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2007.11.04

1720年のレンヌ大火

 11月4日は日曜日である。目論見どおり市営プールまで歩いて1分20秒。とりあえず10回の回数券を買いました。これでしっかりリハビリである。さっそくひと泳ぎ。しかも市場は日曜日でも朝から開店している。今日は近隣の散歩くらいにして、ブログをやろう。

 フランスの都市は20世紀の大戦でかなり被害を被った。しかしそれ以外では、ロンドン大火に比較される、つまり大火が都市計画の起爆剤になった例としては、1720年のレンヌ大火より顕著な例はない。

 大火までは完全な中世都市であり、建物はほとんどすべていわゆるハーフチンバーのものであった。しかし復興都市計画によりグリッドプランに整備され、建物も石造のアーケード式のものとなった。現在、被災しなかった古い町並みと、18世紀以降の新しい(18世紀は「新しい」のです!)町並みは強いコントラストをなしている。

 それは1720年12月23日の深夜であった。トリスタン通り(現在のシャトールノー通りの隣)に住んでいた職人が、酒に酔って燭台をひっくりかえしたことが原因ということになっている。鎮火は12月29日。雨のおかげで、やっとであった。945棟が消失した。これは当時の40%にあたる。ちなみに県公文書館で当時のアーカイブをみたが、被災した地所、建物ごとに所有者から状況まで詳しく書いている。

 犠牲者は数千人という伝説もあったが、人口規模からすればあり得ない数字であり、都市史の専門家ニエール教授は10人程度としている。

 しかし住まいを失った被災者は8000人にのぼった。

 延焼の原因は、建築の構造である。1720年の時点で、建物はほとんど16世紀、17世紀に建設された木造建築であった。12月というのも悪条件であった。多くの家では、屋根裏に大量の暖房用の薪を蓄えていたからであった。さらにこの地域は、市域の北の丘にある、裕福な街区であった。有力者も多かった。だから地方長官フェド・ド・ブルは防災政策のためにいくつか建物を取り壊したかったが、なかなかできなかったのである。

 下の図で、濃い色の部分が消失地区。面積にして市の1/4くらいか。

Incendie_rennes_1720_small

 再建計画はすぐ練られたが、当初、当局は民間建築で15年、公共建築で20年を考えていたらしい。

 再建案はいつくかあった。地元建築家ユゲの案は、あまりに旧態復帰的として退けられた。ブルターニュ担当のエンジニアであったイザク・ロブランは、石造の耐火建築への転換、グリッドプランに基づく近代的なプランを提案し、またカーブしていたヴィレーヌ川をまっすぐにして運河機能を向上させようとした(これは19世紀に実現された)。しかし経費がかかりすぎるとしてロブランは更迭された。

 かわりにジャック・ガブリエルが王から派遣された。彼は地元勢力との関係を良好に保ちつつ、急進的なロブラン案の大枠は守りながら、現実的な設計にしていった。彼は、市庁舎を建設、高等法院の建物を新しい都市組織に適合できるようにし、グリッド街路にそう都市建築の型を定めた。

 現在の町並みの特徴としては、統一的デザインがされたとはいえ、よく観察すると、パリほどの統一性はない。アーチの大きさ、位置もさまざまで、地主がそれぞれ考えたことが明らかだ。地面が傾斜していることもある。ぼくは地方的な鷹揚さを感じる。

 ブルターニュとしては復興のための財政出動をきめた。王としては、王領の森から木材を提供することを決めた。

 しかしグリッドプランに改めることは区画整理に相当し、その上に最新式の石造建築を建設することはきわめて重い負担となった。だから中小の地主たちは、土地を売却せざるをえなかった。もっとも組合をつくって共同建設できた場合は、地主は地主でありつづけることができた。いずれにせよ資金がなければ去るしかなかった。その結果、もともと裕福な人びとの町であった被災街区は、ますます特権的な町となっていった。

 零細な地主たちはどうしたかというと、200~2000リーブルていどの資金で、仮設住宅を造った。市、地方長官は、取り壊し令を繰り返しつつも、事実上は認めるしなかかった。この仮設住宅は、容易に想像できるように、既成事実化し、その解決は20世紀にずれこんだそうだ。

 この火災の前から、北部=丘(高所)=裕福、南部=低所=庶民(貧乏)というはっきりした棲み分けがあった。大火と復興都市計画は、その差をますます大きくした。20世紀になって古い街区の保存が課題になると、大火以前の古い住宅が建築家たちの注目のまとになった。すると新旧の対比は、別の意味で、ますます強くなった。

 もっともレンヌは火事と縁がある都市である。1994年には旧高等法院、現裁判所で火事があり、木造小屋組が消失した。17世紀の傑作であるこの建物は、むしろこれがきっかけとなり、地方の文化的歴史的な独自性を証明するものという意識はますます強くなった。裁判所として現役であるが、一種のNPOが管理して、文化イベントやガイドツアーなどを企画している。

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