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2007.11.14

【講義草稿】古建築の保存(003)修復家と博物館について

 フランスでは、国鉄もメトロもバスもストである。どこにもいけない。だからひたすら投稿するのである。保存の歴史のつづきである。

  古建築の保存には、専門的な建築家が必要とされる。ラシュとヴィオレ=ル=デュクは、保存という概念そのものを構築しただけでなく、それをとおして中世建築を解明し、さらには建築の原理そのものを再構築したパイオニアであった。ヴィオレ=ル=デュクは、教育と博物館により後継者育成を考えた。彼らの努力は、世紀の変わり目に、歴史的記念物(主任)建築家、という制度となって実った。

【1】ラシュ(J.-B.-A.Lassus, 1807-1857)の保存活動

 エコール・デ・ボザールで学ぶ。ラブルーストを支持してアトリエ開設を要求した学生のひとり。合理主義者。ローマ留学はせずにフランスで学習したと称した(古典主義者ではなく中世主義者という主張)。1833年、ドロルムによるチュイルリ宮の修復プロジェクトを発表。ゴシック建築に関心を示し、ディドロンの『考古学年報』誌でド・カンシーを批判。1835年のサロンにサント=シャペルの修復計画を発表してメダルを獲得、、37年のサロンにはサン=マルタン=デ=シャン教会の修復計画を送り、サン=セルヴァン教会の修復を任され。

 1838年、サン=ジェルマン=ロクスロワ教会(ルーヴル宮東面の正面にある)の修復を担当する。祭壇、鉄柵、椅子が中世のモデルにしたがって制作され、壁画、ステンドグラスも13世紀のやり方で聖人の伝記に従って描かれた。修復としてはまだまだ不十分ではあったが、装飾が中世様式を意識して修復された最初の例となった。

 1838~1849年。デュバンとともにサント=シャペルの修復。1845年、ヴィオレ=ル=デュクとともにノートル=ダムの修復。そのほかシャルトル、マン、ムラン、ディジョンで担当。またヴィラール・ド・オヌクールの画帳を出版。

2】ヴィオレ=ル=デュク(Viollet-le-Duc, 1814-1879) 

*くわしくは羽生先生のご研究を参考のこと。

 すばらしい環境で成長した。父は王室建築の担当で中世詩に関心があった。ドレクリューズの甥であった。父親、叔父のサロンでスタンダール、クリエ、サント=ブーヴ、メリメ、ヴィテなどを聞く。父親の系統は王党派で古典主義であり、フォンテーヌとペルシエと親交があった。ふたりの建築家はヴィオレ=ル=デュクの素描の才能をみとめ、エコール=デ=ボザール入学を勧めたが、ヴィオレ=ル=デュクは断った。自信満々の生意気な若者であったようだ。古典主義の教育を無用と考え、独学を志した。

 ドレクリューズの一派は自由主義でロマン主義であった。ヴィオレ=ル=デュクは彼について、フランス中を旅行し、中世建築をスケッチした。イラストで小金を稼げるくらいであったという。その才能ゆえに、またエコール=デ=ボザール入学を勧められたりした。

 伯父ドレクリューズと、ヴィテ、メリメが話しているのを聞いて、中世建築を愛するようになり、歴史的記念物に関心をいだくようになった。とはいえ古代建築を無視したのではなく、1836年にはイタリアを旅行した。

 イタリアから戻ると市民建築評議会の修習官となり、ヴィスコンティの指示で祭典装飾を担当した。1834年からは製図学校の装飾構成助教授であった。

 1840年、メリメは彼に、歴史的記念物委員会に提出するためのヴェズレ教会の現状報告書を準備させた。教会堂の保存の仕事が任された。メリメは出張に彼を随行させるようになった。サント=シャペル修復では、デュバンとラシュのもとで仕事をした。ラシュと共同でノートル=ダム修復のコンクールで一等をとり、ラシュが亡くなると、単独で修復担当となった。

 1848年、政府は宗教庁Direction générale des Cultesのなかに宗教芸術建物委員会commission des Arts et Edifices riligieuxを設置した。ヴィオレ=ル=デュクはその委員となり、やがて検査長官となった。つまり彼は司教区建築家の長となった。

【3】修復家の仕事

 1840年、ヴィオレ=ル=デュクがヴェズレを担当していたころ、修復とはもとの状態に復帰することであった。しかし修復は破壊よりも有害なことがあることも認識された。セザール・ダリも、ノートル=ダムを補強するのではなく、漠然とした理想のもとに、ないものを追加し、あるものを撤去するようなものだ、と指摘した。

 ヴィオレ=ル=デュク自身、1843年、祭壇、パイプオルガンの外装木箱、説教壇、彫刻を撤去し、ファサードをもとにもどし、未完成であったものを完成させた。

 ヴィオレ=ル=デュクの「修復するrestaurer」の定義。「建物を修復するとは、メンテすることでも、修理することでも、修繕することでもない。かつてなかった完全な状態に再建することである。」絶対的な法則にしたがうのではなく、フレキシブルであるべきと考えていた。彼が信じた原理とは「様式の統一性」であった。これはもともと古典主義の考え方であった。18世紀末「悪趣味」と戦うために、建築家は芸術の起源に遡ることを考え、ギリシアやローマの神殿のように建設しようとした。古典主義者たちは折衷主義者になってしまった。こんどは修復家たちがこの「様式の統一性」という原理に立ち戻ろうとした。

 考古学者たちは、啓蒙主義の伝統を引き継いでおり、各時代の正確な形態を分類し決定しようとした。それぞれの時代に固有の様式をみいだすために、様式の統一性、印象の統一性を重視した。それは科学的でもあり詩的でもあった。ノートル=ダムでもサン=ジェルマン=デ=プレにおいても、様式は重層的であるが、ヴィオレ=ル=デュクはそれらひとつひとつを尊重したというので、賞賛された。

 「修復家」の立場を離れると、ラシュもヴィオレ=ル=デュクも、ゴシック様式の機械的な模倣には反対で、いわゆるネオ=ゴシックは移行期であると考えていた。現代建築は、ゴシックの形態ではなく精神を学ばねばならない。

 「歴史的記念物委員会」では、1844年、ゴシック建築をエコール=デ=ボザールで教えなければならないという意見が出された。1846年、ヴィテは機械的模倣はよくないと答えてた。修復家であれ考古学者であれ同様な意見が支配的であった。しかし1860年代の一時期、ヴィオレ=ル=デュクはこの学校で中世芸術を教えた。学生は全員、古典主義を支持しており、彼の講義は学生のサボタージュでほとんど成立しなかった。

 ヴィオレ=ル=デュクにとってもゴシックは形態ではなく、構造であり論理であった。1854年の『建築辞典』にもみられるように、彼はゴシックから、当時の合理主義の原理を導こうとしたのであった。

 しかしこの合理主義は、プロセスだけでなく結果をも求めていた。つまりプロセスがよければ統一的なスタイルが生じるはずだ、という理念があった。したがって20世紀の合理主義者が、アルゴリズムを満足すれば結果として美しくなくともよいとまで考えたのとは違って、19世紀のヴィオレ=ル=デュクは合理主義の彼方に立派なスタイルをみたのであった。

【4】古建築博物館

 中世建築の研究がかなり進み、書籍も出版され、それにもとづいて新しい教会堂がどんどん建設された。教会関係者たちは、宗教芸術博物館をつくるよう、建築家に働きかけた。

 歴史的記念物委員会もまた当初から博物館の創設を考えていた。ヴィテやメリメもその旨のレポートを書いていた。委員会は1848年、アレクサンドル・ルノワールがプチ・ゾーギュスタン修道院に創設した博物館に言及しつつ、エコール=デ=ボザールの校舎になっていたこの建物に、中世建築のコレクションを納めることを考えていた。反対意見もあって1851年、ド・ラボルドは芸術はひとつであり、宗教芸術などという範疇はないと批判した。

 しかしその理念は、1879年にやっと実現された。ヴィオレ=ル=デュクの請願により、トロカデロの東翼部に場所が与えられた。経緯からすれば、この博物館は、一般大衆の啓蒙とともに専門家育成という願いがあったものと思われる。

 これは現在のシャイオ宮の中世建築コレクションである。この上階に2007年、近現代建築ギャラリーができたことは報告したとおり。一般向け/専門家向けという2方向を堅持していることもヴィオレ=ル=デュク理念の継承といえるのではないだろうか。 

 蛇足:ヴィオレ=ル=デュクは、合理的探求がスタイルの統一性に至るという建築観をいだいた。新しいシャイオ宮の新旧のコレクションはみごとにこの理念を反映していると考えられる。

【5】「歴史的記念物建築家」

 ラシュやヴィオレ=ル=デュクは事実上MH建築家であった。彼らは中世建築を研究し、成果を修復にやくだてた。しかし同時に彼らは例外的に優れた建築家=修復家であった。それを制度化し、国土に大量供給することが必要になった。19世紀末には歴史的記念物(MH)を専門とする建築家のポストが制度化された。

 1830年に創設された歴史的記念物委員会のリュドヴィク・ヴィテ、後任のプロスペール・メリメは、建築の専門家ではなかった。

 1840年、委員会は「とくに中世建築を研修した建築家たち」に重要な修復などを任そうと決めた。修復事務所で仕事をし、工事管理をしたものがそうした建築家であると認められた。MHを専門とする建築家、という概念がここでうまれた。

 1860年代、ヴィオレ=ル=デュクはエコール=デ=ボザールで中世建築を教え、その専門家を養成しようとしたが、失敗に終わった。1887年、アナトール・ド・ボドーはこの学校で中世建築の講義をはじめる。

 1893、「歴史的記念物主任建築家Architecte en chef des monuments historiques=ACMH」を選ぶ最初のコンクールがおこなわれる。

 1905年、政教分離法。宗教省が廃止された。大聖堂を担当していた司教座建築家architecte diocésain協会は、歴史的記念物の部局に所属するようになった。

 1907年の法律により「ACMH協会」が設立された。

 1946年、MHの管理維持はフランス建物建築家ABF(建築保存というより都市計画の立場、200人いる)の任務となる。

 現在ACMHは国家官吏でありつつ、同時に自身の事務所においては自由職業をなすことができる。ABFは行政側にいる建築家であり、ACMHは現場側にいる建築家とおおまかには考えることができる。

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