵は存在した。1839年、店舗が追い出された。1855年、法学部も移転した。1882年にはアーカイブも転出した。しかし1858年にはナポレオン3世が訪問し、大宴会をやったらしい(その時のための特別のインテリアが残っている。蜂に喩えられた彼の装飾などである)。都市との関係はますます薄くなった。

 そのかわり文化財となる。1884年、歴史的建造物に指定される。19世紀末、ジャン=マリ・ラロワは、現状の機能に適合させるというそれまでの方針を撤回し、過去の再構築という修復にのりだす。1972年、市長アンリ・フレヴィルは、18世紀の優れた評定長であったロビアンに捧げられた博物館をそこに設置するプロジェクトを提案した。

 1994年に火災発生。おもに木造小屋組が被害にあった。前述のザンビアンはこの小屋組についてくわしく書いている。「森」と呼ばれるほど大量の木材が使われた、立派な小屋組であったが、石造部分だけが注目され、ほとんど研究されなかった。皮肉なことに、火災によってその小屋組が露わにされ、被害は受けたものの、再評価がなされた。

 幸い、インテリアを含め、美術装飾のたぐいはなんとか消失を免れた。いまでは裁判所機能と、文化施設機能を両立させている。

 ・・・・のであった。さて散歩でもしようか。

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1720年のレンヌ大火

 11月4日は日曜日である。目論見どおり市営プールまで歩いて1分20秒。とりあえず10回の回数券を買いました。これでしっかりリハビリである。さっそくひと泳ぎ。しかも市場は日曜日でも朝から開店している。今日は近隣の散歩くらいにして、ブログをやろう。

 フランスの都市は20世紀の大戦でかなり被害を被った。しかしそれ以外では、ロンドン大火に比較される、つまり大火が都市計画の起爆剤になった例としては、1720年のレンヌ大火より顕著な例はない。

 大火までは完全な中世都市であり、建物はほとんどすべていわゆるハーフチンバーのものであった。しかし復興都市計画によりグリッドプランに整備され、建物も石造のアーケード式のものとなった。現在、被災しなかった古い町並みと、18世紀以降の新しい(18世紀は「新しい」のです!)町並みは強いコントラストをなしている。

 それは1720年12月23日の深夜であった。トリスタン通り(現在のシャトールノー通りの隣)に住んでいた職人が、酒に酔って燭台をひっくりかえしたことが原因ということになっている。鎮火は12月29日。雨のおかげで、やっとであった。945棟が消失した。これは当時の40%にあたる。ちなみに県公文書館で当時のアーカイブをみたが、被災した地所、建物ごとに所有者から状況まで詳しく書いている。

 犠牲者は数千人という伝説もあったが、人口規模からすればあり得ない数字であり、都市史の専門家ニエール教授は10人程度としている。

 しかし住まいを失った被災者は8000人にのぼった。

 延焼の原因は、建築の構造である。1720年の時点で、建物はほとんど16世紀、17世紀に建設された木造建築であった。12月というのも悪条件であった。多くの家では、屋根裏に大量の暖房用の薪を蓄えていたからであった。さらにこの地域は、市域の北の丘にある、裕福な街区であった。有力者も多かった。だから地方長官フェド・ド・ブルは防災政策のためにいくつか建物を取り壊したかったが、なかなかできなかったのである。

 下の図で、濃い色の部分が消失地区。面積にして市の1/4くらいか。

Incendie_rennes_1720_small

 再建計画はすぐ練られたが、当初、当局は民間建築で15年、公共建築で20年を考えていたらしい。

 再建案はいつくかあった。地元建築家ユゲの案は、あまりに旧態復帰的として退けられた。ブルターニュ担当のエンジニアであったイザク・ロブランは、石造の耐火建築への転換、グリッドプランに基づく近代的なプランを提案し、またカーブしていたヴィレーヌ川をまっすぐにして運河機能を向上させようとした(これは19世紀に実現された)。しかし経費がかかりすぎるとしてロブランは更迭された。

 かわりにジャック・ガブリエルが王から派遣された。彼は地元勢力との関係を良好に保ちつつ、急進的なロブラン案の大枠は守りながら、現実的な設計にしていった。彼は、市庁舎を建設、高等法院の建物を新しい都市組織に適合できるようにし、グリッド街路にそう都市建築の型を定めた。

 現在の町並みの特徴としては、統一的デザインがされたとはいえ、よく観察すると、パリほどの統一性はない。アーチの大きさ、位置もさまざまで、地主がそれぞれ考えたことが明らかだ。地面が傾斜していることもある。ぼくは地方的な鷹揚さを感じる。

 ブルターニュとしては復興のための財政出動をきめた。王としては、王領の森から木材を提供することを決めた。

 しかしグリッドプランに改めることは区画整理に相当し、その上に最新式の石造建築を建設することはきわめて重い負担となった。だから中小の地主たちは、土地を売却せざるをえなかった。もっとも組合をつくって共同建設できた場合は、地主は地主でありつづけることができた。いずれにせよ資金がなければ去るしかなかった。その結果、もともと裕福な人びとの町であった被災街区は、ますます特権的な町となっていった。

 零細な地主たちはどうしたかというと、200~2000リーブルていどの資金で、仮設住宅を造った。市、地方長官は、取り壊し令を繰り返しつつも、事実上は認めるしなかかった。この仮設住宅は、容易に想像できるように、既成事実化し、その解決は20世紀にずれこんだそうだ。

 この火災の前から、北部=丘(高所)=裕福、南部=低所=庶民(貧乏)というはっきりした棲み分けがあった。大火と復興都市計画は、その差をますます大きくした。20世紀になって古い街区の保存が課題になると、大火以前の古い住宅が建築家たちの注目のまとになった。すると新旧の対比は、別の意味で、ますます強くなった。

 もっともレンヌは火事と縁がある都市である。1994年には旧高等法院、現裁判所で火事があり、木造小屋組が消失した。17世紀の傑作であるこの建物は、むしろこれがきっかけとなり、地方の文化的歴史的な独自性を証明するものという意識はますます強くなった。裁判所として現役であるが、一種のNPOが管理して、文化イベントやガイドツアーなどを企画している。

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レンヌからパリへ

 11月3日、今日は移動日である。

 アパート式ホテルの退去はいろいろ気をつかう。冷蔵庫のなかをカラにするため、つい大食となる。掃除、食器洗いといろいろである。ゴミもまとめておけば、スタッフが捨ててくるのは貸部屋とは違う、ありがたいところである。

 地下鉄までガラガラを転がす。TGVの駅で乗り換え。後発の地下鉄だけに、かえってバリアフリーは徹底しており、ガラガラをもって階段を上り下りすることはなかった。この地下鉄はVAL(自動軽量車両)と呼ばれている形式である。2両編成で、運転手はいない完全自動の地下鉄である。便は多く、安全で(脱線しないということではなく犯罪のこと)、便利である。出発前、ボルドーからの留学生に、レンヌでは地下鉄だが、君のところはトラムだねえ、といったら、川を渡るのと地下水位のことがあるんですよ、と負け惜しみであった。スピード、正確さは絶対VALが優れている。

 車中の暇つぶしは読書と相場が決まっている。Jean-Yves Veillard, Les Champs Libres--Naissance d'un projet culturel, Edition Apogée, 2006をぱらぱらとめくった。ヴェイヤールは建築史関係の文献を書いている人で、最近では『レンヌの遺産事典』という、建築、都市、無形文化、風俗一般、芸術などをまとめた文献を編集している。レンヌの建築史を勉強するためには必読の書を書いている人である。

 それでどういう本かというと、レンヌ市の一種の文化センター(図書館、博物館、科学博物館)であるシャン・リーブルのプロジェクトが1980年代に持ち上がって最近建物が完成したが、博物館学芸員としてこのプロジェクトに中心的に関わったヴェイヤールが綴った日記であり顛末記である。

 公式の議事録や建築文書よりも、関係者間の意見交換や、秘話などが書かれていて、おもしろい。基本的には1970年代に、レンヌ市では一体であった美術館と博物館が分離するのをきっかけとして、文化センターを建設するのだが、それが都市計画、新しい交通システムなどと関連づけられながら、人口の三分の一が大学生という文教都市においてまさに死活的であるはずの文化センターが、さまざまな交渉の末できたプロセスを内部から紹介してくれる。

 都市計画的におもしろいのが敷地の選択である。南西部の司法地区、北部のオシュ広場西(ホテルに近い場所)、そして旧練兵場で、駅に近い敷地、という三候補があって、最終的に最後の今の場所になった。都市計画としてはここは再開発の目玉であり、広い広場の周囲を、この文化センター、シネマセンター、職業斡旋所などが取り囲む、若者の活気あふれる街となるであろうことが、工事中の今であったも予想される。

 学芸員でありながらヴェイヤールは、ローラースケートなどをする若者が、やってきてくれる文化センターはどうあるべきか、それにはどの敷地が最適化などと思案する様子が、まさに学芸員でありながらすでに都市的思考となっていることがこの国らしい。この日誌ではさらに、交通システム、コンペでポルツァンパルク案が選ばれたこと、ビルバオのグッゲンハイム美術館というトラウマをなんとか払拭したこと、地方の独自性とは予算ではなく精神の問題だなどという指摘、などが書かれている。

 個人的には、この新しい都市施設がヴィレーヌ川の南の低地地区に建設されたことに注目したい。あとで投稿しようと思うが1720年の大火後の都市計画によって近代のレンヌが始まった。そのときに都市計画の大枠を決めた建築家ロブランは、川の北にある丘の上の都市と、南にある低地地区の対比(上は高級、下は庶民的)をなんとか薄めようとして、低地地区に公共施設を建設することを提案した。しかし彼の計画は、あまりに強引で経費がかかりすぎると判断された。そして彼は更迭された。

 しかしそれでも後任の建築家は、より現実的な方法を選びながら、大枠ではロブランの計画を継続した。

 そして20世紀末かた21世紀初頭にかけて建設されているシャン・リーブルはまさにこのロブラン案の継続と解釈できるのである。もっともそれはロブラン案が本質的に優れていたというよりも、都市のあるべき展開の方向性については、さまざまな議論がかさねられても、自然にある方向に決まっていゆく、というようなことであろう。ただ大火以来3世紀近くになるレンヌ市の近代都市計画の歴史が、ひとつの上位の意志により導かれているかのように見える(実際はそのときどきの判断なのだが)ことが印象的である。

 さて2020年まであと13年しかないが、そのときレンヌ市は大火300年を記念してなにかやるのであろうか。

 ・・・とはいっても2時間半の移動では最後まで読み通せない。続きは時間があればあとで。

 定刻どおりパリ=モンパルナスに到着。宿はサン=ジェルマン=デ=プレという街にある。喩えていうなら、オペラ座界隈は銀座でしょうな。すくなくとも18世紀から銀行家、投資家がいて、証券取引所やフランス銀行もあって、それだから駅、百貨店、劇場ができた。ここサン=ジェルマン=デ=プレはさしずめ原宿であろう。サルトルがコーヒーを飲んでいた実存主義の街であり、今日ではまさにパリ的であることを楽しみに外国人がくる街である。実際、教会も、劇場も、百貨店も、美術館もとくにないのである。しかしぼく含め、パリであることに意義を感じる外国人がやってくる。建築の専門書店がかたまっている、建築の聖地、巡礼地でもある。

 とくに宿のある界隈は、レストラン、バー、サッカー・パブ、アイリッシュ・パブ、ベトナム・レストラン、はたまたアメリカ風のオイスター・バーまであるという、にぎやかな場所である。部屋でブログしていても、ざわめきがいつも聞こえる。寝れないのではないか、と不安にもなる。でも大昔、留学していたときも、都心の貸し部屋で、こんな感じだった。17世紀にできた古い建物に下宿して、17世紀の建築を勉強しておりました。そうすると異国の過去と一体化できる幸福感に満たされるのでした。・・・昔を思い出すねえ。

 部屋そのものは超コンパクトな「ストゥディオ」である。狭い。シャワーも、通常のフィットネスのブースに比べても半分の面積しかないぞ。洗面も最小サイズ。おお!トイレの上は、電気式の温水タンクが露出しているぞ。ぼくが泊まっているあいだはおっこちないでね。狭いのに、冷蔵庫、洗濯機、食器洗い機、電子レンジ、ステレオ、壁掛けテレビ、Wifi、そろっている。おもしろいのはソファベッドで、その展開の仕方は、超からくり的である。ベッドはぎりぎり収まっている。それはいいが、どうやって運んだのかね。とはいっても天井が高いので快適である。床より壁のほうが広いぞ。

 日本のマンション広告で、よく新世代マンションなどとある。しかし設備など、どんどん更新できるし、どうにでもなるものである。つい最近まで、台所の場所を変えるなどということを提案した学生にたいし、そんなことできるわけないなどと叱りつける教師がいたが、困ったことである。建築はけっこうどうにでもなるし、人間はけっこうどこにも住めるものである。

 さてもうこちらでも日がかわった。でも窓の外からはレストランのざわめきとロックが聞こえてくる。きっと朝までこうなのであろう。土曜の夜だからなおさら。電車のなかのほうが居眠りできるように、これも子守歌なのでしょう。世界のなかに自分のニッチがあることを幸せと思うことにしよう。

 

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2007.11.01

リージョナリズムと建築のアイデンティティ

 レンヌの図書館にいる。ポルツァンパルク設計の洒落た現代建築である。階ごとにテーマが決められており、ここ6階はなんと「文化遺産」の階である。最上階なので、レンヌの景観を楽しみながら、文献に囲まれて、いい雰囲気で投稿してみよう。PC用のコンセントもLANコンセントもある。文献検索から執筆まで、なんでもできる。これで、景色を見に来るだけの関係ないうるさい人びとがいなかったらなあ、コーヒーがいつでも飲めたらなあ・・・・。ちなみに下の写真は昼過ぎで誰もいなかった。今は学生でいっぱいである。

 Img_6041

 レンヌの書店や図書館を徘徊して感じるのは、地方文化の独自性にかんする意識が極めて高いことであろう。フランスではおおむね第三共和制の時代、すなわち1870年ころから第一次世界大戦のころまで、建築においてもリージョナリズムというものがあった。それを地域主義と訳してしまうと、20世紀後半のそれと混同されそうだが、基本的には区別されるべきとしても、おなじ部分も見えてきそうである。

 ここブルターニュにおける19世紀末の地域主義とは、おもに戸建て住宅でブルターニュの風土を反映したものが多かったことを指す。以前の投稿でイアサント・ペランという地元建築家を紹介したが、花崗岩、複雑な形態の屋根など、100年前にできた地方様式のクリシェである。またサン=マロなど沿海部ではリゾートタウンが多く建設されたが、その別荘にも地域を反映した造形が使われた。石造で勾配屋根のロマンチックな形態が見られる。

これはイギリスのドメスティック・リバイバルや、スケッチェスクといった動きと同じ類もものである。パリの郊外でも、地方色豊かな、別荘風の戸建て住宅が建設された。スイスの山小屋風の「シャレ」が建設されたのであった。

 このポルツァンパルクの建物も、地域に産出する石材をつかっており、典型的なリージョナリズムである。しかも景観をながめて文化遺産の勉強をすれば、ますますリージョナルな気持ちになろうというものである。

 というわけで今、レンヌ市の図書館にいてアンドレ・ミュサ『ブルターニュ;建築とアイデンティティ』1994などをぱらぱらめくっている。ミュサはブルターニュの地方建築を研究した大家であり、没後しばらくして、その弟子がまとめたアンソロジーである。

 ミュサはまず「記念碑」概念の再考から始める。ヴィオレ=ル=デュクがゴシック建築を合理的に定義づけ、それが13世紀のイル=ド=フランスの様式を理想化したのだが、それはパリの様式が普遍的ゴシックの基盤であり、それがヨーロッパに国際化した、という構図で歴史を構築したのであった。ミュサは、「記念碑」と「ネーション」は相互依存的に構築されたと考える。記念碑はナショナルなものであり、ナショナルは記念碑を共有することで成立する。しかしそれにたいしアンリ・フォションは、その時代の建築はあまりに多様であり、フランス的ゴシックというようなものに総括できるのではなく、さまざまな「派=スクール」があっただけだ、と反論していた。

 ミュサは主張する。ひとつの普遍的基準を決め、それがナショナルなものだというのが19世紀的な記念碑の概念であり、その概念がもたらす排除と蔑視の構図を批判しなければならない。しかし同時に、その普遍的基準がもらたす、ロマンティックで空想的なもの、「民衆芸術」という概念をも批判しなければならない。

 実際、フランスでは「民衆芸術」なる概念は、1830-60年ごろろに形成された。近代的な美術史が確立され、規範が成立するのに即応して、ピクチャレスクでロマンティックな「民衆的なもの」が反動的に再発見された。日本は「民芸」という言葉で、ほぼ同じことを繰り返した。

 別の文献MONUMの『リージョナリズム:建築とアイデンティティ』によれば、ヨーロッパにおいて祖国というナショナリズム概念が生まれるのは、やはり日本と同様の構造においてであった。日本美術、フランス美術というアカデミックな概念が成立して、美意識を共有する共同体としてのネーションが生まれる。しかしその共同体はブルジョワなど支配階級のものである。

 社会の周縁に位置する、しかし上昇することでネーションに参加する人びとは、むしろ故郷を経由して、ネーションの一員となる。つまりいかに首都に出て立身出世をしようが、地方文化、兎追しかの山、へのロマンティックな憧憬、それがネーションへの入口である。第三共和制の時代のリージョナリズム建築はこうした意識で作られたのであった。

 ということは19世紀的なリージョナリズムは、かならずしもリージョンの固有性、独立性、自立性を目指したものではなかった。ナシュナルな美意識からは第二義的に下位に位置づけられながら、しかし逆説的なことに、にもかかわらずそこに故郷を再発見し、心情的に一体化することで、ネーションに参加するのであった。

 リージョナリズムとナショナリズムの関係はこのように倒錯している。日本であれ、フランスであれ、ドイツであれ「故郷」がネーションへの入口であったが、ナショナルなものは上位に、リージョナルなものは下位に位置づけられ、相互に補完していた。

 ミュサが「アイデンティティ」というとき、それはこうした通常のリージョナリズムとは区別するためである。つまりかつてリージョナリズムは、ナショナリズムを補完することでそれをむしろ強化する下位概念であった。

 彼は「アイデンティティ」の定義を与えていないように思える。つまりアイデンティティの実践はこれまでなかった。しかしあったのはリージョナリズムの視点と実践であった。リージョナルなものをもとめて19世紀のツーリズムは成立し、またリージョナルな表現をするために、多くの建築が建設されてきた。地域文化の「アイデンティティ」を確立するためには、そのリージョナリズムの長い歴史をまず払拭しなければならないのである。

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