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2007.10.28

建築家エマニュエル・ル・レのこと

 土日は調査の準備である。USBケーブルを買う(うっかり忘れただけだが)。スーパーで物資補給。いわゆるホテルではなく、キッチン付きのストゥディオ・タイプに泊まることにしているからである。ジェットラグと冬時間になる(10月28日(日)の朝3時になると2時に戻る)、ことが重なるので、体調維持にプールでひと泳ぎ。サン=ジョルジュ・プールである。とにかく身体をリセットし、新しい環境になじむためには水泳に限る。というわけでその建物の設計者Emmanuel Le Ray(1859-1936)の紹介である。

 父親もレンヌの建築家であった。子エマニュエルはレンヌの高校を卒業したのち、父と同じ職業に就くことを決心し、23歳でパリのボザール(国立美術学校)に入学。1890年にディプロマ獲得した。ローマ大賞には無縁だったのだからエリート学生ではなかったと思われる。ただ彼には家族インフラがあり、地縁血縁にも恵まれ、それを経由した仕事もおおかった。

 1891年にレンヌに戻った。血縁だが、妹のひとりはシャルル・オベルツールと結婚、もうひとりの妹は建築家フレデリク=オギュスト・ジョベデュヴァル(1846-1929)と結婚した。

 1894年、ジャン=バティスト・マルトノを継いで「市の建築家」となり、商業開館とサン=トバン教会の工事を引き継ぐ。これらはつらい仕事であり、訴訟そのものを引き継いだのであった。しかしこの立場で知り合いになったジャン・ジャンヴィエは市長となった(1908-23)。この市長は社会施設を整備することを考えた。中央市場(1912-23;下の図面)、サン=ジョルジュ・プール(1921-26:写真は以前紹介した)である。後者はのちに、ぼくのいきつけのスイミングプールとなるのであった!これらは機能的にできており、装飾もアールデコ、アールヌーボーを反映しており、19世紀的な折衷主義ではない。ただ市場のほうは、相対的に軽快といってもまだ重厚なレンガ造であり、50年前のバルタールのほうがよっぽど進歩的である。

Halle_3

 市長ジャンヴィエは、業種は不明だが企業の社長を務めた人物で、レンヌ市の労働者たちにふさわしい都市設備を与えることを考えていた。つまり政治的に社会主義者であったわけではないが、19世紀的な、企業厚生を重視した産業パトロンを延長したような人物であった。社会的ミッションを背負った政治家であった。ただ彼は、いちど産業を去り政治の世界にはいって、その理想を実現しようとしたのであった。

 ところで1880年代にボザールで建築を学ぶということは、まだまだ折衷主義教育を受けていたことを意味する。しかしル・レはたいへん進歩的であったようだ。あるいはレンヌに戻ってからの20年間(すなわち1890年代と1900年代)にうまれた新しい傾向に敏感であったということであろう。

 医学・薬学学校は開放的な開口部が印象的である。アラン・ブシャール保育園はモザイク装飾、産業実業学校は医学薬学学校と対をなす。集合住宅も手がけている。またデパートも建設している。

 まとめであるが、まず建築家教育の歴史。18世紀までは、建築家の修業は王室建築家など有力建築家のアトリエでなされるので、首都の建築家は圧倒的に優位であった。地方にも建築家はいたが、まったく比較にならず、対等に仕事ができる関係ではなかった。レンヌ市の高等法院館におけるサロモン・ド・ブロスと地元建築家、あるいはJ・ガブリエルと地元の関係である。ところが19世紀は、オープンな学校制度のなかで教育がなされたので、地方の人間も、パリにいって一流の教育を受けられた。ル・レはそのひとりであった。さらに19末になると、地方にも建築学校ができるので、そこで優秀な建築家を育てられるようになった。ちなみにブルターニュにおけるリージョナリズム文化はそうした知的インフラができてはじめて活発になる。

 そうした教育制度の変化があったこととへ移行して、これはフランス的なのだが、建築家という職業はかなり世襲されるものでもあった。王室建築家たちもそうであったし、地方でも地縁血縁を活用したほうが仕事受注の面で圧倒的に有利であったといえる。建築家は自由職業のひとつであるが、自由だからこそ家族インフラが必要であったということであろう。

 もうひとつは19世紀末から20世紀初頭が、じつは地方の時代でもあったということである。このことはしばしば見逃されている。フランス革命以降の中央集権的な枠組みのなかでも、地方分権は着実に進んでいたし、首長公選も徐々に実現されていった。ただ世界恐慌ととくに第二次世界大戦によってふたたび国家の一元管理が進み、それがやっと解けたのが1980年代の地方分権法である。ながいタイムスパンでみれば、集権/分権は綱引きをしていたと考えることができる。建築家ル・レは地方への揺れ戻しの時期に、故郷の都市のためにたくさん仕事をした、とても幸福な建築家であった。

 ・・・さて8時、やっと明るくなってきた。今日は日曜日だが9:00ー12:00だけオープンしているスーパーがある(フランスも進歩した!)。残りの買い出しをしなければ。コーヒーのフィルター、ゴミ袋、水・・・日本の生活と変わらないね。

 

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