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2007.11.13

【講義草稿】古建築の保存(002)七月王政

 古建築の保存・修復活動は革命下において萌芽がみられるが、おもには7月王政にその制度的思想的な基盤ができた。

(1)初期の保存

 革命、帝政時代にもすでに記念碑保護の政策は始まっていた。内務大臣モタリヴェは1810年5月10日、知事にその件について通達していたが、知事たちの反応はにぶかった。しかし王政復古になると、いくつかの県議会は基金をつくり、記念碑を買収して修復することを決議した。県によっては、記念碑の学芸員あるいは監察官をおいた。「フランス古物協会 Société des Antiquaires de France」書記長ボタンは1819年5月30日、近年の破壊や移動をまぬがれた記念碑、残骸、痕跡を保存することがその協会の目的であると表明した。

 政府もまたいくつかの建物の修復を命じた。もっとも修復そのものは好成績ではなかった。サン=ジェルマン=デ=プレ教会の修復はひどかった。サン=ドニ教会は、ナポレオンふが一族の墓を歴代の王のそれの近くにおくために、修復を命じた。ドブレが担当した。しかし床レベルをあげて、フランス記念碑博物館が整理した墳墓をごちゃまぜにしてしまった。その結果1846年より再整備となった。

 アラヴォワンヌはサン=ドニ教会で仕事をしたのち、1817年、セ大聖堂を担当、石の柱を鉄のそれに替えた。1822年にルーアン大聖堂の尖塔が火災にあうと彼が呼ばれ、1826年以降、修復がなされた。しかしゴシック派とみなされた彼は、ド・カンシーは学士院入会を認めなかった。ユヴェは1825年、サン=ジャン=ル=ポーヴル教会の修復、イトルフはランス大聖堂の修復を担当したが、彼らは古典主義の建築家であって、ゴシック建築にあからさまな無理解を示し、修復は混乱した。

 シャルル・ロトランは、ユゴーの友人であったが、1829年にブザンソン大聖堂の担当となった。彼はブランジェサント=ブーヴを連れてステンドグラスを修復した。3人はブルゴーニュ、アルザス、ライン川沿いのゴシック建築を研究した。

 ロトランはヴィクトール・ユゴーに吹き込んだ結果、後者は記念碑破壊に抗議する文書を書いたとされている。ユゴー『ノートル・ダム・ド・パリ』(1831) のなかで、革命期などの蛮行によりゴシック建築がゆがめられていることを指摘し、ルネサンス建築を批難した。新しい記念碑を建設するために、古いものを保存しなければならないことを主張した。「国民に、国民建築への愛を呼び起こすことが本書の目的だ」としたが、国民的建築とはもちろんゴシック建築であった。

 おなじころパヴィアレクサンドル・デュマに、大聖堂の建築が国民の誇りであることを述べた。またモンタリヴェは『二世界誌』のなかにユゴーへの書簡を送り、フランスにおける記念碑破壊の蛮行について述べた。

 これにより世論は喚起され、どうような論調であった『マガザン・ピトレスク』誌(1833~)が熱心に購読された。チュルパン・ド・クリセは『さまざまな時代と様式の建築諸例』(1833)のなかでクリュニー館を紹介した。アレクサンドルの息子アルベール・ルノワールはこの中世の館をミュジアムとする案を出した。1935、サン=シュラン婦人はその旨の書を出した。1843年、博物館転用が決まった。1830年代以降、中世建築の文献は増えた。

(2)記念物の売却

 革命で没収された記念碑物件は、取り壊され、転売される状況はつづいた。モンタランベールは、すべての県において王政復古の15年間にも記念碑の消失はつづいたと嘆いた。ヴィクトール・ユゴーは「破壊者との戦いの時がきた・・・沈黙は許されない・・・私たちが敬愛する中世の記念碑、国民の古くからの栄光が書き込まれた中世の記念碑が危機に瀕している・・・」と述べた。

 監査旅行からもどったヴィテギヨに「市長、司祭、教会財産委員会、とりわけ市議会はまったく聞く耳をもたない。理性は彼らには通用しない。法が必要だ。そうしないと10年後にはフランスに記念碑はなくなってしまうであろう」と訴えた。

 パリでもシャブロルとランビュトの時代に、テンプル騎士団領の天守閣が取り壊された。

(3)「歴史的記念物委員会」

 7月王政時代に状況は好転し、政府は記念碑の保存を考えるようになった。1830年、内務省は「歴史的記念物」に予算措置を開始した。

 1730年10月28日、内務大臣フランソワ・ギゾ「歴史的記念物検査長官」職を創設した。彼は王に「フランス国土を覆う歴史的記念碑は、全ヨーロッパの賞賛と羨望の的であり、我が国も自分たちのこうした栄光には無関心ではいられない」と書き送った。ルイ=フィリップは、それを聞き入れヴェルサイユに「フランス歴史博物館」を創設した。

 「検査長官」の仕事は、記念碑の目録を作成することであった。ギゾは、リュドヴィク・ヴィテを指名した。ヴィテは、この仕事の重要性を痛感していたが、3年後にコンセイユ・デタに指名されると、辞任した。歴史的記念碑の部署は、通商・公共事業省に属していたが、それから内務相に属した。内務大臣ティエールは、1834年3月29日、ヴィテの後任としてプロスペール・メリメを検査長官に指名した。その任務は、建物を指定し、維持と保存のための予算を措置することであった。メリメは高名な作家であったが、デッサンもでき、考古学にも造詣が深かった。アルシス・ド・コモンを顧問にした。フランス中を視察旅行し、メモをとり、スケッチをし、知事や市長に面会した。彼は1840年に視察旅行に、ヴィオレ=ル=デュク(友人ドレクルーズの甥であった)を連れて行った。メリメは1853までこの地位にあった(そののち上院議員となった)。ユゴーと同様、古典主義を批難するということで、やや偏狭なところがあったようだ。

 1834年「芸術・記念碑歴史委員会」の創設がきまった。県の記念碑関係の教会にいい指示を与えることが目的であった。ユゴーは出ずっぱりであったようだ。

 1837年9月29日「歴史的記念物委員会 Commission des Monuments historiques」がモンタリヴェによって設立された。委員長はヴァトゥ Vatout。しかし彼はそののち公共事業省の市民建築局長になったので、1839年に委員会は再組織された。メンバーは8人。ヴィテ(副委員長)、メリメ(副委員長)、ルプレヴォ、モンテスキュ伯、テロール男爵、ルノルマン(考古学)、カリスティ(ギリシア=ローマ建築の修復専門家)、デュバン(建築家、アレクサンドル・ルノワールの古建築博物館をボザールに引き継ごうとしていた)。委員会の予算は12万フランであった。目録の作成などが任務であった。

 建築では縦割り行政の弊害から、委員会の活動は困難があった。内務省は、宗教行政を管轄したので、司教区、小司教区の教会などの建物を管轄した。公共事業省にある市民建築局は、サント=シャペルやサン=ドニの歴史的建築を管轄した。防衛省の管轄は、ジャコバン・ド・トゥールーズ、軍の倉庫などを管轄した。紛糾もあったが、司教区建築家は、歴史的建造物建築家のなかから選ばれたので、それが仲介者となることもあった。

 歴史的記念物委員会は、協会や出版により支援された。アルシス・ド・コモンは1824年に「フランス考古学協会」を設立し、年会を開催し、会誌『記念碑年報 Bullten Monumental』を刊行した(最近まで続いていた)。ディドロンの『考古学年報』とか『考古学誌』など、さまざまな協会や出版がこの委員会を支援した。

 この委員会と委員長メリメは、正しい学識を蓄積することで、王政復古時代のあやまった復元や修復の弊害をなくすことを目指した。それに貢献したのがデュバン、ラシュ、ヴィオレ=ル=デュクであった。

 1840年、委員会は最初の歴史的記念物の目録を刊行した。全部で1034件が指定された。ヴェズレの教会、サン=ドニの教会など5世紀から16世紀の中世建築のみであった。また公共建築(国、県、自治体の所有)のみが指定された。目録作成の作業は続き、その範囲は広げられ、バナキュラー建築も含まれた。また1851年には、委員会は、写真部会を創設した。

・・・制度はこのくらいにして、次回は人と活動にふれることにしよう。

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