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2007.11.13

【講義草稿】古建築の保存(001)革命から王政復古まで

 新カテゴリー「講義草稿」です。タイトルどおり、講義のための草稿である。初心者対象なのできわめて初歩的、古典的なことからはじめる。とりあえず講義のパーツを順不同で書き始める。草稿だから教室ではさらに追記、編集、現代化し、図版などを追加して話す。

 古建築保存の歴史は200年を遡る。フランスにそくせば革命を契機としてであった。このとき建築史、文化財、文化遺産という概念の基礎が、包括的に誕生してきた。この誕生の契機を俯瞰的に眺めることで、今日、専門分化しているこれらの諸部門を統一的な視点から再考することが可能になるであろう。

【1】革命による記念碑(monument)の破壊。(V-103)

 革命により多くの記念碑が破壊された。破壊の背景はさまざまであり、歴史家はそれらを非難はする。しかし場合を分ける必要がある。17世紀、18世紀にも記念碑の取り壊しはあった。1791年にカンペール(ブルターニュ)大聖堂の内陣仕切りが内陣を解放するために取り壊された。

 過去を理解していなかったことは、理由のひとつ。1787年、王はラ・ミュエット、マドリッド、ヴァンセンヌ、ブロワ城館の取壊しあるいは売却を命令した。革命政府もランブイエを解体しようとした。

 18世紀の建築家もゴシック建築の構造を研究した。また庭園の四阿をデザインするための「トルバドール(吟遊詩人)」的工作物のモデルとして位置づけられた。しかし公衆は無関心であり、都市のなかに満ちているゴシック建築は「ゴート人による野蛮」と信じられた。これらを撤去して都市空間を規則正しくすることが啓蒙主義の時代の都市計画であった。市民たちも、革命という政治的な理由から記念碑を破壊することにに疑問は感じなかった。

 象徴的・政治的な理由による破壊。国民公会(Convention, 1793-95)は、1792年8月14日、封建制度の記念碑を取り壊すことを決めた。記念碑委員会が芸術作品の保存を監視するという配慮はあった。国民公会の1793年8月1日のデクレ(行政命令)は、サン=ドニ修道院などにあるすべての王室の墳墓を取り壊すことを決めたが、これは実施されなかった。また、リヨン市が反抗すると、同年10月12日、リヨン市を根こそぎにすることが決定され、クロワ=ルス市壁、ベルクールのファサード、旧市街の町並み、が取り壊された。1794年7月7日にやっと法令は撤去された。

 国有財産法(1789年11月など)に起因する破壊。1789年いらいカミーユ・デムランは「フランスの4万棟の宮殿、オテル、城館は勝利者にささげられら美味な餌食」として非難した。略奪、放火も頻発していた。1789年11月の国有財産法(1790年5月17日と10月18日に補足された)は、教会財産の没収を決めた。その他、法律によって教区、司教区、大司教区の数も制限された。これらの法律により、教会の不動産資産や教会堂は、市町村の所有となった。宗教団体そのものも解体された(1790,92年の法)。宗教団体の財産は国のものとなった。司教館、修道院、教会財産管理局、マルタ騎士団、コレージュの財産は売却されることとなった。

 国有財産biens nationauxは、教会財産(1790)、亡命貴族財産(1971)、王室財産(1792)の没収、国有化に即応して制度化された概念である。あるものは民衆に還元されたので、グロゴワール司教はこれを「ヴァンダリズム」と呼んだ。クリュニー修道院、ヴェズスレの司教館は石材の提供場となった。モンサンミシェルが監獄になったように、用途が変更されたものもあった。

 オバン=ルイ・ミラン Aubain-Louis Millanが1790年、バスティーユ取り壊しにふれて、立憲公会で「歴史的記念物」に言及したのが、この言葉の初出である。ゆえに「歴史的記念物」とは革命以前、アンシャン=レジームの代名詞であった。アレクサンドル・ルノワールはフランス記念物博物館に就任したのはこういう意味においてであった。

 教会財産を没収した地方自治体は、それらを宣誓聖職者に任せるか、メンテナンス費用を軽減するために倉庫、市場、公共建築、劇場などに転用した。たとえばパリのノートル=ダム=デ=ヴィクトワールは証券取引所となった。また15の教会は神殿にされた。サン=フィリップ=デュ=ルール教会はコンコルド神殿に、サン=テティエンヌ=デュ=モン教会は憐憫神殿、サン=トマス=ダカン教会は平和神殿、サン=シュルピス教会は勝利神殿にされた、など。

 国民議会(Assemblée Nationale)は国有財産の売却を規定した。1793年4月4日の法律により、旧王宮、修道院を各地分譲(小さい地所に分割して転売し住宅地などにすること)できるようになった。パリのモンソー公園の建物は取り壊された。ブロワ、フォンテーヌブロー、ヴェルサイユも破壊を免れた。

 記念碑破壊への反動。1793年10月29日に「コミューン・デ・ザール」が廃止されると、国民公会は記念碑破壊に敏感になった。ラカナルは記念碑を破壊する者を罰しようとした。ジョゼフ・シェニエは「封建制の象徴を消すという理由であれば」とする。グレゴワールは記念碑破壊についてレポートを書き、国民公会は破壊禁止の議決を繰り返した。

 しかし記念碑破壊の動きはなかなか止められなかった。1793年10月、クリュニー修道院が破壊された(今日、シャイオ宮のギャラリーには破壊された修道院の模型が展示されている)。地域社会の破壊行動にはなかなか歯止めがきかなかった。

 全面的破壊でなくとも、屋根の鉛、鉄材などが略奪されると、雨水がしみこんで、建物は急速にいたんでいった。管理維持は難しく、建材の売却は利益をもたらしたので、自治体は取り壊しを推進した。

 国民議会は、国有財産の売却が、記念碑を破壊するであろうことを予期しなかった。歴史的に見れば、記念碑の破壊者たちは、16世紀のプロテスタント、17・18世紀の参事会員、革命派、そしてオスマンは、ロマネスクとゴシックの遺産の価値を認められず、破壊していった。

【2】不動産・財政の危機

 国有財産の売却の結果、一時期、投機がきわめて活発になった。住宅街になったところは家賃が高くても入居者がいた。また劇場も多く建設された。投機家のなかにはオランダ人など外国人も多かった。民間オテル建築も建設された。しかし1792年8月の王権停止をきっかけに(8月10日事件)、投機熱は冷えた。買い手であるべき貴族は亡命をはじめたからであった。不動産価格は下がった。

 テルミドール以降、パリに地方から労働者が押し寄せ、軍事産業の労働者、公共サービスのための公務員が増えたので、住宅危機となり、家賃は高騰した。しかし有名なアッシナ紙幣の問題で、家賃は大混乱であった。家主は、小麦か金属で家賃を払うよう要求するようになった。それゆえ1796年には家賃を正貨で支払うよう法律ができた。家賃危機は1800年にやっと収束した。

【3】革命による新しい建築制度。

 1791年に廃止された旧制度。王室建築長官。主席建築家。建築アカデミー。ムニュ長官(祭事関係)。全権をもっていたこれら制度が廃止された。

 1791年4月27日の法律。「市民建築評議会 Conseil des Bâtiments civils 」の成立、9人の建築家がそれぞれ部署を担当した。国民公会は、美術は公教育委員会の手掌とし、建築は公共事業委員会のそれとした。

 1795年に「県」制度(1983年の地方分権法まで続く)が成立した。内務大臣ブネゼクは、美術、科学、建築をまとめてひとつの部署とした。建築関係は12月に再組織され、ロンドレ、シャルグラン、ブロンニャールからなる「建築評議会 Conseil des Bâtiments」となった(その詳細は省略)。これは革命前のアカデミーの諮問機関的な役割を踏襲するものであった。ただし評議会は建築家でないメンバーも含まれていた。

 ナポレオン時代。「市民建築評議会Conseil des Bâtiments civils」は建築行政の中心でありつづけた。

【4】古記念碑

 「プチ=ゾーギュスタン修道院」:1790年以降、教会や宮殿に所蔵されていた美術品などが移管された。この建物とコレクションは、現在のエコール・デ・ボサールの校舎となっている。

 「記念碑委員会 Commission des Monuments」:1790年設立。動産のみをあつかった。封建的遺物を消すことが考えられるとド・ヴァイィとペルシエがメンバーとなった。国民公会は1793年、不動産遺産を保護しようとしたが、効果ははなかった。

 「臨時美術委員会 Commission temporaire des Arts」:上記委員会にかえて国民公会は1793年に設立。建築家としてはデザルノ、ジルベール、ダヴィド・ルロワ、ユベール、ラノワ、ペルシエらがいた(これらはほとんど古典主義の建築家)。この委員会は古建築の保存を考えた。模型や図面によるドキュメンテーションが提案された。委員会の功績としては、シャンティィ、サン=ドニ門、サン=ドニ教会堂などが救われた。

 「フランス古物・記念碑ミュージアム Musée des Antiquités et Monulents français」アレクサンドル・ルノワールが運営していた。上記委員会のダヴィドは、ルノワールの友人であり、この博物館を支持していた。「博物館委員会」は、そのなかのとくに美的価値の高いものだけを選び、彼を記念碑キュレーターにしようとした。ルノワールはそれに抵抗した。1796年、総裁政府は彼のミュージアムを法的に承認した。ここでは彫刻しかなかったが、そのなかには建築の細部もあったので、建築家の関心を中世建築に向けることもできた。これにたいしド・カンシーは、フランスの美術品の海外転出に反対し、また教会や宮殿の一部であった美術品が本来の場所から離されることに反対した。ルノワールは、そうしないと破壊されると反論した。この重要な論争は、そののちヴィテとメリメのそれを先取りするものであり、のちにできる「歴史的記念碑委員会」の活動を規定するものであった。

【5】シャトーブリアン『キリスト教精髄』(1802)

 ロマン派の父と呼ばれるシャトーブリアンは、中世美術の価値を認識させたことに歴史的意味がある。日本におけるゴシック・リバイバルの紹介はピュージン、ラスキンといったイギリス経由である。すこしバランスを是正しなければならない。

 フランス人らしく彼は「美」を検討することからはじめる。「美は私たちの外部にあるのではない。自然の優美は、まさの人間の心の内部にあるのだ」。といっても18世紀の感覚論美学ではない。彼は美の根源は「宗教」にあると考える。美は形式的なものではなく、想起的なものである。建物は人びとにとって道徳的統一体であり、墳墓を見れば王のために涙をながす・・・。このような建築はゴシック建築でなければならなかった。美とは人間精神における宗教的感情である。さらにゴシックはガリアにおける森を想起させる(ゲーテに由来する原風景の考え方)。こうした効果をもたらす建築は、絵画的な原理からなりたつ(この店で絵画的原理で庭園をデザインしようとしたジラルダンに近い)。

 とはいえシャトーブリアンがフランス的伝統としてのゴシックを力説しなければならなかったのは、当時「ゴシック」概念はきわめて曖昧であったからである。あるときは、ゴシックとは今のロマネスクであり今のゴシックはアラベスクであった。あるときはゴシックとは中世建築すべてであった。当時の通説では、尖頭アーチは崩れたアーチでありその起源はアラブ建築だと考えた。こうした混乱した理解のなかから、カトリック的なものの表現としてのゴシック建築という理念をシャトーブリアンが広めていった。

 シャトーブリアンの主張は、記念物破壊というヴァンダリズムに対抗するためであった。ユゴーの同様であった。

【6】国民建築としてのゴシック建築

 シャトーブリアンの時代はまだロマン派ではなく前ロマン派とされている。彼らは記念碑は「精神に語りかける」ものとされた。古代神殿よりも、フランスに古くからある教会や城館がこのように語りかけると考えた。こうした観点から19世紀にはゴシックが再解釈された。こういう意味で中世建築はフランスの国民建築とされるようになった。

 

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