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2007年10月の18件の記事

2007.10.30

レンヌと「市の建築家」(続き)

 レンヌはいいですね。大学の都市である。人口の三分の一が学生である。だから町並みは古くとも、雰囲気は生き生きしている。レンヌ大学出版会も充実している。ケンブリッジ、オックスフォード、ハーバードに喩えるのは大げさだが、ベルギーのルーヴァンには肉薄しているかもしれない。しかしクレープだけはどうも・・・。

  ・・・・ところで「市の建築家」は今回の目的ではないが、どうも気になりはじめたので調べて見よう。

 そもそもレンヌ市に行政職としての「市の建築家」職が設立されたのが1800年。革命とともに生まれたと考えられるが、経緯や背景は今後の課題である。以下、その略式リストである。

 フィリップ・ビネ(在任1800-1815):アカデミーの学校で修行をし、イタリア留学も果たし、当時の大建築家ゴンドゥアンのもとで医学学校建設の助手を務めた。1790年頃からブルターニュの公式エンジニア。

 1815年にビネが殉職(仕事中に亡くなったらしい)すると、リシュロ、シュセ(ボザール出身)、ゴイエ、ド・ラギャルド、アドルフ・ジロ(1823~)、マキシミリアン・ゴドフロワ(1827-28)らが担当するが、長続きせず。

 シャルル=イジドール=ウスタシュ・ミラルデ(1828-43):1819年にボザール入学、1824年にその第一部学生、師匠はヴィニョーラやパラディオにかぶれた人であった。

 イポリト・ビネ(1843年以降、短期間在職)

 レズファシェ(1944年前後):当時超一流建築家であったデュバンの生徒であった。

 ヴァンサン=マリ・ブレ(1845-56):地元出身。1822年に若くしてパリにわたり、1824年にボザール入学。1930-32年にローマ留学。

 ジャン・バティスト・マルトノ(Jean-Baptiste Martenot, 1828-1906、在任1856-1895):パリのエコール・デ・ボザールで学ぶ(建築家ブルエのアトリエ)。

 エマニュエル・ル・レ(Emmanuel Le Ray、1859-1936、在任1895-32):パリのエコール・デ・ボザールで学ぶ(どの建築家のアトリエかは調査中)。商業館など担当。

 以降は調査中。戦後は、「市の建築家」職はないのでは?

 市の建築家は、公共建築の管理維持、美的に優れた建物の建設、最新の建設技術の提供、衛生施設の設置、などに配慮した。つまり自身で公共建築を設計するほか、建設業者の建設する建物について監視する役割をもになっていた。彼らが設計した建物の少なからずが今、歴史的建造物として指定されている。

 公共性のある建築に関わるいっぽうで、個人の建築家として、民間の仕事を引き受けることもあった。ときにはそれが問題視されたが、事実としては、個人住宅など優れた作品をのこしている。

 これらの建築家は、基本的にはパリのアカデミーやボザールで修業し、イタリア留学を経験した者もいる。しかし地元出身の建築家も少なくない。

 こうした状況はとくに中央集権的ともいえないであろう。なぜなら17世紀、18世紀は宮廷から派遣された建築家が直接設計したからであった。地元建築家もいたが、その設計はそのままでは実現しなかった。それを考えれば、19世紀は、教育はパリが独占したとはいえ、ブルターニュ出身の建築家がレンヌあるいはブルターニュの建築を手がけるという状況であった。彼らは基本的には、パリ的な古典主義あるいは折衷主義の建築家であり、パリのモードを地方にもたらした。しかしそうしたなかから、地方独自の建築表現をめざすリージョナリズムが生まれるのであった。19世紀において地域の自立性・独自性を確立するためには、こうした地域における集権化が必要であった。

 それはともかく、都市が形成される過程で、その行政のトップに建築家が継続して存在したということを忘れてはならない。今日、まちづくりは集権的になされるのではない。しかし遺産として生きている伝統的な都市は、建築家をトップとする体制のなかで形成されてきた。それはいわゆる自然発生的に漫然と美しい町並みができたのではない。そうして集権的にできた都市を、今は、民主的ガバナンスで維持するということであろうか。

 いずれにせよ地方都市における建築行政の歴史というのはよい研究テーマであろう。

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2007.10.29

レンヌと「市の建築家」

  賢明なる読者はすでに気づいたことであろうが、レンヌには「市の建築家」がいた。とりあえずふたりわかっている。

 ジャン・バティスト・マルトノ(Jean-Baptiste Martenot, 1828-1906、在任1856-1895):パリのエコール・デ・ボザールで学ぶ(建築家ブルエのアトリエ)。

 エマニュエル・ル・レ(Emmanuel Le Ray、1859-1936、在任1895-32):パリのエコール・デ・ボザールで学ぶ(どの建築家のアトリエかは調査中)。商業館など担当。

 ふたりともパリのボザール(建築大学)で学んでいる。19世紀のボザールは、世界一の建築大学であった。マッキムなどアメリカのエリート学生もきたし、フランスの地方からも優秀な人物が集まった。

 設計までする建築家が市政体のなかの高級地方官僚であることは、日本ではあり得ないが、ヨーロッパではよくあること。パリでは18世紀からあった。一般的には、19世紀後半から20世紀初頭まで、その類例が多い。しかし悉皆的に調べてはいないからよくわからない。有名な例としては、リヨン市におけるトニー・ガルニエ、ロッテルダム市におけるJJPオウト、ベルリン市におけるブルーノ・タウト、などである。

 共通しているのは、意識の高い市長の存在である。市長の後押しがあるので、建築家は活躍できる。マルトノはデ・ゾルモにより、ル・レはジャンヴィエにより招かれる。市長は行政のなかで建築家の重要性をよく認識している。市場、学校、運動施設・・・など市民生活を豊かにする政策展開にとって良い建築家は不可欠である。

 近代建築はまず運動として発生し、新聞、雑誌、出版をとおしてメディア作戦を展開したことはよく知られている。しかし彼らを支えたのは市政体であり、すくなからず建築家は自治体の建築・都市計画行政にかかわっていた。よく第一次世界大戦で長い19世紀が終わったなどと指摘される。ぼくのカンでは世界恐慌のほうが、建築によりインパクトを与えたのではないだろうか。世界恐慌により、地方ベース、自治体ベースであったものが、国家を中心にせざるをえなくなる。

 このようにヨーロッパの都市ではかつて、よくもわるくも、ひとりの建築家が長い期間(マルトノは39年、ル・レは37年!)、建築行政を支配するのである。だから市の町並み、デザインに一貫性があるのは当たり前である。ひとつのはっきりした意志により、都市が形成されるのである。つまり地方でもけっこう集権的なのである。

 今の日本の地方自治体では、建築や都市計画の役人も2年ごとに異動するから政策も変わる。だからといって一貫性をもたせようと、かつてのヨーロッパ方式を採用すれば、とんでもないことになるであろう。つまり地方の有力企業、建設会社、デベロッパーが裏で働きかけ、さまざまな汚職の温床となるのだろう。そうすれば数年ももたないであろう。日本社会は、高貴なる意志がなかなか続かないようにできている。日本の地方社会におけるいわゆる民主化は、悪の細分化と拡散化を意味しているようだ。

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レンヌのタボール公園を散歩する

 午前中(10月28日)、買い出しをして、WEB版ルモンドを読んで、午後は散歩である。広場、教会、旧市街を、土地勘を再生するために、散策。それから前回いけなかったタボール公園(Parc du Thabor)にて散歩をする。

 この公園は17世紀には、サン・ムレーヌ修道会の果樹園であった。聖ムレーヌは505年からレンヌ初代司教。ガロ=ローマの民衆と、クローヴィスに代表されるフランク族とい権力との仲介者として重要な役割を果たした。

 公園は18世紀後半に拡大、整備された。当時その周辺地帯にブルジョワ階級が邸宅を建設しはじめていたからである。現在もその周囲には立派な戸建てが多い。

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 1860年から1867年に整備され、今の公園となった。面積は10ha。タボールなる名称は、イルラエルの山の名前にちなむという。整備を担当したのは造園家ドニ・ブレール(Denis Buhler:詳細不詳)。温室、オランジュリ、音楽の四阿などを担当したのは建築家ジャン・バティスト・マルトノ(Jean-Baptiste Martenot, 1828-1906)。彼はブルゴーニュ出身だがレンヌに貢献した建築家。県の給費生として、1850年からパリのエコール・デ・ボザール、とくに建築家ブルエのアトリエで学んだ。Muller Soehnee賞を獲得した。26歳にしてルーヴル宮の監督官となる。1858年、レンヌ市長レオン・デ・オルモは彼にレンヌ市建築家のポストを提供した。彼は1895年までその地位にとどまった。数多い作品のなかでもデ・リス広場の2棟の市場建築。これはバルタールによるパリのレアール(中央市場)を踏襲した、鉄とガラスの軽快なもので、当時のハイテク建築であった。この建築家の名前はちかくの道の名前として残っている。才能に対する敬意が日本とは違うのであって、文化財というものの哲学が同じレベルではない。

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 ようするに典型的な第二帝政の公園である。皇帝ナポレオン三世のイギリス趣味を反映して、自由で変化に富んだ構成である。フランス式ではなくイギリス式。公園も公園なら、四阿も四阿である。オランジュリはどうみても16世紀の建築家フィリベール・ドロルムの考案した「フランス式オーダー」(節があったりごつごつしたデザインで、古典古代の柱に比べて意図的に粗野で田園風にした柱)が使われている。じつはルーヴル宮の19世紀増築の部分にもこれが使われている。建築家マルトノはルーヴルにもかかわっていたから、彼がこのデザインを伝えたとしても不思議ではない。さらにえば前述の市場建築もふくめて、マルトノはパリの建築をレンヌに伝えたのであった。

 ナポレオン3世があまり尊敬されていないことから、第二帝政の業績もそんな傾向がある。しかし地方では大植林をしたり、都市では公園を整備したり、今日の言葉でいえば、環境に配慮した政権であった。

 庭園は総じて、思索的、権力誇示的というより、教育的(さまざまな植生を教える花壇あり)、娯楽的(ハイドパークのような楽隊キオスクあり)、癒し的(なだらかにのびる芝生)である。これが第二帝政的なるゆえんである。

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 笑えるのは鳥小屋である。中心に塔があり、下は八角形平面の鳥かごである。プランはパノプティコンであって、自由であるべき鳥が閉じこめられている。しかし中央の塔にはたくさん鶏小屋のドアがあって、鳥が羽ばたく大気の中心であるとでもいうのだろうか。とはいえ、カゴは区分され、世界中のさまざまな鳥が集められ、その解説が付されている。だから動物園でもある。啓蒙機械である。

・・・というわけでコンパクトなレンヌ市内の散策、2時間弱ずっと歩けました。リハビリの成果ですな。

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2007.10.28

建築家エマニュエル・ル・レのこと

 土日は調査の準備である。USBケーブルを買う(うっかり忘れただけだが)。スーパーで物資補給。いわゆるホテルではなく、キッチン付きのストゥディオ・タイプに泊まることにしているからである。ジェットラグと冬時間になる(10月28日(日)の朝3時になると2時に戻る)、ことが重なるので、体調維持にプールでひと泳ぎ。サン=ジョルジュ・プールである。とにかく身体をリセットし、新しい環境になじむためには水泳に限る。というわけでその建物の設計者Emmanuel Le Ray(1859-1936)の紹介である。

 父親もレンヌの建築家であった。子エマニュエルはレンヌの高校を卒業したのち、父と同じ職業に就くことを決心し、23歳でパリのボザール(国立美術学校)に入学。1890年にディプロマ獲得した。ローマ大賞には無縁だったのだからエリート学生ではなかったと思われる。ただ彼には家族インフラがあり、地縁血縁にも恵まれ、それを経由した仕事もおおかった。

 1891年にレンヌに戻った。血縁だが、妹のひとりはシャルル・オベルツールと結婚、もうひとりの妹は建築家フレデリク=オギュスト・ジョベデュヴァル(1846-1929)と結婚した。

 1894年、ジャン=バティスト・マルトノを継いで「市の建築家」となり、商業開館とサン=トバン教会の工事を引き継ぐ。これらはつらい仕事であり、訴訟そのものを引き継いだのであった。しかしこの立場で知り合いになったジャン・ジャンヴィエは市長となった(1908-23)。この市長は社会施設を整備することを考えた。中央市場(1912-23;下の図面)、サン=ジョルジュ・プール(1921-26:写真は以前紹介した)である。後者はのちに、ぼくのいきつけのスイミングプールとなるのであった!これらは機能的にできており、装飾もアールデコ、アールヌーボーを反映しており、19世紀的な折衷主義ではない。ただ市場のほうは、相対的に軽快といってもまだ重厚なレンガ造であり、50年前のバルタールのほうがよっぽど進歩的である。

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 市長ジャンヴィエは、業種は不明だが企業の社長を務めた人物で、レンヌ市の労働者たちにふさわしい都市設備を与えることを考えていた。つまり政治的に社会主義者であったわけではないが、19世紀的な、企業厚生を重視した産業パトロンを延長したような人物であった。社会的ミッションを背負った政治家であった。ただ彼は、いちど産業を去り政治の世界にはいって、その理想を実現しようとしたのであった。

 ところで1880年代にボザールで建築を学ぶということは、まだまだ折衷主義教育を受けていたことを意味する。しかしル・レはたいへん進歩的であったようだ。あるいはレンヌに戻ってからの20年間(すなわち1890年代と1900年代)にうまれた新しい傾向に敏感であったということであろう。

 医学・薬学学校は開放的な開口部が印象的である。アラン・ブシャール保育園はモザイク装飾、産業実業学校は医学薬学学校と対をなす。集合住宅も手がけている。またデパートも建設している。

 まとめであるが、まず建築家教育の歴史。18世紀までは、建築家の修業は王室建築家など有力建築家のアトリエでなされるので、首都の建築家は圧倒的に優位であった。地方にも建築家はいたが、まったく比較にならず、対等に仕事ができる関係ではなかった。レンヌ市の高等法院館におけるサロモン・ド・ブロスと地元建築家、あるいはJ・ガブリエルと地元の関係である。ところが19世紀は、オープンな学校制度のなかで教育がなされたので、地方の人間も、パリにいって一流の教育を受けられた。ル・レはそのひとりであった。さらに19末になると、地方にも建築学校ができるので、そこで優秀な建築家を育てられるようになった。ちなみにブルターニュにおけるリージョナリズム文化はそうした知的インフラができてはじめて活発になる。

 そうした教育制度の変化があったこととへ移行して、これはフランス的なのだが、建築家という職業はかなり世襲されるものでもあった。王室建築家たちもそうであったし、地方でも地縁血縁を活用したほうが仕事受注の面で圧倒的に有利であったといえる。建築家は自由職業のひとつであるが、自由だからこそ家族インフラが必要であったということであろう。

 もうひとつは19世紀末から20世紀初頭が、じつは地方の時代でもあったということである。このことはしばしば見逃されている。フランス革命以降の中央集権的な枠組みのなかでも、地方分権は着実に進んでいたし、首長公選も徐々に実現されていった。ただ世界恐慌ととくに第二次世界大戦によってふたたび国家の一元管理が進み、それがやっと解けたのが1980年代の地方分権法である。ながいタイムスパンでみれば、集権/分権は綱引きをしていたと考えることができる。建築家ル・レは地方への揺れ戻しの時期に、故郷の都市のためにたくさん仕事をした、とても幸福な建築家であった。

 ・・・さて8時、やっと明るくなってきた。今日は日曜日だが9:00ー12:00だけオープンしているスーパーがある(フランスも進歩した!)。残りの買い出しをしなければ。コーヒーのフィルター、ゴミ袋、水・・・日本の生活と変わらないね。

 

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2007.10.27

BBQからRennesへ

 10月25日はマンション屋上庭園でBBQパーティー。8年ぶりでした。今回は若い留学生たちに日本の平均的住まいを見せるという口実があった。フランス人4人、アメリカ人2人、マレーシア人1人と研究室の学生であった。屋上に集まってから、網がない、炭がない、・・・でもすぐ買いだしで、なんとかなるものであった。

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 2次会はぼくのマンションで。畳の説明からするので、建築談義もまだまだ初歩である。屋上はビール、室内はフランスのワイン。グローバル化のなかでフランスのワインは危機的状況である。日本人が飲んであげなければ滅亡するかもしれない。どんどん飲もう。

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 気になることといえば、最近の日本人学生のPC離れ、留学離れである。グローバル化のなかで海外留学経験は誰もがするミニマムな条件となっているのに、この国だけが(この地方だけが?)内向している。世代論的にいえば、ぼくの世代で大学で建築を教えている、すくなくともぼくの友人たちは、ほとんど留学や海外派遣などの体験をしている。今の若い世代におこっているのは、その反動なのだろうか。時代的にいえば日本の建築学生は、50年代、60年代はアメリカ指向が中心、70年代、80年代はヨーロッパも視野にはいり、90年代以降はアジアの存在がおおきくなった。とすれば、日本はむしろ自発的に先行して意識だけはグローバル化したが、その反動で(一時的に?)内向するということなのであろうか。地方だけの現象ならむしろいいのだが。

 翌26日、朝一の便で中部空港へ。地方空港をそのまま大きくしただけの空港である。商業施設の充実ぶりがうたわれたし、都市としての空港というコンセプトはかなりまえからあるが、どうせやるならアメリカ型のショッピングセンターくらいやれば。

 パリ・シャルル・ドゴール空港。さすがに国の玄関として威厳をしめそうという意図がはっきりしている。でもそれももう古いのではあるが。

 空港では、TGVの駅まで行こうとしてガラガラを引っ張っていると、警官が旅客を追い出して、立ち入り禁止エリアをつくっていた。そして大音響がとどろいた。爆発のようであるが、被害が出るようなものではなかったようだ。20年前のパリの連続テロを思い出した。あのときはイラン系のテロ組織であった。フランス政府は最近、イランに対して強硬な姿勢をとるようなことを示唆をしている。おそらくフランス国内でもなにかおこるであろう。

 テレビ、インターネットでも事故の報道なし。それよりもエールフランス・スタッフのストがトップ記事である。じつは鉄道もあぶなかった。レンヌまでのTGVがストだったらどうしようと、そのことがいちばん心配であった。チケット自販機も能率が悪く長蛇の列。フランス人は変わらない。まるで連帯を確認するためであるかのように、忍耐強く列にならぶ。それでも定刻どおりレンヌに到着。ホテルのインターネットがADSLなのに閉口。でも同僚からのメールはうれしかったですね。

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2007.10.23

【書評】CultivateCAt, TOTO出版, 2007 

 『カルティベイト=耕すように建築する』(TOTO出版、2007)が送られてきたのでさっそく目を通した。小嶋一浩さん、赤松佳珠子さん、ありがとうございました。

 ギャラリー間での展覧会の図録でもある。中央アジア大学ナリンキャンパス、プロジェクトMURAYAMA、ホーチンミンシティ建築大学という3つの巨大プロジェクト、というより巨大敷地プロジェクトの報告である。

CULTIVATE Book CULTIVATE

著者:小嶋 一浩,赤松 佳珠子
販売元:TOTO
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 小嶋さんの方法論や、この3大プロジェクトについてぼくが注釈するまでもない(時間もない)。とりあえずCAt建築を見るための補助線を引いておこう。

 ひとつは彼の建築だけでなく、21世紀の最初の10年間の日本建築の補助線のひとつが複雑系であろう。この概念についてはジェンクスがすでに『複雑系の建築言語』(原著1997年、翻訳2000年)で知的な見取り図を描いているし、カオスなどの概念は90年代から建築家の関心をひいていた。もっともジェンクスの解説は、フラクタル、ゆらぎなど上位に位置する普遍的概念の展開としてそれぞれの建築作品を位置づけるというオーソドックスなもので、演繹法的であり、複雑性の分析としては魅力に欠ける。勉強にはなるが。

 もうひとつは磯崎新の「海市」プロジェクト(1997)に典型的に見られるような、「主体の消去」 という方法論である。これはひとつの主体が消える、複数の主体が介入して焦点を曖昧にする、つぎつぎと異なる主体が介入して相互矛盾を発生させる、などさまざまな方法論に展開した。中央アジア大学ナリンキャンパスなどままさに海市的な方法論で、設計が展開されている。

 一般的には、アプリオリな計画理念を求めるメンタリティが弱くなったこと、データへのフレキシブルな対応、IT技術の発展で融通性のあるさまざまな構造が可能になったこと、本書でも言及されているCFD(計算流体力学)など、環境工学的な熱や空気や音などのシミュレーション技術が広い意味での設計の方法論となったことなどがあげられる。

 小嶋さんに吉備高原小学校を案内していただいたとき、これは均質空間ではなくエーテルに着目した設計である、というようなことを雑誌に書いたことがる。ぼくの大学で非常勤をしてもらったとき、よい批評であったという感想をいただいた。フルイド=流体の設計というコンセプトも方向性は同じであろう。

 彼にとって建築はもはや壁ではない。建築の実体的な定義として、柱、壁、床などがあり、観念論的定義として空間、場などがある。流体は、実体的であるかつ観念論的である。風、雲、海流などが建築のメタフォアとされるであろう。建築は実体ではなく空間であるという意味論的転換が1940年代になされた。壁ではなく流体、というのもそうした転換であろう。

 いかにも建築史家的に複雑系ですね、などという乱暴なレッテル貼りで終わるのはよくない。ジェンクス=演繹法的、CAt=帰納法的という点がまったく異なっていることを指摘したい。小嶋さんは、方法論そのものもまたアドホックに立ち上げるのである。それはアプリオリにあるものの応用ではない。

 たとえば黒と白とは、根本的にはコンピュータが0と1からなるということの建築的翻訳である。しかし黒と白を塗り分けるのは小嶋さん自身であって、そこに翻訳という1ステップがあり、そのことで方法論が共有されうるものとなる。

 人の流れ、アクティビティ、などは流体へと帰納法的に還元され、IT的にシミュレーションできるものとなる。

 農業というメタフォアもまた、設計者が環境との関係に置いて、マスタープランがないこと、主知主義的でない決定論的でないデザインをすることの表現になっている。ループであれ、ポーラスであれ、形態のイメージを提供しながら、あくまで帰納法的な方法論を提供するものとなっている。

 小嶋さんの言説で印象深いのは、ぼくはアーティストではないから、ランドスケープアーキテクトではないから、という表現である。つまり最終的なフィニッシュに関わるとは限らない。しかしかつての計画論的な意味で、そういっているのでもない。

 彼は、大きくは複雑系的なフレームでありながら、そのなかで方法論として共有できるキーワードを提供しつづけている。それは形態を具体的にイメージさせつつ、決定論にはならない。それは、主体が曖昧な共同作業を成立させる、その場その場の固有のメタ建築であるといえる。地上を歩きつつ、俯瞰ができる。具体的でありつつ、しっかりと観念論的である。そうしたフレームをつねに提供できるのはやはり才能というべきであろう。

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2007.10.22

ラプソディ・イン・人間ドック

 人間ドックである。

 一泊二日。泊まりにするのは仕事からの逃避である。今年は事情から10月だが、ふつうは6月に受診する。年度で一番忙しい時期にお休みするというわけだ。

 地元のWクリニックはPETツアーも受け入れる設備のととのったところで、のんびりしたところが癒される。

 待合いでは大リーグ中継。松坂大輔がリーグ優勝のかかった試合でなげる。そういえば8年前、彼が横浜高校のエースで、甲子園の準決勝で投げた試合をおなじ場所で見たな。なぜかぼくは横浜を応援している。大輔は、まだまだ未完成という状態で15勝するのはやはりすごいというべきか。

 病院だから「爽快」だの「日経ヘルス」などおいている。後者はファッション雑誌のような装丁である。日本人は回虫を駆除してしまったのでアレルギー体質になった。清潔すぎることに起因する病である。病気は病気を呼ぶ。しかし衛生も病気を呼ぶのであった。

 病院の待合いにおいてあるので多いのが、経済誌である。壮年患者が多いからであろう。2011年は、九州新幹線完全開通で博多で流通大戦争がおこる。

 内視鏡検査は眠くなる薬でマウスピースをくわえたところで意識がなくなり、気がつくと2時間たっていた。そのあいだ体のあちこちにファイバースコープを挿入され、のぞかれたわけだ。何年かまえ、異質なものを受け入れること、これぞ人生などとほざいて、知り合いの建築家に爆笑された。しかし意識がとぶのはよくない。来年からは、ちゃんと目覚めていて自分の内蔵を見ることにしよう。

 いまや人間ドックもリゾートである。去年は名古屋からきたペットツアーのおじさんと世間話をしたな。

 ボストンを観光旅行したとき、日本人医師と世間話をしたが、メディカル・シティなるものがあって、テキサスにあるそれなどにはアラブの石油王が自家用飛行機で乗り付け、快癒するとビル一個を喜捨してゆくのだそうな。福岡の某医師もそんなことを語っていて、福岡は温泉もあり、海の幸も豊かで、アジア各地とも近いから、人工島などメディカルシティにすればいいのにねえ、などとのたまわっていた。実際、熱心な有力者がいたのだそうな。そういえば伝統的な温泉での湯治など、まさにメディカル・リゾートですな。

ぼく自身はここ数年、地元の都市型リゾートホテルとして有名なSHに宿をとっている。そこにはプールがあるからである。今年はリハビリを兼ねて泳ぎ、水中歩行をする。明日は糖負荷検査である。だからといって血糖値を下げておくために泳ぐなどと、いじましい努力をしているのではない。リゾートとしての位置づけだからである。

 近代スポーツ水泳は、プールと切り離せない。プールはすぐれて20世紀的都市施設である。それが国民教育、国民皆兵システムと表裏一体なのはさんざん指摘されたとおりだ。しかしその遺産によってスイマーの健康は維持される。フランスの公立プールでおもしろいのは、そのロッカーである。プールのあるホールからすべての扉が見えるよう、まさにパノプティコン的に設計されている。公立プール、中程度のホテルのプールは、みごとに衛生施設的である。アクアブールバールというレジャー施設でさえ遊び心がなく、日本人の目からは興ざめである。前に言及したレンヌの公共プールなど、水の神殿といった設計で、もうすこし楽しめば?といいたくなる。それを考えればロサンジェルスのホテルのプールはじつに脱力していてよかったな。

 ここSHホテルのプールは、90年代的エスニック趣味であり、すでに古めかしい。そろそろなんとかしないとねえ。日本には銭湯文化がありながらプールが社交の場になるということはあるのだろうか。SHにはプール、ジャグージー、ミスト、サウナとひととおりそろっていながら、ここが古代ローマの公衆浴場に近づけるというような可能性はまったく感じないのだが・・・。

 リゾートきどりだから、ツーリズムということでいえば、ヨウコソニッポン、美しい日本、観光大国日本、などというのはすでに敗北宣言ですな。つまりヴェネツィアのようになりたい、ということである。中東の産油国がオイル枯渇を見越してリゾート都市建設をやっているように、日本では基幹産業の弱体化を視野に入れて観光産業を国策としたいようである。がそれは第二のヴェネツィアであり第二のフランスである。フランスは立派だが、経済的にはもう四苦八苦である。しかもそれらには文化財や観光資源の総量ではたちうちできっこないのに大丈夫であろうか。伝統文化よりもアニメやオタクやB級カルチュアがむしろ牽引力がありそうだ。

 日本が観光大国になって、近隣の大小の国々から来日する観光客が落とす外貨で暮らす日がくるとしよう。経済的にはよろしいでしょう。しかしマスツーリズムということは文化的理解の絶望的に浅い人びとが大挙して押し寄せることを意味する。それなりの対処が必要だし、それがなければ亡国の産業となる。それはすでにヨーロッパではかなりまえから発生している現象である。ルーヴルが大衆ミュージアムになってからかなりたつ。ここはまだ国策だからいい。しかし静かな住宅地にある教区教会に、毎日数十台の観光バスが訪れ、それらはほとんどが異教徒で、教会内で奇声を発するといった事態である。地球は、人類はどうなってしまうのだろう。日本はそこまではいっていない?

 観光のコアに文化をもってくるというのは文化の死である。文化の死であるから「遺産」なのである。ぼくは昨今の「遺産」ブームには期待していない。それはこれからの新しい文化を創造するものではなく、むしろアマチュア化を促進するものだからだ。しかも日本において遺産とは現代とは切れたいわゆる伝統文化であるからだ。現代建築と過去の遺産が、広い文化という枠組みでしっかりつながっているヨーロッパとは決定的に違う。50年の試練を経て残ったものだけが文化である、という論法がまかりとおっている。では最初の50年は文化ではなかったというのだろうか。この発想は英知をそそいで今の建築やそのほかの作品を創造している人びとを愚弄しているばかりか、そもそも文化の根源はなんであるかという点を誤解している。それは文化の自己否定となるのに、この矛盾はそのまままかりとおっている。文化は、創造的行為の蓄積であって、淘汰の結果ではないのである。

 それはともかく、旅行をするならフランスである。しかも車で、とくに行き先を決めず、地方をゆくのである。そこは建築史を専門とするぼくは恵まれている。なにを見ても研究対象である。8年前、在外研究員としてフランスに滞在した最後の日、お世話になったフランスの建築家夫妻と世間話をしたものだ。

「レンタカーでね、とくに旅程をくまずにいきあたりばったりでいったんですよ。クレルモン=フェランとかそのあたり。すばらしい。天国ですよ。でもなんというか。10kmごとに、20kmごとに、古い教会があったり、中世からの都市があったり・・・。見るべきものがかならずあるんです。車で一日走って100kmも進めないですよ。」

「それがヨーロッパよ!」

「宿探しは大変ですね。ミシュランみながら携帯でホテルに片っ端から電話をするんです。でもどこも満室。結局となりの都市までいきました。そういえば学生のときもおなじことで途方にくれたことがあったけれど・・・」

「知らないのね。そういうときはポリスに相談するのよ!どこでもリザーブを用意してあるものよ。」

(そんなこと外人が知りますか!)

 そういえばとある都市でぼくこと外国人は、ポリスに呼び止められたことがあった。

「ひょっとしてここ、一方通行ですか?」

「そうだよ。免許証は?」

 平謝りし、外国人で、宿さがしですごくあせって、などと率直かつ謙虚に話したら、無罪放免してくれたばかりか、親切にも駐車場を教えてくれた。こういう状況では率直さがキーである。

 ここのドライブは楽しい。道路標識、道路システムが明快で、およそ迷うということがない(にもかかわらず一通ミスはケアレスミスである)。

 ともかく旅行は、フランスの地方を車でするに限る。それは観光産業化していないからである。つまり近代以前からある、旅人、それを迎える旅館、といった簡素なシステムがそのまま残っているからである。そして都市そのものが、指定される以前に、文化財であるからである。そう、ここが大切である。指定云々にかかわりなく、旅人が文化を感じられるということである。

 写真はぼくが2000年に、地図でおもしろそうな都市プランだからという理由で、つまり直感的に魅力的なところだと思ったので泊まったところである。地ワインもおいしかった。

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 ここは丘の上にある、人口2000人ほどの、ほんとうに小さい集落である。しかしふきはなちの、柱と屋根だけの、構築物がある。周囲のレストランがテーブルをだしている。しかしお祭りや集会のときには、村人ほとんど全員集められるであろうと推測した。またこんなギリシアのストア建築を中世フランス風に改作したものがどれだけあるか知らない。強引な喩えでいえば、栗生明の「コアやまくに」のような、村に都市的アトリウムをつくり、いざとなれば村人全員集められるような、そんな施設である。

 なかなかおもしろいでしょ。観光汚染されたくないからどこか教えませんけどね。

 ・・・明日は人間ドック二日目。朝食抜きでがんばるか。

 

 

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2007.10.20

【書評】『藤森照信建築』TOTO出版、2007

 TOTO出版から『FUJIMORI藤森照信建築』(写真:増田彰久)が送られてきた。著者謹呈とある。藤森照信先生、TOTO出版様、ありがとうございます。今日届いた。今日、書評を試みる。

 プロジェクト集にして作品集である。作品集としてはこれまで設計した建築がほぼ網羅されているようだ。プロジェクト集としては初出もあるようだ。推測形なのは最近うとくなっているたけである。個人的にぼくが好きなのはやはり熊本県立農業大学校学生寮の食堂であり、その柱が林立するさまも、見開きページで紹介されている。

 プロジェクトである「土塔」や「東京計画2107」はかわいい黙示録である。つまり後者は、地球温暖化して水没した東京の再建計画である。既存の東京は、東京タワーもふくめ水没し、巨大サンゴ礁とかす。このサンゴはCO2を吸収するのみか、石灰として建材となる・・・。そこで建設される白い、もっこりした異形の超高層は、ぼくなら手塚治虫のSF漫画とタッチがにていることに気づく。輪廻観がどこかにあり、文明は形を変えても、どこかで生き残るのである。

藤森照信建築 藤森照信建築

著者:藤森 照信
販売元:TOTO
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 ところで論文「人類の建築をめざして」では衝撃的なことが書かれている。藤森先生の卒業設計「幻視によってイマージュのレアリテを得るルドー氏の方法」である。これは当時すでに産業排水によって危機的なまでに汚染されていた仙台の広瀬川を救済すべく建設された橋施設である。その造形は時代を考えるとかなりセンスのいいものであり、アーキグラムの影響を告白しているように、機械にインスピレーションを得たものである。しかしそれだけではない。その配置図の書き方が、まさにルドゥの水車番の小屋や、ひいてはショーの製塩工場などのそれによく似ている。それは書き方をまねただけでなく、ルドゥの本質をよく見抜いているように感じられるのである。

 ルドゥはフランス革命前から成功した売れっ子建築家であった。貴族やブルジョワのためにパリに立派な邸宅建築をたくさんつくった。またショーの製塩工場のような、当時専売であった塩を製造する、施設もつくった。また入市税を徴収する都市門もたくさんつくった。だから彼はすでに体制的な、人民を抑圧する側にたつ建築家であった。革命においてギロチンにかけれらなかったのが不思議なくらいである。そのルドゥは革命ののち、自分のそれまでの建築やプロジェクトをかなり強引に改作し、演出し、さらに新規にプロジェクトを作成して『建築』なるまか不思議な書物を刊行するのである。

 ぼくはこの著作は、事後的に自分の革命性をこれでもか表明し、さらには後世に自分の名前がどうのこるかを最大限考えた、一種の奇書だと思っている。革命の時代に革命的でないことは死に直結するし、革命的であることを証明することは死活条件であった。そのためにルドゥはそれまでの世俗的な成功を、ことごとく読み替えてゆくのであった。それは自分自身にたいしては一種の裏切りであっただろう。

 そのロドゥのプロジェクトを真似て藤森先生が卒業計画を作成したことはとても示唆的なことである。ぼくがこの『FUJIMORI藤森照信建築』をぱらぱらめくりながらしだいに確信を深めていったのは、藤森先生が建築を設計するということは、ルドゥの建築書に相当するとすれば、藤森先生はそれまでのなにを逆転させようとしたか、という疑問である。

 それは建築史研究である。彼が歴史研究の延長として設計しているのではないことは自明である。これまで蓄積した自身の歴史研究に、ある種のトラウマを感じ、そのトラウマの深さに驚愕するがゆえに、最大限、逆の方向に振れようとしているのである。

 彼は節目節目で、日本全国を旅し、さらには世界を旅して建築についてのある世界観を獲得して、それを設計に反映させる。その方法は、歴史研究のそれではない。あきらかに、文献、先行研究のスタディ、といったオーソドックスな建築史研究の方法論の外に出ようとするためである。

 しかし一見したところでは、路上監察学の延長で、世界のエコ建築を視察し、云々といったように、建築史研究の延長であるように見える。実際、さまざまな知見の集大成として設計があるように指摘する人物もいある。しかしそのままの延長にようでいて、それを脱構築し、読み替え、違うものに再編している点がルドゥ的なのである。

 「過去と現在の誰の建物にも、青銅器時代以降に成立するどんな様式にも似てはならない」ことが彼の設計基準である。つまり歴史の完全否定である。そしてこの点が、第三者にはもっとも理解しづらいのである。つまりルドゥにとって革命以前の世俗的成功がなんとかして否定して書き換えたい対象であるなら、藤森先生はいかなるトラウマや悩みを自身の建築史研究にたいしていだき、それとは違うことをしようとするのか。ぼくには今、それを説明できないが、そこに重大ななにかがあることは感じることができる。

 ぼくは藤森建築の魅力は率直に認めるし、歴史に残るか残らないかはしらないが、時代を代表していることも認める。しかしそれ以上に、彼の建築史そのものへのトラウマを感じるがゆえに、その逆の振れとしての藤森建築にことの重大さを感じるのである。

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2007.10.18

パリの建築・遺産都市のオープニング

 フランス2のサイトで、パリの「建築・遺産都市」のオープニングが紹介されていた。建築ミュージアムである。記事にあるように、伝統(文化遺産)と現代(近現代建築)が区別されることなく一体のものとして展示されている。アーカイブとしても充実しており、一般人も楽しめるが、研究者にとっても利用価値が高い。

 記事では、シャイヨ宮の中世建築コレクションの生みの親ヴィオレ=ル=デュクに敬意を表して彼の講話から始められているが、しかし実際は、フランス革命直後にレクサンドル・ルノワールが創設した建築博物館が最初と考えるべきである。

 つい最近まで、エコ・ミュゼのような文化の生態系そのものを展示しようというもの、あるいはサイトスペシフィックな展示が重要とされてきた。しかし文化財とは良くも悪くも、略奪的であり、コレクションによってそれを守ってゆくことは、無理を承知のことである。日本の場合、学会で建築アーカイブが検討され研究されていて、意識の高い研究者もいるが、残念ながらそれは一部で、ことに近現代建築資料がきわめて重要であるのに、それを収集しようということはなされにくい状況である。おそらく浮世絵の繰り返しとなるのだそうである。

 建物は1930年代に建設された復古調のもので、新古典主義リバイバルと位置づけることができる。ペールらの旧ボザール的造形が、1930年代の国家的偉容を求める空気の中で、復活されたのである。ただし政治体制ゆえに国粋主義的とはされない。

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【抄訳】

 ピエール・マニャン氏の執筆である。

 この新しいミュージアムは土曜日にオープンした。シャイヨ宮の一翼をしめる。「すべての人びとのための建築学校」なするため、文化遺産と現代建築、常設展と企画展をわけへだてしない。三部構成である。フランス記念碑博物館、フランス建築協会、教育センター。

生みの苦しみ

 建築・遺産都市ができるのは容易なことではなかった。文化遺産と現代建築が共存するのは困難であった。13年間、葛藤と議論が続いた。

文化相クリスティーヌ・アルバネルは語る「ヴィオレ=ル=デュクが、フランス中世彫刻の傑作の常設展について報告書を書いた一年後の1879年10月29日、公教育大臣ジュール・フェリーは『フランス美術のためのモニュメント』を創造することに政府が取り組むことをたからかに宣言した」。

 ヴィオレ=ル=デュクの理念とジュール・フェリーの政治的意志から生まれた旧フランス記念碑博物館の、その敷地に、建築の理解を深めさせるパリの場所ができたのである。「とりわけ過去を振興するこの大プロジェクトと、現代建築のそれがひとつになったことが喜ばしい」とリスティーヌ・アルバネルは付け加える。建築・遺産都市は文化遺産のこれまでのコレクションに、フランス建築協会のノウハウと資料を追加する。

 「ミュージアムのプログラムとして期待することは、それぞれの人がその知識におうじて、自分の文化を豊かにする喜びと材料をここでみつけることだ。まさに万人のための建築学校、素人からプロまで。建築・遺産都市はその期待に応えよう。専門家のみならず、大衆がひろい建築文化に接することができるようにする」と建築・遺産都市のパンフには書かれている。

 きっかけは文化相ジャック・トゥボンの1994年のレポートであった。シャイオでほそぼそと生息していた記念碑博物館を近代化する。2002年、文化省で文化遺産と建築が一体となり、フランス建築協会も参加したので、文化遺産と建築の結婚というこのコンセプトが可能となった。

 産業的商業的な性格の建築・遺産都市公団が創設された。総裁はフワンソワ・ド・マジエールである。2004年、ミュージアムの設立が決定された。

建築・遺産都市は三部構成

「フランス記念碑博物館は12世紀から21世紀の8世紀間の財宝を納めている」というのがミュージアムのねらいである。

 3ギャラリーで、8000㎡、新しい展示法の空間が、建築家ジャン・フランソワ・ボダンの指揮のもとにできた。

 展示のコアをなしているのは「記念碑」ではなく建築である。3ギャラリー(鋳造ギャラリー、絵画ギャラリー、近現代建築ギャラリー)は12世紀から今日までのフランス建築に目を開かせ、美的、機能的、技術的、空間的、社会的、都市的なというあらゆる次元において新しい視点を提供する。

 展示法の工夫によって、作品の見方、建物の構想と建設法の条件、あるいは歴史と社会との関係、がはっきりする。多様なサインや情報提供の工夫で、時代ごとあるいはテーマごとに各ギャラリーを見れるようになっている。

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鋳造コレクションにはポルタイユ、タンパン、建築模型、木造木組み・・・・

壁画ギャラリーは壁画のコピー・・・

近現代建築ギャラリー(GAMC)は、模型、写真、・・・原寸大模型(マルセイユのユニテ)・・・。1851年の水晶宮、1853年のオスマン男爵のセーヌ県知事就任、・・・。シャイヨ宮の3階にあるこのGAMCは1200㎡を閉め、ロンドンとパリの建築に重点をあてている・・・・。「建築と社会」と「構想と建設」というふたつのセクション・・・・

IFA(フランス建築協会)

1980年に設立されたIFAは、展覧会やシンポジウムを企画するとともに、アーカイブの充実を目的としていた。いまや建築・遺産都市の一部門となった。展覧会の素材として(1)国際的な評価がさだまった建築家のモノグラフ、(2)建築文化のテーマ、(3)20世紀の重要人物の回顧展、がある。

シャイヨ宮

シャイヨ宮は1930年代に何度かのコンペを経て、カルリュ、ボワロ、アゼマのチームによる計画が確定し、建設された。

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2007.10.16

逆説のすすめ

 日本人の発明にして英知、逆説である。

 これは禅の深く良き伝統であろう。善にして悪、大にして小、上にして下、これを理解するのが日本人の道である。

 日本の英知であるが、フランスの英知でもある。ぼくの学習したフランス古典主義で、建築の美は無根拠であると主張した人がいた。その人は、建築は無根拠であるがゆえに、だからこそ、規則をしっかり定めて、守らなければならないと主張した。これはフランスに限定されず、人類共通の真理である。およそ規則、決まり、原理には根拠がないのである。それは人類共通の普遍的なものである。なぜなら原理はなにかべつの原理を根拠にして成立している。であるから原理の体系はおたがいに支え合っているだけであって、基本的には無根拠である。しかしそういうからくりを知りつつ、それを守る、それこそが人類の英知なのである。

 しかし世の中にはそれを自覚しない朴念仁が多い。困ったことだ。原理主義の一歩手前である。

 逆説的なことをいろいろ述べてみよう。筋トレは筋肉の細胞を一度破壊して、成長させる。お金は大切、しかしお金だけが人生ではない。歴史の研究をとおして過去を知るのは、現代を理解するためである(これは通念だが)。地域の固有性を知るのは、グローバルな同時的な構造を理解するためである。云々。

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2007.10.15

土居研の屋上庭園バーベキュー

  これはBBQのノスタルジーでもあり広告でもある。ぼくのマンション屋上庭園で8年ぶりにBBQをやるのである。

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 わがマンションにはなぜか屋上庭園がある。なぜか、と書いたがもちろん理由は知っている。不動産業者の付加価値戦略である。ただの屋上庭園ではない。BBQセットが備えつけられ、常設のテーブルとイスもある。しかしすこぶる成功というわけでもない。こういうことは余裕と遊び心であるものだ。さらに、である。各戸にPCが備え付けられていて、自治会としての情報交換もマンション内でできるようになっていた。しかしこの機能はまったくつかわれなかった。出席率2割ほどの自治会では必要ないのであった。

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 丘の上にある8階建ての屋上なので眺めはよい。すこし遠いが大濠公園の花火大会も見える。マンションが完成した最初の夏は、マンション中の住人が屋上にのぼって花火を見たものだ。この熱狂はさすがに沈静化したとはいえ、年中行事でありつづけているようだ。近くには動物園と植物園、鴻巣山、平尾の浄水場がみえたりする。すぐ近所には某有名建築家のオフィスもある。さらに目の前にあった調整池が公園として整備されたので近隣環境はとてもよくなった。

 ぼくも歳をとりましたので、年に2~3回は、ここで黄昏れたりします。晴れた日、缶ビールを飲みながら、街とそのむこうの山を眺めるのです。都市を鳥瞰するという行為はぼくの人生を決めたのだなあと最近思うようになりましたが、このことはもっと年寄りになってからまとめようかな。またPCを凝視しつづけた目を休めるのにとてもいい。市内に空港があるので、上空の飛行機も見ていて楽しいもののひとつです。

 黄昏れるといっても、回顧するのではなく、違う場所に思いをはせるのです。目の前の街をしっかり見ていることにかわりはない。しかし空想はなぜかパリ、横浜、シカゴ、イエルサレム、イスファハン、サンチーのことだったりします。数日しかすごさなかったのに、一生の町となる場所もあります。共通しているのはなにか偉大さを感じさせる都市ということになります。

 ぼくの建築的世界観のなかで、やはり地球の中心は中近東なのです。そこにこそ、永遠の力をもった建築が存在しつづけています。いわゆる西洋建築はそれを継承しようとして、そこそこ成功しました。ぼくはそのそこそこの成功について研究しています。ただそれはいわゆる職業としての学問といったところです。しかし本音のところでいえば、ローマ帝国でとはいわないまでも、ビザンチン帝国、ファーティマ朝、ササン朝、ムガール朝ぐらいで建築は終わっていたのではないか。オスマントルコですら、偉大ではあるが、ビザンチンぬきに考えられるものではありません。困ることといえば、このことに気づいてしまうと、日本に適応できない体になってしまうことです。現在というものががばかばかしく思えてしまうメンタリティで生きてゆくのはつらいことです・・・・。などと考えるのは屋上庭園の力である。それはセルリオの舞台装置で、田園的風景をバックに風刺劇の狂躁がくりひろげられるようなものです。

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 写真はすべて1999年8月8日開催の土居研納涼屋上庭園バーベキュー・パーティーである。思い返せば、縁起のよい会であった。写っている留学生2人、社会人学生2人はみんなドクターの学位を土居研で取得して、いまはそれぞれの場所で活躍中である。そういえば最近、土居研からはD獲得学生は出ないな。考えられる理由は・・・・BBQパーティをやっていないからだ!もう8年も開いていない。そのせいだ。今年ぐらいはやらねば。そういえばパリ・ラ・ヴィレット建築大学から2人、ボルドー景観建築学院から2人、ロスの建築大学から2人、交換留学生がくる。彼らにとって、ぼくのような平均的日本人のつつましやかな生活を見ることも社会勉強になるであろう。

 というわけで10月下旬に土居件BBQパーティを、8年ぶりに、屋上庭園で開きます。とりあえずは土居研ですが、OB、ぼくを知っている人、のご来席も歓迎いたします。詳しい日時と場所はメールでお答えします。

  

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2007.10.14

東方旅行(036)1988年1月4日(月)カイロのイスラム地区(2)ファーティマ朝のアル・カーヒル

   1988年1月4日(月)の東方旅行(036)はカイロ市内の見学である。雨。イスラム地区の北半分である。べつにテーマ毎に見学しているわけではなく、便宜的に地理的まとまりで見学しているだけだ。しかし空間的まとまりにも歴史的な背景があるのはもちろんだ。前日のイスラム地区南部は、最初期9世紀のモスクであるイブン・トゥーゥーンと、19世紀の近代モスクを同じ日にみて、振幅の大きさに感銘をうけた。

 今日は北半分である。ここはファーティマ朝時代(969-1171)の遺構が多い。この王朝が「カイロ」の語源となる「ミスル・アル=カーヒラ」を建設したのだから、こここそが元祖カイロというわけであろう。カイルーワンを拠点とし、モロッコまでの北アフリカを征服したファーティマ朝は、エジプト征服という野望を実現しようとする。そのためにカーヒラの敷地として、軍事的にも政治的にも重要な場所が選ばれていた。

 ところでファーティマ朝の起源であるが、8世紀後半、シーア派の多数派イマーム派の第六代イマームこと、ジャアファル・サーディックが亡くなったが、その長子イスマーイールにイマーム位継承権があるとするイスマーイール派がそれである。すでに書いたとおり、チュニジアが発祥である。アッバース朝、後ウマイヤ朝(スペイン)にたいし強い対抗意識をもっていた。いわゆる3カリフ時代である。チュニジア・ファーティマ朝は戦略的な見地からカイロ(カーヒラ)を築いて、他のカリフに対抗したのであった。

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 さて都市カイロの設立である。第四代カリフ、アル・ムイッズ(在位952-975)の宰相ゴーハル・アル・シッキリ(シチリア生まれのギリシア人であって白人奴隷としてチュニジアに送られた)は、チュニジアのカイルーワンからアレクサンドリアまでの2000キロの道路を整備した。969年、大軍をひきいてカイルーワンを出発し、アレクサンドリアを無条件降伏させ、さらにナイルを渡ってフスタートを降伏させた。ゴーハルはフスタートの東北に場所をさだめ、そこをアル・カーヒラの敷地とした。都市建設の開始は神事であって、1キロ×1.5キロの矩形の輪郭にそって棒をたてて綱をはり、鈴をつるす。ゴーハルがクワ入れの儀式をおこない、同時に鈴を鳴らすと、綱を経由して順繰りに鈴はなり、それを合図に兵士たちが作業を開始するてはずであった。ところがカラスが綱に舞い降りてきて鈴を鳴らしてしまったので、兵士たちは合図を思いこんで仕事を始めてしまった。占星術師たちは困惑したが、ちょうど火星(アル=カーヒル)が上昇する時刻であったので、戦争、不幸という含意はいやだが、勝利者のといった意味もあるので、「アル=カーヒル」を都市の名前とした。以上が都市成立の逸話である。そしてカリフことムイッズの遷都は972-73年であった。

 当初、宗教的には寛容であった。ムイッズ、ゴーハルには人種や宗教の偏見はなかった。改宗ユダヤ人の宰相イブン・キッリスのもとで財政も順調になった。ファーティマ朝第5代カリフであるアル・アジーズ(在位975-96)のころは、キリスト教徒もユダヤ教徒もまだ優遇されていた。またファーティマ朝そのものはシーア派であったが、大多数のエジプト人はスンニー派のままであった。

イスラム芸術博物館(Musee islamique)
イスラム博物館。白、緑、赤の大理石モザイク。18世紀オスマン時代のエジプト。

ズワイラ門(Bab Zuwaya)とフトゥーフ門(Bab al-Futuh)

 やはりファーティマ朝時代の市壁とその門。バドル・アル・ガマーリーは1087年から1092年にカイロ市の防衛施設を強化した。バーブ・アル・フトゥーフとは「繁栄の門」と呼ばれていたという。バーブ・ズワイラ(ズワイラ門)は1092年建設。もうひとつ、写真はとっていないがバーブ・アル・ナスルがある。工事を担当したのはウルファから来た3人のキリスト教徒でるといわれている。ウルファは1086年にスンニー派の支配するところとなった。キリスト教徒にとってはシーア派であったファーティマ朝のほうが寛大であったらしい。3つの市門はシリアあるいはアルメニアの構造形式、つまり半円アーチやペンデンティブ・ドームの形式がもたらされた。

門からの眺め。崩壊しつつ建設されてゆく都市。

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アル・ムアイヤッド・モスク

多彩色大理石のモザイクが美しい。ピサ大聖堂を思い出させる。

アル・アズハル・モスク(Al-Azhar Mosque
 これはムイッズとゴーハルが設立したもの。カリフのモスクである。アズハルとはファーティマの称号である「ザフラー(花)」の派生語。

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 970年、ジャウハルはこのモスク建設に着手した。972年、最初のフトバ(金曜礼拝の説話)、988年最初の大学。柱身や柱頭は転用材である。アーチはレンガで、四心尖頭形である。装飾などにはイブン・トゥールーン・モスクからの影響が指摘されている。

 ムイッズの息子アル・アジーズ(第五代カリフ)の地代にはマドラサ(学院)が増築された。978年である。このアズハル学院はイスマーイール派最高教育機関である。ここで学んだイスラム教徒は全世界に布教し、その活動は中国にまで及んでいる。現在はアル・アズハル大学であり、イスラム神学の総本山である。ムスリムの学問の中心地であり、世界でも最古の大学のひとつ。多柱式の礼拝堂。横断方向のアーケード。中央の柱間の奥はミヒラブとなっている。キブラ壁の手前の天井はドームとなっている。中庭の両側は教室の昨日である。屋根、それを支えるアーケード、アーチは2心式であり、コリント式の柱が支えるという、コプト教会の伝統を汲むもの。竜骨アーチはこの時期には確立され「ファーティマ式アーチ」と呼ばれることもある。イラク、コプト的エジプト、ファーティマ朝の首都カウルーワン、の諸要素が混在している。

スルタン・カラーウーン(Al Nasir Mohammade Iban Qalaum)のモスク(写真=上2段)とマドラサ(写真=下1段)

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スルタン・バルクーク・モスク(S. Barquque Mosque)
スルタン・ハッサンモスクを小さくしたもの。

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アル・ハーキム・モスク(El Hakim Mosque

 アル・ハーキムはファーティマ朝6代目カリフである。狂気のカリフとも呼ばれた。一般的にファーティマ朝の指導者は神秘主義的な傾向がつよく、戦や占領行為の開始を星占いで決めていたりしたらしい。とくに彼はその傾向が強かった。宗教的には、ユダヤ教徒とキリスト教徒を弾圧した。5年かけて全国の教会堂を破壊した。そのなかにはイエルサレムの聖墳墓教会もあって、のちに十字軍が派遣される遠因となった。家臣や召使いを容赦なく殺し、エジプト人の大好物モロヘイヤを食することを禁じ、ビールとワインの飲料を禁じたばかりか、ぶどうの木はすべて切り倒された。

 しかし学芸の保護者でもあった。彼は「ダール・アル・ヒクマ(知恵の学舎)」を創設し、バグダート学派を継承するカイロ学派を興隆させた。天文学、光学、に顕著な成果があった。とくにイブン・アル・ハイサムの『視覚論』はダ・ヴィンチやケプラーにも影響を与えたようだ。

 Mosque of al-Hakim(1013年竣工) はアル・アズハル・モスクの系統。礼拝堂は陸屋根。イブン・トゥールーン・モスクの流れを汲む、マッシブな角柱がならぶ。中庭4面はすべてアーケードで囲まれている。中庭は壁と床が真っ白。外はカオス、内はすばらしい宇宙的秩序。内部の中央部は天井が高い。

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 カリフ・ハーキムの在位は996年から1021年までと長い。もともと前任のカリフ・アジーズ(在位975-96年)が990年ごろ、イブン・トゥールーン・モスクを模範として建設したモスクであった。ピアはレンガ造だがもっと星。高窓のある中央のミフラーブ廊、キブラ壁にそう廊にかかる3ドームはアズハル・モスクに由来すると指摘されている。

 ハーキムは入口側ファサードの建設を命じた。2本のミナレット、中央の入口。1002年ごろ完成。これは石造で、装飾は50年前に建設されたメディナ・アッ・ザフラーに由来するとされる。またソロモンの刻印である五星飾りがあちこちにあり、ハーキムが黒魔術に関心をいだいていた証拠とされている。

アル・アクマル・モスク(Al-Aqmar Mosque

 修復中であった。後期ファーティマ朝のもの。12世紀のファーティマ朝カリフは軍司令官の傀儡であって、シーア派統一国家の夢をほそぼそとエジプトでみつづけていただけであった。1125年、カリフ・アミールとそう宰相はこの小規模なモスクを建設した。それは街路に面して主要ファサードが連続するという、都市的な文脈を考慮した最初のイスラム建築であった。すなわち中庭のみ開放的で、外に対しては閉鎖的な小宇宙を形成するそれまでのモスクではなく、町なみの一部を形成するように配慮されたのであった。入口はニッチつきで、ハーキム・モスクの影響。竜骨状アーチは後期ファーティマ朝の特徴。

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2007.10.13

東方旅行(035)1988年1月3日(日)カイロのイスラム地区(1)

 東方旅行(035)1988年1月3日(日)は雨。予想外の気候。きょうはカイロのいわゆる「イスラム地区」の南半分を歩いた。カイロはかつて文化、政治、経済の中心であったことを感じさせる。あるいはイスラム世界の中心であり、ということは世界の半分の首都でもあった。それゆえコスモポリタンであり、異邦人をやさしく包み込むようなメンタリティはまだ強く残っているように感じられた。下世話な話だが、チップを要求する人がいるが、しつこくはなく、不快感を与えるようなことはない。マグレブに比べるとはるかに都会的で洗練されている。

 携帯していたフランス語の旅行案内では「イスラム・カイロの黄金時代は640年から1516年まで」とある。つまりオスマン・トルコの支配下では不遇であった。大都市とはいえ地方都市になりさがったのであった。この直裁で厳しい目がフランス的か。

 この時代のモスクの多くは今でも残っており、当時の盛りを思い出させる。現代では半分崩れかけた建物のなかで人びとが生活している。過去の栄光と現代の悲惨のコントラスト。文明は栄え滅び、しかし人びとは生き続ける。1979年にはユネスコ世界文化遺産の登録された。

リファイ・モスク(Rifai Mosque)
天井はたいへん高い。建築家フサイン・パシャ。1869年受注。1911年竣工。

ムハンマド・アリ・モスク(M.Ali  Mosque, 1824-27) オスマン・トルコ様式のモスク。19世紀には古典形態への回帰がみられる。20世紀はすでにオスマントルコの領土は縮小し、もはや帝国の威厳はなくなっていた。そのときにこそ栄光の時代の空間が求められたのであろうか。これは建築家の意識にもよるが、そのままのサバイバルではなく、きわめて近代的なリバイバル建築とみなすべきであろう。ヨーロッパにおけるゴシック・リバイバルに相当するものである。ちなみにこの時代はまさにムハンマド・アリが近代化をめざしていた。西洋との関係も深かった。アスワンのオベリスクをフランスに贈ったりした。ちなみにそのオベリスクはいまでもコンコルド広場を飾っている。そうしたなかで歴史的なものの見方、そのなかには過去の建築様式を意図して復活させるというようなことがあっても不思議ではない。たとえば歴史的様式としてのビザンチン=オスマン建築のドーム建築などを一種の歴史的遺産として使ったのではないか・・・歴史家のロマンに果てはない。

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ナセル・ムハンマド・モスク(Nasser Mhammad Mosque)
二色の石のアーチ。コプト式柱頭。

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スルタン・ハッサン・モスク(Sultan Hassan Mosque、1356-63)マドラサ、霊廟もある。白と緑の石。ポーチ。マムルーク朝時代の傑作とされている。スルタン・ハッサンは、1347年、11歳で王位を継承。1361年まで在位。カラーウーン家出身の最後のスルタンであった。彼は1356にそのモスクを着工。シリア人建築家を呼んだ。1357年には実質的に竣工。ところが1361年に塔が倒壊し、結局、塔建設は挫折したようだ。1661年、こんどは墓室ドームが崩壊している。マドラサは、4つの法学派がそれぞれイーワーンを使っていたという。入口ポーチは、対のミナレットは完成しなかった。鍾乳型のアーチがイスラム的。このポーチは世界にむけたミフラーブだとされている。ムカルナス・ポータル。碑文と建築が一致している。大ポータルにはコーランからの引用。ミフラーブにも引用。

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●Rifai Mosqueの近くにあったモスク
シナイから持ってきた柱だという(写真なし)。

イブン・トゥールーン・モスク(Mosque of Ibn Tulun, 867-9):イラクから呼ばれた職人が担当した。何度も改築されたがもとの雰囲気は保っている。レンガ造でスタッコ化粧。石造ではない。サーマッラーのモスクをモデルにして建設された。ゆえにアーケードの柱は角柱である。また角柱の4隅は円柱が付け柱状になっている。装飾様式もサーマッラーに由来するが、異なる種類のものが混在している。このモスクはイラク型であるとはいえ、職人はアッバース朝の首都から、すこし前にカイロにやってきたものと考えられる。このモスクはエジプトにおける、アッバース朝建築という位置づけである。

 シリアや北アフリカの初期のイスラム教建築とはちがって、ここでは古代ローマの痕跡が皆無である。イラクの影響ということもあって、強いていえば古代オリエントを遠くに感じる。

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 ブハーラーはカリフ、マームーンにトルコ人奴隷を貢ぎ物として献上した。この奴隷には835年、息子ができた。イブン・トゥールーンである。よい教育を受け、カリフ雇用兵のなかでも優秀で、エジプト総督の代理人に任命された。サーマッラーに住み、エジプトから収入を得ていた。868年、軍隊をひきつれてエジプトに旅立ち、エジプトとシリアの知事職を継承した。その治世は905まで続いた。870年、新市街地カタイを創設した。

 中庭はサフンと呼ばれ、一辺が92メートル。均質な柱割りのアーケードがぐるりとならぶ。この均質さがサーマッラー的である。塔は一般的にミナレットと呼ばれる。最初のものは、やなりサーマッラーのものをまねて、螺旋状であった。バベルの塔、ジグラットの伝統である。のみならず中央軸線上にあり、シンメトリを強調していた。現在のものは1296年にラージンが再建したものであるが、彼は軸船上からはずしてしまった。内部ではミフラーブ。ビザンチン風透かし彫りの柱頭。ミフラーブまわりはさまざまなサーマッラー様式の混交であり、建築と碑文の有機的一体がイスラム建築としての完成度を照明している(らしい。ぼくは碑文は読めない)。

イブン・トゥールーン・モスクの塔からの街の眺め: 特徴的なのは、壊れかけなのか、建設途中なのか、屋上を建材置き場にしているのか、壊れかけたような建物だらけである。地上をあるいても19世紀後半から20世紀初頭の様式建築の外壁がこれまた半壊状態で放置されている。1988年での景観だから、現在ではどうなっているか知らない。しかしこの半壊状態の都市が、じっさいは活気があってにぎやかである、というのが新鮮な体験であった。それは最初はショッキングであるが、10分もすれば慣れてしまい、むしろこのほうが自然に感じられてくるのである。

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プチ学習:長いエジプト(とくにカイロ)の歴史
2700-2350:古王朝
2060-1780:中王朝
1580-1160:新王朝
666-524:saiteの時代
525:ペルシア人の侵入
342:ペルシア人の占領
333:アレクサンダー大王による解放。ギリシア時代はエジプトの宗教は尊重された。
30:オクタウィアヌスの侵入。エジプトはローマ帝国支配下に。
395:東ローマ帝国の一部。
451-582:コプト教会の成立。
640:アラブ人の到来。イスラム軍将軍アムル・イブン・アル=アースはローマ軍駐屯都市「バビュロン」のちかくにアラブ人の軍事都市「フスタート」を築く。これは現在、カイロ市内。
661-750:ウマイヤ朝。ダマスカスのカリフの勢力下。706年、公式行事はすべてアラブ語でなされることとなった。
750-870:アッバース朝。この時代、バクダッドはイスラム帝国の首都。
969-1171:ファーティマ朝。フスタートのやや北に「勝利の町」を意味する新都「ミスル・アル=カーヒラ」を建設。これが「カイロ」の語源。そこに宮殿、アズハル・モスクなどを建設。以降2000年間、ファーティマ朝の首都。
1174:サラディン(十字軍に勝利した)がエジプトを支配。カイロにシタデルを建設、城壁と町を拡大してみなみのフスタートをも含むかたちで、都市を建設した。
1250-1516:マムルーク朝。サラディンが始めた都市拡大の完成。
1258:バグダードがモンゴルに占領される。イスラムの宗教・文化の中心はカイロに移動した。
1517:エジプト独立の終焉。オスマントルコの属州となる。カイロはスルタンもカリフもいなくなり、政治的重要性は失った。
1798:ナポレオン上陸
1801:フランス支配の終わり。
1811-1849:ムハンマド・アリの諸改革。
1869:スエズ運河完成。
1883:イギリスがエジプトを支配。
19世紀末~20世紀初頭:民族運動。ヨーロッパ風の都市計画(新市街地、へリオポリスなど)
1914-1918:イギリスの保護国。
1922:イギリス政府、エジプトの独立を承認。
1952~1970:ナセル大統領
1953:共和国宣言。
1956:スエズ運河国有化。
1970-1981:サダト大統領。
1978:キャンプデーヴィッド。サダトにノーベル平和賞。
1981:ムバラク大統領

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2007.10.11

東方旅行(034)1988年1月2日(土)ギゼ

 1988年1月2日(土)はギゼでピラミッド見学であった。

 エジプトに来ればピラミッドを見なければならない。とはいっても当たり前すぎて、なぜそうなのかは考えたこともない。吉村作治がマスコミ・ブレークをする直前であった。ピラミッド/迷宮が建築的二元論であるとか、フランス新古典主義の時代に、死の建築、埋没する建築の表象であったりとか、建築史や建築論においては観念論の一極を代表する存在である。しかし・・・・

 【移動】Taharir Sq.→ Gizheh; bus 83 50L。Gizheh→ Sakkara: taxi(3人でシェア) 10L。Sakkara→ Cairo: taxi(7人!でシェア) 5L。

 到着した時刻では、まだ霧がかかっていて見えなかった。チュニスからの飛行機のなかで顔を憶えていたヨーロピアンがちかくにいたので「やあこんにちは、なにも見えないね」「そうだね」と会話のための会話をする。

 【暴言】ピラミッド。面白くない。巨石を積み上げることは奇跡的だが、それ自体は建築ではない。失望。メンカウラーのものは見ず。スフィンクスは思ったより小さい。
サッカラ。階段状ピラミッドのほうがより人工的、建築的である。自然とより対比的である。Ti..のマスタバのレリーフがすばらしい。セラペウム。地下墓地。多くの墓。

 【後学】日本人としてビラミッド初登頂したのは池田使節団であった。最初の登頂記をものしたのは志賀重昴なのだそうだ。1911年とのこと。ところが頂上からの風景がどんなであったかはあまり書いていなくて、ひたすら途中の現地人との交流や、頂上でのアメリカ人とのやりとりに集中している。「ブラボーアメリカ」「ブラボージャパン」とエールの交換をしたのだそうな。お上りさんである。また1976年に、カイロ大学に5年間留学した仕上げの卒業記念に、制止するポリスをアラブ式交渉術でねじ伏せ、ピラミッド登頂した日本女性がいたという。小池百合子である。たくましい。

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クフ王のピラミッド。

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カフラ王のピラミッド。

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2007.10.09

東方旅行(033)1988年1月1日(金)カイロ/初詣もどきはオールド・カイロ(コプト地区)の聖ゲオルギウス教会で

 東方旅行(033)1988年1月1日(金)カイロ/オールド・カイロ(コプト地区)の聖ゲオルギウス教会の巻である。竜退治で有名な聖人を奉るこの教会は、宗派をこえて同一の聖人が崇拝されることの意味を考える機会なのであろう。

【口上】東方旅行も今回からはエジプト編である。ぼくはカイロで1988年の元旦をむかえた。あけましておめでとうございます。昔の正月、外国でなにをしようとしたか憶えているわけがない。しかし、もちろん洒落で、初詣を考えたことだけは記憶がある。ただ初詣をしようにもここには神社がない。とりあえず宗教建築ということで聖ゲオルギウス教会(英語名ではセント・ジョージ教会、現地発音ではマル・ギルギス教会)である。

 ところで北アフリカからカイロにつくと、その都会的で洗練された文化に驚く。よく日本から直接ここにやってくる人びとは、アラブの活気だの、都市の猥雑さだの、混沌とエネルギーなどとのたまう。ぼくはそんな感想はまったく信じない。少なくともカイロは、長い歴史をもち、大都市としての経歴は世界屈指である。ぼくははじめてカイロを歩いたとき「洗練」という述語が心のなかにわいてきて大きな文字となって映った。べつにコーランを唱えたのでも、水たばこを吸ったわけでもないが、たとえば道や広場をあるいて、かなりの歩行者密度にもかかわらず、ぶつかるかもしれないというプレッシャーがかなり小さいこと、などである。これは日本の地方にある中途半端な大都市において同様なことを体験すれば明らかである。エジプト、偉大なり!

【宿泊】Hotel Anglo-Suisseにて新年。天気悪い。

【予約】アスワン行、1月4日、2等、8.50EE。

【見学】聖ゲオルギウス教会。初詣もどきはここである。 旧ギリシア正教修道院。コプト地区にある。外観写真しか残っていないことから、内部はあまり見ていないようだ。建築史には登場しない建物である。しかしエチオピアにある有名なコプト教会も聖ゲオルギウス教会なのだから、おなじ聖人崇拝のひろがりがあると考えてもよさそうだ。

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【プチ勉強】

 コプト教徒は300~400万人ほどいるといわれ、エジプトの人口の一割ていどである。カイロの「オールド・カイロ」地区にも多くいるらしい。紀元42年以降、聖マルコはエジプト布教をおこなった。エジプトにおける原始キリスト教がコプト教である。アレクサンドリアに教会が建設された。このアレクサンドリア大司教は「キリスト単性論」を唱えた。451年のカルケドン宗教会議で異端とされ、コンスタンティノポリスとアレクサンドリアは対立しつづけた。コプト(派)教会はイスラム時代をも存続した。むしろアラブに協力し、ギリシア正教+ビザンツと対抗した。という意味でアラブに協力をする。そして彼らは古代エジプト語を源流とするコプト語守り続けた。現在、エジプトの人口の1割、300~400万人のコプト教徒がいると言われている。

 聖ゲオルギウスとはいかなる聖人か。伝説の成立は11世紀から12世紀。人びとを苦しめる竜を退治するとともに、交換条件で村人たちはキリスト教に改宗した。しかし異教の王により殉教した。

 絵画のなかの聖ゲオルギウス。馬にまたがり竜を退治するゲオルギウスの図像は最もよく知られたものである。デューラー、ラファエロなどルネサンス絵画にも多いし、19世紀ビクトリア朝のイギリスでもさかんに引用された図像である。

 ちなみにイングランド国旗はセント・ジョージ・クロスであり、白地に赤の十字。聖ゲオルギウスはイングランドの守護聖人でもある。

 アラビア馬にまたがりドラゴンをやっつけるローマ兵としての聖ジョージのイメージは、オールド・カイロには普及している。東方キリスト教では、聖ジョージは有名な戦士=聖人であり、またカイロのコプト教会ではこの騎馬聖人にまつわる聖遺物は20点ほどある。コプトにおける聖ゲオルギウスの伝記には、ドラゴンとの戦いやその勝利については触れられていない。だから学者によれば、14世紀に聖テオドロス・ストラテラテスの伝記が聖デオルギウスに転記されたか、コプト教徒がこの物語を西方キリスト教から借りたか、である。

  聖ゲオルギウス修道院(Deir al-Banat)の縁起はよくわかっていないが、現在の構造物の定礎は7世紀か8世紀である。現在30~40人の修道女が住んでいる。

 礼拝堂と控え室ぐらいが芸術的価値が認められる。礼拝堂はもともとマムルーク朝の宮殿の一部であったといわれている。それが14世紀か15世紀に礼拝堂となったらしい。

 聖遺物は「鎖」である。鉄の首輪とセットになっている。長さは4.2メートル。礼拝堂の南壁にとりつけられている。ふつうは女性信者がさわることができるが、男性もまた聖人を崇拝するために触れることができる。首輪をかけられ、鎖で体を縛りつけられた信者は、敬虔な気持ちで鎖に接吻し、聖ゲオルギウスへの祈りを捧げる。

 聖ペテロも鎖につながれていた。鎖は現在サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会にある。聖人ペテロが、キリスト教の聖地エルサレムで繋がれていたという鎖が1本 そして、マメルティーノ牢獄で繋がれていたという鎖が1本 合計2本。

 5世紀以来、西方キリスト教でも聖ペテロの鎖を崇拝してきた。しかし中東では、聖ペテロではなく聖ゲルギウスの鎖こそが、悪魔に取り憑かれた人びとを救う力があると信じられた。鎖は精神的な病を救うという効果があったとされる。これは新約聖書などにもその記載が見られる。

 コプト教において聖ゲオルギウスの鎖が重用しされたきっかけは、ビザンチン伝統の活用である。17世紀より、ギリシア正教の聖ゲルギウス修道院の鎖は、神経、精神、ヒステリー、分裂症などで苦しむ人びとを救うために使われた。

 リチャード・ポウコックの1737年の報告によれば、3日鎖でつながれていることで効果を発揮し、トルコ人たちがこれを賞賛しており、金曜日にはよくくる、ということであった。

 今日では金曜日と日曜日になると、コプト教徒、ムスリムたちが鎖のために修道院を訪れる。「コプトの鎖」は中世いらいの鎖信仰の伝統である。また4月22日にはギリシア、レバノン、キプロス、エジプトなどからギリシア人たちがやってきて聖ゲルギウスを賞賛する。

 現在の聖ゲオルギウス教会はギリシア正教であり、東方にのこる円形平面のものの数少ない例のひとつである。それはローマ時代の円形平面の塔を基礎として、その上に建設されたからである。聖家族は、のちに教会が建設されたその場所に、一時逃れていたといわれている。教会堂(ローマ時代の市壁上に建設されていうる)へは長い階段を登ってゆく。登るにつれて聖ゲルギウスと竜の物語が髣髴される。火災はたびたびあった。1904年の火災ののち現在の建物が1909年に建設された。長い歴史のなかで、教会堂の所有者は、コプト教徒かギリシア正教徒かを繰り返してきた。しかし15世紀からはギリシア正教徒の所有である。それでも4月23日にはコプト教徒の祭典が開かれる。

 最古の聖ゲオルギウス教会堂はローマ時代建設のバビロン城館のなかではもっとも美しいものとされていた。アタナシウスが684年に建設したとされる。教皇ガブリエルの時代に聖遺物がこの教会堂にもたらされた。古い建物のなかで残っているのはウェディングホールとされる箇所のみである。矩形平面のホールは13世紀。長さ15m、幅12m。

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2007.10.08

アルカンレーヴという建築センター/ボルドーより

 ル・モンドWEB版の10月6日に、ボルドーの建築文化センター「アルカンレーヴ Arc-en-Reve」に、新しい所長が選出されたことが記事になっていた。このポエティックな名前は「アルカンシエール Arc-en-ciel=虹」を意識したものであり、夢の架け橋といったところだろうか。

【抄訳】

 「創設して25年、お金に苦しみつつも、新しい所長である。このアルカンレーヴはフランスでもすこぶる活動的な建築センターであり、地元に根ざしつつ、国際的にも存在感がある。25周年を祝うかのように、フランス文化界において存在感のあるフランソワ・バレをそのヘッドに選んだ・・・

 バレのキャリアはボルドーで始まり、文化省における初代の建築・遺産局長となっt。そしてメディアではそれほど知られていなかったセルジュ・ゴルドベールの後任となった。バレの人脈と社交能力は、この建築センターがふたたび活性化されることに貢献するであろう。

 このセンターを創設し指揮しているフランシーヌ・フォールは『彼が私たちの計画を実現してくれることでしょう』と期待している。アルカンレーヴは現代建築の展覧会や討論会の場であったが、いつも、地方ということで不利であったり、資金も不足がちであった。『いつまでも続くと保証されているわけではありません。展覧会を開くことも急ぎの課題です。3年の準備のための資金も必要です』とフォール夫人。

 10月3日のプレス会見で、バレ氏はもっと国や自治体を『理事会にはいってもらって』巻き込むつもりであると語った。それだけでなく財政的にも、である。アルカンレーヴの予算計画によれば、予算は年150万ユーロ。うちボルドー市が63万、国が16万、都市共同体(*ボルドー市とその周囲の自治体がメンバーとなっている広域都市計画のための組織)が10万ユーロを出資する。メセナ、協賛団体などがさらに援助する。『自分で予算の40%は見つけなければなりません』とフォール夫人は指摘する。

 新しい所長は、県、地域県に請願し、国と市にさらに出資を働きかける。国を代表して、建築・遺産局長のミシェル・クレマンは『予算の余裕は豊かではない』と強調する。市長アラン・ジュペはアルカンレーヴを支持すると再確認するが、『ほかの市町村がどうするかも見たい』ともいっている。

 中身にかんしてはバレ=フォールの二人組は、『専門家だけでなく大衆に向けた教育的内容について尽力する』意志をはっきりさせた。建築展にとってはいつもそれが暗礁となるものだ。ボルドーだけではない。」

【解説】

 ・・・というようにルモンド紙だから厳しいことが書いてある。フランス経済の調子はよくないから、文化も情報発信も苦難の道であろう。しかし、である。日本に置きかえるととんでもないことである。なにしろボルドー市の人口30万人ていど、都市域全体でも70万人というコンパクトな地域の建築文化センターで、年間予算2.6億円。市から1億円。国から3000万円、など。どれも「!」をつけたくなる。

 フォール夫人がいうように自助努力が40%ということは60万ユーロ(=1億円弱)である。これを企業協賛などで埋めている。ということは、1企業1000万円のオーダーだろうか。お金の話は下世話なものだが、しかし関連団体の関与の仕方というものを比較するにはいい物差しである。

 日本との違い。日本の建築文化事業は、1企業1文化事業である。これは昔のプロ野球とおなじ構図である。大企業が集中する、東京のみに文化も集中する。しかし地域密着型で複数スポンサー制にすればJリーグ的になれる。企業ごとの、宣伝費、広報費、社史編纂費などをひとつに集約すれば、地域の文化という太い流れをつくることができるだろう。しかし日本は文化もお家(企業、団体・・)ごとのお国柄だから、とうぶんは無理だろう。

 去年ボルドーに滞在していたころ、フランス最古にして地方最大の書店モラで、このセンターが刊行した書籍の充実ぶりに、地方でこんなことまでできるのだと感心したものだ。中世においてはイギリス領であり、黄金の18世紀もすぎ、ヨーロッパのなかでは比較的停滞している地方にあって、ボルドーの人びとはプライドが高く、文化にも力をいれている。日本の地方がいまや文化遺産頼りになってしまって、新しい建築文化をおこそういう社会的文化的インフラがほとんど欠如しているのとは対照的である。

 協賛団体には有名なブイグ社もあるように、やはり不動産会社、ゼネコン、金融(供託金庫)など建築・建設関係が多い。

 アルカンレーヴのHPである。 http://www.arcenreve.com/

 活動内容は、建築センターとして特段に特殊なものはない。展覧会としては今、妹島和世+西沢立衛展をやっているようだ。講演会にはドミニク・ペローが秋にくるそうである。出版も建築家のモノグラフが中心だが、ボルドーの都市計画をとりあげたり、情報発信をしている。ヨーロッパ都市では普通であるが、固有の情報発信として、そこの都市計画そのものが最良のコンテンツである。すなわち都市圏全体の計画がどうであるか、さらにそのフレームのなかに、具体的などんなプロジェクトがあって、それぞれどんな目的、予算、担当建築家、社会的・文化的位置づけがあるか、といったことが紹介されている。都市がどのように、どんな意図でこれからできてゆくか、市民的興味でアクセスできる。地方のこの種のセンターはそうした役割をしっかりはたしている。

 やはり短期滞在中にテレビで、ボルドー美術館に就任した新しい館長のインタビューを見たが、最大の話題は財政であった。つまり(アメリカの大学におけるディーンのような)、人脈、金脈、集金能力がこうした所長には求められる。たとえば国とのパイプの太さ。フランス社会における近年の大変化のひとつであろうし、グローバル化の帰結であろう。

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2007.10.07

【書評】伊藤ていじ『終わらない庭』2007/庭の本質はむしろ自作自演にあるのではないか?

 三島由紀夫の「仙洞御所」などを収録した『終わらない庭』(淡交社、2007)が出版されたので読んでみた。ほかに井上靖や大佛次郎の随筆もあるが、どうしても興味は三島の文章にむかってしまう。なおいずれも初出は1968年である。

 三島の文章はもちろん写実的なものではなく、すこぶる観念的でもあるが、小宇宙というか、言葉が対位法や類推などによってそれぞれ空間的な関係が与えられており、全体としてひとつの星座を構成していることが感じられる。星座とは天空をむいての類推だが、それをやめて地上を見たアナロジーをすれば、まさに言葉の庭園となっている、などと表現することもできよう。

 駆使されているテクニックは、まず二元論、逆説による二元論からの脱出と再強化、それがもたらす、スタティックではなくダイナミックな、いやダイナミックというよりは定めなさ、揺らぎ、などである。ひとまずは二元論をもちいて理解しやすいパースペクティブを与えながら、著者自身がそれを裏切り、意表をついた解釈を示して読者を置き去りにしつつ魅了し、しかし逆説的にそのことによって、もともとも二元論の効力が示されるのである。

 まず現在は騒音にみちている仙洞御所を、その「本来の自然な静寂」をとりもどすために「すこぶる反自然的に人工的狡知の限りを尽くして防衛」せねばならないのであって、これがひいては三島自身の天皇制についての基本的な考え方であることが示される。

 逆説は、西洋の庭の解釈においてすら示されている。ヴェルサイユ宮殿にもあるように、それは世界を包摂することにおいて、世界を離脱しているのであえる。

 西洋の庭園は空間的であって、日本の庭園は時間的であるという。日本の庭が「時の庭」であるのは、回遊式だからというのではなく、まさに、まず非西洋的だからである。西洋の庭園は、時間を剥奪した、広いチェス盤なのであって、その端から端まで長い時間をかけて移動しようが、そこに時間は生まれない。

 三島は日本の庭は時間のそれであるから終わりがない、という順番で書いているが、ぼくの解釈するところ、日本の庭「終わりのない庭」であるから、時間が存在しうるのである。これが本書のテーマでもある。西洋の庭園は、いかに広大だとはいえ、庭はどこかで終わり、果てがあり、それは空間的な支配の終末を、そして統治の終末を意味している。しかし日本の庭は、時間を導入することにより、終わりも果てもないのである。日本の庭では時間の不可逆性が否定される。橋を往ったり戻ったりすることで、未来へいったり過去へいったりできる。見られた庭は、見返す庭となる。

 しかしこの終わりのなさは、無限でも循環でもない。そういった西洋的な時間概念を三島が応用しようとしているのではない。二元論を構築しつつ破壊してゆくという精神のあり方に起因している。いいかえれば思考、あるいは言葉をつむいでゆくその所作そのものが、逆説的な時間をうむのであろう。そこでは三島が、こうした無限でも循環でもない、逆説的な「終わり」のなさによってまもろうとした日本文化やその象徴であり、なにかのアイデンティティであるならば、その狡知は今日の私たちはそれほど共有しようという気にもなれないかもしれない。

 最後には所有という概念が導入される。理想的な庭とは、ひとりの所有者に囲い込まれない庭であり、不断に遁走する庭でなければならない・・・。生はつかのまであり庭は永遠である。同時に庭はつかのまでり人生は永遠である・・・。

 そして日本の庭がこのように逆説によって成立する庭であるのなら、彼の文章、その仕組みと言葉の空間、そのものもまたひとつの庭というべきであろう。

 ここではカテゴリーを組み立てながら、それを崩してゆくという自作自演が見られる。しかしそもそも庭とは自作自演なのである。アカデミックな文章においては、カテゴリーに分類してゆくことが初めにして終わりなのであって、こうした逆説という、規則に縛られない精神のあり方はこんにちではますます認められにくいものとなりつつある。カテゴリーは図式であり空間であって、それは時間の死であろう。永続性、あるいは永遠かもしれない。三島はそれをいっている。終わりのなさとはそれらとはまったく異なるものである。

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2007.10.06

[1:1]とはなにか?

 ぼくのところの学生が自主企画展をやっている。課題では教師に「指導」されている学生たちが自由に羽ばたきたいのだから、教師はあれこれ言ってはいけない。その最終結果に批評をするのみである。批評としては、既知感がありますな、というところだが、これは各論で。

http://2007ten.blog.shinobi.jp/

[1:1]とは原寸大という意味である。ふだんの課題ではとうぜんのこと縮尺のある図面や模型を中心にしてのプロジェクト展開であるから、自分の手で作りたいのである。会場である講堂(なぜか多次元と呼ばれている)へのアプローチ・インスタレーションも1:16, 1:8, 1:4, 1:2そして1:1という順番で人のシルエットがだんだん大きくなるように演出されている。

 「壁」の造形は、最も建築的センスのあるもので、視点の高さが、床に座った高さ、通常の立った高さ、階段を2段あがった高さ、数段あがった高さと区別され、それがどのように室内スケープを変えるかという実験である。演出としてはしかし3段階であり、壁の下から、壁に遮られる(穴をとおしても含まれるが)、壁の上を越して、 の3種類である。しかしはっきりと意識化されていないのは、床の存在であろう。床を意識する/しないという臨界点がある。この演出は小津安二郎的なものとなるであろう。

 「葉っぱのカーテン」はサーリネンによるMITチャペルを髣髴させる。アイディアもいいが、素材の選択がよかったと思われる。しかしその実体のみを見せようとしたところが限界であった。実体のみならず、照明を投光されててできる、影、透過効果、そのゆらめきを演出したらベターであった。そうすれば作品の置かれた場所をこえて、会場全体を支配することも可能であっただろう。

 「ストロードーム」もまたコンセプトのはっきりした作品である。しかしフラーのイメージが中途半端に存続しているように思われる。テーマは浮遊である。このテーマは1970年代的である。翔ぶ、のである。そうであるなら、軽いストローのメッシュが、しっかりと床に結びつけられていることが、この作品の弱さである。ほんとうに浮遊すべきであろう。

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 「やわらかいもの」は、梱包を一貫したテーマとするクリストの系統である。ここでは屋外のランドスケープというより、インテリア・スケープを梱包しようとしている。講堂の広い床の上にこの造形が置かれると、上方からゆっくり床に降りてきたゼリー状の不思議な物体が、その内部の粘度の不均質さにしたがって、そのまま凹凸を残したような造形である。手法は新しくないが、しかし建築(住宅)とインテリア(家具、設備)という、密接な関係にありながら、基本的にはたがいに異なったものを、ひとつに統合できるのではなあいか、という可能性をかいま見させてくれる。

 「ダーティホワイト」は白で塗りたくった、現代アートではたいへん既知感ある作品で、大人は驚かない。強いて関心を振り絞るとすれば、白く塗られ均質化されたそれぞれのオブジェが、じつは誰かに(学生に?)とってなにか本質的なものである、といったようなことであろう。

 全体としては、共生も、文化遺産も、情報も若い学生にとっては切実なテーマではないということである。そうであるなら学生はいかなるメッセージを発しようとしているのか。大人が提供する課題への閉塞感。それがあるなあら、むしそれを徹底的に意識化することがひとつの可能性であろう。

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