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2007.10.07

【書評】伊藤ていじ『終わらない庭』2007/庭の本質はむしろ自作自演にあるのではないか?

 三島由紀夫の「仙洞御所」などを収録した『終わらない庭』(淡交社、2007)が出版されたので読んでみた。ほかに井上靖や大佛次郎の随筆もあるが、どうしても興味は三島の文章にむかってしまう。なおいずれも初出は1968年である。

 三島の文章はもちろん写実的なものではなく、すこぶる観念的でもあるが、小宇宙というか、言葉が対位法や類推などによってそれぞれ空間的な関係が与えられており、全体としてひとつの星座を構成していることが感じられる。星座とは天空をむいての類推だが、それをやめて地上を見たアナロジーをすれば、まさに言葉の庭園となっている、などと表現することもできよう。

 駆使されているテクニックは、まず二元論、逆説による二元論からの脱出と再強化、それがもたらす、スタティックではなくダイナミックな、いやダイナミックというよりは定めなさ、揺らぎ、などである。ひとまずは二元論をもちいて理解しやすいパースペクティブを与えながら、著者自身がそれを裏切り、意表をついた解釈を示して読者を置き去りにしつつ魅了し、しかし逆説的にそのことによって、もともとも二元論の効力が示されるのである。

 まず現在は騒音にみちている仙洞御所を、その「本来の自然な静寂」をとりもどすために「すこぶる反自然的に人工的狡知の限りを尽くして防衛」せねばならないのであって、これがひいては三島自身の天皇制についての基本的な考え方であることが示される。

 逆説は、西洋の庭の解釈においてすら示されている。ヴェルサイユ宮殿にもあるように、それは世界を包摂することにおいて、世界を離脱しているのであえる。

 西洋の庭園は空間的であって、日本の庭園は時間的であるという。日本の庭が「時の庭」であるのは、回遊式だからというのではなく、まさに、まず非西洋的だからである。西洋の庭園は、時間を剥奪した、広いチェス盤なのであって、その端から端まで長い時間をかけて移動しようが、そこに時間は生まれない。

 三島は日本の庭は時間のそれであるから終わりがない、という順番で書いているが、ぼくの解釈するところ、日本の庭「終わりのない庭」であるから、時間が存在しうるのである。これが本書のテーマでもある。西洋の庭園は、いかに広大だとはいえ、庭はどこかで終わり、果てがあり、それは空間的な支配の終末を、そして統治の終末を意味している。しかし日本の庭は、時間を導入することにより、終わりも果てもないのである。日本の庭では時間の不可逆性が否定される。橋を往ったり戻ったりすることで、未来へいったり過去へいったりできる。見られた庭は、見返す庭となる。

 しかしこの終わりのなさは、無限でも循環でもない。そういった西洋的な時間概念を三島が応用しようとしているのではない。二元論を構築しつつ破壊してゆくという精神のあり方に起因している。いいかえれば思考、あるいは言葉をつむいでゆくその所作そのものが、逆説的な時間をうむのであろう。そこでは三島が、こうした無限でも循環でもない、逆説的な「終わり」のなさによってまもろうとした日本文化やその象徴であり、なにかのアイデンティティであるならば、その狡知は今日の私たちはそれほど共有しようという気にもなれないかもしれない。

 最後には所有という概念が導入される。理想的な庭とは、ひとりの所有者に囲い込まれない庭であり、不断に遁走する庭でなければならない・・・。生はつかのまであり庭は永遠である。同時に庭はつかのまでり人生は永遠である・・・。

 そして日本の庭がこのように逆説によって成立する庭であるのなら、彼の文章、その仕組みと言葉の空間、そのものもまたひとつの庭というべきであろう。

 ここではカテゴリーを組み立てながら、それを崩してゆくという自作自演が見られる。しかしそもそも庭とは自作自演なのである。アカデミックな文章においては、カテゴリーに分類してゆくことが初めにして終わりなのであって、こうした逆説という、規則に縛られない精神のあり方はこんにちではますます認められにくいものとなりつつある。カテゴリーは図式であり空間であって、それは時間の死であろう。永続性、あるいは永遠かもしれない。三島はそれをいっている。終わりのなさとはそれらとはまったく異なるものである。

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