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2007.10.23

【書評】CultivateCAt, TOTO出版, 2007 

 『カルティベイト=耕すように建築する』(TOTO出版、2007)が送られてきたのでさっそく目を通した。小嶋一浩さん、赤松佳珠子さん、ありがとうございました。

 ギャラリー間での展覧会の図録でもある。中央アジア大学ナリンキャンパス、プロジェクトMURAYAMA、ホーチンミンシティ建築大学という3つの巨大プロジェクト、というより巨大敷地プロジェクトの報告である。

CULTIVATE Book CULTIVATE

著者:小嶋 一浩,赤松 佳珠子
販売元:TOTO
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 小嶋さんの方法論や、この3大プロジェクトについてぼくが注釈するまでもない(時間もない)。とりあえずCAt建築を見るための補助線を引いておこう。

 ひとつは彼の建築だけでなく、21世紀の最初の10年間の日本建築の補助線のひとつが複雑系であろう。この概念についてはジェンクスがすでに『複雑系の建築言語』(原著1997年、翻訳2000年)で知的な見取り図を描いているし、カオスなどの概念は90年代から建築家の関心をひいていた。もっともジェンクスの解説は、フラクタル、ゆらぎなど上位に位置する普遍的概念の展開としてそれぞれの建築作品を位置づけるというオーソドックスなもので、演繹法的であり、複雑性の分析としては魅力に欠ける。勉強にはなるが。

 もうひとつは磯崎新の「海市」プロジェクト(1997)に典型的に見られるような、「主体の消去」 という方法論である。これはひとつの主体が消える、複数の主体が介入して焦点を曖昧にする、つぎつぎと異なる主体が介入して相互矛盾を発生させる、などさまざまな方法論に展開した。中央アジア大学ナリンキャンパスなどままさに海市的な方法論で、設計が展開されている。

 一般的には、アプリオリな計画理念を求めるメンタリティが弱くなったこと、データへのフレキシブルな対応、IT技術の発展で融通性のあるさまざまな構造が可能になったこと、本書でも言及されているCFD(計算流体力学)など、環境工学的な熱や空気や音などのシミュレーション技術が広い意味での設計の方法論となったことなどがあげられる。

 小嶋さんに吉備高原小学校を案内していただいたとき、これは均質空間ではなくエーテルに着目した設計である、というようなことを雑誌に書いたことがる。ぼくの大学で非常勤をしてもらったとき、よい批評であったという感想をいただいた。フルイド=流体の設計というコンセプトも方向性は同じであろう。

 彼にとって建築はもはや壁ではない。建築の実体的な定義として、柱、壁、床などがあり、観念論的定義として空間、場などがある。流体は、実体的であるかつ観念論的である。風、雲、海流などが建築のメタフォアとされるであろう。建築は実体ではなく空間であるという意味論的転換が1940年代になされた。壁ではなく流体、というのもそうした転換であろう。

 いかにも建築史家的に複雑系ですね、などという乱暴なレッテル貼りで終わるのはよくない。ジェンクス=演繹法的、CAt=帰納法的という点がまったく異なっていることを指摘したい。小嶋さんは、方法論そのものもまたアドホックに立ち上げるのである。それはアプリオリにあるものの応用ではない。

 たとえば黒と白とは、根本的にはコンピュータが0と1からなるということの建築的翻訳である。しかし黒と白を塗り分けるのは小嶋さん自身であって、そこに翻訳という1ステップがあり、そのことで方法論が共有されうるものとなる。

 人の流れ、アクティビティ、などは流体へと帰納法的に還元され、IT的にシミュレーションできるものとなる。

 農業というメタフォアもまた、設計者が環境との関係に置いて、マスタープランがないこと、主知主義的でない決定論的でないデザインをすることの表現になっている。ループであれ、ポーラスであれ、形態のイメージを提供しながら、あくまで帰納法的な方法論を提供するものとなっている。

 小嶋さんの言説で印象深いのは、ぼくはアーティストではないから、ランドスケープアーキテクトではないから、という表現である。つまり最終的なフィニッシュに関わるとは限らない。しかしかつての計画論的な意味で、そういっているのでもない。

 彼は、大きくは複雑系的なフレームでありながら、そのなかで方法論として共有できるキーワードを提供しつづけている。それは形態を具体的にイメージさせつつ、決定論にはならない。それは、主体が曖昧な共同作業を成立させる、その場その場の固有のメタ建築であるといえる。地上を歩きつつ、俯瞰ができる。具体的でありつつ、しっかりと観念論的である。そうしたフレームをつねに提供できるのはやはり才能というべきであろう。

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